東京・銀座にとって4月は、桜の季節というより、柳の季節である。
柔らかい黄緑色の若葉が風に吹かれて、そよと揺れる。風まかせ、か。春のしだれ柳を見ていると、なんだかやさしい気持ちになってくるのは、私だけだろうか。
「昔恋しい銀座の柳」と、
明治初期、
銀座の人々の「柳」に対する思いは強かった。終戦の翌年、46年4月の「銀座復興祭」で、銀座4丁目に柳が復活する。復興祭にあわせて「花咲く銀座」という歌謡曲も作られたようで、「春の東京はどこから開く 芽ふく柳の銀座から」とうたわれた。
戦後の柳並木の復興
柳は、戦後の銀座において、復興の象徴でもあった。銀座8丁目の高速道路の高架下近くには、54年建立の「銀座柳の碑」が残る。そこには、西條八十がやはり昭和初めに作った「銀座の柳」の詞が刻まれている。
だが、その後も銀座の柳の受難は続く。55年、街路樹として、イチョウやスズカケなどとともに柳も植えられたのだが、生育が思わしくなく、68年の銀座通り大改修事業で、共同溝を建設するに伴い、ほとんどの柳が撤去されてしまった。
再び柳並木が復活するのは2006年春、西銀座通りだった。1丁目から8丁目までの約1キロに約200本の柳を植える8年がかりの事業が完成したのである。その年、「銀座柳まつり」も復活し、今年で9回目になる。
柳並木の復興に尽力した1人、西銀座デパート社長だった柳沢政一さんに話を聞いたことがある。
「子ども心に歌で聞いて育った銀座の柳がどこにもないのは寂しい。大学が神田で、柳の下の銀ブラ・デートとしゃれこんだ楽しい思い出もあった。広々として昔の風情が残る銀座には、柳がやっぱり似合うんだ」。当時87歳の柳沢さんが目を輝かせて語ってくれたのを思い出す。
銀座に「怪盗ルパン」出没
読売新聞の記事で銀座の戦後を調べていたら、46年4月の復興祭後、段々と店先に物資が出回る中、銀座を騒然とさせる興味深い事件が発生している。
「怪盗ルパン」の出没である。1947年8月22日の朝刊記事によれば、犯人と思われる男性は、銀座2丁目の美術店を襲い、陳列してあった象牙の彫り物(時価10万円)のほか、下駄箱から靴7足、また、物干しにあったタオルと靴下を取って逃げた。そして、応接間の窓ガラスの格子に、鉛筆で「黒ルパン、ルルパン」の落書きを残していた。
続報で、「近日中にまたお伺い致します、留・留凡より」という脅迫状が同店に舞い込み、警戒のために店を閉じたという。当時、「怪盗ルパン」だけでなく、この手の事件が頻発しており、「美術・宝石類の売買が盛んになったのに目をつけた犯罪が増えている。犯人検挙に大々的に力を入れる」と、京橋署はコメントしている。
怪盗ルパンといえば、夜会服をまとい、シルクハットに片眼鏡のイメージが強い。そのイメージ通りの看板を掲げるのが、1928年(昭和3年)に開店し、戦災をくぐり抜け、今も続く銀座5丁目の「バー・ルパン」だ。
開店に際して、
太宰治もその1人で、「ルパン」で、写真家の林忠彦が撮影した写真をたいそう気に入っていたらしい。
48年6月13日、太宰は、玉川上水で、愛人の山崎富栄と心中に及ぶが、その前に、山崎宅に仏壇を作り、自分と富栄の写真を飾った。48年6月16日の読売新聞朝刊には、その仏壇周りの写真が掲載されていて、「ルパン」ですっかりくつろいでいる太宰の笑顔が印象的である。
「ルパン」がある銀座5丁目
さて、10年近く連載してきた「GINZA通信」は、今回で終了します。
2005年9月から読売新聞夕刊で始めたコラムを、2009年4月にヨミウリオンラインに移し、両者を合わせると約400回。それだけ銀座には、魅力的な話題が尽きないということでしょうか。伝統と品格を保ち、日々変化を受け入れながら進化を続ける銀座の街で、たくさんのすてきな人々との出会いがありました。
銀座を愛する1人として、これからも進化する銀座をしっかりウォッチしていきたいと思います。銀座ファンのあなたとは、きっとまたどこかでお会いすることになるのでは……。
本当に長い間、ご愛読いただきまして、ありがとうございました。
(読売新聞編集委員 永峰好美)