2011年10月アーカイブ

2011.10.28

築80年、奥野ビルに刻まれた女性の軌跡

 アーティストらによる「306号室プロジェクト」

  • 1932年に竣工された奥野ビルディング

 昭和レトロな建築として知られる東京・銀座1丁目の奥野ビルディング(旧銀座アパートメント)のことは、小欄でも何度かご紹介してきた。

 その一室、3階の306号室が、10月30日まで公開されている。「80年にわたり銀座の街を見続けた奥野ビル⇔銀座アパートの歴史探検」という企画展の一環。

  • (上)3階306号室の入り口(下)美容室の看板は故郷の秋田の親戚の手元へ。原寸大プリントが飾ってある

 主催しているのは、「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」というアーティストたちの非営利団体だ。

 プロジェクトの解説は、こんな文でつづられている。

 「奥野ビル3階の薄暗い廊下には、『スダ美容室』という小さな看板が掲げられていました。しゃれたデザインで、往時の雰囲気をそれとなく伝えるものでした。しかし、少なくともここ十年ほどは、周囲を見渡しても美容室らしきものは見あたりません。たぶんこのフロアのどこかで開業していた美容室が店を閉め、看板だけが残されたのでしょう。しかしそうした経緯はさておき、実体としては存在しない美容室の、雰囲気だけをしっかりと伝えるこの看板それ自体は、なんともなぞめいていて大変印象に残るものでした……」

昭和初期の香り残る美容室跡

  • 玄関口には大きな鏡

 306号室の住人は、秋田県出身の美容師、須田芳子さんだった。1932年(昭和7年)に竣工したアパートにまもなく入居して、「スダ美容室」を開いたのである。

  • 丸い鏡が3つ。美容室の雰囲気がそのまま残る

 戦争をはさみ、昭和の終わりまで仕事を続け、銀座のバーに勤めるホステスさんたちから、相談相手としても随分と慕われていたらしい。いっとき、シャンプーなど美容関連商品の製造販売などにも手を広げ、事業家としても活躍したようだ。美容室を閉じてからもこの部屋に住み続け、2008年、100歳で亡くなられたという。

 現在は、モダンな都市生活のシンボルだった奥野ビルの魅力にとりつかれているアーティスト10人が集まって、家賃を分担しつつ、部屋を維持している。幸いにして、須田さんが亡くなられて遺品整理が終わった直後、修繕などの手が加わらない前に借り受けることができたので、昭和初期の雰囲気がそのまま受け継がれている。

 部屋の維持といっても、遺跡のように部屋を保存するというのではなく、映像やインスタレーションなど、さまざまな分野のアーティストがここで行動を起こすことで、先人が残したものとつながり、さらに未来に向けて発展していければ――そんなことを期待した実験的なプロジェクトである。

 306号室の玄関口から入ってみよう。

銀座で生き抜いたキャリアウーマン

  • 美容師として活躍していたころの須田さん(右)
  • (左)奥に着付けに使ったらしき空間が広がる(右)美容室の常連客のインタビューが流れる
  • 水道台の上に水分摂取を促す注意書きが……

 控えの間(恐らく美容室時代には待合室、折り畳み式ベッドの設置跡もうかがえる)、鏡の間、そして押入れ(着付けのスペースとして使っていたようだ)などが、コンパクトにまとまっている。

 剥離しつつある壁、丸い鏡、水道台……美容師の国家資格を取って上京し、銀座の地で頑張ってきた一人のキャリアウーマンの軌跡が、その一つひとつに刻まれている。水道台の脇に、「なるべく水分を沢山摂ってください」との貼紙が残っている。須田さんは、ヘルパーさんの手を借りながら、凛として晩年を過ごされたのであろう。

 待合室でおしゃべりに興じる戦前の女性たちの写真が残されていた。髪を整える美容室は、女性たちにとって社交の場でもあり、その中心に、須田さんはいたのである。

 昭和の雰囲気を醸し出すためか、テレビはブラウン管仕様。そこには、奥野ビルで生まれ育った人やスダ美容室のかつての常連客などへのインタビュー映像が流れていた。

 「着付けが上手で、親子三代で通いました。明るくて、話がとても上手」「昔は、卵の殻なんか使ってシャンプーしていたわよ」……。皆が楽しそうに思い出を語っていた。

現代と戦前――交錯する景色

  • ガラス窓の向こうは、今はオフィスビル
  • 奥野ビルの出入り口のすぐ脇にあるアンティーク屋さんの丸いショーウィンドー

 「ここで、アンティーク本などを販売してみるのも面白そうだね、なんて、今回初めて306号室を訪問した人たちからも次回につながるさまざまなアイデアが出ました」と、同プロジェクト関係者は話す。

 暮れ行く秋の夕方、ガラス窓を通して陽光が微妙に変化していく景色が美しい。

 地上6階、地下1階の鉄筋コンクリート造りの銀座アパートメントでは、戦前まで、眼下に三十間堀川が見え、水上バスが行き交う光景が広がっていたはずである。川の先には、隅田川や東京湾が望めたことだろう。

 モダニズムの香り漂う都市空間を作り出していた銀座にふさわしい、しゃれたライフスタイルが、このアパートメントでは繰り広げられていたのである。

 ノスタルジックな気持ちになって、奥野ビルを出る。出口のすぐ横にあるアンティーク屋さんの丸窓をのぞきながら、須田さんの部屋の鏡のことをぼんやり思い出していた。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.10.21

江戸時代から続く「べったら市」

恵比寿講へのお供え

  • 「銀座若菜」本店の店先で紹介されている「なごり柿」
  • 参拝者でにぎわう日本橋本町にある寶田恵比寿神社

 粋な江戸味の漬物で知られる、東京・銀座7丁目の「銀座若菜」本店の店先には、旬の野菜や果物を使った季節の一品がそれとなく紹介されている。

 今の季節は、「なごり柿」。皮付きダイコンのうまみに柿の甘さがほんのり合わさり、さわやかな味わいだ。オレンジと白の鮮やかなコントラストも食欲をかき立てる。

 「なごり柿」と一緒に案内されていたのが、東京名物「べったら漬」であった。そう、東京は「べったら市」の季節でもある。

 開催日は、10月19日と20日の2日間限り。日本橋本町にある寶田(たからだ)恵比寿神社の門前に広がる市が有名だ。銀座から地下鉄に乗って15分余、市をぶらりとのぞいてみた。

 「べったら市」の起源は、江戸中期にさかのぼる。10月20日の恵比寿講にお供えするため、前日19日に参道周辺に市が立ち、打ち出の小槌や懸け鯛などの縁起物に加えて、魚や野菜などが売られた。時代を下るにつれてにぎわいを増して規模が拡大、江戸を代表する年中行事の一つになった。

威勢よく「べったら、べったら」

 恵比寿様は商売繁盛、家族繁栄のとても身近な神様である。

 この市でいつのころからか売られるようになったのが、浅く塩漬けしたダイコンを米こうじの床に本漬けしたもの。

 人々は縄で縛っただけのこのダイコンを手にぶら下げてそぞろ歩いたが、衣服にうっかり触れると、粕がべったりついてしまう。

 祭りのために着物を新調した娘たちは、汚したくないので、べったら漬を持つ人に出会うと避けて通るのに一生懸命。その様子を見て、男たちは、「べったらだ~、べったらだ~」と叫びながら、着物の袖に付けようとからかうのであった。

 店側もそれに便乗して、「べったら、べったら」と威勢よく客を呼び込んだので、「べったら市」と呼ばれるようになったという。ちなみに、十五代将軍徳川慶喜もべったら漬をたいそう好んだらしい。

 そして現在も、寶田恵比寿神社の門前のにぎわいは変わることなく、数百もの露店が軒を連ねる。

  • べったら漬の老舗、東京新高屋の前は人波が絶えない

 やはり人気は、創業80年を超える老舗の東京新高屋。昭和天皇にも献上されたべったら漬の名店だ。

 いくつかのべったら漬の店の試食をはしごしながら、食べ比べをするのは楽しい。皮付きか皮なしか、歯ごたえ、甘みの加減やら滑らかさの具合などが微妙に異なる。

 「ダイコンの首の部分は少し硬めで、真ん中は甘め。しっぽの方はちょっと辛めなんだよ」と、部位ごとに特徴があることも教えられた。う~ん、意識して食べてみると、実に面白い。私の場合は、歯ごたえのある首の部分が好み、である。

 売り手も買い手も比較的年齢層が高い。そんな雑踏の中で、「展示をご覧になってくださ~い」と、ひときわ甲高い声が聞こえてきた。

  • 飛ぶように売れていくべったら漬
  • 試食をはしごすると、漬物の微妙な味わいが段々わかってくる

女子大生考案「セロったら」

  • 跡見女子大学のブースも登場

 跡見女子大学で食とマーケティングを学んでいる女子大生のブースがあった。べったら市の歴史や漬物の作り方などをパネル展示している。

 促されて、くじを引いたら、なんと大当たり! 白地にうりざね顔のべったらちゃんがゆるいタッチで描かれたTシャツを持ち帰ることに。

 「女子大生が考えたべったらレシピ」なるものもいただいた。イチオシを尋ねたら、「簡単で、お酒のおつまみに最高ですよ」と「セロったら」を勧められた。

 細長く刻んだべったら漬けと、斜め薄切りにしたセロリをあえて、しょうゆを適宜たらし、味がなじんだらでき上がり。最後にかつお節をまぶします。

 べったら漬の歯ごたえとセロリのしゃきっとしたみずみずしさ。なるほど、このコンビネーション、斬新だ。

名人芸、バナナの叩き売り

  • 長い行列ができていた「幸運の小槌」の店頭
  • (左)わが地元、恵比寿神社のべったら市(右)バナナのたたき売り。300円で15房をゲット!

 もう一つ、長い行列ができていたのが、「幸運の小槌」なるお店。

 たこ焼きや焼きそば、射的やスマートボールなどの露店が並ぶ中で、かなり異彩を放っていた。占い師らしき女性が一人ひとりの運勢をみながら、金色に輝く幸運の小槌とやらに、プチサイズの恵比寿様や大黒様やカエルなどを入れていく。さて、いつか一振りすれば、小判がザックザク……かな。

 ところで、この2日間、わが地元の東京・渋谷区の恵比寿でも、べったら市が開催されていた。

 寶田恵比寿神社に比べると、何十分の一といった小さな規模だが、えびす太鼓の軽快な音が街に響き、いくつか大道芸が催されるなど、祭り好きの地元っこで盛り上がっていた。

 久方ぶりに、バナナの叩き売りの晃玉さんの姿を見た。威勢のいい声に促され、「300円!」で「買った!」。

 江戸の粋は健在である。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.10.14

落語家・古今亭菊千代さんが咲かせた大輪の花

  • フォーク酒場「風街ろまん」のオータムライブは銀座のパーティースペース

 ギターを弾きながら歌うことができるフォーク酒場が、最近人気だと聞いた。客は40~50代のサラリーマンを中心に、元気な“アラ還”世代の姿も目立つ。

 その象徴的な存在ともいえるのが、東京・新宿区の「風街ろまん」。ちょい弾きオヤジの巣窟として知られている。

 常連さんたち、風街オールスターズがバンドを組んで、年に一度、会場を銀座に移して開催する「風街ろまんオータムライブ」も、今年で10回目。舞台のあるパーティースペースを借り切って、40組80曲、9時間のロングライブである。

 その案内には、こうあった。

 「今までのライブで演奏したフォークの楽曲は数えたら655曲、しかし……よくもまぁ……飽きもせず……いつまでも青春をやってる中高年が……昭和の化石が……いるものですねぇ! 本当にびっくりですねぇ。70年代がオヤジに与えた多大なる影響かな?」

 曲目を少しだけ紹介してみると――「二十歳になったら」「田園」「卒業写真」「真冬の帰り道」「けれど生きている」「学園天国」「眠れない夜」「飲んだくれジョニィ」「関白宣言」「どうしてこんなに悲しいんだろう」などなど。“おとな世代”にとっては、思わず口ずさんでしまう曲ばかり。

 10月初めの週末のライブ、私は、先日十数年ぶりに再会した落語家の古今亭菊千代さんが出演するというので、出かけてみた。そう、風街オールスターズには、女性もいるのです。御歳55歳。同い年である。

披露宴の翌朝「結婚、やめましょう」

  • ちょい弾きオヤジの晴れ舞台。9時間のロングライブです

 今回のライブでは、「学園天国」など2曲を熱唱、さらに、オヤジたちと組んでドラムスまで担当した。いや、高座に上がるときとまた違った、若干緊張感漂う引き締まった表情……カッコよかった!

 菊千代さんは、1993年に先輩の三遊亭歌る多さんとともに、女性落語家として初めて真打ちに昇進。現在は浅草演芸ホールや上野鈴本演芸場などでの定席出演のほか、東京拘置所で話し方教室を毎月開催するなど、多彩な活動を続けている。

 初めて菊千代さんを取材したのは20年ほど前で、真打ちになる数か月前のことだった。その時に聞いたエピソードは忘れられない。

 当時からさかのぼること、10年前。東京の出版社のOL5年目の春、思いを寄せてくれる人がいて、とんとん拍子で結婚話が進んだ。式の1週間前、ふとしたことから彼の小さなウソがばれた。

 学歴とか、ゴルフの趣味とか。少し不安になったが、いつかゴメンねと言ってくれるだろうと思って、披露宴に臨んだ。

 仲良しの友人に囲まれての二次会、三次会。酒が入って気が大きくなったのか、彼のウソがエスカレートしていった。

 そして……寂しくなった。

 明け方、ホテルの部屋に戻って、菊千代さんは切り出した。

 「結婚、やめましょう」

 相手は度肝を抜かれたようだったが、話していくうちに納得し、最後は笑顔で別れたという。

 取材から数日後、菊千代さんが大好きな(はなし)の一つ、「芝浜」を聞きながら、このエピソードが頭を離れなかった。女房のウソで酒好きの亭主が立ち直るといった人情噺。ウソもつき方によっては、男女の絆を強めることになるのに……。

古今亭圓菊師匠に無理やり弟子入り

  • ドラムスを担当した菊千代さん

 菊千代さんが落語に夢中になったのは、20歳のころ。小さい時から人前に出るのが好きだったのに、中学でも高校でも、学園祭の芝居で主役になれなかった。もっと美人で、もっと演技の上手な子がいたからだ。

 大学に入り、友人に誘われて入ったのが落語研究会。一人で何役もできて、どちらを向いても主役。こりゃいい、と思った。

 2年間稽古に励み、「落語家になりたい」と研究会が招いたプロの噺家(はなしか)に相談したが、「ダメダメ、若い女は入門しても男と噂になってすぐ辞めちゃう」と、とりつく島もない。ならば、いつか落語の本を作ろうと、出版社に就職したのだった。

 そして、あの「幻の結婚」騒動以来、決断は早くなった。会社に辞表を出して、好きな古今亭圓菊師匠を追いかけ回す。東京・新宿の末広亭の裏でつかまえたのは、それから10日後。翌日師匠の家に呼ばれたとき、「もう年くっていて結婚にも失敗したから、女でも続けられます」と食い下がり、「断られたら、9階のベランダから飛び降ります」とまで言って、弟子入りを果たした。

見事に咲いた、大輪の菊の花

 前座を4年、二ツ目を5年、そして、女性初の真打ちに。当時、「女っていうだけでの大抜擢」などと口の悪い落語家仲間から揶揄されたこともあったが、「だって、本当にそうなんですもの」とさらりと受け流していたことを、私はよく覚えている。

 インタビューの最後を、彼女はこんな言葉で締めくくった。

 「きっと咲かせてみます! 大輪の菊の花」

 いま、大輪の菊はあでやかに花開いた。反戦・平和、女性の人権など、70年代、80年代的テーマにこだわりつつ、今年は被災地応援ツアーを何度か催し、旅を楽しみ、お酒を飲み、歌を歌い、インコと遊び、サンシンを弾き、着物のバーゲンに走る――そんな日常。

 今夏、新しいクラブ活動としてスタートさせたのが、「GO GO! モンキーズの会」。1956年の申年生まれが55歳になったのを記念して旗揚げした会である。ちなみに、私も会員です。会員には様々な仕事や活動をしている人がいるので、そのうち何かムーブメントが起こるかも。ご期待ください。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)