前回に続いて、東アナトリアの旅について記したい。
今回ご紹介するのは、シリア、イラクの国境と接し、チグリス・ユーフラテスの両大河がメソポタミアの平原へと向かって流れる一帯、東アナトリアの南辺の地域である。
預言者の街…シャンウルファ
預言者アブラハムの生誕地とされ、イスラム教だけでなく、ユダヤ教、キリスト教にも関係の深い聖地が、シャンウルファ。「預言者の街」とも呼ばれ、街全体が一つの歴史博物館のような印象だ。アブラハムが誕生したといわれる伝説の洞窟内は聖水が湧き出し、薄暗い空間は静かに腰をおろして癒やしを求める人たちであふれていた。
紀元前2000年頃には、鉄の精錬や騎馬技術で栄えたヒッタイトがこの地に入り、帝国を築いた。紀元前6世紀頃、ペルシャの統一を経て、東方遠征のアレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)がエデッサと命名。メソポタミアと地中海を結ぶ要所であったため、続くローマやアラブ支配の時代にも、周辺の勢力による争奪の的になった場所だ。十字軍が11世紀、初の国家、エデッサ
紀元前1世紀ごろ栄えたコンマゲネ王国
この地域で見逃せないのが、世界遺産の標高2150メートルのネムルート山だ。
「コンマゲネ王国」。その名前を、私は初めて知った。
ネムルート山の山頂にある陵墓は、紀元前1世紀、王国が最盛期を迎えていた時の王、アンティオコス1世のものだ。
高さ5メートル以上ある正面の巨大な5体の神像は、地震によって頭部が転げ落ち、それらの首が無造作に大地に据えられている(現在修復が進んでいる)。この光景を見れば、誰もが一瞬のうちに古代の世界へと引き込まれてしまうと思う。
発見されたのは、19世紀終わりで、オスマン帝国に雇われて東部アナトリアから地中海の港への輸送ルートを探していたドイツ人技師カール・セステルによって発見された。西アナトリアで、ハインリッヒ・シュリーマンがトロイアを発見した頃である。高所にあったゆえ、長い間見捨てられたままになり、盗掘を免れているともいえよう。
「コンマゲネ」の語源ははっきりわかっていない。紀元前9世紀、メソポタミア北部にアッシリアが栄えていた頃、「クンムフ」という小王国があって、それがギリシャ風に発音されて「コンマゲネ」という説もあるようだ。ユーフラテス川の支流が形成した深い渓谷の合間のごくわずかな土地で、古代から人々は暮らしを営んできたというわけだ。
ギリシャとペルシャの神々の習合
コンマゲネ王国のあったこの地域には、紀元前2000年頃、既にメソポタミアとの交易があった。その後に興ったヒッタイト帝国は、鉄の精錬や騎馬技術で栄えた。滅亡後は他民族と混じり合い、南辺にいくつもの小王国を築き、紀元前6世紀頃、アケメネス朝ペルシャに組み込まれる。
アレクサンドロスはペルシャを滅ぼすが、紀元前323年にバビロンで
アンティオコス1世の墳墓には、父方はペルシャ王長、母方はアレクサンドロスの血統であることが刻まれている。
それを象徴するように、陵墓を守る神々は、ギリシャとペルシャの神々の習合であった。端正な顔立ちと半開きの口元はヘレニズム様式、身につけている衣装はペルシャ風で、その姿も折衷である。ヘラクレスやアポロンと並んで、神となったアンティオコス1世もいる。コンマゲネ王国の存続を願い、自らも神々に列せられて永遠の眠りにつくこととしたのだろうか。
山頂に向かう小道には、王国の夏の離宮、エスキ・カレと呼ばれる城塞がある。中腹には地中に下るトンネルがあり、入り口の上方に、ヘラクレスと握手するアンティオコス1世の美しいレリーフがあった。
アナトリアの地は、まさに東西文化の出合う場所。古代のロマンに浸るのは、日常から解放され、リフレッシュする最高の妙薬ではないだろうか。
(読売新聞編集委員・永峰好美)