2013年9月アーカイブ

2013.09.27

帝国ホテル 「ライト館」の面影を訪ねて

  • 帝国ホテルのライト館は90周年を迎えた(帝国ホテル提供)
  • 孔雀の間 内装が斬新です(帝国ホテル提供)
  • 神殿(?)のようなライト館正面入り口(帝国ホテル提供)

 東京・銀座のお隣り、日比谷の帝国ホテルの旧本館、ライト館が開業90周年を迎えた。

 同ホテルの本館1階の正面ロビーでは、現在記念企画として、「『ライト館』の面影を訪ねて」という写真を中心とした展示が始まっている(来年3月末までを予定)。

 同館の開業式典は、90年前の9月1日。まさに関東大震災の日であった。周辺の多くの建物が倒壊、延焼する中、損傷が少なく、震災に生き残った建物として知られている。1967年、老朽化のために取り壊され、玄関ロビーの一部が、愛知県の博物館明治村に復元保存されている。

 建物を設計したのは、すでに世界でも有名になっていた米国人建築家のフランク・ロイド・ライトだった。当時のホテル支配人、林愛作が、米国に留学し、ニューヨークで古物商を営んでいた時にライトと知り合ったのがきっかけだった。

 山口由美著「帝国ホテル・ライト館の謎」(集英社新書)を読んでいたら、興味深い記述に出合った。1923年9月号の「主婦の友」に、「新築の帝国ホテルに泊る記」という記事があり、記者はライト館の外観をこう形容している。

 「玄関前の広庭を囲んで両翼をなしたその低い東洋風の屋根の形と、緑青の色、太くしっかりと立てられた黄土色の煉瓦の柱、遠く望み見た目には、インドかビルマあたりの寺院を思わせ、ラインの河辺に取り残された寂しい廃墟の姿を印象させます」

 新築のホテルを「廃墟の姿」と表現しているのだから、驚く。だが、確かに、当時の正面写真を見ると、寺院や神殿のような印象が強い。

近代建築の巨匠 フランク・ロイド・ライト

  • 六角形と菱形モチーフは、ライトがデザインした椅子の特徴(帝国ホテル提供)
  • ライトが愛した市松模様をイメージ(帝国ホテル提供)
  • 90周年記念カクテルにも工夫が…(帝国ホテル提供)

 ライトは、1893年のシカゴ万博で、宇治の平等院鳳凰堂をモデルにして建てられた日本館を見て、日本建築に魅せられた。ホテル建築を頼まれてからも、日本の素材、たとえば大谷石などにこだわった。少年時代からマヤやインカの古代遺跡に非常な憧れを持っていたようで、ライトの弟子だった田上義也(たのうえよしや)の証言によれば、大谷石の石切り現場に行くと、「石の山脈だ。マヤの遺跡を発掘しているようだ」と、興奮していたらしい。

 ライトが作ったものは、荘厳で神秘的な建物だけではなかった。館内の装飾はもちろん、六角形の背もたれが特徴的な椅子や斬新でモダンな食器類までデザインした。

 今回、同ホテルでは、90周年を記念して、「ダーク&“ライト”」というチョコレートムースを使ったケーキが売られているが、これは、ライトがデザインした椅子にある六角形と菱形をモチーフに創作されている。

 ライトが好んでだ使ったデザインモチーフ、市松模様も、ホワイトブレッドとキャラメルブレッドの2種類のパンを組み合わせたサンドイッチとして登場している。

 また、ドライジンがベースのオリジナルカクテルには、独創的な幾何学模様をかたどったオレンジとレモンの皮がさりげなく浮かべられていた。

ライト館から始まったサービス

 ライト館では、日本初の様々なサービスが誕生したことも忘れられない。

 開業と同時に設けられたショッピングアーケード、挙式と披露宴を一貫して行うホテルウェディング(1923年)、ディナーショー(1966年)などである。

 1958年、今では食べ放題の別の名としてすっかり定着した「バイキング料理」も、帝国ホテルが始まりだ。

  • インペリアルバイキングも55周年。1958年頃。左が村上さん、先輩の一柳一雄料理長と

 パリのホテルに派遣されて修業中だった元総料理長の村上信夫さんが、犬丸徹三社長(当時)からの特命を受けて、北欧のスモーガスボードを日本に初めて紹介した。

 40種類以上の北欧料理が好きなだけ食べられるレストランで、店名は社内公募で「インペリアルバイキング」に決まった。この名前の由来を、以前村上さんにインタビューした時に聞いたことがある。

 当時、ホテル近くの映画館でカーク・ダグラス主演の「バイキング」が上映中で、海賊がごちそうを並べて豪快に食べる場面があって、それがヒントになったというのだ。

 銀座でおでん定食が150円の時代。昼は1200円、夜は1800円という値段設定だったが、口コミで評判が広がり、テーブルは連日満席だったそうだ。ただ、当初はシステムがよく理解されず、食べきれなかった料理を弁当箱に詰めて持ち帰ろうとするお客もいたらしい。

 その「インペリアルバイキング」も、今年、55周年を迎えている。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.09.06

この夏、なにかと話題の“エリゼ宮”

 美食の国、フランス大統領府のエリゼ宮に招かれた賓客に供される食事って、どんなものなのだろう。以前から並々ならぬ関心があった。

映画「大統領の料理人」…ダニエル・デルプシュさん

  • 「大統領の料理人」は、ミッテラン大統領のお抱え女性シェフがモデル(GAGA提供)
  • エリゼ宮が彼女の仕事場だった(GAGA提供)

 9月7日から東京・銀座の「シネスイッチ銀座」などで公開の映画「大統領の料理人」は、1988年から2年間、ミッテラン大統領のお抱えシェフとして活躍した女性料理人、ダニエル・デルプシュさんの実話をベースにした物語である。

 フランス・ペリゴール地方出身の彼女は、伝統の郷土料理を教える料理学校を設立、自宅でも小さなレストランを運営していた。そんな彼女がエリゼ宮入りしたのは、有名シェフのジョエル・ロブション氏の推薦によるものだった。当時大統領は、私生活では、過剰な装飾を排し、素材そのものを生かした<癒しの料理>を求めていたようなのだ。

 デルプシュさんは、大統領のシェフを務めた後も、南極調査隊の料理人として同行したり、地元特産のトリュフ生産に適した場所を見つけるために世界中を飛び回ったり。とにかく精力的な女性である。

 映画に登場する料理は、当時彼女が作ったメニューを忠実に再現したものなのだとか。「チリメンキャベツを使ったサーモンファルシ」など、観ているだけで、お腹がぐうぐう鳴ってしまいそう・・・。

 ただ、彼女はあくまでもミッテラン大統領のプライベート・シェフだったのであって、エリゼ宮の美食外交を支える料理人集団は別にいる。

エリゼ宮料理長のベルナール・ヴォション氏来日

  • エリゼ宮料理長のベルナール・ヴォションさん(今年2月、日本記者クラブで)
  • 福島産のイチゴの甘さに感動

 今年2月、東北被災地支援のイベントで来日した、エリゼ宮料理長のベルナール・ヴォション氏に話を聞く機会があった。

 氏は、菓子を作るパティシエとしてスタートし、在オランダや在英国の大使館勤務を経て、1974年にエリゼ宮入り。2005年から料理長を務める。現在のオランド大統領で6人目の大統領に仕えている。

  • モナコ宮殿料理長のクリスチャン・ガルシアさん(日本記者クラブで)
  • 船に乗って、ワカメ漁を体験

 「エリゼ宮には20人の料理人がいる。フランスの食材を使うのが基本だが、伝統のフランス料理を頑なに守るというよりは、時代とともに新しい調理法を取り入れている。クラシックもあれば、ヌーベル・キュイジーヌ、フュージョンまで、幅広い。国賓を迎える時には、執事長からまず好みや宗教上の制約などの情報を得て、きめ細かな配慮をする。数種類のメニューを考え、最後は大統領に決めていただく。オランド大統領は日本料理も好みで、家族と囲むプライベートな食卓では、寿司や刺身など、日本的なテーストを取り入れることもある」などと話した。また、東北地方の食材の現場を視察して、特に福島のイチゴの甘みと香りが素晴らしかった、とも。

 ヴォション氏とともに、モナコ宮殿料理長のクリスチャン・ガルシア氏も来日し、宮城県気仙沼で船に乗り込み、ワカメを収穫した体験を興奮気味に話していたのが印象的であった。

 「ワカメは今後、モナコ大公の食卓に確実にのることになるでしょう。珍しい魚が多く、ドンコを使った汁物は絶品だった。酒粕も興味深い調味料だが、オリーブオイルで私なりの地中海風味付けをしてもおいしいのではないかと思っている」と語った。

エリゼ宮所有のワインオークション

  • ピーロート・ジャパンがオークションで落札したワインをお披露目

 さて、エリゼ宮の話題をもう一つ。今夏注目されたのが、ワインセラーのオークションのニュースであった。

  • 偉大なヴィンテージの偉大なワインが落札された

 1947年に設けられたセラーのワインは、1980年代半ばまで、大統領個人の所有で、時の大統領の好みと趣味に沿ってそろえられたため、特定の銘柄に偏りがあった。西川恵著「エリゼ宮の食卓」によれば、大統領が辞任する時、ワインも一緒に持ち去るため、また一からそろえ直す必要があったという。料理にふさわしいワインリストの構築が長年の課題だったのである。

 セラーを大統領個人の所有からエリゼ宮に移し、そのための予算措置が講じられるようになったのは、ミッテラン大統領時代の1980年代半ばからのようだ。

 かくして改めて収集されてきたわけだが、セラーの備蓄ワインのほぼ1割にあたる1200本を放出し、オークションにかけるというニュースが突然発表されたのは今年5月のこと。厳しい財政難に直面する仏政府が、緊縮政策のお手本を自ら示そうとの試みだった。

 こうした政府の方針に対して、フランスの著名なワイン収集家らからは「我国の遺産の一部である貴重なワインが他国の富豪に売り払われることは遺憾だ」などと反発の声も少なからず上がっていた。

 オークションは、エリゼ宮にとって初めての経験である。落札価格は総額で25万ユーロと見積もられていた。5月30日と31日の2日間、パリのホテルを会場に競売にかけられ、実際には、見積もりの3倍近い71万8800ユーロ(約9400万円)を売り上げた。最高価格は、1990年の「ペトリュス」で、7625ユーロ(約100万円)の値がついたという。値段をつり上げたのは、中国人やロシア人だったともいわれている。

 仏政府はこの売却代金で新たにお手頃ワインを買ってセラー内を入れ替え、余った資金は政府予算に繰り入れると伝えられている。

注目の落札…銀座でお披露目

  • エリゼ宮セラーに貯蔵されていたという来歴を示すラベル

 果たして、どんな銘柄のワインが落札されたのだろうか。

  • ピーロート・ジャパン代表取締役のローラン・フェーヴル氏

 オークションの最高入札者の一つ、出品されたうちの18パーセントを落札した「ピーロート・ジャパン」(東京都港区)は、計166本を入手した。そのワインが日本に届き、7月には銀座の「ベージュ アラン・デュカス東京」でお披露目会も開かれた。

 1952年「シャトー・マルゴー」、1961年「シャトー・ラフィット・ロートシルト」、1964年「シャトー・オー・ブリオン」、1982年「シャトー・ラトゥール」…。

 さすが、すごい銘柄の偉大なヴィンテージが並ぶ。来歴を証明するため、「エリゼ宮」と競売の日付が記載されたラベルが全ボトルに貼られていた。

 同社代表取締役営業部門担当で、オークションを指揮したローラン・フェーヴル氏は、「1961年のラフィットを例にとっても、エチケット、状態共に完璧。経年によるワインの目減りも見られない。この保存状態の良さで、いかに素晴らしいセラーであるかが推測できる」と、胸を張った。ちなみに、同社で落札した最高価格は、1985年「ペトリュス」で、約65万円で販売された。

エリゼ宮の饗宴を再現

  • プレス向けにサービスされた落札ワインは4本(シャンパーニュを除く)
  • 1998年のピュリニー・モンラッシェはまだいきいきしていた

 この日、プレス向けにサービスされたのは、4本のエリゼ宮ワイン。1998年「ピュリニー・モンラッシェ シャンガン」(メゾン・ルイ・ジャド)、1990年「ドメーヌ・シュヴァリエ・ブラン」、1978年「ボーヌ クロ・デ・ムーシュ」(メゾン・ジョセフ・ドルーアン)、1990年「ラトリシエール・シャンベルタン」(ドメーヌ・フェヴレイ)であった。

  • (左上)アミューズ・ブッシュ (左中)タカベのエスカベッシュ (左右)スズキのオーブン焼き (左下) 佐賀産の豚を使った料理 (右下)19 サクランボとピスタチオのデザート

 「ピュリニー・モンラッシェ」は、黄金色に色調が変化し、豊潤な香りに広がりがあって素晴らしかった。78年の「クロ・デ・ムーシュ」は、硬さがなくなり、やさしく包み込むような味わいが楽しめた。

 料理は、エリゼ宮で働いた経験のあるシェフが、来賓向けに使われたメニューを日本の食材でアレンジして再現してくれた。コンソメのジュレのアミューズ・ブッシュに始まり、タカベと季節野菜のエスカベッシュ、日本海スズキのオーブン焼き・オリーブオイルとレモンの香りを付けたジロール茸とインゲン、佐賀県産酵素豚ロースのア・ラ・ブロッシュで締めである。メニュー冊子の装丁は、エリゼ宮の饗宴と同じ仕様。ルーブル美術館の所蔵絵画で、今回はギュスターヴ・モローだった。

 ピーロートが落札したワインは7月12日から販売がスタートし、ほぼ完売したらしい。あのペトリュスはどんな人が購入したのだろうか。自分で手が届く金額ではないにせよ、ちょっと気になるこの夏の話題であった。

  • メニュー冊子の装丁も本格的
  • 1975年の「シャトー・マルゴー」など

 (読売新聞編集委員 永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)