震災後、外国人観光客の姿がめっきり減った東京・銀座だったが、先週末は久しぶりににぎわいが戻ってきた。
10月14日まで開かれた国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会に訪れた人たちのおかげらしい。国内外から約2万人が参加したといわれる一大イベントが持つ経済波及効果の大きさを改めて実感した。
総会の会場となった、丸の内の東京国際フォーラムと日比谷の帝国ホテルのほぼ中間点、銀座・数寄屋橋交差点にあるソニービル外のイベントスペースには、日本の深まる秋を表現するフラワーゲートが飾られた。
銀座の町会などで組織する全銀会が設置した観光案内カウンターでは、日本語のほか英語と中国語を話すスタッフが対応に追われた。1日あたり100人以上の外国人が立ち寄ったという。「すしを食べたい」「芸者を見たい」「日本らしいおみやげが買えるのはどこ?」。様々な問いかけに、てきぱきと答えていた。
外国人に「銀座のおもてなし」
外国人に特化した「銀座のおもてなし」を大規模に展開したのは初めてのことらしい。銀座の名店といわれるバー30店舗では、「銀座カクテルナイトウィーク」を企画。ギムレットやマティーニなど、8種類のグラスをそれぞれ1500円で提供した。
私は、銀座5丁目の三笠会館の地下にある「バー5517」に行ってみた。この期間限定で特別に創作された「モダン・トウキョウ」を注文する。
国産ウィスキー(ここではサントリーの「響」12年ものを使用)をベースに、フランボワーズのリキュール、アマレットを加え、最後にレモンを一絞り。繊細で強すぎず、きりりと引き締まった味わい。「エキゾチックで日本的な味わいを表すことができたのでは」と、バーテンダーさんは言っていた。
着物の着付けやお茶席体験など、日本の伝統文化に関心を寄せる外国人も少なくなかった。
明治11年(1878年)創立、北村透谷や島崎藤村らが学んだことで知られる中央区立泰明小学校の校庭には、「こども歌舞伎」の舞台が設置された。事前予約でほぼ満席と聞き、のぞいてみた。
銀座は、江戸歌舞伎の発祥の地。来春には、現在改築が進む新生歌舞伎座が完成する。
ここで、江戸歌舞伎の歴史を簡単にひも解いてみよう。
こどもでも“銀座力”で本格仕様
江戸歌舞伎は、出雲の
続いて、村山座(のちの市村座)、山村座、森田座(のちの守田座)などが興業を始めた。17世紀後半の元禄年間には、最初の隆盛期を迎え、数多くの名優が活躍する。荒事を創った初代市川團十郎、江戸和事の名手の初代中村七三郎らがいた。
中村座、市村座、森田座の3座を「江戸三座」と呼ぶが、新富座は、森田座の流れをくむ。天保の改革で一時浅草へ強制移転されたが、明治5年(1872年)に再び銀座近隣の新富町に戻り、「新富座」と改称。文明開化の象徴としてもてはやされたガス灯を使った劇場で、9代目市川團十郎が新史劇に取り組むなど、演劇界の発展に大いに貢献した。現在京橋税務署などの建物が建つ新富2丁目には、由来を記した説明板が掲げてある。
「このように、江戸時代には、銀座周辺にいくつもの芝居小屋がありましたし、明治には歌舞伎座も開場する。歌舞伎は庶民の暮らしの文化として根付いていた。私のおじいさんたちの世代は、日常の会話の中に歌舞伎の台詞がさりげなく出てきました」と話すのは、新富町に住む日本舞踊(藤間流)師範の諸河文子さん(65)。
「それに、歌舞伎座周辺の東銀座には、今も、衣装やカツラや舞台の大道具など、歌舞伎にまつわる専門の会社がたくさんある。伝統芸能の宝庫の中に暮らしているのに、次の世代にこうした町の情緒が受け継がれないのは寂しいなと思っていました」
そこで考えたのが、こども歌舞伎。滋賀県・長浜のこども狂言(歌舞伎)などを参考にした。
近隣の小学校や町会に話を持ちかけ、「新富座こども歌舞伎」を旗揚げ、2007年に初公演が実現した。以来毎年メンバーを
余裕の笑顔、「踊るのは楽しい」
今回の演目は、一座のおはこでもある、「
泰明小学校をはじめ、中央区内の小学校に通う1年生から6年生までの男女約20人が登場した。今年6月から稽古を始めたという。舞台が終わって感想を聞かれた子どもたちは、「あまり緊張しなかった」「台詞を覚えるのはそんなに難しくなかった」「踊るのは楽しい」「これからもやりたい」など、余裕のある笑顔で答えた。
たいこやおはやしなどを担当した、お父さんやお母さんも初舞台の人が少なくなかった。大人たちの方が緊張していたのかもしれない。
「幅広い世代の人たちが楽しめる舞台にして、大都会の町芝居として定着させていきたい」。諸河さんの夢はふくらんでいる。
(読売新聞編集委員・永峰好美)