2010年9月アーカイブ

2010.09.24

手ぬぐい生みの親、山東京伝

サイズは三尺、粋なデザインに

  • 観光用の人力車が風景に溶け込む、浅草伝法院通り近くの手ぬぐいの老舗「ふじ屋」周辺

 前回に続いて、江戸のメディアを席巻した銀座商人、山東京伝(さんとうきょうでん)について、もう少し書きたい。

 いまや日本文化を代表する伝統商品の一つとして取り上げられる「手ぬぐい」も、実は京伝が生みの親であること、ご存知でしたか?

 江戸の初めのころ、町人たちはさまざまな大きさの反物の余り布を手拭きやほっかぶりなどにして使っていた。それを京伝が、「利用しやすいサイズ」に統一し「斬新なデザインを施して」流行させることを思いついたのだという。

 まず、手ぬぐい普及のために京伝が仕掛けたのは、手ぬぐいデザインの展覧会だった。1784年(天明4年)6月、不忍池の某寺院で開かれた「手拭合(てぬぐいあわせ)」である。京伝24歳のときで、京伝の妹、黒鳶(くろとび)式部の名で主催。出品者には、当代きっての浮世絵師や画家が勢ぞろいしたので、江戸の生活に退屈していた多くの大名がスポンサーになったらしい。

 その斬新なデザインに、江戸っ子は驚き、たいへんな評判に。これを機に、手ぬぐいは、実用性とデザイン性をあわせもつ小粋な商品として生まれ変わったといえそうだ。

後世に残すため図録を出版

  • 川上桂司さんが一番好きだという、京伝手ぬぐい復刻版第一号の艶次郎

 京伝のすごいところは、広く普及し後世にも文化として残すために、会に集まった手ぬぐい79点のデザインに短文を添えて、出品図録「たなぐひあはせ」を出版したことだ。

 染絵手ぬぐいの第一人者、東京・浅草の老舗「ふじ屋」の川上桂司さんは、30数年前にこの図録と運命的に出会い、資料を元に30枚を復元した。

 中でも、川上さんが最も好きなのは、復刻第一号として手がけた、艶次郎(えんじろう)の自画像だと、著書「染絵手ぬぐいに生きる」(明治書院)で語っている。

 切り落としの幕の間からのぞかせている愛嬌のある顔は、百万両分限(ぶげん)者の若旦那、艶次郎。京伝の黄表紙の中でも大ヒットした「江戸生(えどうまれ)浮気(うわきの)蒲焼(かばやき)」の主人公である。

 艶次郎は、イケメンでもないのにたいそうなうぬぼれ者。傾城浮名との評判が広まることを望んで、ついに狂言心中を試みる。ところが、追いはぎに襲われて身ぐるみはがれてしまう。実は親が仕掛けた狂言で、ようやく目がさめ、浮名と結婚する――といった筋書きだ。

 目尻がやや下がり、大きな獅子鼻、くったくのない笑みを浮かべるお坊ちゃま風の容貌は、江戸町人の典型的なデフォルメなのだろう。京伝のお気に入りでもあり、自己のシンボルとしても使っていた(本物の京伝は、鼻筋の通った色男だったらしいが)。

 出品作者として、「鴨鞭蔭(かものむちかげ)」と記されているが、川上さんは、染色に通じた京伝の作と信じている。

そのデザインは洒落の宝庫

  • (左)「めくじらは立てない」としゃれた熊野染、(右)「いとし藤」はよく知られた和柄

 「『手拭合』は単なるデザイン展ではない。三尺におさめた本邦初の手ぬぐい展であり、いわば木綿染めの浮世絵ともいえる斬新な企画展でもあった」と、川上さんは書いている。

 京伝は、出品図録に続いて、1700年代後半、天明、寛政の時代、自らデザインしたものも含め、滑稽図案集の出版を手がける。「小紋裁」、「小紋新法」、「小紋雅話」など。ちょうど江戸の通人の間で、個性的な小紋を着こなすことがはやっていて、おしゃれをしながらくすりと笑える楽しさを演出するのが、京伝の目指すところだった。

  • (上)鶴のデザインも角度を変えてみると……、(下)キスシーンなんて、おしゃれ

 たとえば、どんな小紋柄があったかといえば――。

 黒地に鯨の目を白く染め抜いた「熊野染」。添え書きには、「古来より鯨帯といえることは聞けどくじらてぬぐいなきおば目くじら立て」とある。鯨帯とは、昼夜帯ともいい、鯨の黒い背と白い腹に似ていることから、片側が黒繻子、もう片側が白布の帯をいう。「めくじらは(横に飾って)立てない」としゃれて作ったもので、鯨漁で知られる熊野灘の名を付けている。

 「いとし藤」は、ひらがなの「い」を縦に10()個並べて、その真ん中をひらがなの「し」で貫いた藤の花のデザイン。

 「本田つる」は、鶴のデザインだが、角度を変えて上から見たつもりになると、あれれ、ちょんまげ姿のお侍さんが歩いている?

 「口々小紋」は、いまの洋服デザインにもすぐに通用するような、おしゃれなキスシーンを想像させる。

 これらのデザインは、川上さんが復元した「小紋雅話」手ぬぐいでみることができる。

浅草寺境内に机塚の碑

  • 観光客でにぎわう浅草・浅草寺

 アートとデザイン、文学を上手に融合させた京伝にとっては、日常目にするもの、たとえば、犬の足跡も、足袋のこはぜも、また、鼻毛だってシラミだって、すべてがデザインの対象になった。

 「見立ての妙といいましょうか。横から見る、斜めから見る、左から見て右から見る、さらには高さを変えて見る……。その発想の豊かさにはただ脱帽ですね」と、「京伝ラブ銀座研究会」の岩田理栄子さんはいう。

  • 京伝の机塚は、浅草神社の裏手の駐車場にひっそりと

 浅草・伝法院通りに近い「ふじ屋」さんを訪ねた帰途、浅草寺境内にある京伝の机塚(つくえづか)の碑に寄ってみた。

 56歳で亡くなった翌年の1817年(文化14年)、弟の京山が建てたもので、碑には「書案之紀」と刻まれていた。書案とは机のことで、9歳のときに寺小屋に入った際、父に買ってもらった天神机を生涯愛用したそうだ。

 「耳もそこねあし(足)もくじけてもろともに 世にふる机なれも老いたり」と、歌に詠んでいる。

 吉原を遊びまわったとされる洒落男の京伝の、意外と堅実な一面をみた思いがした。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.09.17

銀座の天才マルチ商人、山東京伝

江戸のメディアを席巻

  • いつも着物姿の岩田理栄子さん。主催する銀座のおさんぽでは、呉服店で自らの着物も説明する

 その昔、江戸のメディアを席巻した山東(さんとう)京伝(きょうでん)(1761-1816)という銀座商人がいた。

 もともとは浮世絵師、最先端をゆく「黄表紙(きびょうし)」「洒落(しゃれ)本」の超売れっ子ベストセラー作家、脚本家、アートディレクター、歌舞伎衣装のデザイナー、イラストレーター、投資家、実業家……。肩書を数え上げると33もあったという、まさに天才マルチ商人だったそうな。

 その京伝に恋してやまない女性がいる。

 小欄の2009年4月3日付でご紹介した「銀桜まつり」の仕掛け人で、「銀座おさんぽマイスター」なる肩書をもつ岩田理栄子さんだ。

 岩田さんは、政府系の財団で十数年、女性を対象にした相談事業や編集企画に携わり、その経験を生かして、コミュニケーションスキルを磨くビジネスコーチとして独立した。もともと大の銀座好き。交流ができた経営者たちを銀座の街に案内し、銀ブラしながらコーチングしたところ、とても喜ばれた。

 「資生堂の福原会長がおっしゃっていることですが、銀座は、ご縁という『えん(円)』が流通して機能している、とてもユニークな商業の街。銀座を支えている人たちを掘り起こして、この街の魅力を多くの人たちに伝えたい、銀座の街を盛り上げるのに少しでもお役に立ちたいと思って、銀座のおさんぽイベントを定期的に開くようになりました」

銀座を歩いてご縁をつなぐ

  • 山東京伝に惚れこみ、「京伝ラブ銀座研究会」までつくってしまった岩田さん

 街歩きをしながら、老舗をはじめとするさまざまな店舗の主人と、銀座を楽しみたいと思ってやって来る人々の橋渡しをする。苦労話を聞いたり、実際にものづくりを体験してみたり。「私自身ご縁に助けられながら、またひとつ新しいご縁をつないでいくといった仕事をしています」(岩田さん)。

 銀座の歴史を調べる中で、京伝に出会った。そして、京伝に対するひたむきな思いは、周囲にいる銀座の経営者らをも巻き込んで、昨年、「京伝ラブ銀座研究会」という極めて私的な勉強会まで立ち上げてしまった。

 京伝といえば、私はまだ学生時代だったと思うが、井上ひさしさんの「手鎖心中」でその名を知った。

 京伝は、銀座中央通りに面した銀座1丁目のいまは外車の展示場になっているあたりで、「煙草入れ屋」を開業している。33歳のころだった。

 井上さんの小説では、「今流行の丁子(ちょうじ)入りや伽羅(きゃら)入りの刻煙草の調合もやって」いて、「うちとそとに人と活気が(あふ)れ、かなりの大店(おおだな)振り」とあり、人気店であったことが容易に推測できる。

商品に遊び心を加えて大ヒット

  • 京伝の「煙草入れ屋」があったとされる銀座1丁目付近

 作家として原稿料というものを受け取るようになったのは、世の中で京伝が最初らしい。とはいえ、収入は少なく、創作だけでは生活ができない。しかも、1791年(寛政3年)、洒落本3作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、見せしめに手鎖50日の処分を受ける。その謹慎生活のころから、商人京屋伝蔵の色彩が濃くなっていったようで、そのあたりのことは、京伝の研究家、小池藤五郎氏の「人物叢書 山東京伝」(吉川弘文館)に詳しい。

 それまで描きためた浮世絵を売って資金を作り、開業した。愛煙家で洒落者、赤や黄色の派手な羅宇(らう)を好んだ京伝のこと、商品デザインを自ら手がけ、店頭には、値の張る布製や皮製の煙草入れ、京伝張りの煙管(きせる)をはじめ、鼻紙袋、財布、楊枝入れ、短冊入れなど、豊富な種類が並んだ。通人、粋士のファンを増やし、京都や大阪などからも引き合いがあったという。

 注目すべきは、その売り方だ。

 「新形煙草入新店」という(すり)紙の広告チラシ(当時は引札という)を作り、芝愛宕神社の縁日でまいた。チラシには、謎絵入りの文章が書かれていて、これを解読するのに人々は夢中になった。謎絵というのは、たとえば、ちょうちんの絵を逆さにして「珍重(ちんちょう)」、老僧の絵を逆さにして「(そうろう)」と読ますなど、京伝流のしゃれ言葉が随所に散りばめられたものだった。

 店頭では、煙草入れをこの摺紙に包んで売ったので、摺紙見たさに、煙草もよく売れた。また、よく当たると評判の愛宕神社のおみくじをおまけで付けたりもした。

現代に通じる偉大なマーケッター

  • 「煙草入れ屋」跡地の隣には、銀座に珍しく煙草屋さんが……。なにかのご縁?

 「煙草入れ屋」跡地の隣には、銀座に珍しく煙草屋さんが……。なにかのご縁?

 さらに、友人の浮世絵師・歌麿や戯作者の曲亭(きょくてい)馬琴(ばきん)に店を取材させ、彼らの作品の中にそれとなく登場させるなどして宣伝に努めた。こうした仕掛けで、京伝の店は「行列のできる店」として知られるようになったのだ。

 このころ、恋女房のお菊を病で失う不幸に見舞われるが、商売は大成功。相当の資力ができたようで、近くの土蔵付きの医者の売家を買い取った。家の前には竹を植え、垣をめぐらし、門には「山東庵」の額をかけ、隠者めかした構えだったという。

 「草双紙の作は、世を渡る家業ありて、かたはらに、なぐさみにすべきものなり」を地でいく一生だった。

 「人が何かをほしいと思っているとき、無意識の欲求に訴えかける物語を作れる人でした。京伝は今でいえば、立派なマーケッター。その輝く生き方は、21世紀の私たちに楽しい啓示を与えてくれます」と、岩田さんは強調する。

 将来、銀座を舞台にした映画を製作するのが、岩田さんにとって夢なのだとか。そこには、乙粋な羽織を肩に引っ掛けた色男の京伝が、ヒッチコック映画のように、ちらりと横顔をみせるのかもしれない。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.09.10

歴史薫るチェコ雑貨

捨てられない手紙

 中身の大半は、新聞記者時代の取材メモと資料。ネットで検索して即プリントアウトできる時代ではなかったので、いつか必要になることがあるかもしれないと、複写した書類をどっさり蓄えてきたのである。

 文書管理のプロの間では、仕事で使う文書のうち捨てられるものが5割で、いつも手元に置いておいた方がいいものは2割に過ぎないとの経験則があるそうだ。

 先日、心を鬼にして、「書類ダイエット」に挑んだ。それでも、最後に絶対に捨てられないものが残った。

 記事を読んで感想を送ってくださった読者からの手紙だ。

 「感動した。こういう話をどんどん紹介して」という励ましの手紙もあれば、「あなたの考え方に異議申す」との厳しいご指摘の封書もある。

 「記事に勇気づけられました」とつづっていたDV(ドメスティックバイオレンス)被害者のA子さんは、シェルターから自立して元気で暮らしているだろうか?

雑貨ハンティング

  • 衝動買いしてしまったブリキの置物

 私にとっては、まさに「お宝」の手紙。何にしまっておこうかと迷ったあげく、プランタン銀座にあるこだわりの輸入文房具をそろえた「スコス」で手ごろなものを見つけた。

 7月30日付の小欄で、ボールペンと鉛筆の専門店「五十音」の話題を書いたが、その際、銀座には一般的に文房具探しのための散策ルートがあって、その一つが「スコス」であるとご紹介した。

 コーヒー色に白の水玉柄の愛らしいトランク型収納ボックスはチェコ製で、1680円。丈夫な紙でしっかり作られている実用性も気に入った。

 前回プラハの旅についてつづったが、実は、プラハは、愛らしい雑貨ハンティングにはうってつけの街だった。

  • (上)プラハの路地裏の雑貨ショップは、キュートな動物たちでいっぱい、(下)色とりどりの鉛筆が美しくディスプレイされている

 路地裏の小ぢんまりしたショップをひやかしてまわるのは楽しい。扉を開ければ、タイムマシンに乗って子ども時代にひとっ飛び。木製の動物のミニチュアやら、色とりどりの筆記具やら、ちょっと古ぼけた絵本やポスターやら……。ほっと懐かしい気分に浸らせてくれる。ブリキで作った女の子ミツバチの置物があまりにキュートで、即購入した。

権力に屈しないチェコ人の誇り

  • (左上)マリオネットには、チェコ人の魂が宿る、(右上)旧市街広場にたたずむフス像は、チェコ人の誇りとか、(左下)「プラハの春」の舞台になった新市街のヴァツーラフ広場、(右下)ほのぼのとした空気を運んでくれる魔女人形

 ハプスブルク家の統治下でチェコ語が禁止されていた時代でも使用が許可されたマリオネットには、チェコ人の魂が宿っている。不気味なもの、ユーモラスなもの、いろいろあるが、フェルトを使った素朴なつくりの魔女人形は、ほのぼのとした空気を運んでくれた。

 15世紀、カトリック教会の堕落を批判して火あぶりの刑に処せられた当時のカレル大学総長、ヤン・フスはチェコ人の誇りだという。フス像が静かにたたずむ旧市街広場から新市街のヴァーツラフ広場へ。ここは、「プラハの春」と呼ばれた市民運動の舞台である。権力に屈しないチェコの人たちの気概は、1989年のビロード革命へとつながる。

100年間変わらず愛されるカフェ

  • 左上)共産主義博物館の入口は、マクドナルドのテラス席から通じる、(右上)博物館に並ぶ社会主義リアリズムの絵画群、(下)社会主義時代のチェコの小学校の教室を再現

 旧市街との境をなすナ・プシーコピェ通りから一歩入ると、マトリョーシカ人形の看板が目に付いた。よく見ると、歯をむき出し、目をつり上げている。

 標識に促されていくと、そこは、共産主義博物館。社会主義時代のチェコの小学校の教室が再現されていたり、社会主義リアリズムの絵画や彫刻が展示されていたり。

  • (左)百年変わらないカフェ「カヴァールナ・ルツェルナ」(右)カフェのメニューもやはりレトロ

 「どんな歴史もすべてありのままに残す」といった思いが伝わってくる。それにしても、博物館の入口が、資本主義の象徴ともいえるマクドナルドのテラス席から続いているのは、計算された皮肉なのだろうか。

 博物館のスタッフに、「近くに100年変わらないカフェがあるから行ってみたら」と勧められた。

 ハヴェル元大統領の祖父が設計した「カヴァールナ・ルツェルナ」。その優雅な佇まいは100年前の当時とまったく変わらないと聞いた。

 ゆったり流れる時間の中で、私は、この街の懐の深さに感じ入った。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.09.03

「魔法の都」プラハにて

ビールで蘇る旅の記憶

  • 日本でも人気のある「ピルスナー・ウルケル」(「銀座 ガス灯」で)

 これだけ猛暑が続くと、普段はワイン派の私も、ぎんぎんに冷えたビールをぐびっと飲みたくなる。

 銀座3丁目、ガス灯通りにある「銀座 ガス灯」というバーには、世界各国のこだわりビールがそろっている。チェコのビールを求めて出掛けてみた。

 ありました!

 今ではビールの主流になっているピルスナースタイルのオリジナル、「ピルスナー・ウルケル」。

 黄金色に輝く外観、口に含むと、はじけるような炭酸の刺激に加えて、ホップのさわやかな苦味が広がる。その余韻を楽しみながら、いっとき、この夏のチェコ旅行に思いをはせた。

 8月のプラハ行きを思い立ったのは、プラハを舞台にした小池真理子さんの小説「存在の美しい哀しみ」(文芸春秋)を読んでからだ。

 プラハを描く「第一章 プラハ逍遥」には、たとえば、こんな文章がある。

 「プラハには、中世がそっくりそのまま息づいている。さかのぼった時間の中の風景が、街のいたるところに変わらず生きている。彫刻、尖塔、三角屋根、ドーム型の屋根、赤い屋根、青い屋根……それらすべてがちまちまと、愛らしく小さく、渾然一体となって立ち並んでいる」

パリ経由、プラハへ

  • プラハの「王の道」の起点になる火薬塔
  • (上)プラハの心臓部ともいえる旧市街広場、(下)様々な様式の建物が秩序を保ちつつ混在している

 パリ経由でプラハに到着すると、もう夜9時を過ぎていた。旧市街にあるホテルにチェックインして、すぐ街に飛び出した。そして、5分も歩かないうちに、小池さんの描いた「プラハ」を感じることができた。

 プラハの街は、ヴルタヴァ川をはさんで右岸と左岸に分かれ、右岸に旧市街と新市街、左岸に小高い丘に建つ美しいプラハ城とマラー・ストラナ地区(小地区)がある。シンプルな街の地図は、すぐに頭に入った。

 私のホテルは「火薬塔」のすぐそばにあった。「王の道」と呼ばれる約2500メートルに及ぶ歴史的な道の起点でもあり、14世紀ごろから数世紀にわたり、歴代の王の戴冠パレードが行われてきたところである。

 かつては城壁の門として活躍した黒い塔は、17世紀に火薬倉庫として利用されるようになり、現在も「火薬塔」の名で親しまれている。

 古くから商人たちの交易ルートとして栄え、今はみやげ物店でにぎわうツェレトゥーナ通りを抜けると、プラハの心臓部ともいえる旧市街広場に出る。「王の道」は、この先、カレル橋を渡って対岸のプラハ城まで続く。

 広場を印象深くしているのは、天空を刺すようにそびえる2本の尖塔が特徴的なティーン教会をはじめとして、ゴシック、ルネサンス、バロックなど、この街の歴史をつくってきたあらゆる様式の建物群だ。異なる時代、デザインが混在しているにもかかわらず、すべてが整然と、秩序を保って存在している。

 「愛らしく小さく、渾然一体となって立ち並んでいる」――まさに、そんな表現がぴったりだと思った。

ビール消費量世界一の国

 私の驚きは、路地裏にあった。人の波から逃れるように、ティーン教会の裏の路地に入る。赤茶けた壁に無造作に張られたレトロなポスター、薄暗いショーウィンドーに並ぶ哀愁を帯びたマリオネットたち……。

 石畳の道は、折れ曲がり、カーブを描き、迷路のようにどこまでも続き、カフカの小説にでもあるような不可思議な世界に引き込まれる。シンプルさと複雑さ、秩序と混沌。ヨーロッパの「魔法の都」とは、この街の印象を実によく表している言葉である。

 再び広場に出ると、カフェのテラスで、ビアホールで、夜遅くまでビールのジョッキを傾ける陽気な人々の光景があった。

 国民1人当たりのビール消費量世界一のチェコ。チェコ人は日本人の3倍も飲んでいる。どんな田舎に行ってもその土地の地ビールがあり、チェコ人にとっては、生活必需品ともいえるだろう。

  • 迷路のように続く石畳の路地を散策
  • 夜遅くまでビールジョッキを傾ける人々でにぎわうカフェ

チェコを代表する2つのビール

  • 旧市街のビアレストラン「ウ・メドヴィドクー」は昼間から客足が絶えない
  • (左上)チェコは列車の旅が楽しい、(右上)米国の「バドワイザー」の名前の由来になったブドヴァイザー・ブドヴァル、(左下)駅で缶ビールを買って、車内に、ブドヴァイザー・ブドヴァルのお膝元、(右下)チェスケー・ブデェヨヴィツェ駅
  • 「世界で最も美しい街」と形容されるチェスキー・クロムロフ

 冒頭でご紹介した「ピルスナー・ウルケル」を置いている店はとても多い。19世紀なかば、プラハの南西にあるピルゼン(プルゼニュ)で誕生したので、現地では「プルゼニュスキー・プラズドロイ」ともいう。

 この土地で育つ大麦とホップの質が高く、また、ヨーロッパでは珍しくアルカリ度の低い軟水で酵母との相性がよかったため、それまでの濃褐色のビールとは異なる、黄金色のピルスナービールが生まれたのだという。

 翌日は、チェコでもう1つ有名なビール、ブデェヨヴィツキー・ブドヴァル(またはブドヴァイザー・ブドヴァル)を飲ませる旧市街のビアレストラン「ウ・メドヴィドクー」に行った。

 米国の有名ブランド「バドワイザー」の名前の由来になったといわれるビールである。ビール通ではないけれど、芳醇なホップの味わいが強調され、深いコクがあることはわかった。私の知っている「バドワイザー」とは、まったく異なる美味しさだった。つまみに豚肉のローストを注文したところ、ビールがどんどん進んだ。

 さてその翌日、「世界で最も美しい街」と形容されるチェスキー・クルムロフを目指し、プラハ駅から列車に乗って移動した。約3時間半の列車の旅で、途中チェスケー・ブデェヨヴィツェで乗り換えたのだが、ここが13世紀半ばに創業したブデェヨヴィツキー・ブドヴァルのお膝元だと聞いた。さっそく駅で缶ビールを購入。きりりと引き締まったホップの苦味が忘れられない。

 石畳の迷路の記憶が懐かしくなったら、また、チェコビールを飲みに繰り出すことにしたい。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)