南イタリアの旅の終わりは、イタリア半島に渡ってナポリへ向かった。
前8世紀初め、ギリシャ人がナポリ湾西方のイスキア島ピテクーサに入植後、本土側のクーマに建国したことは、シリーズの第4回で書いた。さらに、前680年頃からクーマに移住したギリシャ人がナポリに南下、住み着いたといわれている。
最初の集落は、サンタ・ルチア港の突端、今日では12世紀ノルマン王が建設した卵城を見下ろす丘のあたり。岩礁に打ち上げられた乙女の名前から、集落はパルテノペと呼ばれていた。彼女は、オデュッセウスを誘惑するのに失敗して命を絶った美声の鳥人セイレンの一人ともいわれている。
ホメロスの「オデュッセイア」(岩波文庫)第十二歌には、セイレンが透き通るような声で歌い、船で行き過ぎるオデュッセウスを魅惑しようと試みる場面が描かれている。
「アカイア勢の大いなる誇り、広く世に称えられるオデュッセウスよ、さあ、ここへ来て船を停め、わたしらの声をお聞き。これまで黒塗りの船でこの地を訪れた者で、わたしらの口許から流れる、蜜の如く甘い声を聞かずして、行き過ぎた者はないのだよ。聞いた者は心楽しく知識も増して帰ってゆく(中略)。ものみなを養う大地の上で起ることごとも、みな知っている……」
美声を聞きたいオデュッセウスは、部下に命じて船の帆柱に自らのからだを縄でくくりつけさせる。そして、船をこぐ部下の耳には蜜蝋をこねて貼り付け、無事通過する。
都市計画でつくられたネアポリス
前5世紀、ギリシャ人はナポリ湾全体を支配するため、都市計画に基づき、旧都市パルテノペの北東にネアポリスを建設する。ネアポリスとは、ギリシャ語で新しい都市の意味。ナポリの語源になった。現在の大聖堂を中心に「スパッカ・ナポリ」と呼ばれる旧市街のあたりで、内陸である。
ローマ、ビザンツの支配を経て、周辺都市を含むナポリ公国として独立するのは763年。イスラム海軍を破りアラブとの交易に成功するなどして、黄金期を迎えた。
旧市街「スパッカ・ナポリ」の「スパッカ」とは、真っ二つに割るという意味で、東西に貫通する直線道路を指す。古代ギリシャの植民都市の骨格は、規則的に格子状に割られた構造が基本。それは、現代にも受け継がれている。旧市街はこの古代の街並みを下敷きにして、由緒ある教会建築群と庶民の路地文化とが混在、独特の風景がつくり出されている。サン・グレゴリオ・アルメーノ教会がある通りには、キリスト生誕の様子などをジオラマで表すミニチュア手工芸、プレセーピオの老舗工房が軒を連ね、観光客でにぎわっていた。
古代地下都市の散策から地上へ
興味深いことに、近年になって、これまで眠っていた古代地下都市の発掘が進んでいる。中心になるアゴラ(市民広場)は、14世紀に建てられたサン・ロレンツォ・マッジョーレ教会が建つ旧市街のガエターノ広場にあった。
正確には、教会に隣接する修道院地下にあって、ギリシャ時代のアゴラを発展させた広場フォーロや店舗、街路などの遺構が一般に公開されている。深さ40メートルほどまで掘り下げられており、切り出された石材は城壁や神殿などの建築に用いられた。
ローマ時代になると地下貯水槽として活用するため、たくさんの穴が掘られ、迷路のように通路がつなげられた。ガイドについて回ったが、複雑で、一人では迷子になるなと思った。
ひんやり古代の空気に満ちた地下道から地上に出ると、陽気にナポリ民謡を歌うおじ様グループに遭遇。これもまた、ナポリの楽しさである。
そこから足を伸ばして、プレビシート広場近くの「グランカフェ ガンブリヌス」へ。1860年創業のナポリ最古のカフェである。ラム酒シロップに漬け込んだババ、ひだが何層もある貝殻型のパイ生地にリコッタチーズとカスタードクリームがはさまれたスフォリオテッラなど、ナポリ菓子が人気だ。サロン風の店内に飾られた絵画の中に、ヴェスヴィオ火山の絵画があった。
街ごと埋もれたポンペイの日常
ヴェスヴィオといえば、79年8月24日の大噴火で、火山灰の下に埋もれたポンペイの街がある。共同浴場やスポーツジム、食料市場やパン屋、洗濯屋など、日常生活の基本は今のそれとあまり変わらない。共同浴場を出た先に、ワインの貯蔵甕やパン焼き釜が残る“居酒屋”跡があるのも面白い。
このポンペイの大惨事を後世に伝えたのは、当時17歳だった青年の手紙。地中海艦隊司令官でナポリ湾岸のミセヌムに駐在していた大プリニウスの甥、小プリニウスが、歴史家タキトゥスの求めに応じて書いたといわれ、貴重な目撃談となった。古代ローマの詩人、ヴェルギリウスは「アエネーイス」に、小プリニウスの生々しい記述を載せている。
ちなみにヴェルギリウスの墓は、ナポリのメルジェッリーナ駅裏手の公園内にあった。彼はハチミツを「天からの露の恵み」と呼ぶなど、イラン起源のミトラ神崇拝の秘儀にも通じるところがあり、墓地内に掘られた長いトンネルなどベールに包まれた部分が少なくない。
ポンペイで興味深いのは、市民の日常がわかる商店街や市場であったと書いた。ナポリの北、古代地中海世界でも有数の港町として栄えたポッツォーリもまた、ローマ人の食生活を支えた食料品市場跡で知られる。
ローマに物資を中継する拠点として栄え、中東や北アフリカから多くの貿易商人たちを集めた。2階建ての市場は、神殿かと見まがう美しい建築だ。噴水のある大きな中庭を囲むようにして店舗跡が残る。火山性の土地で、19世紀には店舗部分が温泉の浴場としても活用されたらしい。
ヴェスヴィオ火山とキリストの涙
さて、我が“グランド・ツアー”の締めくくりは、ナポリの東12キロにあるヴェスヴィオ登山。標高はわずか1281メートル。今は裾野にブドウ畑が広がっている。
79年、山麓の街ポンペイを壊滅させ、以後14世紀まではほぼ100年に1度火を噴いて付近住民を脅かしてきた。一時活動を休止したものの、再び1631年に火山活動が始まり、最近の噴火は1944年3月。現在は駐車場のある登山口までバスに乗り、そこから直径600メートルほどの火口まではゆっくり歩いても1時間くらいだ。
外輪山をなすソンマ山と、中央丘でもあるヴェスヴィオ山によって構成されているため、2つの頂をもつ。登山ガイドによれば、初期のソンマ山は3000メートル級だったが、何度かの大噴火によって火口が広がっていき、現在のような双子山になったそうだ。
ところで、1880年に作曲された「フニクリフニクラ」は、今に歌い継がれるナポリ民謡。トーマス・クックが世界で初めて火山観光用のケーブルカー(フニコラーレ)を設けたことで誕生したCMソングだった。
登山口に戻り、白ワインを1杯飲んだ。その名も「ラクリマ・クリスティ・デル・ヴェスヴィオ」。ほんのりハチミツのような甘味があった。
このワインには物語がある。その昔、天国から追放された大天使サターンが、天国の土地を一部盗んで逃走したものの、途中で落としてしまい、その場所にナポリの街ができた。だが、地上の人々は悪の限りを尽くし、ナポリは疲弊していく。その様子を天上から眺めていたキリストが涙を流し、そこからブドウの樹が生えてワインが生まれたという。
ちなみに、このシリーズで取り上げた街で飲んだワインについては、私のブログ(※)で取り上げているので、興味のある方はチェックしてみてください。
「南イタリアの風」と題し、7回に渡って旅行記を書いてきた。南イタリアでは、古代ギリシャやアラブをはじめとする多様な文化の集積が現代の街にも受け継がれ、さらに、陽気な人々の日常と重なり合うことで、土地の魅力を増している。秋の旅シーズンに向けて、何かヒントになるようなことがあったならばうれしい。
来週からは従来通り銀座の話題を拾っていきますので、今後ともお付き合いください。
(読売新聞編集委員・永峰好美)
※永峰好美のワインのある生活