♪待ち合わせて 歩く銀座
先日、俳優の山内賢さんの訃報に触れて、女優の和泉雅子さんとのデュエットの名曲「二人の銀座」を、改めてユーチューブで聞いた。
「待ち合わせて 歩く銀座」で始まるこの曲で、若い二人が肩を寄せ、指をからませてそぞろ歩くのは、ネオンの灯る東京・銀座のみゆき通りやすずらん通りである。
曲がリリースされたのは、1966年(昭和41年)。翌1967年には、映画化もされている。
ちょうどその前後、銀座の大通り、晴海通りから1本南側に入ったみゆき通りは、アイビールックのファッションに身を包んだ若者たちであふれ返っていた。ボタンダウンシャツにニットタイ、肩の線を落とした三つボタンのジャケット、細身のコットンパンツ……。通りの名前から、「みゆき族」と呼ばれた。
「VAN」創業者、石津謙介さん
みゆき族の“必需品”になったのが、「VAN」の3文字ロゴがプリントされた紙袋だった。
「VAN」を創業したのは、日本の男性ファッションをリードした粋人、石津謙介さんだ。アメリカの雑誌で知ったアイビールックを日本流にアレンジし、1960年代、若者たちの間に大ブームを起こした。
7年ほど前、生前の石津さんにお話を聞く機会があり、当時の様子をこう語っていた。
「問屋に商品を持って行くと、『おっ、カネが来たぞ』と言われたほど、売れに売れました。大卒の初任給がまだ2万3千円程度の時に、VANのスーツは1万6千円。決して安くないはずなのに、店ではお客が待ち構えていて、VANという文字が記されたダンボールが届くと、ふたも開けずに『そのまま欲しい』と取り合ったらしいんです」
1964年夏ごろ、マスメディアはこれを社会現象ととらえ、「みゆき族の登場」と騒ぎ出す。戦後生まれの団塊の世代がちょうど青春期を迎えていた時。その年の10月に迫った東京オリンピックに向けて、風紀取り締まりの一環として、築地警察署はみゆき族の一斉補導に踏み切ったほどだった。
「族」といっても、今から見ればかわいいもので、VANの服をちょっと着崩し、ロゴ入り紙袋を小脇に抱えて、ショーウィンドーの前でぼんやり立っていただけだったらしいが……。
イベントを開き若者に語りかけ
石津さんが仕掛けたわけでもないのに、銀座の商店街から、「買い物に来た大人の邪魔になる」と苦情が来た。そこで、石津さんが考えたのが、「アイビー大集合」という企画。警察にポスターを200枚作ってもらい、若者を銀座のヤマハホールに集めることにしたのだ。
「参加者にはVANの袋をプレゼントする」と書いたのが評判を呼び、2000人が集まって、会場は超満員になった。そこで、石津さんは、「アイビーを一時の流行で終わらせずに、いつまでも大切に育てたい。だから、意味もなく銀座に集まるのはやめてほしい」と一席ぶった。
まもなく、みゆき族は塊としては姿を消したが、アイビーブームは銀座から全国に広まり、定着していく。
通りの名前、由来さまざま
ちなみに、「みゆき通り」の名前は、明治天皇が海軍兵学校への行幸の際、この通りを通られたことに由来する。江戸時代には、築地周辺に屋敷があった諸大名が江戸城に向かう時に使われたとも伝えられ、歴史は古い。
一方、もう一つの「すずらん通り」は、銀座中央通りと数寄屋橋寄りの西銀座通り(外堀通り)の間に平行して走る4本の中通りの一つで、中央通りに最も近い。一年中、昼過ぎからは終日歩行者天国を実施しており、そぞろ歩きにはほっとする通りでもある。街灯やマンホールの蓋にまで、アールヌーボー風のすずらんモチーフが使われていて、なかなか粋である。
全国に「すずらん」が付く商店街の数は30か所以上あるそうだが、銀座のすずらん通りは後発組。大正期から繁栄していた東京・神田のすずらん通りにあやかって名付けられたのだとか。本の街、神田すずらん通り商店街では、毎年「すずらん通りサミット」というイベントも行われているようだ。
ところで、「二人の銀座」を作曲したのは、ベンチャーズ。映画版では、山内賢さんは、エレキバンド「ヤング&フレッシュ」のミュージシャンという設定だ。この映画、ブルー・コメッツや初期のヴィレッジ・シンガーズなども登場、GS創成期の軽やかなエレキサウンドに酔うことができて、楽しい。
(プランタン銀座常務・永峰好美)