2011年2月アーカイブ

2011.02.18

銀座でB級ご当地グルメの旅

コシと旨み、吉田のうどん

  • ビニールシートで覆われた屋台風の「B級グルメ村 ギン酒場」

 焼きそば、おでん、カレーに餃子……。いまや全国各地にB級ご当地グルメがあふれている。

 「安くて旨い」はもちろんだけれど、どの皿にも、「幼いころから親しんできた味」をいとおしく誇りに思い、大切にしている土地っ子の「地元愛」がたっぷり詰まっているのが特徴だろうか。

 その人気のほどを競い合うイベントが、年1回開催される「B級ご当地グルメ!B-1グランプリ」だ。年々盛り上がり、昨年は2日間で40万人を超えるファンが集まった。地域活性化の救世主としても注目されている。

  • ひときわ目立つ赤い幟が目印に

 来場者が使った割り箸の総重量で順位を決めるのだが、昨年は、甲府鶏もつ煮が1位のゴールドグランプリを獲得したのは記憶に新しい。

 私が最近現地で味わって感激したのは、同じ山梨県富士吉田市の「吉田のうどん」。

 発祥といわれる店ののれんをくぐると、土間を囲むようにして座敷があって、田舎の親戚を訪ねた時のような温かな雰囲気だ。お品書きはない。かけうどんとつけうどんの2種類のみで、「あったかいの」などと言って注文する。

 聞けば、江戸時代、富士山詣での人々に昼間だけ居間を開放してうどんを供していたのが始まりで、いまも看板のない民家風の店舗が多いそうだ。

 太くてコシの強い手打ち麺で、かめばかむほど旨みが広がる。トッピングのゆでキャベツの甘みがしょうゆベースの濃い目の汁とマッチして、シンプルだけれども味わい深い。

金沢名物「ハントンライス」

  • 懐かしくもやさしい味の金沢名物「ハントンライス」

 ご当地グルメは、もちろん、現地を旅してその土地のいわれや伝説などを教わりながら食するのが一番だが、なかなか訪ねる機会がない場所もある。

 そんな折、改築中の歌舞伎座近くの東京・銀座3丁目に、「B級グルメ村 ギン酒場」がオープンしたのを知った。「築地銀だこ」など全国に300店以上のチェーン店を展開する会社の経営で、そのネットワークを生かし、各地のスタッフから寄せられる情報でメニューを決定しているという。

 ランチタイムにのぞいてみた。「ご当地グルメ」の赤い(のぼり)に誘われて、祭り提灯が揺れる中、ビニールシートで覆われた店内に入ると、サラリーマン風の男性が多い。

 ランチメニューは月替わりで、今月は、金沢市の「ハントンライス」、帯広市の「帯広豚丼」、岡山市の「デミカツ丼」の3種類。どれも780円。隣りの男性が食べているのを見て、迷わず「ハントンライス」を選んだ。

 ケチャップで味付けしたバターライスの上に、とろり半熟の薄焼き卵をのせた、オープンオムライスのよう。卵の上からもケチャップをかけ、タルタルソースを添えた海老フライが2本。ケチャップの甘みとタルタルソースの酸味とが微妙にからみ合って、美味しい。現地では、オヒョウなどの白身魚のフライをのせているのが基本だそうだ。

まかない料理にヒント

  • 店内にあったB級グルメマップ

 元祖の店は、金沢にはもうない。1960年代、当時東京にもあった「ジャーマンベーカリー」が金沢に出店する際、洋食のシェフが考案したのが始まりといわれる。パプリカとバターで味付けしたご飯に、残り物のマグロのフライなどをのせた、まかない料理からヒントを得た。金沢店の人気メニューになり、市内の洋食店にも広まっていったようだ。

 「ジャーマンベーカリー」といえば、プラネタリウムのある渋谷の東急文化会館(2003年に閉館)にあった。メレンゲたっぷりの甘酸っぱいレモンパイ、酸味がさわやかなライブレッド、肉汁がじゅわっとしみ出るハンバーガーも大好きなメニューだった。懐かしい味が思い出される。

 ちなみに、「ハントン」とは、料理にパプリカを多用するハンガリーの「ハン」に、フランス語でマグロを意味する「トン」を合わせた造語という説が有力だ。

 夜は居酒屋メニューで、銚子のさばカレーや飛騨高山の漬物ステーキ、岡山のホルモン焼きうどんなどが食べられる。

そばつゆ×シャンパンの意外なマリアージュ

  • 居酒屋メニューも充実。欲を言えば、もう少し珍しいものも紹介してほしいけれど

 ところで、B級グルメ好きなワインライター、葉山孝太郎さんから教わったシャンパンとB級グルメの意外な組み合わせを一つご紹介したい。

 市販の濃縮そばつゆを好みの量の水で薄めて、天カスと刻みネギを散らす。このそばつゆをちびりちびりなめながら、休日の昼下がり、シャンパンを飲むぜいたくな時間に、最近私ははまっている。そばつゆのような発酵系の液体はシャンパンと相性がよいのだ。

 名人になると、カップ入り天ぷらそばの粉末スープを水に溶き、同封の天ぷらを割り入れて肴にするという。

 私はまだ名人の域には達していない。ご興味あれば、ぜひ試してみてください。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2011.02.10

日常と幻想が交錯するイラストレーター、小林系

下描き・修正なしの「落書き」

  • 「Note Book」の表紙は、自身のイメージなのだとか
  • 「088」ボールペン・水彩

 「まだ知名度はないかもしれないけれど、デッサン力があって、私は紹介されて、一目ぼれしてしまいました……」

 プランタン銀座のギャラリーを担当するスタッフが、ちょっと興奮した声で教えてくれた。

 今回は、小林系さんという若手イラストレーターについてご紹介したい。

 昨年5月に初めて出版した画集「Note Book」(飛鳥新社)が好評で、先般、平成22年度の文化庁メディア芸術祭で「マンガ部門」の審査委員会推薦作品に選ばれた。

 この作品集、小林さんが日々描きためたスケッチブックをそのまま本にしたもの。ボールペンと少しの筆ペンを使い、下描きも修正もまったくせずに、描き切った「落書き」というが、これが迫力があってすごい。

 鳥とともに空を飛ぶ少女、回遊する無数の魚たち、風に歪む街並み、喫茶店でくつろぐ女性、自動販売機、幾何学模様のような星のまたたき、世界を埋め尽くす矢羽……。日常の空間と幻想の世界が縦横無尽に交錯して、どこか浮遊しているような不思議な感覚を覚えるのだ。

画が持つ、巧さを超えたなにか

  • 「無題」 クレヨン・カラーインク

 ページをめくるごとに、新しいイメージが現れ、突然物語が始まったり、日常のたわいない風景がはさまれたり。自由に筆を走らせているのだろうが、幾重にも連なる繊細な線の流れは濃密で、心地よい緊張感さえ与えてくれる。

 画集の監修者、イラストレーターの綿貫透さんによれば、「手の訓練というよりは全体的に思考している感じ。落書き一枚が完成されている」との評。

 画集の紹介文には、来日したフランスの人気漫画家メビウスが、何度も「傑作!」と叫び、「画は巧さを超えたなにかを表すことがある。この画にはそれがある」と感嘆した、とあった。

 小林さんは、専門学校でデザイン・イラストを学んだあと、スカウトされたゲーム会社で3年ほど働き、今はフリーランスで活動している。

 「幼いころから絵本の模写をしたりして、何がしか描いていましたね。特技は?と聞かれたら、絵くらいしかない。専門学校に進んだのは自然の成り行きです。漫画の『スラムダンク』が好きでバスケットボール部に入ったり、結構ミーハーなところもありました」

ほとんどは喫茶店で

  • ジャングルジムの繊細な描写

 仕事の合間に思いついたものを描き続けたスケッチブックは7冊ほど。今回はそのうちの3冊をまとめた。ほとんどは、チェーン展開している喫茶店で描いた。画集の最初の方のページに、ジャングルジムを描いた印象的な作品がある。写生でもしたのだろうと思わせる線の組み立てなのだが、これも喫茶店で描いたのだという。

 「綿貫さんと一緒に、話をしながら描いたり。結局8時間くらい長居してしまうこともありました」

 喫茶店はぼーっと人間観察をするには絶好の場所。世間に発表するつもりで描いたわけではないので、「意識して格好つけている画ではないんです」。

 ジャングルジムの中心にいるのは、スーツにソフト帽の大人の男性。子どものころの楽しい思い出でも巡らせているのだろうか。

 そんなイメージを伝えると、「うれしいです」とにっこり。

 「確かに、子どものころ、ジャングルジムに上るのが好きでした。作品を見た人にイメージを語ってもらうと、ああ、その通りだなあと思うし、そこからまたイマジネーションがわくんです」

「ミカンを人にたとえると」

  • ボールペンを取り出して、私の似顔絵を数分でささっと描いてくれました

 小林さんの絵には、必ず人が描かれている。「人が好きですね。相手と話すことで気づかせられることがたくさんあるので、おしゃべりするのが好きです。描いているのが動物であっても、その動物との対話は人間の言葉で聞こえてくる。ミカンを描くときも、まず『人にたとえると』って考えます」

 尊敬するのは、ゲームソフト「ファイナルファンタジー」のビジュアルコンセプトデザインを担当した天野喜孝さん。小学生の時に雑誌のポスターで見て、『何だろう、これは!』と衝撃を受けたそうだ。

 そんな小林さんが、2月16日から28日まで、プランタン銀座本館6階の「ギャルリィ・ドゥ・プランタン」で、初の個展を開く。原画、版画を中心に、線画の美しさを活かしたトートバックやTシャツ、ポストカードなどのグッズも販売する。

 ちょっと不思議な「系ワールド」を体験してみませんか?

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2011.02.04

幕末の探検家・松浦武四郎と「一畳敷」

 松浦武四郎という幕末の探検家の名前を知ったのは、学生時代のことだった。

 東京・三鷹にある私の母校、国際基督教大学(ICU)は、アメリカの大学のキャンパスを小ぶりにしたような雰囲気があるのだが、構内の雑木林の中にひっそりと、ひなびた感じの茶室風建物がある。「泰山荘」と呼ばれていた。

 北海道の名付け親、松浦武四郎が、人生最期を過ごすのに選んだ場所だと聞いた。学生時代は、演劇部にいた友人がここで発声練習をするのに付き合って、私は傍らで本を読む静かな時間を楽しんだりした。

 のちに、ICUに在籍されたコロンビア大学教授のヘンリー・スミスさんの著書「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」(1993年)で、その全貌と、武四郎の興味尽きない人生を知ることになるのだが……。

一畳敷の小宇宙

  • 「東西蝦夷山川地理取調図」の十勝平野周辺図

 東京・京橋のINAXギャラリーで、「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷展」が開かれていると知り、出掛けてみた(2月19日まで)。

 会場には、武四郎が造り上げた「一畳敷」が写真パネルを使って立体的に再現されており、その中に身を置くことができる。「一畳」という広さが、私たち人間にとってちょうど身の丈が収まる心地よい空間であることを改めて教えられた。

 武四郎は「草の()」と名付けたが、明治の評論家、内田魯庵は「好事の絶頂」と呼び、人々は、部屋として最小限の広さであることから、「一畳敷」といって親しんだ。

 松浦武四郎は型破りな才人といわれ、生涯をかけて日本全国を旅し、山に登り、海峡を渡り、240を超える著作を残している。生家は、現在の松阪市、伊勢街道沿いにあり、幼いころから、お伊勢参りの旅人を目にしていたことが旅への憧れと好奇心を育んだといわれている。

 17歳より諸国を遍歴、27歳までに東北~九州間を制覇。その後、日本の国防を憂いて、領土を正確に把握するために蝦夷地調査へと、フットワーク軽く向かう。

 和歌や篆刻(てんこく)にも優れ、各地の文物を蒐集した趣味人でもあった。吉田松陰は武四郎を盟友とし、「奇人で強烈な個性の持ち主」と評している。明治政府より開拓判官に任じられたが、政府のアイヌ政策を批判して辞任するなど、反骨の人でもあった。

北海道の名付け親

  • 北海道の動植物を詳細に記した「久摺日誌」 ここではイトウが描かれている

 歩幅による距離の把握に長け、文字を持たなかったアイヌ民族の生活や風習、土地で出合った珍しい動植物なども「野帳(のちょう)」と呼ばれる小さなフィールドノートに克明に記録した。6度の探検の成果は、この莫大なる記録をもとに、「久摺(くすり)日誌」「北蝦夷余誌」などの紀行本や蝦夷地図にまとめられ、広く世間に紹介した。明治に入って蝦夷地に変わる地名を提案、「北海道」と名付けたのも彼だった。

 特に地図に関しては、伊能忠敬と間宮林蔵によって輪郭線は測量されていたが、その内部は未開拓で、彼はアイヌ民族と協力して入り組んだ川の流れや地形の詳細を明らかにした。会場に展示された「東西(とうざい)蝦夷(えぞ)山川(さんせん)地理(ちり)取調図(とりしらべず)」は貴重な実物。経緯度1度で1枚という大判で、26枚組み。9600字にも上るアイヌ語で地名を書き入れた緻密さは目を見張る。

 武四郎の目線はいつも温かく、アイヌの人々に対する敬意の念を忘れていない。たとえば、漁業においては短い網を用いるなどして乱獲に配慮する、熊など神と崇められる生き物については、捕獲後は神の世界へ送り戻す儀礼を執り行うなど、その自然に対する姿勢を尊重している。また、魚についても詳細な記述が目立ち、「味よろし」など、ちょっとお茶目な感想も記している。

 アイヌの人々と同じ食べ物を食べ、アイヌ文化への敬いの心で接した武四郎に、アイヌの人々も随分と信頼を寄せたようだった。

古材の由来「木片勧進」に

  • 「一畳敷」の書斎に使われた古材の由来をまとめた「木片勧進」

 ところで、「一畳敷」がなぜICUキャンパス内に残るのか、少々解説を加えておこう。

 武四郎は旅に生きた人生を締めくくるかのように、東京・神田五軒町の住まいをついのすみ家として選び、その東側に、8年の歳月をかけて書斎を設けた。一畳だけで完結した空間はかつてなく、「自らの創作である」と自負していたそうだ。

 古稀を迎える一大事業として取り組み、完成したのは明治20年(1887年)。旅をきっかけに知り合った人々から情報を収集し、由緒ある木片を部材として集めた。古材の出所は、北は宮城県から南は宮崎県まで、その数91に上るという。奈良の吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居や伊勢神宮の遷宮で取り替えられた木材なども含まれていた。友人たちから「銘木の一片が出る」との文が届けば、これを取り寄せ、時には、その地に出掛けて探すこともあった。

 古材の由来とどこに用いたかは図面とともにまとめ、「木片勧進」として出版している。人付き合いを好む武四郎は、時折この一畳敷に人を招き入れ、「木片勧進」を開きつつ、来歴について語り聞かせたりもしたそうだ。武四郎の経験は、幕末の志士たちにも大きな影響を与えたといわれている。

ICU祭では「泰山荘」一般公開

  • 「北蝦夷余誌」では、北方民族の生活を紹介

 一畳敷の完成から1年余の明治21年、武四郎は71歳で生涯を終える。「木片勧進」には、死後はこれを壊し、その古材で亡骸(なきがら)を焼いて、遺骨は大台々原に埋めてほしいと記してあったが、遺族は取り壊さずに自邸とともに残した。

 一時、徳川家が営む図書館「南葵(なんき)文庫」に移築されたが、昭和の初めに日産財閥の実業家、山田敬亮に譲渡。跡地は中島飛行機の工場を経て、戦後ICUとなり、キャンパス内に保存されることになったのである。

 ヘンリー・スミス教授は、今回の展示インタビューの中で、「武四郎の人生は、一点から出発してだんだん広がり、長崎や蝦夷地にまで延び、そして最後は縮んでいく。人生の締めくくりとして、原点を見つめようとしたのだろう。私も古稀を迎える年齢になり、その気持ちがわかるようになった」と語っている。

 さて、毎年秋のICU祭では、「泰山荘」も一般公開されている。一畳敷の小宇宙に、久しぶりに身を置いてみたくなった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)