サイズは三尺、粋なデザインに
前回に続いて、江戸のメディアを席巻した銀座商人、
いまや日本文化を代表する伝統商品の一つとして取り上げられる「手ぬぐい」も、実は京伝が生みの親であること、ご存知でしたか?
江戸の初めのころ、町人たちはさまざまな大きさの反物の余り布を手拭きやほっかぶりなどにして使っていた。それを京伝が、「利用しやすいサイズ」に統一し「斬新なデザインを施して」流行させることを思いついたのだという。
まず、手ぬぐい普及のために京伝が仕掛けたのは、手ぬぐいデザインの展覧会だった。1784年(天明4年)6月、不忍池の某寺院で開かれた「
その斬新なデザインに、江戸っ子は驚き、たいへんな評判に。これを機に、手ぬぐいは、実用性とデザイン性をあわせもつ小粋な商品として生まれ変わったといえそうだ。
後世に残すため図録を出版
京伝のすごいところは、広く普及し後世にも文化として残すために、会に集まった手ぬぐい79点のデザインに短文を添えて、出品図録「たなぐひあはせ」を出版したことだ。
染絵手ぬぐいの第一人者、東京・浅草の老舗「ふじ屋」の川上桂司さんは、30数年前にこの図録と運命的に出会い、資料を元に30枚を復元した。
中でも、川上さんが最も好きなのは、復刻第一号として手がけた、
切り落としの幕の間からのぞかせている愛嬌のある顔は、百万両
艶次郎は、イケメンでもないのにたいそうなうぬぼれ者。傾城浮名との評判が広まることを望んで、ついに狂言心中を試みる。ところが、追いはぎに襲われて身ぐるみはがれてしまう。実は親が仕掛けた狂言で、ようやく目がさめ、浮名と結婚する――といった筋書きだ。
目尻がやや下がり、大きな獅子鼻、くったくのない笑みを浮かべるお坊ちゃま風の容貌は、江戸町人の典型的なデフォルメなのだろう。京伝のお気に入りでもあり、自己のシンボルとしても使っていた(本物の京伝は、鼻筋の通った色男だったらしいが)。
出品作者として、「
そのデザインは洒落の宝庫
「『手拭合』は単なるデザイン展ではない。三尺におさめた本邦初の手ぬぐい展であり、いわば木綿染めの浮世絵ともいえる斬新な企画展でもあった」と、川上さんは書いている。
京伝は、出品図録に続いて、1700年代後半、天明、寛政の時代、自らデザインしたものも含め、滑稽図案集の出版を手がける。「小紋裁」、「小紋新法」、「小紋雅話」など。ちょうど江戸の通人の間で、個性的な小紋を着こなすことがはやっていて、おしゃれをしながらくすりと笑える楽しさを演出するのが、京伝の目指すところだった。
たとえば、どんな小紋柄があったかといえば――。
黒地に鯨の目を白く染め抜いた「熊野染」。添え書きには、「古来より鯨帯といえることは聞けどくじらてぬぐいなきおば目くじら立て」とある。鯨帯とは、昼夜帯ともいい、鯨の黒い背と白い腹に似ていることから、片側が黒繻子、もう片側が白布の帯をいう。「めくじらは(横に飾って)立てない」としゃれて作ったもので、鯨漁で知られる熊野灘の名を付けている。
「いとし藤」は、ひらがなの「い」を縦に
「本田つる」は、鶴のデザインだが、角度を変えて上から見たつもりになると、あれれ、ちょんまげ姿のお侍さんが歩いている?
「口々小紋」は、いまの洋服デザインにもすぐに通用するような、おしゃれなキスシーンを想像させる。
これらのデザインは、川上さんが復元した「小紋雅話」手ぬぐいでみることができる。
浅草寺境内に机塚の碑
アートとデザイン、文学を上手に融合させた京伝にとっては、日常目にするもの、たとえば、犬の足跡も、足袋のこはぜも、また、鼻毛だってシラミだって、すべてがデザインの対象になった。
「見立ての妙といいましょうか。横から見る、斜めから見る、左から見て右から見る、さらには高さを変えて見る……。その発想の豊かさにはただ脱帽ですね」と、「京伝ラブ銀座研究会」の岩田理栄子さんはいう。
浅草・伝法院通りに近い「ふじ屋」さんを訪ねた帰途、浅草寺境内にある京伝の
56歳で亡くなった翌年の1817年(文化14年)、弟の京山が建てたもので、碑には「書案之紀」と刻まれていた。書案とは机のことで、9歳のときに寺小屋に入った際、父に買ってもらった天神机を生涯愛用したそうだ。
「耳もそこねあし(足)もくじけてもろともに 世にふる机なれも老いたり」と、歌に詠んでいる。
吉原を遊びまわったとされる洒落男の京伝の、意外と堅実な一面をみた思いがした。
(プランタン銀座取締役・永峰好美)