2011.02.04

幕末の探検家・松浦武四郎と「一畳敷」

 松浦武四郎という幕末の探検家の名前を知ったのは、学生時代のことだった。

 東京・三鷹にある私の母校、国際基督教大学(ICU)は、アメリカの大学のキャンパスを小ぶりにしたような雰囲気があるのだが、構内の雑木林の中にひっそりと、ひなびた感じの茶室風建物がある。「泰山荘」と呼ばれていた。

 北海道の名付け親、松浦武四郎が、人生最期を過ごすのに選んだ場所だと聞いた。学生時代は、演劇部にいた友人がここで発声練習をするのに付き合って、私は傍らで本を読む静かな時間を楽しんだりした。

 のちに、ICUに在籍されたコロンビア大学教授のヘンリー・スミスさんの著書「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」(1993年)で、その全貌と、武四郎の興味尽きない人生を知ることになるのだが……。

一畳敷の小宇宙

  • 「東西蝦夷山川地理取調図」の十勝平野周辺図

 東京・京橋のINAXギャラリーで、「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷展」が開かれていると知り、出掛けてみた(2月19日まで)。

 会場には、武四郎が造り上げた「一畳敷」が写真パネルを使って立体的に再現されており、その中に身を置くことができる。「一畳」という広さが、私たち人間にとってちょうど身の丈が収まる心地よい空間であることを改めて教えられた。

 武四郎は「草の()」と名付けたが、明治の評論家、内田魯庵は「好事の絶頂」と呼び、人々は、部屋として最小限の広さであることから、「一畳敷」といって親しんだ。

 松浦武四郎は型破りな才人といわれ、生涯をかけて日本全国を旅し、山に登り、海峡を渡り、240を超える著作を残している。生家は、現在の松阪市、伊勢街道沿いにあり、幼いころから、お伊勢参りの旅人を目にしていたことが旅への憧れと好奇心を育んだといわれている。

 17歳より諸国を遍歴、27歳までに東北~九州間を制覇。その後、日本の国防を憂いて、領土を正確に把握するために蝦夷地調査へと、フットワーク軽く向かう。

 和歌や篆刻(てんこく)にも優れ、各地の文物を蒐集した趣味人でもあった。吉田松陰は武四郎を盟友とし、「奇人で強烈な個性の持ち主」と評している。明治政府より開拓判官に任じられたが、政府のアイヌ政策を批判して辞任するなど、反骨の人でもあった。

北海道の名付け親

  • 北海道の動植物を詳細に記した「久摺日誌」 ここではイトウが描かれている

 歩幅による距離の把握に長け、文字を持たなかったアイヌ民族の生活や風習、土地で出合った珍しい動植物なども「野帳(のちょう)」と呼ばれる小さなフィールドノートに克明に記録した。6度の探検の成果は、この莫大なる記録をもとに、「久摺(くすり)日誌」「北蝦夷余誌」などの紀行本や蝦夷地図にまとめられ、広く世間に紹介した。明治に入って蝦夷地に変わる地名を提案、「北海道」と名付けたのも彼だった。

 特に地図に関しては、伊能忠敬と間宮林蔵によって輪郭線は測量されていたが、その内部は未開拓で、彼はアイヌ民族と協力して入り組んだ川の流れや地形の詳細を明らかにした。会場に展示された「東西(とうざい)蝦夷(えぞ)山川(さんせん)地理(ちり)取調図(とりしらべず)」は貴重な実物。経緯度1度で1枚という大判で、26枚組み。9600字にも上るアイヌ語で地名を書き入れた緻密さは目を見張る。

 武四郎の目線はいつも温かく、アイヌの人々に対する敬意の念を忘れていない。たとえば、漁業においては短い網を用いるなどして乱獲に配慮する、熊など神と崇められる生き物については、捕獲後は神の世界へ送り戻す儀礼を執り行うなど、その自然に対する姿勢を尊重している。また、魚についても詳細な記述が目立ち、「味よろし」など、ちょっとお茶目な感想も記している。

 アイヌの人々と同じ食べ物を食べ、アイヌ文化への敬いの心で接した武四郎に、アイヌの人々も随分と信頼を寄せたようだった。

古材の由来「木片勧進」に

  • 「一畳敷」の書斎に使われた古材の由来をまとめた「木片勧進」

 ところで、「一畳敷」がなぜICUキャンパス内に残るのか、少々解説を加えておこう。

 武四郎は旅に生きた人生を締めくくるかのように、東京・神田五軒町の住まいをついのすみ家として選び、その東側に、8年の歳月をかけて書斎を設けた。一畳だけで完結した空間はかつてなく、「自らの創作である」と自負していたそうだ。

 古稀を迎える一大事業として取り組み、完成したのは明治20年(1887年)。旅をきっかけに知り合った人々から情報を収集し、由緒ある木片を部材として集めた。古材の出所は、北は宮城県から南は宮崎県まで、その数91に上るという。奈良の吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居や伊勢神宮の遷宮で取り替えられた木材なども含まれていた。友人たちから「銘木の一片が出る」との文が届けば、これを取り寄せ、時には、その地に出掛けて探すこともあった。

 古材の由来とどこに用いたかは図面とともにまとめ、「木片勧進」として出版している。人付き合いを好む武四郎は、時折この一畳敷に人を招き入れ、「木片勧進」を開きつつ、来歴について語り聞かせたりもしたそうだ。武四郎の経験は、幕末の志士たちにも大きな影響を与えたといわれている。

ICU祭では「泰山荘」一般公開

  • 「北蝦夷余誌」では、北方民族の生活を紹介

 一畳敷の完成から1年余の明治21年、武四郎は71歳で生涯を終える。「木片勧進」には、死後はこれを壊し、その古材で亡骸(なきがら)を焼いて、遺骨は大台々原に埋めてほしいと記してあったが、遺族は取り壊さずに自邸とともに残した。

 一時、徳川家が営む図書館「南葵(なんき)文庫」に移築されたが、昭和の初めに日産財閥の実業家、山田敬亮に譲渡。跡地は中島飛行機の工場を経て、戦後ICUとなり、キャンパス内に保存されることになったのである。

 ヘンリー・スミス教授は、今回の展示インタビューの中で、「武四郎の人生は、一点から出発してだんだん広がり、長崎や蝦夷地にまで延び、そして最後は縮んでいく。人生の締めくくりとして、原点を見つめようとしたのだろう。私も古稀を迎える年齢になり、その気持ちがわかるようになった」と語っている。

 さて、毎年秋のICU祭では、「泰山荘」も一般公開されている。一畳敷の小宇宙に、久しぶりに身を置いてみたくなった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)