お月見の季節。今年は9月12日がいわゆる「中秋の名月」に当たる。
季節のご挨拶のお印にと、知人から「うさぎさん」と題した愛らしい焼き菓子が届いた。東京・銀座7丁目にある源吉兆庵銀座店のお月見限定商品。さわやかなユズあんを練乳風味の生地で包んで焼き上げた一品。何ともやさしい味わいだ。
中秋の名月とは、月の満ち欠けを基準とした陰暦(旧暦)8月15日の夜の月のこと。中秋の名月の日が必ずしも満月になるわけではないが、今年はちょうど満月になるのだそうだ。
満月の夜、口を開かず橋を渡る
銀座・築地の橋を舞台にした三島由紀夫の「橋づくし」は、陰暦8月15日の満月の夜のお話だった。その晩、7つの橋を一切口を開かずに渡り終えれば願いがかなうという、願掛けの物語。舞台をちょっと歩いてみたくなった。
登場人物は4人の女性たち。「お金が欲しい」年増芸者の小弓、「いい旦那が欲しい」かな子、「俳優のRと一緒になりたい」料亭の娘満佐子、それに、満佐子の家で働く女中のみながお供として加わった。
≪四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲った。ビル街に、街頭のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。
ほどなく4人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍しい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり……≫
小説はこんな風に進んでいく。
築地川にかかるY字型の三吉橋
「珍しい三叉の橋」といわれても、ぴんとこなかったのだが、実際に三吉橋を訪れると、なるほどと思った。
三吉橋は、銀座1丁目と2丁目の境界を走る銀座柳通りが首都高速道路を渡るところにある。中央区役所側から写真を撮ると、橋が中央部分で屈曲しているのがよくわかる。これが三つ又、上空から見るとY字型になっている。
橋が造られたのは、昭和4年(1929年)で、関東大震災後の復興計画の一環として架設された。当時はもちろん川があったわけで、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船や屋形船などが行き交っていた。築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ連絡運河が開削され、川が三叉の形になったのだという。
7つの橋、今昔
小説が書かれた1950年代半ばは、まだ川が存在していたが、高度成長期とともに川の汚染が進み、1962年、首都高速道路の建設を機に埋め立てられた。
その後、1993年に大規模な改修が行われ、現在の三吉橋の欄干は、水辺に映える木立をイメージしたデザイン。照明は、昭和初期当時のスズラン燈が採用され、レトロな情緒が若干戻っている。橋のたもとの柳の木の下には石碑が立ち、「橋づくし」の文章も紹介されている。
小説では、三叉の橋の二辺を渡ることで、橋を2つ渡ったものと勘定していた。
三吉橋を過ぎると、すぐに築地橋、入船橋と続く。入船橋は、首都高速道路の出口になっており、川床であったあたりはコンクリートで固められ、バスケットボールのコートなど子どもたちの遊び場に姿を変えていた。
入船橋を過ぎると、築地川はさらに右手に屈曲する。いまは埋め立てられ、築地川公園として開放されている。左手には聖路加病院の建物群が広がっている。公園の中に、暁橋と備前橋の名残を認めることができるのだが、小説では描写されていたこの2つの橋の間にあるはずの堺橋だけがなくなっていた。
願掛けの行方は…
さて、小説に戻ってみよう。4人の女性たちの願掛けは成就したのだろうか。
最初に脱落したのは、かな子。3番目の築地橋を渡り終えたところで、自分の願いが「非現実な、夢のやうな、子供じみた願望」であると気づき、腹痛に負けて帰ってしまう。
残り3人は入船橋を無事渡るが、5番目の暁橋で、小弓に不幸が起こる。昔の知り合いから声をかけられ、あえなく脱落である。
満佐子とみなは願掛けを順調に続けていくが、最後の備前橋で、今度は満佐子に不幸が起こる。夜道を黙って静々と歩いている姿を見て、投身自殺でもするのではないかと不審に思った警官から尋問を受けるのだ。
女中のみなに答えさせようとするのだが、みなは沈黙を守っている。そこで満佐子が思わず発した「ひどいわよ」の一言が命取りになった。結局、無事願掛けを成就させたのは、お供についてきたみなだけ。みなが何を願掛けしたかは、だれにもわからない……。
秋風が感じられるようになった満月の夜、願掛けのお月見散歩としゃれてみるのもよさそうだ。
(プランタン銀座常務・永峰好美)