「銀座の生き字引」として知られる西銀座デパート会長の柳澤政一さんが亡くなられ、先日、日比谷の帝国ホテルでお別れの会が開かれた。享年94歳だった。
会場では柳澤さんの銀座での足跡がスライドで映し出され、参列者はそれぞれに柳澤さんとの思い出を偲んだ。私は、前職のプランタン銀座で働いていた2006年、十数年ぶりに西銀座通りに柳並木が復活し、「銀座柳まつり」もよみがえるという話を聞き、その立役者であった柳澤さんを訪ねたのが、最初の出会いだった。そのことは、2010年4月2日付の小欄に書いた。
地元商店を守った「株式会社 西銀座デパート」
柳澤さんは、元証券マンである。1954年(昭和29年)に日興證証券の初代銀座支店長として赴任、当時、高速道路の建設に伴い高架下を地元商店の入居するショッピングセンターにする計画があり、その調整役として尽力したことから、銀座人としての人生が始まった。
58年に数寄屋橋近くに開業した西銀座デパートは、ファッション中心にテナントを集めたショッピングセンターの、日本における先駆け的な存在。年末ジャンボ宝くじの1等が最も多く出るとして、宝くじファンが行列する「西銀座チャンスセンター」もここにある。
同デパートが誕生するにあたって、柳澤さんは、いくつもの難関を乗り越えてきた。たとえば、日本橋商店会の面々が、「今度できる高速道路下のビルの数寄屋橋の左側の権利を我々は獲得した。ついては、皆みなさんの中でテナントとして入りたい店があったら申し出ていただければ入れてあげます」と、オフィスに乗り込んできたことがあった。銀座人たちは、日本橋の老舗に荒らされてはならないと団結し、権利を確保するために「西銀座デパート」という会社をつくった。柳澤さんの勤務する日興證券日興証券が発行株式10万株(額面500円)の引受元になり、銀座に店舗を持つ会社や商店の中から出店を希望する35人に分けたのだという。自著「私の銀座物語」(中央公論事業出版中央公論事業出版)に詳しい。
一時銀座を離れて、静岡や横浜の支店長を歴任した後、71年、53歳の時、同デパートの専務取締役に迎えられ、80年、社長に就任。97年には会長職に。
「銀座百点」創刊にも関わり
銀座をこよなく愛する柳澤さんは、地域への社会貢献でもいくつかの仕事を残している。それは、西銀座通りの柳の復活にとどまらない。
銀座の文化情報を発信するタウン誌の草分け、月刊誌「銀座百点」創刊へのかかわりも、その一つ。今月700号を迎えたが、瀬戸内寂聴、吉行和子、平岩弓枝ら、豪華な執筆陣が誌面を彩るのは創刊当初からだった。
「銀座は常に時代をリードする消費・文化の発信地でなければならない」が持論で、「銀座経営者懇話会」という親睦会を結成(87年)、私も一時お仲間に入れていただいた。毎月各界の有識者を招いての時事問題セミナーなどを開催し、柳澤さんはいつも最前列に座って熱心に聞いていたの印象的だった。
写真や小唄、プロ級でも自戒
趣味人でもあった。秋山庄太郎氏に師事した花の写真はプロ級の腕前。特にバラやダリア、ボタンなど、華やかな花を好んで撮影し、コンクールで金賞を獲ったこともあった。
銀座人らしい趣味としては、銀座の旦那衆が集まって結成している「銀座くらま会」に入り、小唄を続けていた。同会は、小唄や常磐津、長唄、清元、端唄などの伝統芸能の火を絶やすまいと、銀座の老舗の旦那衆が家元から直接教えを受け、毎年秋には新橋演舞場で発表会を行っている。「くらま会」とは、自分たちが天狗になっている(かもしれない)ことへの自戒の念を込めた命名なのだとか。
柳澤さんは、証券マン時代、旦那芸として小唄が披露されるのが当たり前だった宴席で、自分の番が来そうになると手洗いに逃げていたそうだが、あるとき時、会社から「小唄を習え」との業務命令が下り、習う羽目になったらしい。近年では、小唄の会「
地下道の散歩と少量の寿司が日課
「銀座経営者懇話会」の講師として柳澤さんと親交があった杏林大学名誉教授の田久保忠衛さんは、タウン紙「ギンザタイムス」にこんな一文を寄せていた。「晩年足が不自由になったので、健康のため銀座の地下道をいかに有効に利用してリハビリに努めているか、散歩の途中で、数寄屋橋すきやばし次郎で少量の寿司を昼に食べて、また歩くのを日課にして楽しんでいるのだと言っておられた。柳澤さんの訃報を耳にして、私は銀座の一時代が去ったか、との感慨にしばし浸った」と。
銀座4丁目の数寄屋橋公園には、西銀座通りで柳の木を最初に植樹した1999年秋に完成した「銀座の柳並木」の記念碑がある。そこには、柳澤さんの自筆で、「この柳が末長く人々に愛され親しまれ続けること」と願いが刻まれている。
そよ風に揺れる柳の枝を見るたびに、柳澤さんの笑顔が浮かんでくるような気がする。
(読売新聞編集委員・永峰好美)