GINZA通信アーカイブ

2013.04.05

新歌舞伎座を楽しもう

  • 雨天にもかかわらず、こけら落とし公演には朝から大勢が詰めかけた(4月2日)

 新しい歌舞伎座が開場し、4月2日からこけら落とし公演が始まった。東銀座の歌舞伎座周辺は、物見遊山の人々も含め、連日大にぎわいだ。

 明治半ばの1889年に初代が開場し、新歌舞伎座は5代目になる。「伝統と革新の両立」がうたわれているように、背後に高層ビルが建ち、バリアフリー化や座席背面の字幕モニター設置など快適性を向上させた以外は、見た目ではそれほどの変化は感じられない。しかし、見えないところに新しい技術が駆使されている点も忘れられないだろう。

 内覧会を含め、私の視線で追った新歌舞伎座の注目ポイントをいくつかご紹介しよう。

名画と写真は要チェック

 まず、正面玄関を入って最初にお目見えする大間(おおま)と呼ばれるロビー。2階までの吹き抜けの床面じゅうたんに、昭和26年(1951年)の第4期歌舞伎座開場時に用いられた絵柄を再現。平等院鳳凰堂中堂母屋の方位に描かれた菱形文様で、咋鳥(さくちょう)という4羽の鳥が幸せを結ぶといわれている。2階の吹き抜けのロビーから見下ろすと、よく見える。ロビーには伊藤深水や東山魁夷など、名画が並んでいるので、要チェックだ。

 もう1つ階段を上って3階に行くと、売店横を通って食事処「花篭(はなかご)」に向かう通路壁面に、活躍した歴代歌舞伎役者の写真が飾られている。中村勘三郎さんや市川団十郎さんの写真があるのが、寂しい。

  • 2階の吹き抜けのロビーから正面玄関を見下ろす
  • 活躍した歴代の歌舞伎役者たちがずらりと並ぶ

こだわりの幕の内弁当と特製スイーツ

 「花篭」では、芝居小屋から生まれたこだわりの幕の内弁当を食べたい。江戸文化研究家の松下幸子・千葉大名誉教授の監修で、江戸時代の芝居茶屋で食べられていた弁当をできる限り再現したのだそうだ。特に、焼き豆腐とかんぴょうの煮物の2つは欠かせないもの。逆に、現代の幕の内弁当で定番のおかずになっている揚げ物は入れていない。

 「かぶき幕の内」(2100円)は予約制で食事処でのサービスになるが、折り詰めの「江戸風幕の内」(1000円)は、東銀座駅に直結した木挽町広場の売店でも買える。また、木挽町通りをはさんだビルにある「日本料理ほうおう」では、幕間に「ほうおう膳」(予約制、3500円)が楽しめる。

 1階の喫茶室「(ひのき)」では、特製スイーツがいただけるのもうれしい。あえておすすめを挙げると、銀座の人気フレンチ「レストラン・トトキ」が作った「くっちゃみセット」(600円)。歌舞伎座の象徴カラー「黒茶緑」を意識した小菓子セットで、カスタード風味のカヌレ・ド・ボルドー、果物の風味がおいしいメロンチョコ、エンドウ豆で作ったファミューゼの3種類。もう1つ挙げるとしたら、花魁(おいらん)八ッ橋の13段重ねの草履をイメージして作ったという「KABUKU~へん」をおすすめしたい。

  • 江戸時代の芝居茶屋で食べられていた弁当を再現
  • 白い食器でサービスされる「ほうおう膳」
  • 「kabuku~へん」はちょっぴり酸味のきいた本格バームクーヘン

舞台裏をのぞいてみよう

 歌舞伎座タワー5階には、約450平方メートルの屋上庭園がある。歌舞伎作者河竹黙阿弥が愛した石灯籠とつくばいが据えられている。4月23日には新設のギャラリーがオープンする。歌舞伎の衣装や小道具などを展示する企画展や衣装をまとって撮影できる体験型写真館もあって、ここは誰でも自由に入場できる。

 ちょっと舞台裏をのぞいてみよう。

 庭園から赤く塗られた五右衛門階段を下ると、4階の幕見席のロビーに出る。この階には、2室の板張りの稽古場がある。また、3階には楽屋や洗濯室、風呂場などに加えて、立ち回りなどで見られる宙返りの練習をする砂場、通称「トンボ道場」も設置された。これまでも砂場はあったそうだが、専用の空間として独立させたところが新しいそうだ。

  • 屋上庭園にある黙阿弥にちなんだ石灯籠など
  • トンボ道場は若手役者にとって修行の場

奈落が画期的に

  • 大奈落から舞台を見上げる

 舞台下の空間である奈落(ならく)を地下2階の大奈落から見上げた。回り舞台の直径約18メートルは従来と同じだが、深さは4倍になり、約16メートルに。大道具を動かすセリは従来より1か所増えて4か所になり、大がかりな大道具を動かせるようになった。大奈落の横に大道具を置ける場所が確保され、転換がより迅速にできるようになるという。これこそ、技術革新の成果の一つといえるのだろう。

 それにしても、奈落とは、本当に真っ暗であった。サンスクリット語で「naraka」が転じて「奈落」となったが、本来は仏教用語だ。地獄や地獄に落ちることを意味する。舞台の上の華麗さとは対照的に、舞台下には不気味なほどの暗がりが広がっていた。

幸せになる「逆さ鳳凰」

 さて最後に、歌舞伎ファンの間で今ひそかにささやかれている「ウワサ」を一つ。

 歌舞伎座の屋根には、シンボルである鳳凰の紋をかたどった瓦が並んでいるが、一つだけ逆さになっているものがあるそうな。「逆さ鳳凰」といわれて、これを見つけると幸せになるという。

 何かと話題の多い歌舞伎座から、当分の間目が離せそうもない。

  • 内覧会の時、新しい楽屋を拝見
  • 楽屋口には、神棚。興業の無事と成功を祈るのだろうか

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.03.22

茨城発信の美味しい取り組み、ご存じですか?

 メロン、みず菜、チンゲンサイ、白菜、ピーマン、ミツバ、レンコン、栗、干しイモ、鶏卵。これら農産物の生産量が全国一位を占める県って、どこだかおわかりになるだろうか?

 答えは、茨城県。首都圏に近く、東京のスーパーでも同県産野菜をよく目にしていたが、「全国一」がこんなにあるとは知らなかった。

茨城出身女性で「いばらき美菜部」

  • 「いばらき美菜部」で元気に活動する女性たち

 「茨城は食の王国。消費者目線からふるさとの食をもっと応援、PRしていこう」と立ち上がった女性たちがいる。茨城県出身で、東京在住・在勤の20~40代の働く女性を中心に2年ほど前に組織された「いばらき美菜部」である。

 現在部員は18人。コピーライター、メーカーの営業やIT企業勤務など、仕事は様々だが、「食べることが好き」という点では共通している。生産農家を訪ねるツアーやフェイスブックで参加者を募った料理教室など、活動は多彩だ。

 とりまとめ役で広報ウーマンネット代表の伊藤緑さんは、「きっかけは、茨城県農林水産部販売流通課のテストキッチン事業でしたが、集まった女性たちはボランティアにもかかわらず皆とても熱心で、次々にアイデアが広がっています」という。

店に交渉し、いちごの料理やカクテルを開発

  • 茨城県産のいちごとれんこんが、東京の飲食店をジャックする企画が進行

 その成果の一つが、今回の「いばらき美菜部Week」と題した企画で、メンバー自らがお気に入りの店舗と交渉し、茨城の食材を使ったオリジナルメニューを相談しながら開発、提供してもらうという期間限定のイベント(3月31日まで。参加店舗は東京都内の11店舗。一部店舗では25日よりスタート)。食材としては、いちご「いばらキッス」と「れんこん3兄弟のれんこん」が選ばれた。

  • 植木あき子さん(左)と、「季立」のマスター、内藤直久さん

 「いばらキッス」は、「とちおとめ」と「ひたち1号」を掛け合わせた新しいいちごの品種。私は先日ある会合で試食する機会があったのだが、表皮がしっかり硬めなのに、果肉は非常に柔らかく、食感の面白さが印象に残っている。「れんこん三兄弟のれんこん」は、真っ白な外観の美しさもさることながら、旨みたっぷりでプロの料理人の評価も高い。

 東京・有楽町のジャズ&バー「季立(きり)」で、マスターの内藤直久さんと打ち合わせをするメンバーの植木あき子さんを訪ねた。

自虐的な県民性だが、見直してみると…

 シングルモルトなど約200種類の酒をそろえる同店では、チーズなどと共にいばらキッスをそのまま味わうアミューズ(チャージ込みで600円)を提案。「いばらキッスは新しい品種なので、加工せずにフレッシュなまま味わってほしかった。酸味も甘みもバランスが取れていて、お酒との相性も抜群」と、植木さん。もう一品、フローズン・ストロベリー・ダイキリを試作中の内藤さんに、「もう少しラム酒を増やしてもいいかなあ」などリクエストしていた。

 「茨城県人って、おらが県はすごいものがあるぞとあえて自慢しないで暮らしてきたと思います。どちらかといえば自虐的で、それでいて、他人から悪口を言われるとものすごく怒る。でも、改めて見直してみると、こんなに素晴らしい自然の恵をいっぱい享受しているのですから、情報発信していかないともったいないなと考えるようになりました」と、植木さんは話す。

 れんこんに関しては、「マグロの卵とれんこんのキンピラ」(中野区の「マグロマート ハンチカ」)や「れんこん入りのパテ・ド・カンパーニュ」(目黒区の「sibafu」)など、手作り感のあるメニューにも注目したい。

  • 「季立」に登場する、いばらキッスをそのまま味わうアミューズ
  • 「マグロの卵とれんこんのキンピラ」(マグロマート ハンチカ)
  • 「れんこん入りのパテ・ド・カンパーニュ」(sibafu)

一番人気の干しいもがモンブランに

  • 銀座1丁目の「茨城マルシェ」では、黄門様のマスコットがお出迎え

 ところで、銀座1丁目エリアは、沖縄県の「銀座わしたショップ」、高知県の「まるごと高知」、山形県の「おいしい山形プラザ」などが並ぶアンテナショップの集積地。昨年11月、その一角に茨城県の「茨城マルシェ」も加わった。最近では、県産のブランド納豆をランチサービスで提供する「納豆定期券」が話題になった。

 店で現在の一番人気は、「西野さんの干しいも黒ラベル」。サツマイモをふかして天日で干して作る干しいもの、9割以上が同県ひたちなか市で生産されているという。同市における歴史は、百年ほど前の明治後期にさかのぼる。せんべい屋の湯浅藤七が、せんべいの作り方に似ているところから始めたとの説が有力だそうだ。冬場に晴れの日が多く、海からの強い風が吹く気候条件が干しいも作りに向いている。東日本大震災後に激減した売り上げも、ようやく震災前の水準に戻ってきたとも聞く。

 ねっとりした歯ごたえと独特の甘みは、やみつきになるおいしさ。美菜部のメンバーにもファンが多い。この干しいもを使ったモンブランを店内のレストランでいただいた。栗と干しいもの2つのペーストが混じり合って、やさしい甘さにふんわり包まれる感じ。干しいもの潜在的な実力や恐るべし、だ。

 次の美菜部のイベントでは、ぜひ干しいもの独創的なメニューを期待したい。

  • やさしい甘さの干しいもを使ったモンブラン
  • マルシェで一番人気の「西野さんの干しいも黒ラベル」。小ぶりのイモをそのまま加工した丸干しタイプです

※「いばらき美菜部

(読売新聞編集委員・永峰好美) 

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2013.03.08

銀座の一時代、去る…柳澤政一さんの足跡

  • 99年に完成した「銀座の柳並木」の記念碑の前で(※西銀座デパート提供、以下同)

 「銀座の生き字引」として知られる西銀座デパート会長の柳澤政一さんが亡くなられ、先日、日比谷の帝国ホテルでお別れの会が開かれた。享年94歳だった。

 会場では柳澤さんの銀座での足跡がスライドで映し出され、参列者はそれぞれに柳澤さんとの思い出を偲んだ。私は、前職のプランタン銀座で働いていた2006年、十数年ぶりに西銀座通りに柳並木が復活し、「銀座柳まつり」もよみがえるという話を聞き、その立役者であった柳澤さんを訪ねたのが、最初の出会いだった。そのことは、2010年4月2日付の小欄に書いた。

地元商店を守った「株式会社 西銀座デパート」

 柳澤さんは、元証券マンである。1954年(昭和29年)に日興證証券の初代銀座支店長として赴任、当時、高速道路の建設に伴い高架下を地元商店の入居するショッピングセンターにする計画があり、その調整役として尽力したことから、銀座人としての人生が始まった。

 58年に数寄屋橋近くに開業した西銀座デパートは、ファッション中心にテナントを集めたショッピングセンターの、日本における先駆け的な存在。年末ジャンボ宝くじの1等が最も多く出るとして、宝くじファンが行列する「西銀座チャンスセンター」もここにある。

 同デパートが誕生するにあたって、柳澤さんは、いくつもの難関を乗り越えてきた。たとえば、日本橋商店会の面々が、「今度できる高速道路下のビルの数寄屋橋の左側の権利を我々は獲得した。ついては、皆みなさんの中でテナントとして入りたい店があったら申し出ていただければ入れてあげます」と、オフィスに乗り込んできたことがあった。銀座人たちは、日本橋の老舗に荒らされてはならないと団結し、権利を確保するために「西銀座デパート」という会社をつくった。柳澤さんの勤務する日興證券日興証券が発行株式10万株(額面500円)の引受元になり、銀座に店舗を持つ会社や商店の中から出店を希望する35人に分けたのだという。自著「私の銀座物語」(中央公論事業出版中央公論事業出版)に詳しい。

 一時銀座を離れて、静岡や横浜の支店長を歴任した後、71年、53歳の時、同デパートの専務取締役に迎えられ、80年、社長に就任。97年には会長職に。

  • 2008年の「柳まつり」パレードで、オープンカーに乗る右が柳澤さん(※)
  • 1958年に開業した西銀座デパート(※)
  • 92歳で「私の銀座物語」を出版。出版記念会には、政治評論家の故・三宅久之さん(左)も顔を出した

「銀座百点」創刊にも関わり

  • 今月700号を迎えた「銀座百点」

 銀座をこよなく愛する柳澤さんは、地域への社会貢献でもいくつかの仕事を残している。それは、西銀座通りの柳の復活にとどまらない。

 銀座の文化情報を発信するタウン誌の草分け、月刊誌「銀座百点」創刊へのかかわりも、その一つ。今月700号を迎えたが、瀬戸内寂聴、吉行和子、平岩弓枝ら、豪華な執筆陣が誌面を彩るのは創刊当初からだった。

 「銀座は常に時代をリードする消費・文化の発信地でなければならない」が持論で、「銀座経営者懇話会」という親睦会を結成(87年)、私も一時お仲間に入れていただいた。毎月各界の有識者を招いての時事問題セミナーなどを開催し、柳澤さんはいつも最前列に座って熱心に聞いていたの印象的だった。

写真や小唄、プロ級でも自戒

  • 「くらま会」の発表会で小唄を披露(※)

 趣味人でもあった。秋山庄太郎氏に師事した花の写真はプロ級の腕前。特にバラやダリア、ボタンなど、華やかな花を好んで撮影し、コンクールで金賞を獲ったこともあった。

 銀座人らしい趣味としては、銀座の旦那衆が集まって結成している「銀座くらま会」に入り、小唄を続けていた。同会は、小唄や常磐津、長唄、清元、端唄などの伝統芸能の火を絶やすまいと、銀座の老舗の旦那衆が家元から直接教えを受け、毎年秋には新橋演舞場で発表会を行っている。「くらま会」とは、自分たちが天狗になっている(かもしれない)ことへの自戒の念を込めた命名なのだとか。

 柳澤さんは、証券マン時代、旦那芸として小唄が披露されるのが当たり前だった宴席で、自分の番が来そうになると手洗いに逃げていたそうだが、あるとき時、会社から「小唄を習え」との業務命令が下り、習う羽目になったらしい。近年では、小唄の会「田毎(たごと)会」の会長を務めるほど稽古熱心で、芸を磨いていた。また、小唄の源流ともいわれる哥沢(うたざわ)の名手で、全国組織の理事長を引き受けていたこともあった。

地下道の散歩と少量の寿司が日課

  • 90歳を過ぎても、仕事机に向かっていた(※)

 「銀座経営者懇話会」の講師として柳澤さんと親交があった杏林大学名誉教授の田久保忠衛さんは、タウン紙「ギンザタイムス」にこんな一文を寄せていた。「晩年足が不自由になったので、健康のため銀座の地下道をいかに有効に利用してリハビリに努めているか、散歩の途中で、数寄屋橋すきやばし次郎で少量の寿司を昼に食べて、また歩くのを日課にして楽しんでいるのだと言っておられた。柳澤さんの訃報を耳にして、私は銀座の一時代が去ったか、との感慨にしばし浸った」と。

 銀座4丁目の数寄屋橋公園には、西銀座通りで柳の木を最初に植樹した1999年秋に完成した「銀座の柳並木」の記念碑がある。そこには、柳澤さんの自筆で、「この柳が末長く人々に愛され親しまれ続けること」と願いが刻まれている。

 そよ風に揺れる柳の枝を見るたびに、柳澤さんの笑顔が浮かんでくるような気がする。

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.02.22

沖縄の思いをつなぐ工芸展

  • 「想いをつなぐ暮らしの品展」には作り手のこだわりが並ぶ
  • 沖縄の色材いろいろ(「OKINAWA DESIGN SOURCE」から)
  • 新しい沖縄スタイルが発信されている

 どこまでも広がる青い海と白い砂浜、海面にきらきらと反射する太陽の照り返し、エキゾチックな亜熱帯の植物たち、三線(さんしん)の哀愁……。沖縄に対するイメージは、たとえワンパターンといわれようが、やはり日本の中で独特だ。常に心ひかれる魅力に富んでいる。

 まず、色彩だ。南国特有の明るくて鮮やかな色づかいがある一方で、赤瓦民家や芭蕉布などにみられる素朴でシンプルな色彩表現にも心惹かれる。

 生活と歴史に深く結びついた自然素材も魅力的だ。沖縄には、ものづくりの文化が元気に残り、そして、伝統と技を継承しようと、情熱をもった若者たちが集まってくる。

銀座わしたショップで展示即売

 前職の百貨店で仕事をしていた時ときにご縁のできた沖縄県工芸産業協働センターの大城亮子さんから、銀座で開催中の素敵なイベントのお知らせをいただいた。

 「想いをつなぐ暮らしの品展」といって、作り手が本当にこだわったデザイン、納得して作った工芸品を厳選、展示即売している(2月25日まで)。

 場所は、2009年7月3日付の小欄でも紹介したことがある、銀座1丁目の「銀座わしたショップ」。沖縄県物産公社が運営するアンテナショップだ。私は、いつもは1階の食材売り場で珍しい旬の食材を物色するのが好きなのだが、展示のある地下1階に直行した。

 今回の商品づくりは、(1)素材を生かし、技を生かし、先人の知恵を生かしている、(2)そこにあるだけで沖縄の空気が感じられる、(3)生活スタイルに溶け込み、人がつながり会話が生まれ、皆の心が豊かになる、といった考え方を基本に進められた。そうした新しい沖縄スタイルを編み出している若い作り手の作品が集まった。

沖縄経済を支えてきたアダン

 まず目に留まったのは、「ori to ami工房」のアダン葉で編んだ帽子である。琉球パナマ帽とも呼ばれているようだ。

 アダンの木は沖縄の島を取り囲むように生えていて、昔から台風などの自然災害から島を守ってくれたという。お盆などの供え物として、また、旬の限られた時期だけだが、新芽は炒めて食べる。帽子のほかにも、カバンや草履(ぞうり)などに用いられ、戦前まで、泡盛や黒砂糖とともに、アダン葉商品は沖縄の経済を支えてきたのだそうだ。

 アダンの葉は鋭いトゲがあって、扱うにはなかなかやっかいだ。トゲをそぎ落として2ミリほどの幅に割き、それを煮てから天日干しする。数週間後、水に戻して帽子に編む。たくさんの工程を経てできあがる、想い思いがいっぱい詰まった帽子なのだ。2万円前後と価格は安くはないが、その素朴な風合いと驚くほどの軽さには感動した。

  • 素朴な風合いがうれしいアダン帽
  • アダンの葉は扱いが難しいのだとか

祝いの鍋に、幸せの木

  • ガジュマルを盛った、ユニークなシンメーナービ

 沖縄独特のアルミ鋳物に植えた琉球プランツも面白い。シンメーナービと呼ばれるアルミの大鍋は、沖縄の祝い事には欠かせない調理道具で、ホームセンターに行けば必ず売っている。漢字で書けば、「四枚鍋」。4枚分の鉄板から作ったからとも、40人分の料理を作って多くの人が幸せを分かち合ったからとも、諸説ある。商品の背景にある物語を聞くと、さらに興味が増す。

 沖縄伝統の製法を守り続けてシンメーナービを作る工場は、現在、1946年創業の宇良アルミ鋳物ただ一つ。手間がかかり、アルミの大鍋は、1日わずか4個しか作れないという。これを小型化し、多幸の木として知られるガジュマルを植えたのは、なかなかのアイデア。5000円から。贈り物には重宝しそうな気がした。

沖縄の色、赤瓦と青空

 伝統的な沖縄の屋根材、赤瓦が、私は好きだ。明るめ煉瓦色というか、あの独特の「赤」は、青い空によく映える。その伝統素材が、コースターやアロマスティックに変身し、現代のリビングを彩る生活雑貨になった。

 製造しているのは、1951年創業の新垣瓦工場。沖縄での老舗工場も、時代とともに進化を続けている。赤瓦には、高い吸水性と速乾性といった特徴がある。コースターにすることで、コップの水滴を吸い取り、テーブルを濡らすこともない。アロマオイルを吸い上げて素早く発散させるスティックも便利そう。素朴な色合いも、香りファンの心をくすぐる。

  • 赤瓦の素材を生かしたコースター
  • アロマスティックも、生活のアクセントとして使えそう

 ほかにも、琉球漆器や三線のバチなど、どれも長く使えるように考えられていて、丁寧な手仕事に見入ってしまった。

 リサイクルであり、エコであり、なるべく土に帰る素材を使っているところも、沖縄のものづくりの原点であるような気がする。

 おおらかで温かみがあって、ゆったりした時の流れを感じさせる……。そんな手作りの品を見ていると、沖縄に旅したくなるのは、私だけだろうか。

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.02.08

名画座最後の特集で、昭和の銀座をしのぶ

  • 3月末で閉館が決まっている「銀座シネパトス」は三原橋地下街にある

 45年の歴史を持ち、銀座唯一の名画座として映画ファンに親しまれてきた映画館「銀座シネパトス」の3月末での閉館が、刻々と近づいている。

 閉館は、劇場がある三原橋地下街の耐震性の問題で昨年夏に取り壊しが決まり、東京都から立ち退き命令があったためだ。

 同映画館は、1967年(昭和42年)から翌年、「銀座地球座」「銀座名画座」としてオープン。2009年からは3スクリーンのうちの1スクリーンを邦画専門の名画座としていて、特集上映のラインナップの自由さに私は魅惑されていた。そのことは、2010年4月23日付の小欄に書いた。

 名画座番組のプログラム・ディレクターをやっていたのが、映画評論家の樋口尚文さんで、2月4日付けの日経新聞朝刊に「さらば名画座」という一文を寄せている。彼は記す。「昭和の経済と文化の発展を支えた原動力は好きな道でとことん無茶をやるという、コンプライアンスに束縛されぬ自由な精神の賜物(たまもの)だった」と。

銀座を舞台にした昭和期の映画29作品を上映

  • 最後の名画座特集は、待ってました!「銀幕の銀座」

 そうした昭和の時代の自由さを体感し、しかも当時の銀座の風景を楽しめる企画が、2月2日から同館で始まっている。銀座を舞台にした昭和期の映画29作品を一堂に集めた「銀幕の銀座~映画でよみがえる昭和」である。最後の名画座特集で、3月31日まで続く。

 戦前から戦後の高度成長期まで、夜のクラブや新聞社、画廊など、昭和の銀座を特徴づける舞台の多くを現場ロケで見ることができるのだ。「銀幕の銀座」(中公新書)の著作がある評論家の川本三郎さんが、解説を担当している。

 四方を川が流れ、新聞社の本社が建ち並ぶ。日劇ダンシングチームが踊り、空には森永製菓の地球儀ネオンが輝いていた。かつて「水の都」という言葉がぴったりだった懐かしい銀座をしのびながら、川本さんは川の風景にこだわって映画を選んだという。

「花籠の歌」では、三十間堀川にかかる三原橋の姿も

 「君の名は」(三部作、1953年~54年)は、空襲下、埋め立て前の外堀川にかかっていた数寄屋橋で男女が会うシーンがあまりにも有名だ。

  • 映画館閉館まで営業予定という「食事処・三原」

 東京オリンピックを前に高速道路の建設があわただしく進む中、汐留川の川縁に西洋の古城のような映画館「全線座」が確認できるのは、「セクシー地帯」(61年)。洋画の名画座で、78年に閉館。現在は銀座国際ホテルになっている。私は大学時代に何度か出かけたことがある。

 私が特に注目しているのは、昭和初期の作品だ。

 今回のラインナップにはないが、以前「東京ラプソディ」(1936年)のビデオを見る機会があった。この映画は、公開当時、「50銭で東京見物ができます」と宣伝のキャッチフレーズが付けられていたそうで、銀座の水の風景、特に、今は埋め立てられ、上を高速道路が走っている外堀川の雰囲気がよくわかり、興味深かった。

 同名の古賀メロディーが藤山一郎の歌でヒットし、すぐに作られた映画。関東大震災後に急速に復興した、大正末から昭和初期にかけてのモダン都市、銀座の街の建物がいくつもとらえられていた。たとえば、主演の藤山一郎が、幼なじみで今は芸者となった女性と再会する場所は、資生堂パーラー。2階まで吹き抜けになっていて、2階にはオーケストラボックスがあり、生演奏が聴けた。

 「東京ラプソディ」と同時期に作られたのが、「花籠の歌」と「女人哀愁」で、この2作品は、3月3日から7日に上映される予定だ。「花籠の歌」の主演で、銀座のとんかつ屋の娘を演じるのは田中絹代、その娘に恋をする銀座好きの学生は佐野周二。川が流れ、橋の上を市電が走る。川は、戦後に銀座の川で最初に埋め立てられた三十間堀川、橋は銀座シネパトスがある三原橋。関東大震災後に銀座に進出したデパート群も俯瞰できて、貴重な資料映像にもなっていることを、川本さんの本で教えられた。

 ああ、どれも見逃せない!

 映画を見た帰りには、地下街で現在も営業中の「食事処・三原」に寄って、かつカレーかあじフライ定食を食べることにしようか。

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.01.25

帝国ホテル 伝統のレストランが彩る30年

 名門ホテルのメモリアルイヤー

  • 「レーンヌ・エリザベス」と冠された一品(帝国ホテル提供)

 1890年(明治23)年)に開業した、東京・日比谷の帝国ホテルにとって、今年はいくつかの記念の年に当たるのだそうだ。

 ホテル業界初のショッピングアーケードができて90周年、上高地の同ホテルが開業して80周年、名物のバイキングが登場して55周年……。

 そして、日本で初めて、ホテルとオフィス、ショップ、レストランが一体化した「帝国ホテルタワー」が開業30周年を迎える。

 その地下1階にあるトラディショナルダイニング「ラ ブラッスリー」は、歴代料理長らによって生み出されてきた帝国ホテルの味を継承するレストランとして知られる。

 中でも私にとって思い出深い1一品といえば、「海老と舌平目のグラタン“エリザベス女王”風」である。

女王の名を冠するひと皿

  • 村上信夫さんはエリザベス女王訪日の際の料理を指揮した(2004年7月撮影)

 1975年5月、イギリスのエリザベス女王ご夫妻を迎えての歓迎午餐会で、当時総料理長だった村上信夫さんが考案した料理。村上さんご本人から伺った話だが、魚介類がお好きな女王陛下に日本の魚のおいしさを知っていただきたくて、津軽海峡産のヒラメを使うことにしたという。

 ヒラメで車海老を巻き、ソースをかけて焼く――というと、簡単なように聞こえるかもしれないが、実は手間のかかる凝った料理である。ポイントは、新鮮な真鯛やホタテ貝、伊勢海老などの身を裏ごしし、卵白や生クリームなどと混ぜ合わせ、ぜいたくな魚介類のすり身を作ること。これを薄く切ったヒラメに塗って車海老に巻き、白ワインで蒸すと、海老とヒラメが密着して、それぞれの旨みを引き出すことになる。黄色いオランデーズソースと生クリームをかけて、色づく程度に焼き上げて出来上がり。

 2時間以上にわたる午餐会の間に、女王陛下から厨房に、「日本はイギリスと同じように、魚のおいしい国ですね」とメッセージが寄せられたそうで、「料理人にとって苦労が報われるのは、まさにそういう瞬間ですね」と、村上さんがにこやかに語ってくれたのを覚えている。

 この料理には、「レーンヌ・エリザベス」(仏語でエリザベス女王)という名前を冠することが許され、今も愛され続けるメニューとなった。

 2月1日から3月14日まで、同ダイニングでは「開業30周年記念特別メニュー」を展開。「レーンヌ・エリザベス」のほか、伝統のダブルビーフコンソメや同ホテルで誕生したシャリアピンステーキなどが組み込まれた「伝統のフルコース」が謝恩価格の1万円で登場する。

日仏、優雅なコラボレーション

  • 「ル・ロワイヤル・モンソー ラッフルズ パリ」のレストラン

 もう一つの30周年記念企画が、1月27日まで開かれている「ル・ロワイヤル・モンソー ラッフルズ パリ」とのコラボレーション企画。

 パリの凱旋門近くの「ル・ロワイヤル・モンソー」といえば、80年代後半、30歳をちょうど過ぎた頃の私にとって、初めて泊まった老舗高級ホテル。重厚でクラシックな調度品、ふかふかのじゅうたん、広いバスルーム。伝統の重みに圧倒され、緊張のあまり、なかなか寝付けなかったことを懐かしく思い出す。

  • とても気さくなローラン・アンドレ氏

 ホテルは2年半をかけての大改装後、ラッフルズ傘下に加わり、2010年、斬新でゴージャスなブティックホテルとして生まれ変わった。そのレストラン総料理長、ローラン・アンドレ氏を招いての期間限定での企画である。

 同氏は、モナコの「ルイ・キャーンズ」を始め、アラン・デュカス系のミシュラン3つ星レストランを経験、ロンドンや香港では「スプーン・バイ・アラン・デュカス」のオープン責任者として活躍した。

 帝国ホテルの小林哲也社長は、新生の同ホテルを訪問した際、メニューにはなかったスモークサーモンを注文。「絹織物のように繊細な盛りつけを見て、一遍で気に入った」そうだ。

洗練と伝統のフレンチ

 アンドレ氏の料理は独創性を意識しながらも、伝統の調理法も踏襲しており、フランス料理の最近トレンドがわかって興味深い。

 一部を紹介してみよう。

 まず、タラバ蟹のアミューズは、トマトとナスのムースが層になり、コンソメのジュレと共に優しい味わい。筑波鶏とフォワグラを低温の真空調理でプレスして、アーティチョークと焼いたブリオッシュを添えた一品は、ブルゴーニュの白ワインと相性抜群だった。

 メイン料理は、石巻産ヒラメの蒸し物を、ジュラ地方のワイン、ヴァン・ジョーヌのソースでいただく。シェリーのような独特の香りとコクが淡泊な白身魚を引き立てていた。

  • タラバ蟹のアミューズ
  • 筑波鶏とフォワグラ
  • 石巻産ヒラメの蒸し物

  • (上)メレンゲと柑橘類のデザート(下)球体を割ると、レモンの甘酸っぱい香りが広がる

 さて、最後のデザートには、銀箔(ぎんぱく)が載った球体メレンゲが登場。2つに割ると、中からレモンシャーベットとリモンチェッロのゼリーが現れた。甘酸っぱい柑橘(かんきつ)の味わいは、近づく春を連想させてくれる。春の芽吹きも、まもなくだろうか。

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.01.11

宝塚、夢の世界見せ続け100周年

  • 第1回企画展「タカラヅカを彩った芸術家たち」
  • 展示室の入り口には、阪急東宝グループ創業者の小林一三の写真(※)

 友人に誘われてタカラヅカを初めて見たのは、社会人になってからだった。現実のすべてを忘れさせてくれるような、あのキラキラした世界。ときどき無性に恋しくなるのは、私だけではないのではないだろうか。

 昨年末、東京・銀座のお隣、日比谷にある千代田区立日比谷図書文化館で、宝塚歌劇団に関する展示が開かれた(2012年12月27日で終了)。1934年(昭和9年)に開場した東京宝塚劇場は、来年2014年、開場80周年。宝塚歌劇の100周年という節目の年でもある。

 東京宝塚劇場は、日比谷の映画・劇場街の発展の中で、核になってきた存在である。1回目の企画展「タカラヅカを彩った芸術家たち」では、黎明期から今日にいたるまでの華やかな舞台の陰で同歌劇を支えてきた脚本家や写真家、イラストレーター、デザイナーたちにスポットライトを当てており、興味深い展示だった。

新舞踊の旗手

 入り口で、宝塚歌劇の創始者、小林一三の写真に迎えられ、奥に進むと、宝塚創生期の先進的舞踊家、楳茂都(うめもと)陸平(りくへい)のコーナーがあった。

 上方舞楳茂都流家元の家の生まれで、20歳の時、宝塚音楽歌劇養成会の教師兼振り付け師に就任、翌1918年に宝塚音楽歌劇学校教授に。21年(大正10年)、オーケストラによる西洋音楽に日本舞踊、西洋舞踊、舞楽の要素を取り入れた群舞「春から秋へ」を発表して、「新舞踊の旗手」として注目された。会場には、新舞踊で使用された蝶をイメージした衣装が飾られていたが、イッセイミヤケ風の斬新なデザインに驚かされる。

 昭和の初めには、ドイツに留学し、舞踊理論などを学ぶと同時に、ヨーロッパ各地で日本舞踊のレクチャー・デモンストレーションを実践。この時の写真や記録ノート、緻密なスケッチが数多く残されているそうで、今回はその一部が公開された。

  • 楳茂都陸平のコーナーは資料も多く、特に充実していた(※)
  • 楳茂都のドイツでの指導風景 演目は「熱情ソナタ」(※)
  • 研究者によって再現上演された楳茂都の新舞踊の一場面(※)

少女たちの世界を描いた美術家たち

 瞳の大きな独特の女性画で当時の少女たちを魅惑した挿画画家、中原淳一は、雑誌「宝塚をとめ」の表紙を手がけ、それが縁で戦前の歌劇団のスターだった葦原邦子と結婚した。当時の画風は、妻の容貌に似た挿画が多く、一ファンの熱い思いが透けて見える。

 横尾忠則も、タカラヅカに触発された美術家の一人。1990年代から歌劇の公演チラシやポスターを手がけ、その独特のデザインが評判だった。

 東京宝塚劇場誕生の年に生まれた少女画の巨匠、高橋真琴は、中原淳一の絵に憧れて画家を志した。「青い珊瑚礁」など、宝塚歌劇を漫画化した作品もある。千葉県佐倉市に真琴画廊を開設し、現在も意欲的に新作を発表し続けている。

  • 高橋真琴が描く雑誌「ブルータス」の表紙(※)
  • 中原淳一の挿画(※)

手塚治虫を魅了した「見果てぬ夢」

  • 手塚治虫も宝塚に影響を受けた(※)

 タカラヅカに影響を受けたアーティストの中で、忘れてはならないのは、手塚治虫だ。5歳から23歳までを宝塚市で過ごし、宝塚ファンだった母に連れられて、子ども時代から劇場に足繁く通ったという。漫画家として駆け出しの頃には、雑誌「歌劇」や「宝塚グラフ」に挿絵の漫画を提供していた。「リボンの騎士」をはじめとする少女漫画作品には、物語の展開や西洋文化の薫り、人間愛のテーマなど、タカラヅカからの影響が随所にみられる作品も少なくないようだ。

 展示の中にあった手塚語録から一つ引いてみたい。

 「宝塚というところは全てが『まがいもの』なんだけれども、インターナショナルなものを見せてくれる。…とにかくなにかロマンがそこにあふれているのです。青春があるのです。青春とは何かと、僕はいろいろ考えるけれど、『見果てぬ夢』なんです。そういうものが宝塚にはあった。ひじょうにアマチュア的で、しかも適当にきらびやかだという、そこらへんに雲の上にいるような夢の世界みたいなものがある。それが、僕の初期の作品のすべてを支配しているわけです」

 私がタカラヅカを見て、あのキラキラした世界に魅了されたのも、やはり心地よい青春の風を感じたからのような気がする。

春からイベント続々

 さて、今回の企画展は残念ながら終了してしまったが、同館では4月以降、宝塚関係者のトークショーや講演会を適宜企画していく。また、2014年春には、第1回の企画展よりもさらに規模を広げたイベントを計画中だという。

 なお、4月6日には、1974年初演の「ベルサイユのばら」でマリー・アントワネット役を務め、第1期ベルばらブームの火付け役になった、元タカラジェンヌの初風諄さんのトークショーが予定されている。問い合わせは、同館(電話03-3502-3340)へ。

 (※印のついた写真は東京・千代田区立日比谷図書文化館提供)

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.12.28

明治の生活、克明に…銀座の職人(最終回)

  • 約30年ぶりに復刻された「明治の銀座職人話」

 11月に読売新聞夕刊で連載した「銀座の職人」を11月23日付けから5回に渡り、小欄に再録した。そこでも記したが、東京・銀座は、明治5年(1872年)の大火をきっかけにモダンな町並みに生まれ変わるまで、木造平屋の古い長屋が連なる「職人の町」でもあった。(やり)屋町、弓町、紺屋町、鍋町など旧町名に名前をとどめているように、様々な職人が集住していたのである。

 大火をきっかけに煉瓦街が建設され、明治政府の文明開化政策に後押しされて、銀座はまったく新しい街に生まれ変わったという印象が一般的には強いのではないだろうか。確かに、当時の新聞や錦絵を見ると、円柱とバルコニー、ガス灯、街路樹、鉄道馬車、洋装の官員・貴婦人など、時代の先端を行く街の様子が描かれている。

 では、それまでの銀座はどうなってしまったのだろうか。明治時代の職人の話を知りたいと文献を探していたら、「明治の銀座職人話」(青蛙房)が約30年ぶりに新装版として復刊されていることを知った。それによると、当時の銀座人の多くは、依然として職人的な仕事をしていて、変化を受け止めながらも、さして江戸時代と変わらない生活をしていたようである。

 編著者は、東京・中央区の統括文化財調査指導員の野口孝一さん(79)。野口さんの著書「銀座物語」(中公新書)には、銀座の歴史を調べる際に今までも随分お世話になっている。

段ボール1箱分のメモ

  • 東京・中央区の統括文化財調査指導員、野口孝一さん

 「明治の銀座職人話」は、銀座4丁目で天保元年(1830年)創業の葛籠(つづら)屋、秋田屋5代目、浅野喜一郎さんのメモをもとに編集されている。浅野さんは、明治31年(1898年)に銀座で生まれ、泰明小学校を卒業してすぐに家業を継ぎ、以後店を閉じる昭和35年(1960年)まで、ずっと銀座の職人として過ごした。メモを書き留めたのは70歳前後の数年間。だいたい明治36年から大正初めを振り返り、幼い頃の思い出に始まり、銀座の商売や生活、街並みや風俗が克明に記録されていて興味深い。

 浅野さんは1978年に81歳で亡くなられる。野口さんは、ふとした縁から浅野さんのご遺族からメモを入手することになり、内容は断片的ではあるが、当時の証言として貴重なものも多々含んでいるので、書物にまとめることにした。

 折り込み広告の裏などを利用して書かれてたメモは、段ボール1箱分ほどもあった。「メモは、驚くべき記憶力に支えられていました。感傷におぼれず、素朴でそれでいて丁寧な文章でした。書物にまとめる際も、メモの体裁をそのまま生かしつつ、足りない部分を文献や関係者に当たって私が補筆することにしました」と、野口さん。

 東京・銀座について書かれた本はたくさんあるが、その多くは文献に頼り、または外からの観察で、銀座に生まれ銀座に育った人の証言というのは意外に少ないのだそうだ。

 「繁華な表通りから一歩入った横町や路地裏の住人の生活を観察していたのが、浅野さんでした。明治の銀座を通して見た東京庶民生活史として位置づけられると思います」と、野口さんは解説する。

 たとえば、銀座通りの街並みを紹介する章をたどってみよう。

ぶっきら棒な棒屋に金払いの渋い財閥…

  • 読売新聞社があった銀座1丁目西側角は現在都市銀行の支店などが店舗を構える。谷沢鞄店は健在
  • 越後屋呉服店は1階に店舗を残し、テナントビルに改築。緑に包まれた入り口がまぶしい

 銀座1丁目西側角にあった読売新聞社についての記述から始まる。煉瓦造りの2階建てだが、バルコニーはなかった。以前は上州佐野藩出身の西村勝三のハイカラな洋服屋だったが、西村はメリヤスや軍靴の製造など手を広げていて、洋服屋はうまくいかなくなり、新聞社に譲ったらしい。現在この場所には、都市銀行の支店が店舗を構えている。読売新聞社はやがて西紺屋町の現在百貨店プランタン銀座がある銀座3丁目に移った。

 読売新聞社の裏手には、天秤棒、太鼓のばち棒など棒と名の付く物はなんでも取りそろえた棒屋があったそうな。「さすが棒屋で、客に対してぶっきら棒であった」などと記されている。読売新聞社隣には、京橋勧工場。洋品、小間物、袋物、おもちゃなどを売っていた。「盆暮れの大売り出しのときには、通りに面した2階バルコニーで楽隊や喇叭(らっぱ)や太鼓を囃し立て、にぎやかに景気をつけていた」という。

 1丁目から4丁目へ、谷沢鞄店、越後屋呉服店、明治屋、大倉ビル、十字屋楽器店、三枝商店、教文館、御木本真珠店、服部時計店、松島眼鏡店、伊東屋文具店など、今も残る商店名が登場する。

 大倉ビルの所有者大倉組は、新潟出身の大倉喜八郎氏が率いる財閥。明治維新の動乱期に鉄砲や弾薬の売買で大もうけした。浅野さんの秋田屋のお得意でもあったらしい。「11円の請求書を持って行っても、払うのは9円50銭。負けるのが当たり前だろうと言わんばかりで、職人を軽く扱った」と、少々腹立たしげに記している。

野心に燃え商才発揮

  • 銀座4丁目の服部時計店は現在も銀座のランドマーク
  • 文房具の伊東屋は今は海外ブランドのブルガリとティファニーにはさまれています

 明治時代の銀座には、ユニークな店主も少なくない。2丁目にあった岸田吟香(ぎんこう)の楽善堂薬局もその一つ。息子は、「麗子像」で知られる岸田劉生である。蘭学塾緒方洪庵に学び、わが国最初の民間新聞「海外新聞」を発行したり、明治7年(1874年)の台湾出兵の時、東京日日新聞の記者として最初の従軍記者となって戦況を速報したり。新聞界の草分け的存在だ。眼を病んで、横浜のヘボン博士の治療を受けた縁で、ヘボン博士から目薬の製法を伝授され、それを製造して(せい)き(※金へんに奇)(すい)として売り出し、薬局は大変繁盛したという。

 もう一人、文房具の伊東屋の隣にあったのが、「天狗煙草」で有名な岩谷商会。店主の岩谷松平は銀座の奇人の一人に数えられていた。薩摩藩の出身、西南戦争で焼け出され、薩摩屋という店を出し、薩摩(かすり)を売った。明治17年(1884年)頃、たばこ製造を始め、紙巻きの「天狗煙草」を売り出す。銀座の店頭に丸に十の字の商標と、畳一畳ほどもある天狗の面を飾り、当時珍しかった新聞広告で景品付きの販売を宣伝。コーポレートカラーを赤一色で統一し、自ら赤いコートを身にまとって「大安売りの大隊長」と名乗って、赤い馬車に乗って宣伝カーよろしく銀座の街を宣伝して回ったようだ。「絣の筒袖に兵児帯(へこおび)姿で、毎晩店頭で演説していた」との浅野さんの記憶が記されている。

 「変化のある明治の銀座には、一攫千金を夢見て、野心に燃えた人が集まってきたのでしょう。個性のはっきりしている主人が多くて、興味は尽きません。江戸時代の銀座の歴史についてももう一度掘り起こし、銀座通史を完成させたい」と、野口さんは語っていた。

 今年も銀座を中心にした話題(ときに脱線しましたが)にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。来年は1月11日にスタートしますので、引き続きご愛読ください。では、よいお年を!

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.12.21

シェービング、90年の技…銀座の職人(5)

 「1本そり残したひげが気になって眠れなかった」。朝から駆け込んでくる客がいる。丁寧にそり直すと、「これで一日気持ちよく働ける」と満足そうに帰っていくそうだ。

  • 永峰編集委員の顔をそる米倉満さん(東京・銀座の「理容米倉」で)=上甲鉄撮影

 女性の私にはわからないが、床屋さんのシェービングはたいそう気持ちがいいのだろう。男性に独り占めさせておく手はないと、数寄屋橋近くのショッピングセンター2階の「銀座 米倉理髪店」4代目、米倉満さん(68)を訪ねた。

 山梨の農家育ちの祖父が13歳で上京、10年の年季奉公を経て開業したのが、現在の銀座5丁目にあった築地精養軒ホテルの中。大正初めに最新式の回転いすを導入、流行のオールバックが人気で繁盛した。関東大震災で店が焼けた後の仮店舗以外はずっと銀座で営業し、創業90年を超える。

 男性のひげそりと違って、女性は軟らかい産毛をそる。厚みのある本刃のレザーを鹿革で研いで使う。

 乾燥タオルを枕あてに、まず、湯に浸したブラシでせっけんを泡立て顔に塗る。なんだかこそばゆい。蒸しタオルで顔全体を包み、まぶたや頬をギュッギュッと押す。「もむように拭き取ると、皮膚が柔らかくなって、レザーの抵抗が和らぎます」と、米倉さん。

 再びせっけんの泡に包まれ、そりに入る。頬、あご、鼻の下、下唇の下。刃物が顔の上にあるのを忘れてしまうくらい軽やかだ。細部のそりが終わると、クリームを塗ってマッサージ、ローションで引き締め、パウダーで仕上げ。料金は6000円から。モーツァルトが流れる心地よい空間で約1時間。ついうとうとしてしまった。

 「皮膚に当てる前に刃を湯につけて、肌の温度に合わせます。余計な力を逃がして、丸く柔らかく刃を滑らせるのがコツ」。いくつか極意があるようだ。

 それにしても、タオルを使う量が半端でない。1人につき最低15枚。糸の太さや重量などを細かく指定してメーカーに特注する。

 「タオルはお客様とのコミュニケーションの道具。タオルを替えることで、次の施術に移りますのでよろしくと、メッセージを送っているんです」

 そって数時間たっても爽快さが残る。翌日の化粧ののりがよくなったことは言うまでもない。

 「一流のお客様を満足させる銀座の床屋」。祖父から父へと受け継がれる矜持(きょうじ)が原動力でありプレッシャーでもある。

 「惰性に流されず、毎日が開業日のつもりで励む」。祖父の声に耳を澄まし、今日も客を迎え入れる。

 銀座 米倉理髪店

 東京都中央区銀座5―1 銀座ファイブ2F

 03―3571―1538

 午前9時~午後6時

 日祝が定休日

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 2012年11月20日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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2012.12.14

仕立ての基本、祖父から…銀座の職人(4)

 明治5年(1872年)の太政官布告で、男性の洋服が正装として採用された。文明開化のショーウインドー的役割を担っていた銀座には、かつて500近い注文紳士服の仕立屋があったといわれる。

  • 渡辺新さんから生地の巻き方を教わる永峰編集委員(東京・銀座で)=富田大介撮影

 「減ってきたとはいえ、今でも50以上残っている。日本の中で断トツです」と、老舗テーラー「壹番館(いちばんかん)洋服店」の3代目、渡辺(しん)さん(46)は言う。歴代の顧客リストには、北大路魯山人や藤田嗣治ら芸術家のほか、政財界のVIPが並ぶ。

 祖父の実さんが創業したのは、昭和5年(1930年)。長野の生家は呉服店。商いが思わしくなく、東京・赤坂の親戚の洋服店に奉公した。そこで目にした、英国製生地で仕立てた鹿鳴館時代のフロックコートに一目ぼれ。独立したら銀座に店を開く決心をする。

 「目新しい一流品を求めて一流の人が来る銀座で成功すれば、日本一のテーラーになれる、と。銀座の地になぜこだわるかを祖父からよく聞かされました」

 仕立ての工程は昔と変わらない。生地やスタイルを選び、ベテランの職人が2人がかりで採寸、店内の工房で縫い上げる。あらゆる角度からからだ全体が映せる五面鏡を前に、仮縫い、中縫いが速やかに進む。

 渡辺さんは大学卒業後、イギリスとイタリアで洋服作りを学んだ。経営者であると同時に、仕立て職人でもある。

 「基本の仕事は何ですか?」と聞くと、「まず掃除です」。早朝6時から2時間、店舗を構える9階建ての自社ビルを一人で掃除する。その後出勤してきた従業員とともに、数寄屋橋までの1ブロックを掃き清める。「銀座の街にはお世話になりっ放しだから当然のこと」と言う。

 テーラーにお邪魔したのだから、生地に触れる仕事を体験したい。「では、巻いてみますか?」

 生地の縦糸と横糸がまっすぐ通っているかチェックしながら、巻き板に生地を巻き付ける作業。何枚も同じことを繰り返す。

 「これをやらないと、通気が悪くなって生地が風邪を引くんです」。基本中の基本の仕事を大切にすることも、祖父から教わった。

 「職人の概念は進化していると思う。熟練の技できちんとした手仕事を仕上げるのは当たり前。顧客の趣味や流行感覚などを把握し物作りに情報やサービスをいかに盛り込んで付加価値を高めるか。試されているのではありませんか?」

 茶の湯、三味線、陶芸。趣味人としての引き出しを増やすことにも熱心だ。

 壹番館洋服店

 東京都中央区銀座5―3―12 壹番館ビル1F

 03―3571―0021

 午前10時~午後7時(日曜・祝日は午前11時~午後6時)

 火曜定休

 http://www.ichibankan.com/

(読売新聞編集委員・永峰好美)

2012年11月19日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)