11月に読売新聞夕刊で連載した「銀座の職人」を11月23日付けから5回に渡り、小欄に再録した。そこでも記したが、東京・銀座は、明治5年(1872年)の大火をきっかけにモダンな町並みに生まれ変わるまで、木造平屋の古い長屋が連なる「職人の町」でもあった。
大火をきっかけに煉瓦街が建設され、明治政府の文明開化政策に後押しされて、銀座はまったく新しい街に生まれ変わったという印象が一般的には強いのではないだろうか。確かに、当時の新聞や錦絵を見ると、円柱とバルコニー、ガス灯、街路樹、鉄道馬車、洋装の官員・貴婦人など、時代の先端を行く街の様子が描かれている。
では、それまでの銀座はどうなってしまったのだろうか。明治時代の職人の話を知りたいと文献を探していたら、「明治の銀座職人話」(青蛙房)が約30年ぶりに新装版として復刊されていることを知った。それによると、当時の銀座人の多くは、依然として職人的な仕事をしていて、変化を受け止めながらも、さして江戸時代と変わらない生活をしていたようである。
編著者は、東京・中央区の統括文化財調査指導員の野口孝一さん(79)。野口さんの著書「銀座物語」(中公新書)には、銀座の歴史を調べる際に今までも随分お世話になっている。
段ボール1箱分のメモ
「明治の銀座職人話」は、銀座4丁目で天保元年(1830年)創業の
浅野さんは1978年に81歳で亡くなられる。野口さんは、ふとした縁から浅野さんのご遺族からメモを入手することになり、内容は断片的ではあるが、当時の証言として貴重なものも多々含んでいるので、書物にまとめることにした。
折り込み広告の裏などを利用して書かれてたメモは、段ボール1箱分ほどもあった。「メモは、驚くべき記憶力に支えられていました。感傷におぼれず、素朴でそれでいて丁寧な文章でした。書物にまとめる際も、メモの体裁をそのまま生かしつつ、足りない部分を文献や関係者に当たって私が補筆することにしました」と、野口さん。
東京・銀座について書かれた本はたくさんあるが、その多くは文献に頼り、または外からの観察で、銀座に生まれ銀座に育った人の証言というのは意外に少ないのだそうだ。
「繁華な表通りから一歩入った横町や路地裏の住人の生活を観察していたのが、浅野さんでした。明治の銀座を通して見た東京庶民生活史として位置づけられると思います」と、野口さんは解説する。
たとえば、銀座通りの街並みを紹介する章をたどってみよう。
ぶっきら棒な棒屋に金払いの渋い財閥…
銀座1丁目西側角にあった読売新聞社についての記述から始まる。煉瓦造りの2階建てだが、バルコニーはなかった。以前は上州佐野藩出身の西村勝三のハイカラな洋服屋だったが、西村はメリヤスや軍靴の製造など手を広げていて、洋服屋はうまくいかなくなり、新聞社に譲ったらしい。現在この場所には、都市銀行の支店が店舗を構えている。読売新聞社はやがて西紺屋町の現在百貨店プランタン銀座がある銀座3丁目に移った。
読売新聞社の裏手には、天秤棒、太鼓のばち棒など棒と名の付く物はなんでも取りそろえた棒屋があったそうな。「さすが棒屋で、客に対してぶっきら棒であった」などと記されている。読売新聞社隣には、京橋勧工場。洋品、小間物、袋物、おもちゃなどを売っていた。「盆暮れの大売り出しのときには、通りに面した2階バルコニーで楽隊や
1丁目から4丁目へ、谷沢鞄店、越後屋呉服店、明治屋、大倉ビル、十字屋楽器店、三枝商店、教文館、御木本真珠店、服部時計店、松島眼鏡店、伊東屋文具店など、今も残る商店名が登場する。
大倉ビルの所有者大倉組は、新潟出身の大倉喜八郎氏が率いる財閥。明治維新の動乱期に鉄砲や弾薬の売買で大もうけした。浅野さんの秋田屋のお得意でもあったらしい。「11円の請求書を持って行っても、払うのは9円50銭。負けるのが当たり前だろうと言わんばかりで、職人を軽く扱った」と、少々腹立たしげに記している。
野心に燃え商才発揮
明治時代の銀座には、ユニークな店主も少なくない。2丁目にあった岸田
もう一人、文房具の伊東屋の隣にあったのが、「天狗煙草」で有名な岩谷商会。店主の岩谷松平は銀座の奇人の一人に数えられていた。薩摩藩の出身、西南戦争で焼け出され、薩摩屋という店を出し、薩摩
「変化のある明治の銀座には、一攫千金を夢見て、野心に燃えた人が集まってきたのでしょう。個性のはっきりしている主人が多くて、興味は尽きません。江戸時代の銀座の歴史についてももう一度掘り起こし、銀座通史を完成させたい」と、野口さんは語っていた。
今年も銀座を中心にした話題(ときに脱線しましたが)にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。来年は1月11日にスタートしますので、引き続きご愛読ください。では、よいお年を!
(読売新聞編集委員・永峰好美)