GINZA通信アーカイブ

2012.12.07

経験が彩る和のスイーツ…銀座の職人(3)

 江戸開府以来、将軍や大名らの生活を支えるため、銀座には諸国から様々な職人が集い、職人町を作った。鎗屋(やりや)町、弓町、紺屋町、鍋町など、旧町名には名残がみられる。

  • 中村良章さん(左)に細工菓子の作り方を学ぶ、永峰編集委員(東京・銀座で)=米山要撮影

 歌舞伎座に近い、木挽(こびき)町もその一つ。昔この一帯は海辺で、船から木材を運んでいた。江戸城修築の時、大鋸(おが)で木材をひく職人を住まわせていたことから名付けられた。

 手入れの行き届いた鉢植えの緑に誘われて路地に入ると、和菓子の「木挽町よしや」がある。

 店主の中村良章(よしあき)さん(63)は、銀座生まれの銀座育ち。金沢の農家出身の父親は14歳で家出し、上京して一旗揚げようと、銀座の老舗和菓子店で修業を重ね、当地に菓子工房を開いた。機械いじりが好きで大学で機械工学を学んだものの、父の希望で家業を手伝うことに。随分と繁盛したが、バブル崩壊後は商売が先細り。大工仕事をして食いつないだ時期もあった。

 「銀座で開いたおやじの夢を消すまい」と頑張って、12年前、工房跡に「よしや」をオープンした。客自らがデザインする焼き印を押して、オリジナルどら焼きを作るのが当たった。

 本来得意なのは上生菓子と聞き、教わることにした。練りきりで作るミニチュアサイズの果物かご飾りは、「日本の技」として、ニューヨーク・タイムズ紙でも大きく紹介されている。

 白あんにぎゅうひを混ぜて彩色した生地を指でちぎり、大ぶりの梅干し大に丸めて果物にする。粘土細工と同じで楽しい。私は上出来と思うのだが、いびつだ、しわが寄ったなど、中村さんの合格印がもらえず、何度もやり直し。特に難しいのはクリとモモ。先端の自然なとんがりが作れない。

 リンゴやナシには、先を削った割り箸でくぼみを作り、刻んだ昆布の軸をあしらう。ミカンの表皮のつぶつぶは楊枝(ようじ)でつつき、ナシのざらざら感は小粒の上南粉(じょうなんこ)をまぶして表す。

 モモには、表皮の色の変化を出すため、食紅を水に溶かして霧のように吹きつける。ストローの先にガーゼをかぶせて輪ゴムで留めた道具は手作り。強く吹くと、真っ赤に染まるし、弱すぎると表情が出ない。「吹きの技は40年」といわれるくらい、奥が深い。

 仕上げに、水あめを混ぜた寒天でつやを出す。「何度くらいが適温ですか?」と聞くが、「測ったことないからわからない。寒天が『さあ、どうぞ』と呼びかけてくる頃合いを待つ」

 幾度も鍋を焦がし、試行錯誤で見つけた経験値こそ、職人の宝なのだろう。

 木挽町よしや

 東京都中央区銀座3―12―9

 03―3541―9405

 月曜~金曜は午前9時~午後7時(売り切れ次第終了)

 土曜は不定休(来店の際は要確認)

 日曜・祝日は定休日

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 2012年11月15日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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2012.11.30

シェーカーの音色に酔う…銀座の職人(2)

 白いバーコートをまとったダンディーな保志(ほし)雄一さん(55)がカウンターに入ると、一瞬にして場が華やぐ。シェーカーを構えた立ち姿は背筋がぴんと伸びて美しい。数寄屋橋近くの「BAR 保志」をはじめ東京・銀座で4店舗を展開するオーナーバーテンダーだ。

  • 保志雄一さん(右)にシェーカーの振り方を教わる永峰編集委員(「BAR 保志」で)=田村充撮影

 バー文化が銀座に根付いて100年といわれる。大正から昭和初めにかけてはカフェー全盛の時代。「一杯のカクテルに三十分の沈黙を続ける。いろいろな思想が流れて来る」と、劇作家の小山内薫は当時の雑誌に記している。

 「銀座には一流の方が集まるので、適切な会話ができる程度の教養は必要ですかね。それとなくお客様の様子を観察して、酒の濃さや温度など加減しています」と、保志さんは言う。

 会津若松の出身。専門学校時代にアルバイトで、宇都宮の名店「パイプのけむり」で働いた。多くのカクテルチャンピオンを輩出している伝説のバーだ。店主の大塚徹さんに鍛えられ、1989年日本一に。「社交の世界で日本一の銀座で勝負をかけよう」と、上京。銀座の名店を渡り歩き、2001年、国際大会で優勝、世界一のバーテンダーに上り詰めた。福島を元気にしようと、来月、銀座以外で初めて会津に新店を開く。

 カクテル作りの醍醐(だいご)味はシェーカーを振ること。「格好よく振るコツ、教えてください」とお願いした。

 世界一に輝いたオリジナルカクテル、ピンク色の「さくらさくら」を作る。ドライジンにピーチとサクラのリキュールなどを加え、氷を入れて親指でふたを押さえる。中指と薬指でシェーカーをはさみ、もう片方の中指で底を支える。胸の少し上で構え、斜め上、手前、斜め下、手前の順に。徐々にスピードを上げて最後は静かに止める。

 15分ほど練習したら、「なかなかいいじゃないの」とほめられた。だが、保志さんの職人技と違うのは、シェーカーから奏でられる音だと思った。小刻みに回転する氷、空気を取り込み泡立つ液体……。それらが混ざり合い、軽快なドラムソロのように響く。私の場合は動きに滑らかさがなくて、雑音にしか聞こえない。

 ステア(かくはん)は混ぜるだけなので簡単と思いきや、バースプーンを素早くかつ静かに回転させないと、氷が傷ついて水っぽくなる。「意外に難しいでしょ。僕は器用だからすぐできちゃったけれどね」と、保志さんはにやりとした。

 「好きこそものの」と思っていたけれど、酒は味わうだけにしておこう。

 BAR 保志

 東京都中央区銀座6―3―7 AOKI TOWER8F

 03―3573―8887

 月曜~金曜は午後6時~翌午前3時

 土曜・日曜は午後6時~翌午前1時

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 2012年11月14日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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2012.11.23

ミシン一心、足元に粋…銀座の職人(1)

 伝統と品格を保ちながらも、日々変化を受け入れ、進化を続ける東京・銀座。明治5年(1872年)の大火をきっかけにモダンな町並みに生まれ変わるまでは、木造平屋の古い長屋が連なる職人の町だった。銀座に生きる職人を訪ね、その技の一端を体験した。

  • 足袋職人の大橋浩二さん(右)から足袋の仕上げを学ぶ永峰編集委員(東京・銀座で)=安斎晃撮影

 銀座3丁目交差点から歌舞伎座方面に歩くと、ミシンに向かう職人の姿がガラス戸越しに見える店がある。

 「むさしや足袋店」。古びた木枠のショーウインドーに、白足袋に交じって江戸小紋の粋な色足袋が並ぶ。1874年(明治7年)創業で、店主の大橋康人(やすんど)さん(78)は4代目。上がり口脇で一心にミシンを踏むのは、弟の浩二(ひろじ)さん(75)。2人ともこの道50年以上のベテラン職人だ。

 足袋は、和服を美しく着こなすポイントの一つ。私の祖母は「ゆるい足袋ほど野暮(やぼ)なものはない」が口癖だった。靴のサイズよりやや小さめがよしとされるが、無理をすると、指の股や足首が締め付けられて激痛が走る。

 「むさしや」の足袋は、既製品といえども足にしっくりなじむと評判だ。足底のサイズは2ミリ刻み、足幅4種類、甲の高さは2種類そろっている。もちろん、型を作って注文することもできる。「銀座でおあつらえ」のブランド価値は高い。顧客には著名な歌舞伎役者や女優、作家、新橋の芸者衆らがいる。

 「私が若いころは、築地の料亭に通うついでに寄られる政治家も多かった。これ、昭和の宰相、吉田茂さんの型紙。小さくてきゃしゃな足だった」。康人さんは振り返る。

 大橋兄弟の父は新橋で足袋屋を営んでいて、店先が遊び場。おしろいのいい匂いのする芸者衆にかわいがられて育った。康人さんは大学の英語学科に進むが、「手仕事の方が面白い」と2年で辞め、銀座に店をもつ伯父に弟子入り。浩二さんも続いた。

 足袋作りの工程は複雑だ。表地、裏地、底地、こはぜ、かけ糸などをそれぞれ縫い合わせる。つま先は指の収まりを考えて、細かいギャザーを入れて立体的に縫い進める。

 注文足袋はすべて手作り。10か所ほど採寸し、足の特徴をつかんだら微妙に補正しつつ型紙を作る。生地に載せ、包丁と呼ばれる専用刃物でざくざくと裁断。印も付けず、縫い代分は目分量。流れるように曲線を切り出すさりげない手仕事に職人技が光る。

 注文足袋とつま先は康人さん、その他のミシン縫いと仕上げは浩二さんの担当。「粋な装いのわかる人が集う銀座で足袋屋を続けてこられたことは何よりも自慢です」と、2人は胸を張る。

 「仕上げ、やってみますか?」といわれた。つま先などの縫い目を木づちでたたいて柔らかくすると、履き心地が格段によくなる。簡単なようだが、均等にもれなくたたくのは難しい。「もっとリズミカルにできないかなあ」と注文がつき、額に汗がにじむ。

 むさしや足袋店

 東京都中央区銀座4―10―1

 03―3541―7446

 午前8時~午後5時

 日曜・祝日が定休日

 

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 2012年11月13日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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2012.11.16

銀座で花開いたカフェー文化

  • 中央区立郷土天文館で開催中の「ふたつの銀座復興」(25日まで)
  • 味の銀座オンパレード(1932年)※1

 東京・銀座が日本を代表する繁華街へと発展する過程を社会風俗の面からたどった興味深い催し「ふたつの銀座復興~文明開化とモダン文化」が、中央区立郷土天文館で開かれている。

 近代における銀座は、明治5年(1872年)の大火による焼失と、大正12年(1923年)の関東大震災による罹災、昭和20年(1945年)の戦災による焼失といった3度の惨禍に見舞われた。

 いまの銀座の繁栄の原点ともいえる銀座煉瓦(れんが)街が建設されたのは、明治5年の大火の後。西欧風の街並みにふさわしい商店や飲食店、最先端の情報を発信する新聞社や通信社などが誘致された。

 関東大震災では壊滅的な打撃を受けつつも、銀座はいちはやく復興を遂げ、その過程で百貨店が進出、地下鉄などの交通機関が整備されるなど、地元商店街の繁栄を促した。

 今回の催しは、明治初めと大正末期から昭和初期の2つの復興に焦点を当てている。

 注目ポイントは様々あるが、ここでは、銀座におけるカフェー文化の展開について紹介したい。

文士や画家に愛され、作品にも

  • カフェー・ライオン(「銀座」大正14年6月号より)※1
  • カフェー・タイガー ※1

 明治の末、洋行帰りの学者や文学者、画家らが、パリやロンドンの香りを求めて銀座周辺にやって来た。東京に初めてフランス風カフェーらしいバーを兼ねたレストランが登場したのは、1910年(明治43年)。日本橋小網町の日本橋川沿いに開店した「西洋料理メゾン・鴻ノ巣(こうのす)」で、宵のひととき、街角のカフェーにたむろして議論にふけるフランスの象徴派詩人のライフスタイルにあこがれる文学青年たちでにぎわった。

 翌1911年、フランス帰りの画家、松山省三が「カフェー・プランタン」を日吉町(現銀座8丁目)に開店。続いて、「カフェー・ライオン」が尾張町新地(現銀座5丁目)に、「カフェー・タイガー」が尾張町1丁目(現銀座5丁目)に、相次いでオープンした。カフェー文化の幕開けである。

 カフェー・プランタンは、銀座に西欧風にぎわいを求めてやって来る文士や画家たちからたいそう愛された。コーヒーは、横浜のイタリア人の店から特別にブレンドしたものを仕入れ、ウイスキーやブランデーにとどまらず、高価なリキュール類をそろえた。

 その一端は、明治44年6月号の「三田文学」に発表された「Au Cafe Printemps(オー・カフェ・プランタン)」と題する作品からも伺える。

 「カッフヱー・プランタンのばら色の

 壁にかけたる名画の下

 芝居帰りの若き人々の一群が

 鉢物の異国の花の香に迷ふ

 異国の酒の酔心地。」

 作家の名前はないが、永井荷風の作といわれている。

「女給」映画化で小夜子の出勤日に看板

  • 「銀座の柳」で知られる「東京行進曲」 ※2

 一方、カフェー・ライオンは、女給を置いて有名になった。同じ年、ブラジル移民事業に携わった水野龍が南鍋町2丁目(現銀座7丁目)に、ブラジル・サンパウロ州政府の協力を得て「カフェー・パウリスタ」を開くが、こちらは、女給をおかず、男性の給仕が接客する店であった。

 大正デモクラシーの風潮と第一次世界大戦景気に後押しされて、大正から昭和初めにかけて多くのカフェーが登場する。関東大震災後の復興の過程では、関西から大衆化したカフェーの参入もあり、カフェー全盛時代を迎えることになる。

 廣津和郎が1931年(昭和6年)に中央公論社から出版した小説「女給」は、カフェー・タイガーの女給、山口須磨子をモデルにしている。幼な子を田舎に残して上京し、「女給! 何といふイヤな言葉でせふ」と思いながらも真摯に働く小夜子の半生として描かれる。映画化されて知られるようになり、実際に本人の出勤日には、「小夜子来店中」の看板が掛けられたという。

♪ジャズで踊って リキュルで更けて

  • 廣津和郎著「女給」(1931年、中央公論社)※2

 銀座を主題とした流行歌も、関東大震災後に急増する。「昔こいし 銀座のやなぎ」の西条八十の歌詞で知られる「東京行進曲」は、1929年(昭和4年)に封切られた同名の映画の主題歌。「ジャズで踊って リキュルで更けて」と、当時の粋な銀座の社交場を描いている。そもそもは、昭和3年6月から同4年10月まで、大衆娯楽雑誌「キング」に連載された菊池寛の小説である。

 婦人雑誌などで人気の作家、久米正雄は、文壇の社交家としても知られている。展示では、銀座のカフェーや飲食店、その他商店などから彼に送られてきたダイレクトメールが数多く展示されているのが興味深い。

 たとえば、銀座の料亭「花月」を盛り上げようと、有志が集まって組織した食事会「二十八日会」の案内状(1931年)。「日本一の花月のすき焼き」といったメニューが読み取れる。世話人には、久米のほか、画家の松山省三や和田三造、歌舞伎役者の初代市川猿翁らが名前を連ねた。

 木挽町4丁目にあったサロン「エロス」が「バー 街の灯」として再開する挨拶状には、「泣いても笑っても、(わか)ってみたところで、さてどうにもならない、どう仕様のないお気持ちをおもてあましの折には、ぜひ山田順子をお忘れなく」とある。山田順子は、徳田秋声の「仮装人物」のモデルで、竹久夢二とも浮き名を流した女性という。

円本ブームから雑誌も活況に

 それにしても、決して安くはないカフェーなどの社交場に、文士たちはなぜ毎日のように出没できたのか。

 和光大学表現学部の塩崎文雄教授は、「改造社が刊行を始めた現代日本文学全集をきっかけに1冊1円の円本ブームが広がり、昭和の初め、印税収入が一気にはね上がって懐が潤った作家が増えたため」と、指摘する。

 たとえば、永井荷風は「断腸亭日乗」に、「昭和三年六月二十四日 税務署より本年の所得金額金二万六千五百八十円との通知書来る」と記している。サラリーマンの月収が50-100円といわれていた時代、これは破格の収入だった。

 円本の波及効果は、1924年に大日本雄弁会講談社(現在の講談社)が創刊した雑誌「キング」などにも及んだ。菊池寛の「東京行進曲」が連載されていた1928年には、最高発行部数の150万部を記録している。

 多様な側面をもつ銀座において、カフェー文化もまた、一つの特徴的な「顔」であったに違いない。

 同展の関連企画「中央区民カレッジ オープンカレッジ・シンポジウム」は、11月18日(日)午後1時半から、東京都中央区明石町12番1号の中央区保健所等複合施設内・教育センター視聴覚ホールで。陣内秀信・法政大学教授の司会で、評論家の川本三郎さん、中央区統括文化財調査指導員の野口孝一さんらが、銀座復興について語る。入場無料。区民以外の参加も可。

 ◆郷土天文館「タイムドーム明石」第14回特別展

 「ふたつの銀座復興~文明開化とモダン文化」

 25日まで

 午前10時~午後7時

 無料

 月曜休館

 ◆中央区ホームページ

http://www.city.chuo.lg.jp/

(読売新聞編集委員・永峰好美)

※1 ギンザのサヱグサ社史編纂資料室提供

※2 中央区立郷土天文館提供

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2012.11.02

ホテル西洋 銀座の名作スイーツを振り返る

  • 4代目浦野義也シェフパティシエと対談する平岩理緒さん(左)

 小型で閑静な「スモールラグジュアリーホテル」としてファンが多かった銀座1丁目の「ホテル西洋 銀座」が、来年5月閉館する。小欄の2009年4月10日付でも、同ホテルのきめ細かなバトラーサービスを取り上げたことがあった。

 1987年のホテル創業以来、地下1階で展開されてきたケーキショップも、閉館に合わせて閉店することが決まっている。私は、手みやげといえば、同店の「銀座マカロン」か「大地のブランデーチョコレートケーキ」をよく使っていたので、なんだかとても寂しい。

 先日、現在は販売していない創業当初のスイーツも含め、歴代人気スイーツがずらりとそろうイベント「ホテル西洋 銀座のスイーツ 回顧と展望」が開催されると聞き、のぞいてみた。スイーツファンのためのコミュニティサイト「幸せのケーキ共和国」を主宰する平岩理緒さんが企画した。

 同店の歴史を振り返ると、初代シェフパティシエは「ペルティエ」出身のフランス人、ミシェル・ブローさん。数年後、創業時からミシェルさんの片腕だった稲村省三さん(東京・台東区で「パティシエ イナムラ ショウゾウ」を経営)が2代目シェフに。今年「パティスリー ラ・ローズ・ジャポネ」(東京・葛飾区)を開いた五十嵐宏シェフを経て、2002年に現在の4代目、浦野義也シェフにバトンタッチされた。「スイーツ界でも名門中の名門」(平岩さん)で、在籍経験のあるOBにも現在業界で活躍するパティシエが数多くいる。

創業から受け継がれるレシピ

 最初に、「ホテル西洋 銀座のクラシック」として紹介された伝統菓子は、創業当時からのレシピが受け継がれていて、今でも「食べたい!」とファンからのリクエストが絶えないという3種類。

  • レアチーズケーキ「エベレスト」
  • フランス式ショートケーキ「フレジェ」
  • 大人の味の「オペラ」

  • 「銀座マカロン」は手みやげに最適でした

 四角錐型の真っ白なレアチーズケーキ「エベレスト」。やや酸味のあるフロマージュブランを使ってさっぱりした味わいに仕上げている。中には野いちごのジャムなどが入っている。

  • 秋の味覚の「和栗のマカロン」

 オレンジ色が印象的な「フレジェ」は、イチゴの愛らしい断面が伺えるフランス式ショートケーキ。スポンジの間には、バタークリームとカスタードクリームを合わせたものがサンドされている。「バタークリームに発酵バターを使うのが特徴。好みが分かれるところかもしれないけれど、濃厚でいて風味もよく、食感としてしっかりしているイチゴとの相性がいいので使います」と、浦野シェフ。

 「オペラ」は、ビターなコーヒーシロップをたっぷりしみ込ませたスポンジと、ガナッシュ、コーヒー風味のバタークリームが層になった大人の味。ここでも、発酵バターがアクセントになっている。表面をコーティングするグラサージュショコラは、「金箔を使ってきらきら感がある方が好きなので、創業当初とはちょっと変えました」(浦野シェフ)。

 以上3種類に加えて、「銀座マカロン」も伝統の味の一つとして忘れられない一品だ。稲村シェフが「銀座を代表するお土産になるように」と考案したレシピが、代々受け継がれている。マカロンという菓子自体があまり知られていなかった1990年代に売り出され、その後のカラフルなマカロンブームの素地になった。

 サイズは若干大きめ。薄く艶やかなマカロン生地にはさまれているのは、ラム酒のきいたレーズンとバタークリーム。レーズンウィッチ的なマカロンで、しっとりした食感が特徴的。数多くのマカロンが売られているが、こういうタイプはほかに見たことがない。

モンブランの手絞りが難しく何度も練習

  • 熊本産和栗を使ったモンブラン
  • 伝統のモンブラン
  • 幻のベイクドチーズケーキ

 今回のイベントを企画した平岩さんは、同店のスイーツで特に思い出に残っているものを挙げるとしたら、この「銀座マカロン」だという。

 「濃厚なバタークリームの口溶けのよさ、繊細な生地の食感やラムレーズンの香りの豊潤さなどが魅力です。子どものころ、バタークリームのお菓子はあまりおいしいイメージがなく、こってりしていると思い込んでいましたが、このお菓子に出合ってバタークリームの印象が変わりました。本物の素材を使って丁寧に作られたお菓子のおいしさを教えてもらった一品です」

 「銀座マカロン」をベースに誕生したのが、銀座で採取したはちみつを使った「銀座はちみつマカロン」や季節の味わいを盛り込んだ「和栗のマカロン」などで、こうしたアレンジは、浦野シェフのアイデアである。

 続いて、これもファンが多かった2種類のモンブランが紹介された。秋のスイーツの王道でもある。

 私は、プランタン銀座の「サロン・ド・テ アンジェリーナ」を統括していたことがあって、1903年創業のパリ本店のレシピを守っているアンジェリーナのモンブランがベストだと思っている。さくさくしたメレンゲ、ミルキーな生クリーム、渋皮の入ったこくのあるフランス産のマロンペースト。絶妙な組み合わせで、幾度食べても飽きない。

 だが、浦野シェフが作った熊本産の和栗を使った若干黄色みが強いモンブランを食べて、和栗もまた独特の風味があっておいしいと実感した。

 もう一つ、同店の伝統のモンブランは、すっと上に伸びて、(りん)とした姿が美しいのが特徴だ。濃厚な生クリームとカスタードクリームを合わせて整形し、その上からバラの口金で1筋ずつ覆うようにマロンペーストを絞っていく。「この手絞りが難しくて、失敗を繰り返しつつかなり練習した」と、浦野シェフは振り返る。

 最後に登場したのは、オンラインショップで限定販売していた幻のチーズケーキ。ブリー・ド・モーという白カビチーズを使ったベイクドチーズケーキで、ココット型に入れて焼き、温かいうちにとろとろのところを食べる。塩味がきいているので、ワインと一緒にいただくと、絶品らしい。白カビ部分は取り除いて使うため、手間もコストもかかり、「幻の一品」になってしまったという。「前菜のような感じで食べられる」「バゲットに塗ったらおいしそう」など、様々な感想が聞かれた。

思いと伝統、残してほしい

  • 浦野シェフ思い出の「ブールブラン」

 ちなみに、浦野シェフにとって思い出深い品を挙げてもらうと、業界に入って最初に作ったのがレアチーズケーキで、それをアレンジした「ブールブラン」だそうだ。スポンジ生地の上にふわふわのレアチーズムースをドーム型に仕立て、中に甘酸っぱいレモンクリームをしのばせている。

 イベント当日、テーブルには、オレンジケーキやマシュマロなど、焼き菓子類がセッティングされていたが、外注せずに、すべてホテル内で焼いていると聞き、そのこだわりには驚いた。

 チョコレートでできた箱付きのクリスマスケーキ「銀座の森のプレゼントボックス」(2万5000円)は同店最後のクリスマスケーキになる。ブルーベリーやオレンジなど7種のクリームが層になり、飾り付けも愛らしく、希望がたくさん詰まった一品。限定20個で、すでに予約受付が始まっている。

 平岩さんは最後にこうまとめた。

 「流行の移り変わりが激しい昨今のスイーツ業界で、シェフが代々変わっても、創業以来の伝統的なお菓子の一部が受け継がれてきたことは大変意義あること。ホテルのお客様には、ずっとファンでいたり、親子2代で利用したりといった方たちが多いので、ロングセラーのお菓子が残るのですね。ホテルやショップがなくなってしまうことはとても残念ですが、お菓子を通じて伝えられてきた思いや伝統など、何らかの形で残していってほしいと願います」

  • 焼き菓子もすべてホテル内で焼いていた
  • 最後のクリスマスケーキになる「銀座の森のプレゼントボックス」
  • クリスマスケーキの断面は7種のクリームが層をなして、お見事!
  • ホテルならではの飴細工も見事!

 (読売新聞編集委員 永峰好美)

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2012.10.19

江戸文化を繋げ!「こども歌舞伎」

  • 日本の深まる秋を感じさせる数寄屋橋交差点付近のフラワーゲート
  • ソニービル前に設置された観光案内用カウンター

 震災後、外国人観光客の姿がめっきり減った東京・銀座だったが、先週末は久しぶりににぎわいが戻ってきた。

 10月14日まで開かれた国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会に訪れた人たちのおかげらしい。国内外から約2万人が参加したといわれる一大イベントが持つ経済波及効果の大きさを改めて実感した。

 総会の会場となった、丸の内の東京国際フォーラムと日比谷の帝国ホテルのほぼ中間点、銀座・数寄屋橋交差点にあるソニービル外のイベントスペースには、日本の深まる秋を表現するフラワーゲートが飾られた。

 銀座の町会などで組織する全銀会が設置した観光案内カウンターでは、日本語のほか英語と中国語を話すスタッフが対応に追われた。1日あたり100人以上の外国人が立ち寄ったという。「すしを食べたい」「芸者を見たい」「日本らしいおみやげが買えるのはどこ?」。様々な問いかけに、てきぱきと答えていた。

外国人に「銀座のおもてなし」

 外国人に特化した「銀座のおもてなし」を大規模に展開したのは初めてのことらしい。銀座の名店といわれるバー30店舗では、「銀座カクテルナイトウィーク」を企画。ギムレットやマティーニなど、8種類のグラスをそれぞれ1500円で提供した。

  • 外国人観光客用に銀座のガイドブックも充実

 私は、銀座5丁目の三笠会館の地下にある「バー5517」に行ってみた。この期間限定で特別に創作された「モダン・トウキョウ」を注文する。

 国産ウィスキー(ここではサントリーの「響」12年ものを使用)をベースに、フランボワーズのリキュール、アマレットを加え、最後にレモンを一絞り。繊細で強すぎず、きりりと引き締まった味わい。「エキゾチックで日本的な味わいを表すことができたのでは」と、バーテンダーさんは言っていた。

  • カクテル「モダン・トウキョウ」は国産ウィスキーがベース

 着物の着付けやお茶席体験など、日本の伝統文化に関心を寄せる外国人も少なくなかった。

 明治11年(1878年)創立、北村透谷や島崎藤村らが学んだことで知られる中央区立泰明小学校の校庭には、「こども歌舞伎」の舞台が設置された。事前予約でほぼ満席と聞き、のぞいてみた。

 銀座は、江戸歌舞伎の発祥の地。来春には、現在改築が進む新生歌舞伎座が完成する。

 ここで、江戸歌舞伎の歴史を簡単にひも解いてみよう。

こどもでも“銀座力”で本格仕様

  • 「寿式三番叟」を熱演
  • 人気の演目「白浪五人男」
  • 女の子も存在感を示す

 江戸歌舞伎は、出雲の阿国(おくに)が京の五条河原で踊りを披露してから約20年後の寛永元年(1624年)、猿若勘三郎(中村勘三郎)が、現在の京橋あたりで猿若座(のちの中村座)のやぐらを上げたのが始まりといわれる。

 続いて、村山座(のちの市村座)、山村座、森田座(のちの守田座)などが興業を始めた。17世紀後半の元禄年間には、最初の隆盛期を迎え、数多くの名優が活躍する。荒事を創った初代市川團十郎、江戸和事の名手の初代中村七三郎らがいた。

 中村座、市村座、森田座の3座を「江戸三座」と呼ぶが、新富座は、森田座の流れをくむ。天保の改革で一時浅草へ強制移転されたが、明治5年(1872年)に再び銀座近隣の新富町に戻り、「新富座」と改称。文明開化の象徴としてもてはやされたガス灯を使った劇場で、9代目市川團十郎が新史劇に取り組むなど、演劇界の発展に大いに貢献した。現在京橋税務署などの建物が建つ新富2丁目には、由来を記した説明板が掲げてある。

 「このように、江戸時代には、銀座周辺にいくつもの芝居小屋がありましたし、明治には歌舞伎座も開場する。歌舞伎は庶民の暮らしの文化として根付いていた。私のおじいさんたちの世代は、日常の会話の中に歌舞伎の台詞がさりげなく出てきました」と話すのは、新富町に住む日本舞踊(藤間流)師範の諸河文子さん(65)。

 「それに、歌舞伎座周辺の東銀座には、今も、衣装やカツラや舞台の大道具など、歌舞伎にまつわる専門の会社がたくさんある。伝統芸能の宝庫の中に暮らしているのに、次の世代にこうした町の情緒が受け継がれないのは寂しいなと思っていました」

 そこで考えたのが、こども歌舞伎。滋賀県・長浜のこども狂言(歌舞伎)などを参考にした。

 近隣の小学校や町会に話を持ちかけ、「新富座こども歌舞伎」を旗揚げ、2007年に初公演が実現した。以来毎年メンバーを(つの)り、新富町の氏神をまつっている鐵砲洲(てっぽうず)稲荷神社の例大祭で奉納歌舞伎を上演している。歌舞伎の生き字引のような長老や、長唄や三味線が得意な住民たちも協力。もちろん、衣装やメーク、舞台装置などは本格仕様で、まさに、“銀座力”が結集されている。

余裕の笑顔、「踊るのは楽しい」

  • 「いよ、新富座」と声がかる
  • 大道具さんも衣装さんも、ご近所が皆協力して舞台ができました

 今回の演目は、一座のおはこでもある、「寿式三番叟(ことぶきしきさんばんそう)」と「白浪五人男(しらなみごにんおとこ) 稲瀬川勢揃(いなせがわせいぞろい)の場」。前者は、天下太平や五穀豊穣を祈願する、神社の祭礼に奉納されてきた祝儀曲。日本人の様々な祈りの形が盛り込まれている。後者は歌舞伎で人気の高い演目なのでご存じの方がほとんどと思うが、日本屈指の盗賊たちが横一列に並び、身の上話を独白するのが見せ場である。

 泰明小学校をはじめ、中央区内の小学校に通う1年生から6年生までの男女約20人が登場した。今年6月から稽古を始めたという。舞台が終わって感想を聞かれた子どもたちは、「あまり緊張しなかった」「台詞を覚えるのはそんなに難しくなかった」「踊るのは楽しい」「これからもやりたい」など、余裕のある笑顔で答えた。

  • 校庭には外国人客の姿もちらほら

 たいこやおはやしなどを担当した、お父さんやお母さんも初舞台の人が少なくなかった。大人たちの方が緊張していたのかもしれない。

 「幅広い世代の人たちが楽しめる舞台にして、大都会の町芝居として定着させていきたい」。諸河さんの夢はふくらんでいる。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.10.05

名門バーも復活、東京駅赤レンガ駅舎を旅する

  • JR東京駅丸の内駅舎

 約5年半の工事を終え、大正時代の創建当時の姿に復元されて10月1日に開業した、JR東京駅丸の内駅舎。駅舎の復元に合わせて進めてきた東京ステーションホテルの改装工事も完了し、3日にオープンした。

 南北にドーム型の屋根を備えた重厚でレトロな外観、天井を彩る鮮やかなレリーフ、1泊80万8500円のホテル最高のロイヤルスイートルーム……。新聞やテレビの報道で何度もご覧になったのではないだろうか。

 だが、見所はまだまだある。私なりに、おすすめのスポットや注目したいグッズなどを探してみた。

欧風化する銀座と焼け跡のままの永楽町

 その前に、東京駅と銀座とのつながりをおさらいしておこう。林章さんの「東京駅はこうして誕生した」(ウエッジ選書)に学んだ。

  • 駅長室は意外とシンプル。「無事」という書が壁に掲げられていた
  • 執務机の後ろにあった駅のペーパークラフトに注目
  • 旧赤レンガ駅舎の基礎を支えた松杭

 東京駅一帯はかつて永楽町といわれ、江戸期には徳川一門の譜代大名の上屋敷が並び、権門を競っていた。だが、明治維新に伴う版籍奉還で、大名たちは国もとに引き揚げ、広大な屋敷群は空き家同然になってしまう。明治5年(1872年)2月26日、和田倉門の旧会津藩邸から火が出て、明治期東京で最初の大火となるが、空き屋敷に住み着いた浮浪者の失火だとされている。

 いわゆる「明治5年の大火」で、火は丸の内から銀座、築地一帯まで34か町を焼き尽くした。そしてこの大火は、それまで木造平屋の古い長屋が並んでいた銀座の街が、赤レンガ造りによる不燃建築の「銀座煉瓦(れんが)街」へと生まれ変わるきっかけになった。

 西洋の街並みを模して道路の拡張舗装なども政府主導で進められ、欧風化が花開く銀座煉瓦街とは逆に、永楽町から丸の内にかけての一帯は焼け跡のままに放置され、「狐狸(こり)の棲み家」となっていたらしい。

 その後、一部が陸軍省の所管になったが、対外戦争を意識して施設の移転を考えた政府は、その費用を捻出するためにこの一帯を売ることを決める。そこで白羽の矢が立ったのが、三菱社の2代当主岩崎彌之助。彌之助の子女は、当時の蔵相、松方正義の子息と結婚していた。松方の強い申し出で、岩崎側は結局10万余坪を128万円で購入する。これは、東京市の会計予算のほぼ3倍に当たる法外な値段だったという。

大正の赤レンガ駅舎を支えた松杭

 話を新・東京駅に戻そう。

 メディア向けの内覧会で、駅舎1階にある駅長室にお邪魔した。広さ56平方メートル。旧駅長室の備品がそのまま運び込まれているそうだが、私は執務机の後ろにある棚の上の飾りに目が留まった。東京駅を見学に来た子どもたちと一緒に収まったワンショットのほか、赤レンガのサンプル、駅舎のかわいらしいペーパークラフトなど。日本の中央駅を守る梅原康義駅長にとって、日々の緊張を少しばかり解きほぐす、癒しの小物なのではないだろうか。

 部屋の隅に置かれていた木の杭も興味深い。説明書きに「東京駅本屋基礎松杭」とあった。大正3年(1914年)に完成した赤レンガ駅舎の基礎を支えた松杭の先端部だそうだ。長さ6メートルもあり、支持地盤として十分な砂層まで貫入していたと聞いた。

赤レンガかと思ったら…リアルなブロックメモ

  • (左)秋山さやかさんの作品、(右)ヤマガタユキヒロさんの作品

 北口構内には、工事で一時休業していた「東京ステーションギャラリー」が、3倍の広さになって再オープン。2階展示室は旧駅舎のレンガや鉄骨が内装に生かされ、駅の歴史をしのばせる。来年2月まで「始発電車を待ちながら」と題した現代美術展が開催されている。若手を中心に9組が参加、東京駅や鉄道移動にまつわる喜びや発見がそれぞれの表現方法で切り取られている。

 自らの移動の痕跡を刺繍で表現する秋山さやかさん、建築物を鉛筆で細密に描き、そのパネルに東京駅出発直後の電車の映像を重ね合わすヤマガタユキヒロさんらの作品が並ぶ。

  • ペーパークラフト「待たせてごめんネ編」

 ギャラリー内ショップ「TRAINIART(トレニアート)」では、楽しいオリジナルグッズを見つけた。

 ギャラリーのロゴを手がけた廣村正彰さんがデザイン、赤レンガをモチーフにした「ブロックメモ」。1890円。積み上げると本物のレンガのようなリアルさに驚きだ。

 駅弁と思って手にとってみたら、中身はタオルの「東京駅 駅弁タオル」。タオルのたたみ方によって弁当メニューが変わるのだから面白い。梅、ゴマ、のりの3種類あって、各2100円。

 私のイチ押しは、テラダモケイデザインのペーパークラフト、100分の1建築模型の添景セット。東京駅の待ち合わせ場所、銀の鈴や動輪の広場がモチーフの「待たせてごめんネ編」などがある。1575円。その他、駅長室に飾られていたようなペーパークラフトが豊富で、見ていて飽きない。

  • ブロックメモ
  • 駅弁タオル

東京ステーションホテルには「点と線」の時刻表も

  • 「特急あさかぜ」の時刻表

 では、東京ステーションホテルへ。1915年に開業した同ホテルは、当初築地の精養軒が運営していた。昭和になって鉄道省直営の東京鉄道ホテルになるが、第2次世界大戦時の空襲で一時休館に追い込まれる。戦後復旧が進む1951年には営業を再開。川端康成や松本清張ら文豪が好んで滞在したことでも知られる。

 丸の内駅舎中央部の大屋根裏の大空間は、今まで倉庫として使われていたそうだが、宿泊者用のゲストラウンジに生まれ変わった。すりガラスの天窓から注ぐ自然光が目に優しい。書斎のような、ゆったりしたソファのスペースも落ち着く。

  • (左上)宿泊者用ゲストラウンジ「アトリウム」は開放感あふれる空間、(右上)「アトリウム」にある書斎スペース、(左下) 松本清張が滞在した部屋あたりに飾られた小説「点と線」。雑誌「旅」に連載されていた、(右下)ヒストリーギャラリーには、創建当時の駅舎の写真や絵も

 長い客室廊下を生かし、駅に関する歴史資料が展示されているのも見逃せない。名付けて「ヒストリーギャラリー」。松本清張が小説「点と線」を生み出したとされる客室2033号室(当時は209号室)あたりには、「4分間の空白」トリックに使われた「特急あさかぜ」の時刻表(1957年)も展示されていた。

バー「オーク」も名物バーテンダーと共に復活

 休館前のホテルの象徴的存在だった「バー オーク」は、店名も歴史も継承して復活。ここでマスターバーテンダーを務めるのは、半世紀に渡って同ホテルを支えてきた杉本(ひさし)さん、71歳。

  • 「バー オーク」はベテランバーテンダーの杉本壽さんがシェーカーを振る
  • オリジナルカクテル「東京ステーション」

 今回考案したオリジナルカクテル「東京ステーション」は、ジンのタンカレをベースにスーズというハーブの甘めのリキュール、ザクロのシロップを合わせ、フレッシュライムを加えた1品。「英仏日米、4か国の味をブレンドして、国際化する駅の雰囲気を表現したつもりです」と、杉本さんは言う。テーブルが旅行かばん風の造りで、引き出しを開けると旅の本が何冊か……。旅の出発点にこれ以上の場所はないだろう。

 もう一つのバー、「カメリア」も健在だ。ここではうれしいことに、以前レストラン「ばら」の人気メニューだったビーフシチューが食べられる。1915年開業時の初代総支配人、五百木竹四郎が生み出し、食通たちをうならせてきた伝統の味。創業当時からバーカウンターの壁に飾られていた「TOKYO STATION」の切り文字ロゴも内装に使われて、カジュアルでモダンな中にも昔の面影をひそませている。

  • 1950年代のホテルの入り口
  • 1950年代の「バー カメリア」
  • 復活した「バー カメリア」には、レトロな切り文字が飾られていた
  • 「バー カメリア」に付属した通路のスペースも。ワイングラスが似合いそう

 食べ物では、フランス料理レストラン「ブラン ルージュ」のランチメニューに注目。「時間のないお客様にも、フルコースを1時間で食べていただけるように」と、石原雅弘料理長の工夫が光る。前菜は松花堂弁当風に作った。中でも自信作は、蒸しアワビとエビの豆乳グラタン仕立てで、白みそが隠し味なのだとか。

 ところで客室だが、列車の往来を眺めることができる部屋は、スイートルーム2室とレギュラータイプの1室のみだそうで、なかなか競争率が激しい。客室を拝見して、私はじゅうたんの色が気になった。メゾネットの紫色系は落ち着いた中にもキュートさがあって素敵だった。ちなみに、話題のロイヤルスイートルームは黄色でまとめてある。

  • 「ブーラン ルージュ」のランチメニューにある松花堂弁当風に盛られた前菜
  • メゾネットのじゅうたんは紫色系でキュート

 ホテルといえば、スパのスペースにも注目だ。最近人気の人工炭酸泉の風呂があるのがうれしい。ただし、利用するにはいろいろと条件があるようなので、要チェック。

 宿泊客としてゆっくり1日ホテル内で過ごしたい――そんな気にさせる空間だった。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.09.21

銀座によみがえれ、寄席の黄金時代

 明治初期の銀座には、寄席の黄金時代があったということを、昭和初期に活躍した東京毎夕新聞社記者の小野田素夢の著書「銀座通」で知った。

 煉瓦街ができ、西欧化が進む銀座には、旅の興行師やら香具師(やし)の一団やらが「開拓使のように乗り込んで来て」、煉瓦街見物の群衆を当て込み、様々な見せ物を出した。「犬芝居猿芝居、娘手踊から西洋奇術、ろくろ首、蛇使い、ハイカラなものでは伊太利(イタリー)風景のパノラマまで」、大看板を並べて人のにぎわいを誘ったという。

 にぎわいの一つとして素夢は、銀座の寄席にも注目している。

 銀座4丁目に開店した木村屋パン屋の2階では、パン食PRのために寄席が設けられていたが、「明治7年、松林伯圓(しょうりんはくえん)がそこに陣取って、銀座亭の看板を掲げた」そうな。同じころ、鍋町(銀座6丁目の交詢社付近)に艶物(つやもの)と義太夫が専門の鶴仙亭、新橋ぎわには講談専門の繁松亭、京橋近くには金沢亭ができて、講談落語会の名人たちが競って高座に上がったようだ。

東西の所属団体を超えた「大銀座落語祭」

  • 銀座の街をテーマに創作落語を発表する柳家さん生さん(上野・鈴本演芸場で)

 明治31年生まれのつづら屋職人だった浅野喜一郎氏は、落語好きの父に連れられ、金沢亭に行った幼いころの思い出を「明治の銀座職人話」(青蛙房)につづっている。月20日は通った落語の常連だったようで、圓右、小さん、圓歌、橘之助らひいきの落語家の名前を挙げ、「武家出身の柳家小さんの十八番は『うどん屋』。ちょっと歯切れの悪いところがあるが、それがまた『うどん屋』には打ってつけで、客を笑わせていた」など、具体的に記している。

 時代は下り、銀座の街から寄席は消えたが、2004年から5年間、春風亭小朝ら「六人の会」の主催で「大銀座落語祭」が毎年開催された。東西の所属団体を超えて多くの落語家の(はなし)が聞けるのは楽しかった。

 そして今年、銀座の街をテーマにした創作落語の連作公演があると聞いて、さっそく演じ手の柳家さん生さんを訪ねた。

 55歳になるさん生さんにとって、今年は落語会入りして35年、真打ちに昇進して20年の節目の年。

 「3年前から制作の人たちと何をやろうか考えてきました。そして、迷わず銀座をテーマに選びました。富山生まれの私にとって、銀座はあこがれだったし、いつか行きたいと夢見ていた場所でもあります」

柳家さん生の考える「銀座」とは――

 「銀座」とは――若者に媚びを売る街が増えている中、大人の街としてでんと構えているところがいい。結構新しもの好きで、柔軟に様々なものを受け入れる許容力がある。でも、だだっこみたいなことをしたら、ぴしゃりと怒られる。そんなイメージという。

 銀座に拠点をおく協力者の一人、東京画廊代表の山本豊津(ほづ)さんは、企画するにあたっていろいろとアドバイスした。

 「さん生さんに勧められて、柳家つばめの『創作落語論』という本を読んではっとしました。古典落語は古典芸能ではあるが落語ではない、落語とはその時代の庶民の生活を描くものだというのです。ならば、現代に生きる人が今の銀座を落語にしたら面白いのではないかと、提案してみたのです」

 老舗や名店を多く抱える銀座だが、その背後には様々な物語がある。画廊、洋食、和菓子、文房具をお題に、銀座をひもといていこうとの試みだ。

 場所は博品館劇場。初日の9月26日は、太神楽師の鏡味仙三郎社中を迎えてトークショー「銀座未来会議」でスタート。27日は画廊篇(ゲストは林家三平)、28日は文房具篇(同国本武春)、29日は和菓子篇(同桂米團治)、30日は洋食篇(同立川志の輔)。脚本は、モーニング娘。などの舞台脚本も手がける劇作家の金津泰輔さんが担当する。

 「洋食篇では、一杯のかけそばのような、親子のほのぼのとした思い出が語られて、ぐっときますよ」と、さん生さん。

  • 画廊篇に登場する銀座8丁目の東京画廊
  • 文房具篇に登場する2丁目の銀座・伊東屋
  • 和菓子篇に登場する7丁目の虎屋

落語は芝居を超えていると感じた

  • 洋食篇に登場する8丁目の資生堂パーラー
  • 資生堂パーラーで人気のオムライス まるで絵に描かれているみたい

 高校時代のホームステイでシェークスピア劇にはまり、役者を目指して上京。日大芸術学部に進んだが、先輩に連れられて落語研究会をのぞいたところから、目指す方向が変わった。

 それからまもなく、10代目金原亭馬生師匠の「お初徳兵衛」を国立劇場で聞いて、「芝居を超えている!」と感じたという。「しゃべりだけで、隅田川の流れ、夕立の音、2人の息づかいなどがすべてイメージできたのですからね」。ほぼ連日の寄席通いが始まり、大学を中途で辞めて、5代目柳家小さん師匠の内弟子に。人情話や長屋ものを得意とする。

 「高座に上がって、しゃべっている空気がどこか温かいね、安心するねといった印象を与える噺家でいたいです」と、さん生さんは語る。

 落語家は50代からが勝負。まずは還暦まで、ここ銀座の博品館での舞台を続けたいと思っている。「銀座に行くとさん生に会える――いなか者の私にとって、それが続けられたら本望です」

 「銀座今昔物語」は、9月26日から30日まで、銀座博品館劇場で。

 (読売新聞 編集委員・永峰好美)

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2012.09.07

世界で4万種、グロッキーの語源にもなったラム酒

  • 銀座4丁目のラム酒専門バー「Bar Lamp」の中山篤志さん

 今年の夏、人気が爆発したカクテルといえば、モヒートではないだろうか。

 ミントの爽やかさ、ライムの酸味、ぱちぱち弾ける炭酸ののどごしの心地よさに加えて、ほんのり感じる甘みは、低アルコール志向のトレンドに合っていた。缶入り飲料なども売り出され、気軽に飲めるようになったことも一因かもしれない。

 東京・銀座8丁目のソニー通りには、期間限定でモヒート専門のバーが登場し、スイカやパッションフルーツをミキサーでブレンドして作るフルーツフローズンモヒートが、私のお気に入りだった。

 ところで、モヒートのベースは何か? すぐに答えられる人はどのくらいいるだろう。

 答えは、ラム酒。

 ラム酒といえば、学生時代によく飲んだラム・コーク、それに、ラムシロップに漬け込んだナポリ名物のババ。菓子の材料のイメージが強い。

 「いえいえ、ラム酒といっても、世界に4万種類以上。生産国によっても特徴が異なって、奥深いんですよ」

 そう教えてくれたのは、銀座4丁目にラム酒専門のバーを構える「Bar Lamp」の中山篤志さん(39)だ。壁面の棚にもカウンターにも、ぎっしり並ぶのは様々なラムのボトル。銀座に数あるバーの中でも、これだけ多くの種類のラムを置いているところは恐らくないだろう。

 2004年に開店した当初は、ウィスキーやジン・トニックを注文するお客がほとんど。「2杯目にラムを勧めると、『いや、甘いのは苦手でね』と逃げる方が多かった。『じゃあ、だまされて飲んでみてくださいよ』とオンザロックなどでお出しすると、うまいねって、はまる人が少なくないです」

 特に女性客は、マティーニとかシングルモルトとか、時のトレンドに敏感で、新しい酒へのチャレンジ精神も旺盛。「ラム酒ファン、意外に女性に多いんですよ」とも。

背景には植民地の悲しい歴史も

  • ミントをたっぷり入れてペストルで軽く潰し、モヒートを作る

 中山さんは、早稲田にあるリーガロイヤルホテル東京でバーテンダーを5年務めた。当時、葉巻を勉強する機会があって、地域的につながりの深いラムの歴史や文化を知って、とりこになったのだという。

  • 琥珀色のモヒートは独特のこくがある

 「ラテンの楽しくポップなイメージの裏に、植民地の悲しい歴史がある。それも全部含めて、興味を持ちました」

 サトウキビが原料のラムは、西インド諸島が原産。ヨーロッパ列強の植民地政策の中で、産業として大きく発展する。

 サトウキビ栽培の労働力として、アフリカから黒人を奴隷として西インド諸島に大量に送り込んだ。その奴隷船にサトウキビから取れた糖蜜を積んで米国のニューイングランドに運んでラム酒を造り、再びアフリカに向かい、ラム酒と黒人労働力とを交換した。歴史の教科書でだれもが知っている「三角貿易」で育った酒である。

 ちなみに、ものの本によれば、17世紀から19世紀にかけて大西洋上で勢力をもった英国海軍は、ジャマイカなどでラムを積み込み、毎日乗組員に配給していたそうな。水割りのラムは、指揮官のニックネームからグロッグ(grog)と呼ばれた。「二日酔いでグロッキー」などと言うが、このグロッグが語源らしい。

 「葉巻の煙には独特の苦みがありますが、ウィスキーを合わせてもどうもしっくりこなかった。ラムの甘さで柔らかく包み込んでマリアージュするのがよかったです」と、中山さんは話す。

海抜2300メートルの雲の上で熟成するラム酒の愛称は

  • グアテマラのサトウキビの収穫は12-1月が中心
  • 海抜2300メートルの冷涼な地で樽の熟成が始まる

 バーにあるたくさんのラムの中から、中山さんにおすすめを選んでもらった。1976年、グアテマラのサカパ市創立100周年を記念して作られた「ロン サカパ」。「海抜2300メートルの雲の上でゆっくりと熟成させたプレミアム・ラム」だそうだ。

 琥珀色の輝き、レーズンや焦がしたナッツの芳醇な香りが印象的で、余韻もしっかり楽しめる。私が今まで接してきた青臭さの残るラムとはひと味もふた味も違う。

 オンザロックで十分満足できるのだが、モヒートを作ってもらった。タンブラーにミントの葉をたっぷり入れて、ペストルという小さなすりこぎ棒で軽く潰して香りを出すのがポイント。琥珀色のモヒートは、独特のこくがあって、優雅な気分にさせてくれる。

  • 4種類の樽を使い分ける
  • ラムのパッケージに使われている「ペタテ」は、マヤ族の女性たちの手作り

 「ロン サカパ」のサトウキビ畑があるのは、海抜350メートル、酸性粘土質の肥沃な土壌。一年を通して気温は30度という熱帯の気候である。だが、樽に入れて熟成させるのは、海抜2300メートルの冷涼の地。こうした環境におくことで、“天使の分け前”ともいわれる、熟成途中で樽から浸み出して蒸発する水分やアルコール分の目減り量を極力抑えることができるという。

 熟成方法は、シェリーを造るソレラシステムに似ている。簡単にいえば、年数の古い酒が入った樽を下から順に組み合わせ、目減りした分は上方にある樽から補いながら熟成していく。樽は4種類を使い分ける。アメリカンウィスキーの樽が、新樽と内側を焦がした樽の2種類、シェリー樽も辛口オロロッソ樽と甘口ペドロ・ヒメネス樽の2種類。ブレンドの仕方がより複雑だ。

生産地によって違う風味を楽しめる

  • ラムのイベントでは、原料の糖蜜を実際になめてみた
  • 西インド諸島原産といっても、フランスか英国かスペインか、旧宗主国によっても違いが際だつ

 中山さんを訪ねる前に、予習の意味で、ラム酒のイベントに参加して、原料の糖蜜を実際になめてみた。まろやかで上品な甘さは、サトウキビの一番搾り汁を濃縮してハチミツ状にしたバージンシュガーケイン・ハニーからくるものなのだそうだ。ふつうラム酒に使われる糖蜜は、廃糖蜜といって、砂糖の製造過程で糖分を抽出した後の残り汁を使っているので、こちらはちょっと苦さを感じた。

  • ソーダの代わりにスパークリングワインで作るロイヤル・モヒートは絶品

 4年ほど前、中村さんらラムが好きなバーの店主5人が集まって、日本ラム協会を創立した。イベントやセミナーなどを通じて、ラムに関する知識や飲み方の提案など啓蒙活動を続けている。

 キューバやグアテマラ、ガイアナなど、生産地を歩いて、情報を収集し、交流も深めている。現地では、ラムにライムを絞って砂糖を少々加えたシンプルな飲み方が主流だが、マンゴーやグァバなどのジュースやコーラで割るなど、楽しみ方は多様だ。家庭では、日本の梅酒のように、ハーブやフルーツ、バニラなどと一緒に漬け込んだオリジナル・ラムが飲まれている。

 「生産地による違いを楽しむのも面白いですよ。フランス領はコニャック風、スペイン領はシェリーブランデーの上品な甘さを強調、英国領はモルトウィスキーの味わいをイメージなど、宗主国の嗜好が反映されているんです」と、中村さん。

 帰りがけ、ロイヤル・モヒートを作ってもらった。ソーダの代わりにスパークリングワインを加えたぜいたくなモヒート。果実味の豊かさが増して、味わいに深みが加わった。ワイン好きの私には、たまらない一グラスだった。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.08.31

ヴェスヴィオ山がもたらす恵みと悲劇…南イタリアの風(最終回)

 南イタリアの旅の終わりは、イタリア半島に渡ってナポリへ向かった。

 前8世紀初め、ギリシャ人がナポリ湾西方のイスキア島ピテクーサに入植後、本土側のクーマに建国したことは、シリーズの第4回で書いた。さらに、前680年頃からクーマに移住したギリシャ人がナポリに南下、住み着いたといわれている。

 最初の集落は、サンタ・ルチア港の突端、今日では12世紀ノルマン王が建設した卵城を見下ろす丘のあたり。岩礁に打ち上げられた乙女の名前から、集落はパルテノペと呼ばれていた。彼女は、オデュッセウスを誘惑するのに失敗して命を絶った美声の鳥人セイレンの一人ともいわれている。

 ホメロスの「オデュッセイア」(岩波文庫)第十二歌には、セイレンが透き通るような声で歌い、船で行き過ぎるオデュッセウスを魅惑しようと試みる場面が描かれている。

  • ナポリには、古代ギリシャ都市の規則正しい都市構造が今も残る

 「アカイア勢の大いなる誇り、広く世に称えられるオデュッセウスよ、さあ、ここへ来て船を停め、わたしらの声をお聞き。これまで黒塗りの船でこの地を訪れた者で、わたしらの口許から流れる、蜜の如く甘い声を聞かずして、行き過ぎた者はないのだよ。聞いた者は心楽しく知識も増して帰ってゆく(中略)。ものみなを養う大地の上で起ることごとも、みな知っている……」

 美声を聞きたいオデュッセウスは、部下に命じて船の帆柱に自らのからだを縄でくくりつけさせる。そして、船をこぐ部下の耳には蜜蝋をこねて貼り付け、無事通過する。

都市計画でつくられたネアポリス

  • (左上)サングレゴリオ・アルメーノ通りには、古いプレセーピオ工房が軒を連ねる、(左下)プレセーピオの題材には今風なものも、(右)スパッカ・ナポリにはアートな建物もあってにぎやか

 前5世紀、ギリシャ人はナポリ湾全体を支配するため、都市計画に基づき、旧都市パルテノペの北東にネアポリスを建設する。ネアポリスとは、ギリシャ語で新しい都市の意味。ナポリの語源になった。現在の大聖堂を中心に「スパッカ・ナポリ」と呼ばれる旧市街のあたりで、内陸である。

 ローマ、ビザンツの支配を経て、周辺都市を含むナポリ公国として独立するのは763年。イスラム海軍を破りアラブとの交易に成功するなどして、黄金期を迎えた。

 旧市街「スパッカ・ナポリ」の「スパッカ」とは、真っ二つに割るという意味で、東西に貫通する直線道路を指す。古代ギリシャの植民都市の骨格は、規則的に格子状に割られた構造が基本。それは、現代にも受け継がれている。旧市街はこの古代の街並みを下敷きにして、由緒ある教会建築群と庶民の路地文化とが混在、独特の風景がつくり出されている。サン・グレゴリオ・アルメーノ教会がある通りには、キリスト生誕の様子などをジオラマで表すミニチュア手工芸、プレセーピオの老舗工房が軒を連ね、観光客でにぎわっていた。

古代地下都市の散策から地上へ

  • (左上)サン・ロレンツォ教会が建つガエターノ広場、(左下)ナポリの地下都市は今は一般にも公開されている、(右)何本もの通路がつながって、迷宮のよう

 興味深いことに、近年になって、これまで眠っていた古代地下都市の発掘が進んでいる。中心になるアゴラ(市民広場)は、14世紀に建てられたサン・ロレンツォ・マッジョーレ教会が建つ旧市街のガエターノ広場にあった。

 正確には、教会に隣接する修道院地下にあって、ギリシャ時代のアゴラを発展させた広場フォーロや店舗、街路などの遺構が一般に公開されている。深さ40メートルほどまで掘り下げられており、切り出された石材は城壁や神殿などの建築に用いられた。

 ローマ時代になると地下貯水槽として活用するため、たくさんの穴が掘られ、迷路のように通路がつなげられた。ガイドについて回ったが、複雑で、一人では迷子になるなと思った。

 ひんやり古代の空気に満ちた地下道から地上に出ると、陽気にナポリ民謡を歌うおじ様グループに遭遇。これもまた、ナポリの楽しさである。

 そこから足を伸ばして、プレビシート広場近くの「グランカフェ ガンブリヌス」へ。1860年創業のナポリ最古のカフェである。ラム酒シロップに漬け込んだババ、ひだが何層もある貝殻型のパイ生地にリコッタチーズとカスタードクリームがはさまれたスフォリオテッラなど、ナポリ菓子が人気だ。サロン風の店内に飾られた絵画の中に、ヴェスヴィオ火山の絵画があった。

  • 地上に出ると、ナポリ民謡が聞こえてきた
  • ナポリ一大きなプレシート広場
  • (左上)ナポリ最古のカフェ、グランカフェ・ガンブリヌス、(左下)名物のババ、(右上)カフェに掲げられていたヴェスヴィオ山の絵、(右下)アマルフィの修道院が発祥といわれるスフォリオテッラ

街ごと埋もれたポンペイの日常

  • ナポリ湾からヴェスヴィオを望む

 ヴェスヴィオといえば、79年8月24日の大噴火で、火山灰の下に埋もれたポンペイの街がある。共同浴場やスポーツジム、食料市場やパン屋、洗濯屋など、日常生活の基本は今のそれとあまり変わらない。共同浴場を出た先に、ワインの貯蔵甕やパン焼き釜が残る“居酒屋”跡があるのも面白い。

 このポンペイの大惨事を後世に伝えたのは、当時17歳だった青年の手紙。地中海艦隊司令官でナポリ湾岸のミセヌムに駐在していた大プリニウスの甥、小プリニウスが、歴史家タキトゥスの求めに応じて書いたといわれ、貴重な目撃談となった。古代ローマの詩人、ヴェルギリウスは「アエネーイス」に、小プリニウスの生々しい記述を載せている。

  • ポンペイ遺跡の広場跡
  • ポンペイの秘儀荘あたりからヴェスヴィオを望む
  • ポンペイ遺跡の商店街跡 運送屋さんの標識か?

  • (上左)市場から商店街へと続く、(上右)公衆浴場の出口にあった、居酒屋跡、(下左)ヴェルギリウスの墓はメルジェッリーナ駅の裏手にあった、(下右)不思議な長いトンネルは、現在立ち入り禁止に

 ちなみにヴェルギリウスの墓は、ナポリのメルジェッリーナ駅裏手の公園内にあった。彼はハチミツを「天からの露の恵み」と呼ぶなど、イラン起源のミトラ神崇拝の秘儀にも通じるところがあり、墓地内に掘られた長いトンネルなどベールに包まれた部分が少なくない。

 ポンペイで興味深いのは、市民の日常がわかる商店街や市場であったと書いた。ナポリの北、古代地中海世界でも有数の港町として栄えたポッツォーリもまた、ローマ人の食生活を支えた食料品市場跡で知られる。

 ローマに物資を中継する拠点として栄え、中東や北アフリカから多くの貿易商人たちを集めた。2階建ての市場は、神殿かと見まがう美しい建築だ。噴水のある大きな中庭を囲むようにして店舗跡が残る。火山性の土地で、19世紀には店舗部分が温泉の浴場としても活用されたらしい。

ヴェスヴィオ火山とキリストの涙

 さて、我が“グランド・ツアー”の締めくくりは、ナポリの東12キロにあるヴェスヴィオ登山。標高はわずか1281メートル。今は裾野にブドウ畑が広がっている。

  • 港町ポッツォーリの食料品市場跡
  • (上)ヴェスヴィオ山の登山道を歩く(下)登山ガイドさんと一緒に
  • (左上)外輪山を成すソンマ山と中央丘であるヴェスヴィオ山によって構成、(左下)標高1167メートル地点の休憩所で、(右上)ガイドさんの資料から、1933年の噴火の画像、(右下)こちらは1944年の噴火の空撮

 79年、山麓の街ポンペイを壊滅させ、以後14世紀まではほぼ100年に1度火を噴いて付近住民を脅かしてきた。一時活動を休止したものの、再び1631年に火山活動が始まり、最近の噴火は1944年3月。現在は駐車場のある登山口までバスに乗り、そこから直径600メートルほどの火口まではゆっくり歩いても1時間くらいだ。

 外輪山をなすソンマ山と、中央丘でもあるヴェスヴィオ山によって構成されているため、2つの頂をもつ。登山ガイドによれば、初期のソンマ山は3000メートル級だったが、何度かの大噴火によって火口が広がっていき、現在のような双子山になったそうだ。

 ところで、1880年に作曲された「フニクリフニクラ」は、今に歌い継がれるナポリ民謡。トーマス・クックが世界で初めて火山観光用のケーブルカー(フニコラーレ)を設けたことで誕生したCMソングだった。

 登山口に戻り、白ワインを1杯飲んだ。その名も「ラクリマ・クリスティ・デル・ヴェスヴィオ」。ほんのりハチミツのような甘味があった。

  • 休憩所で売っていたワインは、ラクリマ・クリスティ・デル・ヴェスヴィオ

 このワインには物語がある。その昔、天国から追放された大天使サターンが、天国の土地を一部盗んで逃走したものの、途中で落としてしまい、その場所にナポリの街ができた。だが、地上の人々は悪の限りを尽くし、ナポリは疲弊していく。その様子を天上から眺めていたキリストが涙を流し、そこからブドウの樹が生えてワインが生まれたという。

 ちなみに、このシリーズで取り上げた街で飲んだワインについては、私のブログ(※)で取り上げているので、興味のある方はチェックしてみてください。

 「南イタリアの風」と題し、7回に渡って旅行記を書いてきた。南イタリアでは、古代ギリシャやアラブをはじめとする多様な文化の集積が現代の街にも受け継がれ、さらに、陽気な人々の日常と重なり合うことで、土地の魅力を増している。秋の旅シーズンに向けて、何かヒントになるようなことがあったならばうれしい。

 来週からは従来通り銀座の話題を拾っていきますので、今後ともお付き合いください。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 ※永峰好美のワインのある生活

 http://www.printemps-ginza.co.jp/wine/

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)