日本中がフォークに夢中だった時代
10月14日付の小欄で、人気のフォーク酒場のライブの話題をご紹介したが、以来、フォークのことが気になって仕方がない。
小学生のころからグループサウンズに夢中になり、ローリング・ストーンズにはまった私だが、振り返れば、フォークもそれなりに聴いていた。
フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」や「悲しくてやりきれない」がヒットしたのが、小学校高学年の時。ベトナム戦争反対や安保反対の学生運動をテレビ画面を通して目撃、1969年、新宿駅西口広場におけるフォーク・ゲリラ事件は、後に歴史として知った。
社会に向けての痛烈なプロテストソングの時代は一区切り。中学生になって聴き始めたのは、吉田拓郎や井上陽水などの生活派フォークや叙情派フォークだ。テレビの歌番組では聴けないので、ラジオの深夜放送にかじりついたものである。
高校生になって、ギターの上手な先輩にあこがれ、白いギターを買った。フォークではないけれど、チェリッシュの「白いギター」という曲に影響されたように思う。最初に挑戦したのは、フォーク調のトワ・エ・モアの「或る日突然」だった。
ヤマハ・銀座ビルを“長屋”に見立て
先日、ヤマハ銀座ビル地下2階のヤマハ銀座スタジオで、「銀座七丁目フォーク長屋」という催しがあることを知り、出かけてみた。
ナビゲーターは、音楽活動50周年を迎えた小室等さん。企画したヤマハ・銀座ビル推進室の大久保康子さんはいう。
「小室等さんをナビゲーターにして何かやりたいと思って相談したら、日本のフォークミュージックを切り口にして、ゲストを呼ぼうじゃないかということになりました。『銀座にある長屋っていう設定、いいんじゃない?』『では、長屋の大家さんをお願いします』『ならば、ゲストは住人。店子だね。店子といえば、子も同然。大家に頼まれたら、出てこなくてはならない、よね』……。そんな風に話が広がっていったのです」
「銀座七丁目」とは、もちろん、ヤマハ銀座ビルの所在地だ。1951年、浜松に本社のあるヤマハの東京支店として、チェコの著名な建築家のデザインで建てられた。半世紀以上が過ぎ、老朽化が進んだこともあって、建て替えられ、新ビルが昨年完成した。
オープニングは、中村敦夫主演で人気だったテレビドラマ「木枯し紋次郎」の主題歌「誰かが風の中で」。小室さんの作曲だ。「あっしにはかかわりのねぇこって」という、あのニヒルな台詞を思い出す。
この日、小室さんが抱えてきたギターは、1971年製作の「YAMAHA・FG-1500」という名器。「使いたくても怖くて使えなくて、いつもは使っていない」のだそうだ。
「当時、石川鷹彦と一緒に、浜松の研究所でギターのコンサルティングをやっていて、試作品としてもらったもの。材料は最高級品で申し分ないのだけれど、どうも音が鳴らない。リペアマンに見せたら、『腐ってます』とまで言われた。でも、知人を介してある名人にお願いしたら、とんでもない名器になって戻ってきた」(小室さん)という、いわく付き。
娘を迎えた「六文銭’09」
それにしても、スタジオは、最新のヤマハ音響システムを導入しているというだけあって、迫力のボリュームで、音の広がりが素晴らしい。
さあ、いよいよ一軒目の長屋の住人、「六文銭’09」の登場だ。小室さんのほか、1972年に解散した「六文銭」の最盛期を支えたメンバー、及川恒平さんと四角佳子さん、そして小室さんの娘、こむろゆいさんが加わった4人のユニットである。
「サーカスゲーム」「インドの街を象に乗って」「キングサーモンのいる島」「面影橋から」、別役実の芝居「スパイ物語」の劇中歌「ヒゲのはえたスパイ」などなど。旧六文銭時代の懐かしい楽曲が続く。
興味深かったのは、世代の異なる4人のトーク。
小室さんが「六文銭」を結成したのは、1968年。その1年前、フォークの本を出すことになって、情報を集めていた。
「日本でまだフォークが知られていなかったころ、僕はここ七丁目の楽譜売場に入り浸っていました。そこで輸入リストを担当していた鈴木のり子という女性がいて、反対する上司を頑張って説得して、ジョーン・バエズのソングブックを初めて輸入した。それが、のちの僕の妻です」と、小室さん。
それを受けて、メンバーそれぞれが自分の思い出を語り出した。
さて次の「店子」は?
「1967年は、大学で芝居をやっていた。アングラ演劇が入ってきたころで、藤圭子は知っていても、フォークは知らなかった」(及川さん)
「PPMやキングストン・トリオ、ジョーン・バエズを流行歌として聴いていた。友達とギターを持って公園に行って練習した」(四角さん)
そして、1971年生まれのゆいさんは、「子どものころ、お父さんがフォークシンガーと呼ばれていて、フォークって何だろう、民謡じゃないし、なんかダサいと思っていた。たのきんトリオやシブがき隊といったアイドルが人気だった。私は佐野元春なんか聴いていた」という。
ちなみに、私にとっての1967年は、ザ・タイガースのデビューの年。「僕のマリー」「シーサイド・バウンド」「モナリザの微笑み」が大ヒットした年である。
ライブの最後は、「出発(たびだち)の歌」。上條恒彦さんとのコラボレーションで、1971年の第2回世界歌謡祭でグランプリを受賞した名曲だ。
60~70年代のフォークに親しんだ世代もフォークを知らない世代も、それぞれの音楽遍歴を振り返りながらの楽しい催しになった。
今後も、「年に2回くらいは開催していきたい」(大久保さん)という。さて、次に登場する長屋の住人は、だれかなあ。
(プランタン銀座常務・永峰好美)