GHQ(連合国軍総司令部)の意向もあって、東京の繁華街でいち早く復興した銀座。焼け跡に残ったビルに明かりがともり、進駐軍のジープが銀座通りを走り抜けた。この頃の銀座は、進駐軍兵士の「ショッピング&エンターテインメント」の場所であった。
1945年9月14日の読売新聞朝刊は、米兵たちの買い物風景を伝えている。
「崩れた舗道ながら銀座は銀座。昨日今日の銀座はネオンの
百貨店での人気商品は、人形が第一位。「在庫品を出しても出しても朝のうちに売り切れ」となり、ほかに、ぼんぼり、錦絵、
「銀座4丁目のビヤホールの開業は午後3時なのに、午後1時には米兵の長い行列」ができ(1945年9月14日朝刊)、「米軍酒保店が、銀座の服部時計店の1、2階に開店。アメリカ製の各種日用品雑貨、菓子、缶詰、食料品、外務省が
また、銀座西3丁目の
1946年、銀座4丁目の和光とともに米軍に接収されて、銀座松屋は、PX(米軍兵士のための売店)になった。同年8月19日の朝刊には、その松屋で、久しぶりのチョコレートの山を前にして、満面の笑みを浮かべる子どもたちの明るい写真が載っている。売り場の壁には、「進駐軍への感謝を忘れないで」と貼ってあった。
そうした中で、1946年10月2日朝刊で、「米国式中華料理 銀座アスター復興開店
「米国式中華料理」とは、進駐軍向けに作られた料理なのだろうか? 「チャプスイ」って、どんなもの?
銀座アスター食品に聞いてみた。
「米国式中華料理」とは
チャプスイは、米国でアレンジされた中華料理の一つ。豚肉や鶏肉、あるいはハムなどの肉類とタマネギ、シイタケ、モヤシ、白菜などの野菜類を
起源には諸説あって、初期の中国系米国移民の出身地、山東省泰山で作られていた料理が原型とする説、19世紀に大陸横断鉄道工事に携わった中国人労働者のコックが発明したとする説などがある。
広く伝えられているのは、清朝末期の政治家、
評判は、ニューヨークから西海岸にも広まり、チャプスイ専門のレストランが流行。チャプスイは米国一の中国名菜になった。
料理名を大統領から尋ねられて、李は、「雑砕(チャプ・スイ)」と答えたが、実は「ザー・ホイ」が正しい、とも。
さて、銀座アスターの「米国式中華料理」の謎に戻る。
創業者の矢谷彦七は、20歳の頃、事務長として、横浜―ハワイ・サンフランシスコ航路の貨物船に乗って米国を見聞していた。その経験を生かし、バター会社を興し、さらに、1926年(昭和元年)、38歳の時に、銀座1丁目に、高級中国料理店「銀座アスター」をオープンさせた。インテリアもサービスも、斬新なアメリカン・スタイルを掲げ、チャプスイを看板メニューにしたのだった。サンフランシスコで食べたチャプスイこそが、銀座にふさわしいハイカラな料理と考えたわけだ。
表看板は「アスター」「ASTER」とカタカナとアルファベットで、袖看板は「亜寿多」と漢字で表記されている。1階はアメリカンムードの内装、2階は座敷にして宴会用コース料理を出した。開店告知のチラシは、矢谷自身がデザイン。中国服を着た給仕人がお茶を運ぶイラストの下に、「チャップスイー(料理)、ヌードルス(そば料理)、チャウメン(焼麺料理)」と記されている。「米国
開店当時のメニューを見ると、フカヒレ、
つまり、「米国式中華料理」は、昭和初めに導入されたもので、進駐軍向けに作られたものではなかった。
戦後、復興開店…本物のコーヒーの味を求めにぎわう
1945年3月の東京大空襲で、銀座アスター周辺はすべて焼け野原になった。
2002年に創業75周年記念プロジェクトでまとめられた『銀座アスター物語』によると、創業者の矢谷彦七は、跡地に「銀座アスターの土地」と書いた看板を立てていたものの、敗戦から1か月たった頃、娘の喜久子が現地を訪れると、雑草が伸び放題。粗末ながらもバラックを建て、商売を再開している店が多い状況を見て、彦七に再建した方がいいと迫った。家族会議を重ねて、彦七が銀行から再建資金30万円を引き出したのは、預金封鎖が行われるなんと1日前。1946年2月16日のことだった。
半年後の9月、跡地に平屋38坪の店舗が完成。まもなく、読売新聞に先の「復興開店 米国式中華料理」の広告を出している。
だが、物資統制で、主食や肉類の販売ができなかったため、実際に並べていたのは、かき氷やアイスクリーム、コーヒーなどだった。ガスは1日1-2時間しか使えず、砂糖も代用のサッカリンやズルチン。品質を落とすのを嫌った彦七は、コーヒーカップをデミタスにして5円で提供。さすが銀座で、本物のコーヒーの味を求める人がたくさんいて、店は結構にぎわったという。
「料理は出せなくても、広告を出して、復興開店したことを広く知らしめようとしたのでしょう。創業者の心意気が伝わってくる」と、同社では話している。
1949年6月1日、飲食店の営業が解禁になり、銀座アスターは、復興景気の宴会でますます繁盛した。1952年には日本橋に2軒目を開店、また、日本橋白木屋のれん街で、名物の
(銀座アスターの資料写真は、銀座アスター食品提供)
(読売新聞編集委員・永峰好美)