消費社会をリードする“都市の触覚”
節電・省エネ、環境配慮、安心・安全、協力・連帯、社会貢献型消費……。最近の消費事情について考えると、そんなキーワードが思い浮かぶ。
では、ひと昔前を振り返ってみると、どうだろうか。
高度成長期の1960年代は、黙っていても消費者はモノを買ってくれる時代。70年代に入って、「人とはちょっと違う自分仕様の」プラスアルファの付加価値思考が登場。80年代のバブル期はマーケット自体が拡大し、百貨店を含む小売業界全体の売り上げがぐんと伸びた。と同時に、「横並び消費」から脱却し、高額品、ブランド品を買うことで地位を顕示するといった「ステータス消費」というのも話題になった。
こうした大衆消費社会をリードしてきたのは、都市の触覚だった小売業である。店頭に並ぶ商品が流行を生み、広告が気分を醸成し、新しいライフスタイルや価値観が個々人の生活へと浸透していった。また、社会に進出し経済力をつけてきた女性たちが、買い手としても売り手としても市場をリードし、注目された「女性の時代の到来」でもあった。
その象徴ともいえる「三越」と「パルコ」。両者の広告や文化活動などをクローズアップした特別企画展「WOMEN on the TOWN~三越とパルコ、花開く消費文化」が、東京・汐留のカレッタ汐留地下の「アド・ミュージアム東京」で開催されている(入場無料、10月10日まで)。
1970~80年代は、空前絶後の広告の黄金期。この間に広告費は7倍にも急伸、気の利いた一行のフレーズで一世を
パルコ誕生「女は明日に燃えるのです」
ミュージアム会場でまず目に飛び込んでくるのは、1970年代の渋谷パルコと東京・渋谷公園通りの風景である。
渋谷パルコがオープンしたのは、1973年。オープン告知のポスターのキャッチフレーズは、「女は明日に燃えるのです」。黒人モデルのアミーナ・ワースバの訴えかけるような強い眼差しが深く印象に残っている。
続いて、1975年、国連の国際婦人年の年には「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」、翌76年には「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」……時代に挑戦し、切り拓いていこうとする女性たちの気概が、強いメーッセージで伝わってきた。アートディレクター、石岡瑛子さんが造るアグレッシブな個性が光っていた。ふと、元セゾングループ代表で作家の辻井喬さんが、「ポスト消費社会のゆくえ」(文春新書)で、「パルコが企業広告の大事さを広めてくれた。西武(百貨店)はそれに追随していけばよかった」と振り返っていたのを思い出した。
77年には、渋谷公園通りの歩道に赤いおしゃれな公衆電話のボックスが設置された。パルコ正面の広場には、突然自由の女神像が立ったり、トレビの泉がわきあがったり、ウォールペインティングやパロディアートが展開されたり。「何か新しいことが起こる」というわくわく感が、多くの若者たちをひきつけた。
その中に、もちろん、私もいた。
当時大学生になった私は、ギリシャ語やラテン語を学び、神秘学や占星術の本などを読みあさる、不思議な学生でもあった。夏休み、ひょんなきっかけで、パルコでタロット占いのブースを期間限定で受け持ったことがある。黒いレースの怪しげなロングドレスに身を包んで臨んだのだが、「よく当たる」と、それなりに評判になった。パルコの担当スタッフも一緒に面白がって運営してくれたことが、うれしかった。
パルコの広告ポスターといえば、もう一人、忘れられない人がいる。イラストレーターの山口はるみさんだ。
天才の”山口はるみさん
山口さんは、1969年にパルコ1号店が池袋にオープンした時から1997年まで担当し、数多くの作品を残している。エアブラシを使った繊細で流れるように美しい描写、透明感のある色彩、そして、描かれる女性たちは健康的でちょっぴりセクシー、いきいきと生活をエンジョイしている姿が魅力的だった。「はるみギャルズ」と呼ばれ、横尾忠則さんの監修で作品集もまとめられ、そのうちの何点かはニューヨークの近代美術館にも所蔵されている。
ちょうど来館していらした山口さんに、幸運にも話を聞くことができた。
「特に思い出深い作品は?」と水を向けると、まず、池袋パルコ時代の初期の作品、真紅のインテリアが強烈な「170の専門店が発信地PARCO感覚。」(1972年)と、妊婦を登場させて話題になった「パルコ感覚は遺伝するか、しないか。」(1973年)を挙げてくれた。
「自分できれいに切り抜いたファッション誌のページをたくさん束ねていて、その中からイメージをふくらませていくのです。一瞬一瞬のリアルな動きを表現するのに、自分でからだを動かして四苦八苦、なんてこともありました」
そして、1977年夏のシーズンポスターは語り継がれる名ポスターになった。プールの水面に浮かべたマットで、またプールサイドで、まどろむ2人のビキニの女性たち。男の姿は見えない。「健康な倦怠感が夏のリッチな無為を表現」(広告ジャーナリストの岡田芳郎さん)しており、自由で奔放で、いかにも心地よさそうだ。
「この作品を見て、つかこうへいさんが『山口はるみを認めた』と言ってくださったのが、うれしかった。芝居の後の打ち上げにもよく呼ばれて、冗談まじりで、『天才のはるみさん』なんて紹介してくださるの。劇団の若い人たちは、何だろうと思っていたでしょうけれどね」と、山口さんは語った。
富と消費が価値のバブル時代
さて、思い入れのあるパルコの部分で、行を割きすぎた。
展示は、1673年(延宝元年)、三越の前身、越後屋が江戸本町1丁目(現在の日本橋)で創業したシーンから始まる。
1905年(明治38年)には、三越(当時は三越呉服店)が初めて、「デパートメントストア宣言」を主要新聞に掲載する。「当店販売の商品は今後一層その種類を増加しおよそ衣服装飾に関する品目は一棟の下にてご用弁相成り候よう設備いたし、結局米国に行はるるデパートメント、ストーアの一部を実現致すべく候事」といったもので、以後、三越は、大衆消費社会において文化の本流をつくる役割を果たした。
1911年(明治44年)、懸賞金を付けて募集したポスター図案は、新しい感覚の婦人像が話題を呼んだ。1等賞金1000円というのは、当時の総理大臣の月給と同じだったそうな。
「今日は帝劇 明日は三越」と、楽しい時間を過ごすショッピングの場としての百貨店が人々の生活に定着してきたのは、大正の初め。1915年(大正4年)に、グラフィックデザイナーの先駆者ともいえる杉浦非水が「春の大売出し」用に制作した「エンゼル」は、蝶の大胆なデザインが斬新なアールヌーボー調だった。
その杉浦非水は、日本のPR誌の先駆けであった「花ごろも」など歴代雑誌の表紙を飾っている。
最後のコーナーには、1950年(昭和25年)、百貨店初の三越オリジナル包装紙をデザインした、猪熊弦一郎画伯の原画があった。当時三越宣伝部員だった、漫画家のやなせたかしさんが、画伯のデザインに、「mitsukoshi」のロゴを書き入れている。
展示会に寄せて、社会学者の上野千鶴子さんは、「だれもが同じものを求めたわかりやすい同調社会。富と消費とが価値であった物質主義の時代。バブル時代に一世を風靡したディスコ、トゥーリアのお立ち台で、めいっぱいお洒落した女たちが踊り狂ったように、大衆社会の神殿である百貨店が用意した舞台に、女たちはのせられ、また自らのった。そしてそれが、歴史上たぐいまれな商業広告の達成をもたらしたことも事実なのだ」(アド・スタディーズ2011年夏号)と、評している。
「一億総中流の横並び社会」などと揶揄されてきたあの時代、どこに向かっていくのかわからないけれどエネルギーがみなぎっていたあの時代。振り返ると、ほっと温かい気持ちになるのは、私だけだろうか。
(プランタン銀座常務・永峰好美)