シチリア島の西端にあるモツィアは、赤い屋根の風車小屋が点在するのどかな田園地帯。風車は塩田に海水をくみ上げるためのもので、円錐型の塩山は、オレンジ色の素焼きの瓦ですっぽりと覆われている。
港から小舟に乗って10分、滑るようにして潟を渡れば、カルタゴ遺跡が残る緑豊かな小島、サンパンタレオ島に到着する。
紀元前8世紀半ばのギリシャ人の入植活動が活発化する以前のこと、北アフリカにカルタゴという都市国家を建設した海洋民族、フェニキア人が、シチリアに多くの寄港地を設けている。
セム語族に属するフェニキア人は、現在のレバノンに当たる東地中海の沿岸部に住み、特産のレバノン杉や香油をエジプトに輸出するなどして、商業と工芸を核に生計を立てていた。優れた造船技術を武器に、海上交易で拠点を広げ、地中海沿岸はもとよりイギリスにまで進出していたようだ。
幼いわが子を神への生け贄に…
さっそく、島内を歩いてみた。
島は、19世紀、英国人実業家、ウィタカー家に買い取られ、発掘が進められた。「古代への情熱」で知られるシュリーマンにも声がかかったが、彼はホメロスの世界に夢中で、あまり興味を示さなかったらしい。
塔にはさまれた頑強な北門の先に、紺碧の地中海が開ける。ここは、アフリカ本土へと延びる海底道路の入り口。その遺構は海底に眠る。カルタゴが位置する現在のチュニスまで、わずか140キロほど。いまもアフリカから逃れて来る難民は絶えない。
要塞のような城壁に囲まれたネクロポリス(大規模な共同墓地)に足を踏み入れると、小さな祭壇跡の多さに気づく。カルタゴでは、父なる神バールに長子の
現在、ウィタカー家の居住地跡が博物館になっており、島内からの出土品が並ぶが、目を引くのは、生け贄になった幼児の墓碑や埋葬品の数々。小さな
織物や染料、ガラス製品に関する出土品も多い。モツィアとは、セム語で紡織工房の意味なのだとか。
アルファベットの原型を伝えたフェニキア人
シチリアの古代史は、カルタゴの戦史と重なり合う。
紀元前480年、ヒメラの戦いで、ギリシャ連合軍に敗退したカルタゴは、70年後、汚辱を晴らすかのように決起し、次々とギリシャ植民市を陥落させる。だが、それもつかの間、シラクーサで頭角を現しつつあった支配者、ディオニュシオスによって滅ぼされる。前397年のことだ。
カルタゴはモツィアから脱出し、シチリアでの拠点を速やかにリリベーオ(現マルサーラ)へと移す。そして前3世紀、勢力を増したローマとの第1次ポエニ戦争で敗退する。ちなみに、リリベーオとは「アフリカの対岸」を意味し、「アラーの港」を表すマルサーラは、アラブ支配後に付けられた地名である。
マルサーラにも考古学博物館があり、ここには、ポエニ戦争で沈没した木造のフェニキア船の実物が展示されていた。ほかには、カルタゴの守り神、豊饒の女神タニットと、商業の神、ヘルメスの杖が描かれた墓碑などが目にとまった。
度重なる戦いに翻弄されながらも、フェニキア人は、高度な技術の芸術や文化を次々と残した。フェニキア人の“偉業”としてもう一つ忘れられないのが、アルファベットの元になる文字をギリシャに伝えたことだろう。
ローマのヴィラ・ジュリア・エトルスキ博物館では、興味深い金板を見つけた。カルタゴは、前6世紀、イタリア半島中部で隆盛を誇った謎の民族、エトルリア人とも交流があった。金板には、いまだ解明されていないエトルリアの文字が一部ではあるが、フェニキア文字に翻訳されていた。
英国人が作った酒精強化ワイン「マルサーラ」
さて、マルサーラという、地名と同名のお酒についても触れておきたい。マルサーラは、英国人が作った酒精強化ワインの産地として知られる。以前から、なぜイタリアの地で英国人が作ったのか疑問に思っていたのだが、その謎がようやくわかった。
18世紀末からのナポレオン戦争当時、ナポリを離れてパレルモに避難したブルボン王家を保護したのが、英国海軍。それに伴い、同じころ、島で発掘を進めたウィタカー家のように、シチリアで活躍する英国人実業家が増加し、アルコール度の強い酒を好む彼らは、マルサーラを開発したというわけだ。
なるほど、歴史をひもといていくと、様々なつながりが見えてきて、興味は尽きない。
(読売新聞編集委員・永峰好美)