新年早々、東京・銀座のギャラリーで開かれた一つの素敵な企画展のことを、会期は既に過ぎてしまったけれどもご紹介したい。
銀座2丁目のギャラリー・アートグラフの「富岡
富岡畦草さんは、同じ場所で時系列的に写真を撮り続けて時代の変化を記録するという「定点観測式撮影法」の先駆者。新聞社のカメラマンの傍ら、戦後占領期の人事院から依頼されて復興期の日本、特に高度成長期の東京の変貌をカメラに収めてきた。
「作家の新田次郎さんを訪ねる機会があって、定点観測のアイデアを話したら、『そりゃ面白い。やってみなさい』と言われて意を強くした」のだそうで、1952年(昭和27年)から始めて、撮影した数は40万コマを超える。87歳の現在も現役で取材を続ける。「敗戦国日本が二度と道を踏み外さないように見守るのも、生き残った人間の責任」と、変わる東京の景色を日々見つめている。
記録写真
富岡さんの作品で特徴的なのは、我が子の成長を時間軸にしていること。風景の変化とともに家族の表情がしっかり写し込まれている。たとえば、「日本橋と家族」と題された1963年3月3日撮影の写真は、高架の首都高速道路建設前の貴重な記録写真。富岡さん姉妹と母親の3人が、日本橋を渡って三越に向かうところのようだ。記録写真は、家族の大切なメモリーとも重なる。
「私自身も、幼い時から子ども用のカメラを持たされて、何でも記録するようにと教えられました。どこを向いても家の中は写真ばかり。まさに写真に囲まれて育ったと思います」と、三智子さん(55)は話す。
三智子さんは、その後東京芸大の日本画科に進み、プラチナ箔と墨を使って陰影を付けるオリジナルの「プラチナ画」を生み出した。今回の親子展では、畦草さんが1959年に撮影した東京駅丸ノ内駅舎の現在の姿を、三智子さんが絵画で表現豊かに描いており、その新旧対比もユニークで面白い。
「まずは父の写真ありきですが、その撮影場所に立って時間の経過について思いを巡らせていると、どういう手法であれ、記録することの大切さに改めて感じ入りますね」と、三智子さん。
記録することにこだわるのは、硫黄島出身の母親の体験とも関係している。中学生だった母親は、硫黄島の戦いで守備隊指揮官だった栗林忠道中将に水などを提供した。その時残された言葉は、「いつか日本人にこの状況を含めて伝えてほしい」だったという。
銀座風景今昔展
企画展の副題に「銀座風景今昔展」とあるように、1950~60年代の銀座の写真がまとめて見られるというのも貴重な機会だった。
1953年12月29日、百貨店の松屋屋上から撮影したのは、皇居の森から国会議事堂まで見渡した風景。バラックが軒を連ねる銀座の上空を、アドバルーンがいくつも泳いでいる。
60年2月26日、銀座4丁目の三越の屋上から三愛ビルを
「銀座の街は大好きでしたね。デパートのきらきらしたショーウィンドーに魅せられて、10歳でデザイナーを夢見る少女でした。街を
三智子さんは、7年前、I型糖尿病から合併症を併発し、透析を続けながら約20年間闘病生活を送った姉の初恵さんを亡くした。姉の看病を通じて知った京都大学の山中伸弥教授のプロジェクトに共感し、今回の企画展で販売した作品の収益は、同教授が設立した「iPS細胞研究基金」に寄付する。
「おかげさまで、建築学科に進んだ娘も写真を勉強して、『おじいちゃまの記録写真はバイブル』と言っています。こうした自然なカタチで次世代に引き継ぎ、未来につなげていくことが何よりも必要だとも思うのです」。三智子さんの言葉に力がこもった。
(読売新聞編集委員・永峰好美)