GINZA通信アーカイブ

2011.12.05

神秘の島・サルデーニャ

 本土から孤立し、独自の文化

  • サルデーニャの州都カリアリは、石畳の狭い路地裏が続く

 イタリア本土から187キロ西、アフリカ大陸から184キロ北――ローマから飛行機で約1時間飛んで、地中海に浮かぶサルデーニャに行ってきた。

 イタリアではシチリア島に次いで2番目に大きな島。本土から孤立しているためか、地中海世界の中でも独自の文化が育まれた土地として知られている。

 イタリア人作家ジュゼッペ・デッシは、「サルデーニャは月の一部である」と評したそうな。

 月のように、乾いて冷たく、人類がかつて見たことのない顔を持つ土地だ……と。

 海辺にある州都カリアリから内陸に入っていくと、確かに、巨大な岩石があちらこちらにごろごろと転がっていて、私の知るイタリアの土地にはない荒々しくも異様な光景が広がる。

古代の記憶残る塔「ヌラーゲ」

 最も複雑かつ謎に満ちた建造物の一群がヌラーゲであろう。

 一辺が1メートルほどの大きな石を積み上げた円錐形の塔。単体で、あるいは砦のように複数かたまってそびえ立っている。接合材は使わず、不規則ながら隙間なく見事に積まれているのは圧巻だ。

  • サルデーニャ最大のヌラーゲ、バルーミニの遺跡

 紀元前1500年ごろからローマに征服される紀元前3世紀ごろまで、サルデーニャに牧畜経済を中心とする高度な文明を築いたヌラーゲ人の遺物。現在も大小合わせて約7000のヌラーゲが、ほぼ島の全域に渡って存在しているという。宗教施設、要塞、部族長の家、天文研究所……。建造物の用途は謎に包まれたままだ。

  • 隙間なく見事に積まれたヌラーゲの内部

 最大級のヌラーゲは、南部のバルーミニにあって、世界遺産にも指定されている。平坦な地に突如として姿を見せる要塞のような空間は迫力満点。ガイドの話では、ヌラーゲ内部のドーム状の天井の工法などに古代オリエントの影響が強くみられるが、この技術がどういう経緯で東方からこの地に伝わったかはわかっていないという。

 イタリア建築が専門の陣内秀信・法政大学教授は、地霊(ゲニウス・ロキ)が宿る特別な意味を持った場所とする。「イタリアの中でも特にこの島には、近代文明に侵されない場所の力が感じられる。ちょうど日本の土地に精霊が宿るごとく、サルデーニャでも場所に聖なる意味が込められていることが多い」(山川出版社「地中海の聖なる島サルデーニャ」)と記している。

 なるほど、重厚な塔の一か所だけある小さな出入り口をくぐると、薄暗くひんやりした空気に包まれ、そう、神社の鳥居をくぐった時と同じような感覚に陥る。古代からの記憶が受け継がれる場、まさにパワースポットである。

 そんな神秘の島の食は、新鮮な素材を生かし、オリーブオイルとヴィネガー、塩などで味を調えた実にシンプルな料理で、おいしい。

地中海の恵みをシンプルな味付けで

  • (左上)ペコリーノチーズをかけたウナギ(左下)特産のカラスミのパスタ(右上)見た目はリゾット風のパスタ、フレグラ(右下)新鮮なイワシのマリネ

 サルデーニャのオリーブオイルは香りが豊かで、ほんの少し苦味の残る後味がたまらない。

 特産のペコリーノチーズをたっぷりかけたウナギ、グリルしたイカや白身魚、イワシのマリネ、タコとジャガイモとトマトのサラダ……。

 フェニキア人がサルデーニャに持ち込んだというボラの卵のカラスミも、特産品。すりおろしたカラスミのパウダーは、イタリア版ふりかけといったところで、食卓の常備菜。パスタやサラダに一振りすれば、複雑な旨みをさらに引き出せる。

  • 熱々のところを食べるデザート、セアダス

 フレグラというコショウ粒ほどの粒状パスタも珍しかった。クスクスと同様、起源は北アフリカと聞いた。だが、蒸して肉や魚のスープをかけて食べるクスクスとは違い、パスタにたっぷりのスープを吸わせてリゾットのようにして食べる。カリアリでは、アサリやムール貝のスープで作り、トマトの甘みとサフランの香りで仕上げるのが伝統的なようだ。

  • 爽やかなリキュール、ミルト酒(右)

 デザートは、これも名物のセアダス。ラードを練り込んだ円盤形のパイ生地に、挟んであるのは、砂糖とレモンで風味付けした熱々のペコリーノチーズ。ハチミツをとろりとかけてナイフで切ると、中のチーズが溶け出して、何ともいえない美味である。

 仕上げには、ミルト酒を。アフロディーテの神木ともいわれるミルト(銀梅花)の実をアルコールに漬け込んだ、ミントのような爽やかなリキュールだった。

銀座で州旗を発見!

 ところで、サルデーニャの州旗は「クワットロモーリ」と呼ばれ、鉢巻を巻いた4人のムーア人の横顔がデザインされている。

 10世紀、シチリアがアラブ人に征服されているころ、サルデーニャはビザンツ帝国から隔離され、4つの王国がつくられた。4人の横顔はこれらの国を表しているという。

 帰国して、銀座のお隣、新富町の裏通りを歩いていたら、イタリア国旗とともに、「クワットロモーリ」を発見!

  • 銀座にもサルデーニャの風が吹いていた

 「サポセトゥ・ディ・アキ」というイタリアンレストラン。オーナーシェフの木村彰博さんは築地生まれの築地育ちで、板前の父をもつ料理人。イタリアで料理修行をした後、昨年地元に戻って店をオープンした。「サポセトゥ(S’apposentu)」とは、サルデーニャ語で「客室」の意味で、修行中、サルデーニャで巡りあった恩師から名前をもらったそうだ。

 ディナータイムには、アサリやカラスミのタリオリーニ、フレゴラのスープ仕立て、パーネ・グッティアウ(ローズマリー風味のパン)など、サルデーニャ名物も並ぶ。

 銀座でも、神秘の島の味が楽しめるなんて、ちょっとうれしい。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

 ◆築地イタリアン「サポセトゥ・ディ・アキ」

 http://www.sapposentu.jp/

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2011.11.18

“フォーク界の長老”小室等さんの長屋ライブ

 日本中がフォークに夢中だった時代

  • 小室等さんをナビゲーターに企画された「銀座七丁目フォーク長屋」

 10月14日付の小欄で、人気のフォーク酒場のライブの話題をご紹介したが、以来、フォークのことが気になって仕方がない。

 小学生のころからグループサウンズに夢中になり、ローリング・ストーンズにはまった私だが、振り返れば、フォークもそれなりに聴いていた。

 フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」や「悲しくてやりきれない」がヒットしたのが、小学校高学年の時。ベトナム戦争反対や安保反対の学生運動をテレビ画面を通して目撃、1969年、新宿駅西口広場におけるフォーク・ゲリラ事件は、後に歴史として知った。

 社会に向けての痛烈なプロテストソングの時代は一区切り。中学生になって聴き始めたのは、吉田拓郎や井上陽水などの生活派フォークや叙情派フォークだ。テレビの歌番組では聴けないので、ラジオの深夜放送にかじりついたものである。

 高校生になって、ギターの上手な先輩にあこがれ、白いギターを買った。フォークではないけれど、チェリッシュの「白いギター」という曲に影響されたように思う。最初に挑戦したのは、フォーク調のトワ・エ・モアの「或る日突然」だった。

ヤマハ・銀座ビルを“長屋”に見立て

  • 名器が並ぶヤマハのギター売場

 先日、ヤマハ銀座ビル地下2階のヤマハ銀座スタジオで、「銀座七丁目フォーク長屋」という催しがあることを知り、出かけてみた。

 ナビゲーターは、音楽活動50周年を迎えた小室等さん。企画したヤマハ・銀座ビル推進室の大久保康子さんはいう。

 「小室等さんをナビゲーターにして何かやりたいと思って相談したら、日本のフォークミュージックを切り口にして、ゲストを呼ぼうじゃないかということになりました。『銀座にある長屋っていう設定、いいんじゃない?』『では、長屋の大家さんをお願いします』『ならば、ゲストは住人。店子だね。店子といえば、子も同然。大家に頼まれたら、出てこなくてはならない、よね』……。そんな風に話が広がっていったのです」

 「銀座七丁目」とは、もちろん、ヤマハ銀座ビルの所在地だ。1951年、浜松に本社のあるヤマハの東京支店として、チェコの著名な建築家のデザインで建てられた。半世紀以上が過ぎ、老朽化が進んだこともあって、建て替えられ、新ビルが昨年完成した。

 オープニングは、中村敦夫主演で人気だったテレビドラマ「木枯し紋次郎」の主題歌「誰かが風の中で」。小室さんの作曲だ。「あっしにはかかわりのねぇこって」という、あのニヒルな台詞を思い出す。

 この日、小室さんが抱えてきたギターは、1971年製作の「YAMAHA・FG-1500」という名器。「使いたくても怖くて使えなくて、いつもは使っていない」のだそうだ。

 「当時、石川鷹彦と一緒に、浜松の研究所でギターのコンサルティングをやっていて、試作品としてもらったもの。材料は最高級品で申し分ないのだけれど、どうも音が鳴らない。リペアマンに見せたら、『腐ってます』とまで言われた。でも、知人を介してある名人にお願いしたら、とんでもない名器になって戻ってきた」(小室さん)という、いわく付き。

娘を迎えた「六文銭’09」

  • 1回目のゲストは、六文銭’09

 それにしても、スタジオは、最新のヤマハ音響システムを導入しているというだけあって、迫力のボリュームで、音の広がりが素晴らしい。

 さあ、いよいよ一軒目の長屋の住人、「六文銭’09」の登場だ。小室さんのほか、1972年に解散した「六文銭」の最盛期を支えたメンバー、及川恒平さんと四角佳子さん、そして小室さんの娘、こむろゆいさんが加わった4人のユニットである。

  • 「フォーク長屋の縁側でおしゃべりしている感じ」(小室さん)でトークが進む

 「サーカスゲーム」「インドの街を象に乗って」「キングサーモンのいる島」「面影橋から」、別役実の芝居「スパイ物語」の劇中歌「ヒゲのはえたスパイ」などなど。旧六文銭時代の懐かしい楽曲が続く。

 興味深かったのは、世代の異なる4人のトーク。

 小室さんが「六文銭」を結成したのは、1968年。その1年前、フォークの本を出すことになって、情報を集めていた。

 「日本でまだフォークが知られていなかったころ、僕はここ七丁目の楽譜売場に入り浸っていました。そこで輸入リストを担当していた鈴木のり子という女性がいて、反対する上司を頑張って説得して、ジョーン・バエズのソングブックを初めて輸入した。それが、のちの僕の妻です」と、小室さん。

 それを受けて、メンバーそれぞれが自分の思い出を語り出した。

さて次の「店子」は?

  • ヤマハ銀座ビル3階の楽譜売場は図書館のよう。ギターの弾き語りの楽譜も充実している

 「1967年は、大学で芝居をやっていた。アングラ演劇が入ってきたころで、藤圭子は知っていても、フォークは知らなかった」(及川さん)

 「PPMやキングストン・トリオ、ジョーン・バエズを流行歌として聴いていた。友達とギターを持って公園に行って練習した」(四角さん)

 そして、1971年生まれのゆいさんは、「子どものころ、お父さんがフォークシンガーと呼ばれていて、フォークって何だろう、民謡じゃないし、なんかダサいと思っていた。たのきんトリオやシブがき隊といったアイドルが人気だった。私は佐野元春なんか聴いていた」という。

 ちなみに、私にとっての1967年は、ザ・タイガースのデビューの年。「僕のマリー」「シーサイド・バウンド」「モナリザの微笑み」が大ヒットした年である。

 ライブの最後は、「出発(たびだち)の歌」。上條恒彦さんとのコラボレーションで、1971年の第2回世界歌謡祭でグランプリを受賞した名曲だ。

 60~70年代のフォークに親しんだ世代もフォークを知らない世代も、それぞれの音楽遍歴を振り返りながらの楽しい催しになった。

 今後も、「年に2回くらいは開催していきたい」(大久保さん)という。さて、次に登場する長屋の住人は、だれかなあ。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.11.11

主役は商店主「GINZA しあわせ」写真展

 篠山紀信さんが撮る“銀座人”

  • 銀座人たちの笑顔が並ぶ写真展のタイトルは、ずばり「GINZA しあわせ」
  • 「登場する店舗は私の独断と偏見で」と、東京画廊代表の山本豊津さん

 写真家の篠山紀信さんが、東京・銀座で商いをする人たちを撮りおろした写真展「GINZA しあわせ」が、銀座8丁目の東京画廊で開かれている(11月26日まで)。

 同画廊は、日本で初めて現代美術を扱う画廊として1950年にオープン。2002年には、世界の美術の目利きが集まる場に打って出ようと、北京にも画廊を開いた。

 代表の山本豊津(ほづ)さんは二代目で、銀座の町会の集まりである全銀座会で長年、催事委員を務めるなど、“銀座文化人”として知られている。和光や資生堂などのショーウィンドーを美術系の学生たちに開放し、ディスプレーデザインを競わせるなど、銀座の新しい街づくりにも精力的に取り組んでいる。

 今回は、篠山さんと親交のある友人から「銀座で展覧会をやらない?」と勧められ、それならば、銀座の商店主を主役にしようと、企画を2年半ほど温めてきた。

銀ブラ気分で鑑賞

 登場しているのは、「私の独断と偏見で選んだ」(山本さん)、31店舗の店主や店員たち。

 「萬年堂」「ギンザのサヱグサ」「金田中」「銀座千疋屋」「二葉鮨」「銀座・伊東屋」…。名前を聞けば、多くの人が「ああ」とうなづくであろう銀座の名店が並ぶ。室町後期創業の和菓子「とらや」を筆頭に老舗が多いが、1970年代に開業した呉服店や10年前に銀座に進出した日本茶カフェなどの新顔も。

 会場の入り口を入ると、右手が銀座1丁目。白壁に、銀座中央通りを表す黄色のラインが1本ひかれていて、それをたどってぐるりと回遊すると、銀座8丁目へ。黄色のラインを境に、写真の位置が上下に微妙にずれているのは、中央通りの東西どちら側にあるのか、各店の大まかな位置を示すためだそうだ。

 木版画あり、宝石あり、文房具あり、果物あり。会場を一巡すると、銀ブラしながらウィンドーショッピングをしているようで、うきうきした気分になってくる。

  • 140年の歴史をもつ「二葉鮨」には、古きよき日本情緒が漂う ((c)Kishin Shinoyama)
  • 果物を贈答品とする文化を育てた「銀座千疋屋」。写真は齋藤充社長 ((c)Kishin Shinoyama)

多彩な役者が魅せる名場面

  • 「資生堂」の創業は明治5年。写真は吉田聖子店長とスタッフたち ((c)Kishin Shinoyama)

 老舗社長の風格のあるたたずまいも素敵だが、小さな未来の若旦那を抱っこした家族写真は、ほほ笑ましいし、現場の女性従業員がずらりと並んで出迎える場面も壮観である。

 作家の北方謙三氏がバー「ディー・ハートマン」のお客としてさりげなく登場していたりして、銀座という街を愛する人々の層の厚さを感じさせる。

 「ちょっと変わっているのは、これでしょう」と、山本さんが教えてくれたのは、電通4代目社長の吉田秀雄氏のデスマスクを主役にした写真だった。「篠山さんと電通銀座ビルを訪問して、見つけました。これが主役だって、2人ともほぼ同時にひらめいた」という。

 山本さんは、ほとんどの撮影に立ち会っている。篠山さんの撮影時間は1人につきわずか20分ほど。「早いですねって聞いたら、被写体が素人さんの時は緊張感が続かないからって言われて、ああ、そうだなあと納得しました」

「GINZA」の笑顔、世界へ発信

  • 写真展に合わせて出版された篠山さんの写真集

 それにしても、登場する人々皆、自然にこぼれる笑顔がすがすがしい。

 写真展に合わせて出版された写真集「GINZA しあわせ」(講談社)の中で、篠山さんはこう記している。

 「撮影は楽しかった。人も店も粋でおしゃれで品があって、でも威張ってなくてカッコいい。やはりこれは長い歴史が作り上げた“味”なんだなぁと思った」「出来上がった写真を見ると、僕が注文したわけでもないのにみんな笑っている。幸せいっぱい、ハッピーな写真ばかりだ。今年は3月11日に大変な震災が起こった。そんな年にもかかわらず、いや、そんな年だからこそ、みんな笑っているのだろう」――。

 山本さんは、「銀座を考えることは、日本人が日本をどう理解しているかと深いかかわりがあると思う」と語る。

 江戸から現代へと、脈々と続く歴史の中で、銀座には多様な商いが育ってきた。

 「たとえば、(グランメゾンといわれる)高級ブランド店は世界中どこへ行ってもあるけれど、『壹番館洋服店』は銀座にしかないでしょう。オリジナルの英国服地を、日本人のもつ繊細かつ正確な技術で仕立てていくのです。『とらや銀座店』のように、店頭に取締役の女性が常に立っておもてなしをするというのも、銀座ならではのサービスではありませんか。銀座人は、この独特の“質感”の素晴らしさをもっと自覚して、世界に発信していかないと、もったいないですよ」

 特に中国や韓国をはじめアジア諸国では、「GINZA」は憧れだ。

 来春は北京の画廊に場所を移し、写真展「GINZA しあわせ」を展開、「GINZAブランド」を大いにアピールする予定という。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

 ◆東京画廊

 http://www.tokyo-gallery.com/

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2011.11.04

新橋芸者衆「見番通り」お披露目会

 通りの愛称さまざまに

  • 「見番通り」にはバーやクラブが多く、花屋の軒先も華やか
  • 新橋見番がある、銀座8丁目の新橋会館ビル

 東京・銀座の多くの生活道路には、だれもがわかりやすく親しめるようにと、愛称が付けられている。

 銀座桜通り、銀座柳通り、みゆき通り、花椿通り、御門通り、銀座コリドー通り、数奇屋通り、並木通り、金春通り、あづま通り、銀座マロニエ通り、銀座三原通り、木挽町通り、銀座ガス灯通り、銀座レンガ通り……。銀座の番地が付く通りでいえば、その数は軽く20路線を超える。

 愛称を認可する中央区役所によれば、「銀座の柳で親しまれているから『柳通り』と名付けたいという申請を受けたとき、すでに中央区には八重洲の柳通りが存在していた。そこで、地名を冠にして『銀座柳通り』で了承してもらうなど、愛称一つ付けるにもそれなりに苦労がある」という。

 最近では、昨年3月、銀座8丁目の新橋会館ビル前の、花椿通りと交差する通りが、「見番通り」と命名され、新しく仲間入りした。今まで、便宜上、「西五番街通り」と呼んでいたところである。

新橋見番の座敷が一般に初公開

 見番というのは、花柳界で、芸者衆と料亭との取り次ぎをしたり玉代の計算をしたりする取りまとめの事務所のようなところ。今でも、新橋芸者衆の「新橋見番」が、新橋会館ビルの中にある。

  • 「見番通り」の名前をもっと多くの人に知ってもらおうと開かれたお披露目会
  • 見番の座敷は、いつもは、芸者衆の厳しい稽古の場に(「東をどり」のパンフレットから)

 ちなみに、銀座なのに、新橋芸者と呼ぶのは、銀座中央通りにある天ぷらの「天国」のあたりに、実際に新橋という橋が架かっていた名残である。

 花柳界の話となると、なかなか敷居が高い。で、一般の多くの人にも「見番通り」の名称にもっと親しんでもらおうとの趣旨で、10月30日、「見番通りお披露目の会」が開かれた。

 場所は、芸者衆が毎日踊りや長唄、三味線などの厳しい稽古をしている新橋見番の座敷。一般に開放されたのは初めてとのことで、老舗の大旦那衆も、「長い銀座暮らしの中でも、初めての経験だ」と、口々に言っていた。

 べっ甲のかんざしで有名な老舗、銀座かなめ屋も見番通りにある。

 三代目の若旦那、柴田光治さんによると、昭和の初め、同店の先代の時代には、「見番通り」と呼んでいたそうで、当時、芸者衆を乗せた人力車が連なって、たいそう華やいでいたらしい。

ハイカラモダンの発信地・新橋

  • 銀座の芸者衆について語る岡副真吾さん

 さて、お披露目の会では、料亭「金田中」3代目で、東京新橋組合頭取の岡副真吾さんが、「幕末から今につながる銀座の芸者」について語り、続いて、日本の芸能の幕開きに舞台お清めとして用いられてきた、長唄「雛鶴三番叟(ひなづるさんばんそう)」の素踊りが披露された。

 新橋芸者の歴史については、5月27日付の小欄「新橋芸者の晴れ舞台『東をどり』」で書いたので、関心のある方は参考にしていただきたい。

  • お披露目会では、二人立ちの素踊りが披露された

 いまや東京の見番は、浅草、赤坂、向島、神楽坂、芳町、それに新橋の6か所になった。とはいえ、幕末の時から、「進取の気風に富み、ハイカラモダンの発信地であった新橋」の精神は、しっかり受け継がれている。

 岡副さんは、「見番なんて、そんな古臭い名称を復活させるのかという意見もあったが、歴史は歴史として受け止めていきたい。そして、見番通りから、時代に即した、銀座の新しい和の文化の発信ができれば素晴らしいと思う」と語る。

学生による創作茶室も

  • 野点が楽しめる「銀茶会」は、銀座の秋の風物詩になりつつある

 同じ日、銀座の街では、十数か所で野点が楽しめる大規模な茶会「銀茶会」が開かれた。表千家、裏千家、武者小路千家、江戸千家の茶道四流派が一堂に会する珍しいイベントで、薄茶席なども用意された。ハートをモチーフにした和菓子をいただきながら、普段お茶席となじみがない人たちも、鮮やかな赤の野点傘の下、風情ある銀座の秋を満喫したようだった。

  • 銀座三越に展示された、学生創作茶席の一つ

 「銀茶会」の一環として、建築を学ぶ学生たちが、「いま、人を癒すための茶室」のテーマで学生創作茶席を設計・施工し、銀座三越にその中の優秀作品が展示された。モダンではあるが、和紙の温かみがどこか心を和ませてくれる不思議な空間だった。

 銀座の街の和の発信は、さまざまな形で進化し、広がっている。「見番通り」からは、どんな粋で新しい発信がなされるのだろうか。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.10.28

築80年、奥野ビルに刻まれた女性の軌跡

 アーティストらによる「306号室プロジェクト」

  • 1932年に竣工された奥野ビルディング

 昭和レトロな建築として知られる東京・銀座1丁目の奥野ビルディング(旧銀座アパートメント)のことは、小欄でも何度かご紹介してきた。

 その一室、3階の306号室が、10月30日まで公開されている。「80年にわたり銀座の街を見続けた奥野ビル⇔銀座アパートの歴史探検」という企画展の一環。

  • (上)3階306号室の入り口(下)美容室の看板は故郷の秋田の親戚の手元へ。原寸大プリントが飾ってある

 主催しているのは、「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」というアーティストたちの非営利団体だ。

 プロジェクトの解説は、こんな文でつづられている。

 「奥野ビル3階の薄暗い廊下には、『スダ美容室』という小さな看板が掲げられていました。しゃれたデザインで、往時の雰囲気をそれとなく伝えるものでした。しかし、少なくともここ十年ほどは、周囲を見渡しても美容室らしきものは見あたりません。たぶんこのフロアのどこかで開業していた美容室が店を閉め、看板だけが残されたのでしょう。しかしそうした経緯はさておき、実体としては存在しない美容室の、雰囲気だけをしっかりと伝えるこの看板それ自体は、なんともなぞめいていて大変印象に残るものでした……」

昭和初期の香り残る美容室跡

  • 玄関口には大きな鏡

 306号室の住人は、秋田県出身の美容師、須田芳子さんだった。1932年(昭和7年)に竣工したアパートにまもなく入居して、「スダ美容室」を開いたのである。

  • 丸い鏡が3つ。美容室の雰囲気がそのまま残る

 戦争をはさみ、昭和の終わりまで仕事を続け、銀座のバーに勤めるホステスさんたちから、相談相手としても随分と慕われていたらしい。いっとき、シャンプーなど美容関連商品の製造販売などにも手を広げ、事業家としても活躍したようだ。美容室を閉じてからもこの部屋に住み続け、2008年、100歳で亡くなられたという。

 現在は、モダンな都市生活のシンボルだった奥野ビルの魅力にとりつかれているアーティスト10人が集まって、家賃を分担しつつ、部屋を維持している。幸いにして、須田さんが亡くなられて遺品整理が終わった直後、修繕などの手が加わらない前に借り受けることができたので、昭和初期の雰囲気がそのまま受け継がれている。

 部屋の維持といっても、遺跡のように部屋を保存するというのではなく、映像やインスタレーションなど、さまざまな分野のアーティストがここで行動を起こすことで、先人が残したものとつながり、さらに未来に向けて発展していければ――そんなことを期待した実験的なプロジェクトである。

 306号室の玄関口から入ってみよう。

銀座で生き抜いたキャリアウーマン

  • 美容師として活躍していたころの須田さん(右)
  • (左)奥に着付けに使ったらしき空間が広がる(右)美容室の常連客のインタビューが流れる
  • 水道台の上に水分摂取を促す注意書きが……

 控えの間(恐らく美容室時代には待合室、折り畳み式ベッドの設置跡もうかがえる)、鏡の間、そして押入れ(着付けのスペースとして使っていたようだ)などが、コンパクトにまとまっている。

 剥離しつつある壁、丸い鏡、水道台……美容師の国家資格を取って上京し、銀座の地で頑張ってきた一人のキャリアウーマンの軌跡が、その一つひとつに刻まれている。水道台の脇に、「なるべく水分を沢山摂ってください」との貼紙が残っている。須田さんは、ヘルパーさんの手を借りながら、凛として晩年を過ごされたのであろう。

 待合室でおしゃべりに興じる戦前の女性たちの写真が残されていた。髪を整える美容室は、女性たちにとって社交の場でもあり、その中心に、須田さんはいたのである。

 昭和の雰囲気を醸し出すためか、テレビはブラウン管仕様。そこには、奥野ビルで生まれ育った人やスダ美容室のかつての常連客などへのインタビュー映像が流れていた。

 「着付けが上手で、親子三代で通いました。明るくて、話がとても上手」「昔は、卵の殻なんか使ってシャンプーしていたわよ」……。皆が楽しそうに思い出を語っていた。

現代と戦前――交錯する景色

  • ガラス窓の向こうは、今はオフィスビル
  • 奥野ビルの出入り口のすぐ脇にあるアンティーク屋さんの丸いショーウィンドー

 「ここで、アンティーク本などを販売してみるのも面白そうだね、なんて、今回初めて306号室を訪問した人たちからも次回につながるさまざまなアイデアが出ました」と、同プロジェクト関係者は話す。

 暮れ行く秋の夕方、ガラス窓を通して陽光が微妙に変化していく景色が美しい。

 地上6階、地下1階の鉄筋コンクリート造りの銀座アパートメントでは、戦前まで、眼下に三十間堀川が見え、水上バスが行き交う光景が広がっていたはずである。川の先には、隅田川や東京湾が望めたことだろう。

 モダニズムの香り漂う都市空間を作り出していた銀座にふさわしい、しゃれたライフスタイルが、このアパートメントでは繰り広げられていたのである。

 ノスタルジックな気持ちになって、奥野ビルを出る。出口のすぐ横にあるアンティーク屋さんの丸窓をのぞきながら、須田さんの部屋の鏡のことをぼんやり思い出していた。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.10.21

江戸時代から続く「べったら市」

恵比寿講へのお供え

  • 「銀座若菜」本店の店先で紹介されている「なごり柿」
  • 参拝者でにぎわう日本橋本町にある寶田恵比寿神社

 粋な江戸味の漬物で知られる、東京・銀座7丁目の「銀座若菜」本店の店先には、旬の野菜や果物を使った季節の一品がそれとなく紹介されている。

 今の季節は、「なごり柿」。皮付きダイコンのうまみに柿の甘さがほんのり合わさり、さわやかな味わいだ。オレンジと白の鮮やかなコントラストも食欲をかき立てる。

 「なごり柿」と一緒に案内されていたのが、東京名物「べったら漬」であった。そう、東京は「べったら市」の季節でもある。

 開催日は、10月19日と20日の2日間限り。日本橋本町にある寶田(たからだ)恵比寿神社の門前に広がる市が有名だ。銀座から地下鉄に乗って15分余、市をぶらりとのぞいてみた。

 「べったら市」の起源は、江戸中期にさかのぼる。10月20日の恵比寿講にお供えするため、前日19日に参道周辺に市が立ち、打ち出の小槌や懸け鯛などの縁起物に加えて、魚や野菜などが売られた。時代を下るにつれてにぎわいを増して規模が拡大、江戸を代表する年中行事の一つになった。

威勢よく「べったら、べったら」

 恵比寿様は商売繁盛、家族繁栄のとても身近な神様である。

 この市でいつのころからか売られるようになったのが、浅く塩漬けしたダイコンを米こうじの床に本漬けしたもの。

 人々は縄で縛っただけのこのダイコンを手にぶら下げてそぞろ歩いたが、衣服にうっかり触れると、粕がべったりついてしまう。

 祭りのために着物を新調した娘たちは、汚したくないので、べったら漬を持つ人に出会うと避けて通るのに一生懸命。その様子を見て、男たちは、「べったらだ~、べったらだ~」と叫びながら、着物の袖に付けようとからかうのであった。

 店側もそれに便乗して、「べったら、べったら」と威勢よく客を呼び込んだので、「べったら市」と呼ばれるようになったという。ちなみに、十五代将軍徳川慶喜もべったら漬をたいそう好んだらしい。

 そして現在も、寶田恵比寿神社の門前のにぎわいは変わることなく、数百もの露店が軒を連ねる。

  • べったら漬の老舗、東京新高屋の前は人波が絶えない

 やはり人気は、創業80年を超える老舗の東京新高屋。昭和天皇にも献上されたべったら漬の名店だ。

 いくつかのべったら漬の店の試食をはしごしながら、食べ比べをするのは楽しい。皮付きか皮なしか、歯ごたえ、甘みの加減やら滑らかさの具合などが微妙に異なる。

 「ダイコンの首の部分は少し硬めで、真ん中は甘め。しっぽの方はちょっと辛めなんだよ」と、部位ごとに特徴があることも教えられた。う~ん、意識して食べてみると、実に面白い。私の場合は、歯ごたえのある首の部分が好み、である。

 売り手も買い手も比較的年齢層が高い。そんな雑踏の中で、「展示をご覧になってくださ~い」と、ひときわ甲高い声が聞こえてきた。

  • 飛ぶように売れていくべったら漬
  • 試食をはしごすると、漬物の微妙な味わいが段々わかってくる

女子大生考案「セロったら」

  • 跡見女子大学のブースも登場

 跡見女子大学で食とマーケティングを学んでいる女子大生のブースがあった。べったら市の歴史や漬物の作り方などをパネル展示している。

 促されて、くじを引いたら、なんと大当たり! 白地にうりざね顔のべったらちゃんがゆるいタッチで描かれたTシャツを持ち帰ることに。

 「女子大生が考えたべったらレシピ」なるものもいただいた。イチオシを尋ねたら、「簡単で、お酒のおつまみに最高ですよ」と「セロったら」を勧められた。

 細長く刻んだべったら漬けと、斜め薄切りにしたセロリをあえて、しょうゆを適宜たらし、味がなじんだらでき上がり。最後にかつお節をまぶします。

 べったら漬の歯ごたえとセロリのしゃきっとしたみずみずしさ。なるほど、このコンビネーション、斬新だ。

名人芸、バナナの叩き売り

  • 長い行列ができていた「幸運の小槌」の店頭
  • (左)わが地元、恵比寿神社のべったら市(右)バナナのたたき売り。300円で15房をゲット!

 もう一つ、長い行列ができていたのが、「幸運の小槌」なるお店。

 たこ焼きや焼きそば、射的やスマートボールなどの露店が並ぶ中で、かなり異彩を放っていた。占い師らしき女性が一人ひとりの運勢をみながら、金色に輝く幸運の小槌とやらに、プチサイズの恵比寿様や大黒様やカエルなどを入れていく。さて、いつか一振りすれば、小判がザックザク……かな。

 ところで、この2日間、わが地元の東京・渋谷区の恵比寿でも、べったら市が開催されていた。

 寶田恵比寿神社に比べると、何十分の一といった小さな規模だが、えびす太鼓の軽快な音が街に響き、いくつか大道芸が催されるなど、祭り好きの地元っこで盛り上がっていた。

 久方ぶりに、バナナの叩き売りの晃玉さんの姿を見た。威勢のいい声に促され、「300円!」で「買った!」。

 江戸の粋は健在である。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.10.14

落語家・古今亭菊千代さんが咲かせた大輪の花

  • フォーク酒場「風街ろまん」のオータムライブは銀座のパーティースペース

 ギターを弾きながら歌うことができるフォーク酒場が、最近人気だと聞いた。客は40~50代のサラリーマンを中心に、元気な“アラ還”世代の姿も目立つ。

 その象徴的な存在ともいえるのが、東京・新宿区の「風街ろまん」。ちょい弾きオヤジの巣窟として知られている。

 常連さんたち、風街オールスターズがバンドを組んで、年に一度、会場を銀座に移して開催する「風街ろまんオータムライブ」も、今年で10回目。舞台のあるパーティースペースを借り切って、40組80曲、9時間のロングライブである。

 その案内には、こうあった。

 「今までのライブで演奏したフォークの楽曲は数えたら655曲、しかし……よくもまぁ……飽きもせず……いつまでも青春をやってる中高年が……昭和の化石が……いるものですねぇ! 本当にびっくりですねぇ。70年代がオヤジに与えた多大なる影響かな?」

 曲目を少しだけ紹介してみると――「二十歳になったら」「田園」「卒業写真」「真冬の帰り道」「けれど生きている」「学園天国」「眠れない夜」「飲んだくれジョニィ」「関白宣言」「どうしてこんなに悲しいんだろう」などなど。“おとな世代”にとっては、思わず口ずさんでしまう曲ばかり。

 10月初めの週末のライブ、私は、先日十数年ぶりに再会した落語家の古今亭菊千代さんが出演するというので、出かけてみた。そう、風街オールスターズには、女性もいるのです。御歳55歳。同い年である。

披露宴の翌朝「結婚、やめましょう」

  • ちょい弾きオヤジの晴れ舞台。9時間のロングライブです

 今回のライブでは、「学園天国」など2曲を熱唱、さらに、オヤジたちと組んでドラムスまで担当した。いや、高座に上がるときとまた違った、若干緊張感漂う引き締まった表情……カッコよかった!

 菊千代さんは、1993年に先輩の三遊亭歌る多さんとともに、女性落語家として初めて真打ちに昇進。現在は浅草演芸ホールや上野鈴本演芸場などでの定席出演のほか、東京拘置所で話し方教室を毎月開催するなど、多彩な活動を続けている。

 初めて菊千代さんを取材したのは20年ほど前で、真打ちになる数か月前のことだった。その時に聞いたエピソードは忘れられない。

 当時からさかのぼること、10年前。東京の出版社のOL5年目の春、思いを寄せてくれる人がいて、とんとん拍子で結婚話が進んだ。式の1週間前、ふとしたことから彼の小さなウソがばれた。

 学歴とか、ゴルフの趣味とか。少し不安になったが、いつかゴメンねと言ってくれるだろうと思って、披露宴に臨んだ。

 仲良しの友人に囲まれての二次会、三次会。酒が入って気が大きくなったのか、彼のウソがエスカレートしていった。

 そして……寂しくなった。

 明け方、ホテルの部屋に戻って、菊千代さんは切り出した。

 「結婚、やめましょう」

 相手は度肝を抜かれたようだったが、話していくうちに納得し、最後は笑顔で別れたという。

 取材から数日後、菊千代さんが大好きな(はなし)の一つ、「芝浜」を聞きながら、このエピソードが頭を離れなかった。女房のウソで酒好きの亭主が立ち直るといった人情噺。ウソもつき方によっては、男女の絆を強めることになるのに……。

古今亭圓菊師匠に無理やり弟子入り

  • ドラムスを担当した菊千代さん

 菊千代さんが落語に夢中になったのは、20歳のころ。小さい時から人前に出るのが好きだったのに、中学でも高校でも、学園祭の芝居で主役になれなかった。もっと美人で、もっと演技の上手な子がいたからだ。

 大学に入り、友人に誘われて入ったのが落語研究会。一人で何役もできて、どちらを向いても主役。こりゃいい、と思った。

 2年間稽古に励み、「落語家になりたい」と研究会が招いたプロの噺家(はなしか)に相談したが、「ダメダメ、若い女は入門しても男と噂になってすぐ辞めちゃう」と、とりつく島もない。ならば、いつか落語の本を作ろうと、出版社に就職したのだった。

 そして、あの「幻の結婚」騒動以来、決断は早くなった。会社に辞表を出して、好きな古今亭圓菊師匠を追いかけ回す。東京・新宿の末広亭の裏でつかまえたのは、それから10日後。翌日師匠の家に呼ばれたとき、「もう年くっていて結婚にも失敗したから、女でも続けられます」と食い下がり、「断られたら、9階のベランダから飛び降ります」とまで言って、弟子入りを果たした。

見事に咲いた、大輪の菊の花

 前座を4年、二ツ目を5年、そして、女性初の真打ちに。当時、「女っていうだけでの大抜擢」などと口の悪い落語家仲間から揶揄されたこともあったが、「だって、本当にそうなんですもの」とさらりと受け流していたことを、私はよく覚えている。

 インタビューの最後を、彼女はこんな言葉で締めくくった。

 「きっと咲かせてみます! 大輪の菊の花」

 いま、大輪の菊はあでやかに花開いた。反戦・平和、女性の人権など、70年代、80年代的テーマにこだわりつつ、今年は被災地応援ツアーを何度か催し、旅を楽しみ、お酒を飲み、歌を歌い、インコと遊び、サンシンを弾き、着物のバーゲンに走る――そんな日常。

 今夏、新しいクラブ活動としてスタートさせたのが、「GO GO! モンキーズの会」。1956年の申年生まれが55歳になったのを記念して旗揚げした会である。ちなみに、私も会員です。会員には様々な仕事や活動をしている人がいるので、そのうち何かムーブメントが起こるかも。ご期待ください。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.09.30

「二人の銀座」とみゆき通り

♪待ち合わせて 歩く銀座

  • 「みゆき族」が牽引したアイビーブーム
  • みゆき通りからすずらん通りを望む。昼間からは歩行者天国なので、ゆったりした時間が流れる

 先日、俳優の山内賢さんの訃報に触れて、女優の和泉雅子さんとのデュエットの名曲「二人の銀座」を、改めてユーチューブで聞いた。

 「待ち合わせて 歩く銀座」で始まるこの曲で、若い二人が肩を寄せ、指をからませてそぞろ歩くのは、ネオンの灯る東京・銀座のみゆき通りやすずらん通りである。

 曲がリリースされたのは、1966年(昭和41年)。翌1967年には、映画化もされている。

 ちょうどその前後、銀座の大通り、晴海通りから1本南側に入ったみゆき通りは、アイビールックのファッションに身を包んだ若者たちであふれ返っていた。ボタンダウンシャツにニットタイ、肩の線を落とした三つボタンのジャケット、細身のコットンパンツ……。通りの名前から、「みゆき族」と呼ばれた。

「VAN」創業者、石津謙介さん

 みゆき族の“必需品”になったのが、「VAN」の3文字ロゴがプリントされた紙袋だった。

 「VAN」を創業したのは、日本の男性ファッションをリードした粋人、石津謙介さんだ。アメリカの雑誌で知ったアイビールックを日本流にアレンジし、1960年代、若者たちの間に大ブームを起こした。

 7年ほど前、生前の石津さんにお話を聞く機会があり、当時の様子をこう語っていた。

  • 銀座みゆき通りの店先に立つアイビールックの若者たち

 「問屋に商品を持って行くと、『おっ、カネが来たぞ』と言われたほど、売れに売れました。大卒の初任給がまだ2万3千円程度の時に、VANのスーツは1万6千円。決して安くないはずなのに、店ではお客が待ち構えていて、VANという文字が記されたダンボールが届くと、ふたも開けずに『そのまま欲しい』と取り合ったらしいんです」

 1964年夏ごろ、マスメディアはこれを社会現象ととらえ、「みゆき族の登場」と騒ぎ出す。戦後生まれの団塊の世代がちょうど青春期を迎えていた時。その年の10月に迫った東京オリンピックに向けて、風紀取り締まりの一環として、築地警察署はみゆき族の一斉補導に踏み切ったほどだった。

 「族」といっても、今から見ればかわいいもので、VANの服をちょっと着崩し、ロゴ入り紙袋を小脇に抱えて、ショーウィンドーの前でぼんやり立っていただけだったらしいが……。

イベントを開き若者に語りかけ

  • 1960年代半ば、みゆき通りは、若者たちの聖地になった

 石津さんが仕掛けたわけでもないのに、銀座の商店街から、「買い物に来た大人の邪魔になる」と苦情が来た。そこで、石津さんが考えたのが、「アイビー大集合」という企画。警察にポスターを200枚作ってもらい、若者を銀座のヤマハホールに集めることにしたのだ。

 「参加者にはVANの袋をプレゼントする」と書いたのが評判を呼び、2000人が集まって、会場は超満員になった。そこで、石津さんは、「アイビーを一時の流行で終わらせずに、いつまでも大切に育てたい。だから、意味もなく銀座に集まるのはやめてほしい」と一席ぶった。

 まもなく、みゆき族は塊としては姿を消したが、アイビーブームは銀座から全国に広まり、定着していく。

通りの名前、由来さまざま

  • 夜の銀座すずらん通り。震災後、若干暗くなったが、愛らしい街灯は健在

 ちなみに、「みゆき通り」の名前は、明治天皇が海軍兵学校への行幸の際、この通りを通られたことに由来する。江戸時代には、築地周辺に屋敷があった諸大名が江戸城に向かう時に使われたとも伝えられ、歴史は古い。

 一方、もう一つの「すずらん通り」は、銀座中央通りと数寄屋橋寄りの西銀座通り(外堀通り)の間に平行して走る4本の中通りの一つで、中央通りに最も近い。一年中、昼過ぎからは終日歩行者天国を実施しており、そぞろ歩きにはほっとする通りでもある。街灯やマンホールの蓋にまで、アールヌーボー風のすずらんモチーフが使われていて、なかなか粋である。

 全国に「すずらん」が付く商店街の数は30か所以上あるそうだが、銀座のすずらん通りは後発組。大正期から繁栄していた東京・神田のすずらん通りにあやかって名付けられたのだとか。本の街、神田すずらん通り商店街では、毎年「すずらん通りサミット」というイベントも行われているようだ。

 ところで、「二人の銀座」を作曲したのは、ベンチャーズ。映画版では、山内賢さんは、エレキバンド「ヤング&フレッシュ」のミュージシャンという設定だ。この映画、ブルー・コメッツや初期のヴィレッジ・シンガーズなども登場、GS創成期の軽やかなエレキサウンドに酔うことができて、楽しい。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.09.16

愛飲家におすすめ“薬剤師カフェ”

ワンドリンクにサプリメント2粒

  • (上)外からみると、薬局風な「カフェ・ヴィタ」(下)白が基調の店内で、薬剤師店長がサービスしてくれる
  • カウンセリングシートの問診に答え、トマトとマンゴーの酢ブレンドドリンクを注文
  • サプリメントは疲労回復のビタミンBに

 健康・美容は気になるけれど、やはりお酒はいつものペースで美味しく飲みたい――そんな愛飲家たちから、頼りにされているカフェがある。

 名門バーが軒を連ねる東京・銀座6丁目に、今年の初めにオープンしたカフェ「Vita(ヴィタ)」。ガラス張りのファサードには、薬のような白いパッケージがディスプレーしてあり、一見薬局風。

 それもそのはず、ここは、店長が薬剤師の資格をもつ「薬剤師カフェ」なのだ。

 白が基調の店内のカウンターに腰を落ち着けると、店長の平井陽子さんが接客してくれる。平井さんは、大学卒業後、国立病院や大手ドラッグストアなどで経験を積んできた。

 メニューには、ウコン茶や韃靼ソバ茶などのヘルシーティー、ザクロやブルーベリー、サボテンなどとからだにやさしい発酵酢をブレンドしたドリンクなどが並ぶ。ちょっと変わったところで、トマト&マンゴーの発酵酢ブレンドを炭酸で割ったものを頼んでみた。

 トマトジュースのような赤のドリンクをイメージしていたのだが、ほんのり淡いイエローの色合い。トマトはエキス分を利用しているので、ほぼ透明に近い色なのだそうだ。思ったよりも甘みがあって、酸味はマイルド。飲みやすい。1杯500円。

 「着色料も保存料も甘味料も使っていません。お酢の主成分の酢酸には、疲労回復やダイエット効果も期待できますよ」と、平井店長。

 「よかったら、カウンセリングシートに記入してみませんか?」と促されて、一般的な健康状態、アルコールの摂取頻度や日常の運動状況、ダイエットに関してなどの設問に答えた。

 同店では、ワンドリンクにサプリメントを2粒付けてくれるサービスがある。

 「このところ残暑続きで、疲労感がたまってきた感じです」と相談したところ、即効性のある「メガBコンプレックス」を勧められた。

 「ビタミンBの含有量は世界最高レベルの一粒。アルコールの分解を助ける役目もあって、二日酔いにも最適。銀座で人気ナンバーワンのサプリですね」と、教えられた。

相談に応じぴったりのサプリ

 サプリメントはすべて米国医療用のもので、「美肌」「ダイエット」「ストレス」など目的別に6種類、平井さんが独自にパッケージを作った。

 50代になると、からだのあちらこちらにガタが来る。テレビCMにつられて、いくつかサプリメントを購入したものの、これが自分にぴったり合ったものなのかどうか、疑問に思っていたところ。個人的な悩みも相談してみた。

 私の場合、特に悩みは、頑固な便秘である。購入したサプリはあまり効果がなく、最終手段は、腸を刺激して便通を促す市販の下剤に頼るしかない。それも段々と使い続けているうちに効き目が悪くなってきて、薬の量を増やさざるを得ない。

 「腸の動きがますます鈍くなって、悪循環に陥っています。腸内の善玉菌を増やして、腸の運動を活発化させるなど、腸内環境自体を根本的に改善する必要があります」

 選んでくれたのが、一つのカプセルに40億個もの善玉菌を封じ込めているというプロバイオティックスーパーと、硬くなった便に水分を含ませて柔らかくする役目のマグネシウムラックスの組み合わせ。「TAMENAI-DE(ためないで)」というネーミングも、わかりやすい。

 とりあえず試してみようと、30日分を購入。4000円。

 「予防医学の概念が根付いているアメリカでは、薬剤師などの専門家がサプリメントを提供する体制が整っていますが、それに比べて日本は10年以上遅れています。もっと気軽に利用してほしい」と、平井さんはいう。

ランチ一番人気の薬膳カレー

  • ハーブや野菜があふれる「銀座カフェ・ビストロ」のカウンター

 さて、薬剤師が活躍しているのは、同店だけではない。

 銀座2丁目にある「ウェルタス銀座クリニック」に併設された「銀座カフェ・ビストロ」は、クリニックの医師と薬剤師が、生薬やハーブを使用したアンチエイジングレシピを開発している。茨城県日立市に自社農園や水田を持ち、野菜をはじめ、黒米や玄米を直送している。

  • (上)ランチ一番人気のデトックス薬膳カレー(下)オリジナルのお茶は東西のハーブをブレンド

 ランチ一番人気のメニューは、野菜のデトックス薬膳カレー。余分な油分や糖分、塩分を極力控え、16種以上の生薬を1時間以上煮出してスープをつくり、野菜は7種のハーブやビオ(有機)の赤ワインで3日間も煮込み、スパイスなど加えて2日間寝かせるという手の込んだもの。カボチャやニンジン、レンコンなど、繊維質もたっぷり摂れるように考えられている。

 日替わりで、独自ブレンドのハーブティーがサービスされ、この日は、カモミールやラベンダー、アマチャヅルなど、東西のハーブ9種類がブレンドされたリラックス効果の高いお茶だった。

 ちなみに、先のカフェで購入したサプリはその夜から早速飲み始めた。「まずは2週間様子をみて」といわれていたのだが、翌朝、早くも効果あり。この数日は、気持ちよく過ごせております。気分的な作用もあるのだろうか。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.09.09

三島由紀夫が描いた7つの橋

 お月見の季節。今年は9月12日がいわゆる「中秋の名月」に当たる。

 季節のご挨拶のお印にと、知人から「うさぎさん」と題した愛らしい焼き菓子が届いた。東京・銀座7丁目にある源吉兆庵銀座店のお月見限定商品。さわやかなユズあんを練乳風味の生地で包んで焼き上げた一品。何ともやさしい味わいだ。

 中秋の名月とは、月の満ち欠けを基準とした陰暦(旧暦)8月15日の夜の月のこと。中秋の名月の日が必ずしも満月になるわけではないが、今年はちょうど満月になるのだそうだ。

満月の夜、口を開かず橋を渡る

  • (上)中央区役所側からみた三叉の橋、三吉橋(下)昭和初期当時のスズラン燈がレトロな情緒を醸し出す

 銀座・築地の橋を舞台にした三島由紀夫の「橋づくし」は、陰暦8月15日の満月の夜のお話だった。その晩、7つの橋を一切口を開かずに渡り終えれば願いがかなうという、願掛けの物語。舞台をちょっと歩いてみたくなった。

 登場人物は4人の女性たち。「お金が欲しい」年増芸者の小弓、「いい旦那が欲しい」かな子、「俳優のRと一緒になりたい」料亭の娘満佐子、それに、満佐子の家で働く女中のみながお供として加わった。

 ≪四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲った。ビル街に、街頭のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。

 ほどなく4人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍しい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり……≫

 小説はこんな風に進んでいく。

築地川にかかるY字型の三吉橋

  • 三吉橋のたもとに立てられた石碑には、「橋づくし」の一節も刻まれている

 「珍しい三叉の橋」といわれても、ぴんとこなかったのだが、実際に三吉橋を訪れると、なるほどと思った。

 三吉橋は、銀座1丁目と2丁目の境界を走る銀座柳通りが首都高速道路を渡るところにある。中央区役所側から写真を撮ると、橋が中央部分で屈曲しているのがよくわかる。これが三つ又、上空から見るとY字型になっている。

 橋が造られたのは、昭和4年(1929年)で、関東大震災後の復興計画の一環として架設された。当時はもちろん川があったわけで、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船や屋形船などが行き交っていた。築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ連絡運河が開削され、川が三叉の形になったのだという。

7つの橋、今昔

  • (上)入船橋周辺の地図から(下)小説の中で、最初にかな子が脱落した築地橋

 小説が書かれた1950年代半ばは、まだ川が存在していたが、高度成長期とともに川の汚染が進み、1962年、首都高速道路の建設を機に埋め立てられた。

 その後、1993年に大規模な改修が行われ、現在の三吉橋の欄干は、水辺に映える木立をイメージしたデザイン。照明は、昭和初期当時のスズラン燈が採用され、レトロな情緒が若干戻っている。橋のたもとの柳の木の下には石碑が立ち、「橋づくし」の文章も紹介されている。

  • (上)転落防止柵を兼ねた築地橋の欄干はシックなブラウン(下)首都高速道路の出口になっている入船橋付近。昔は築地川が流れていた

 小説では、三叉の橋の二辺を渡ることで、橋を2つ渡ったものと勘定していた。

 三吉橋を過ぎると、すぐに築地橋、入船橋と続く。入船橋は、首都高速道路の出口になっており、川床であったあたりはコンクリートで固められ、バスケットボールのコートなど子どもたちの遊び場に姿を変えていた。

 入船橋を過ぎると、築地川はさらに右手に屈曲する。いまは埋め立てられ、築地川公園として開放されている。左手には聖路加病院の建物群が広がっている。公園の中に、暁橋と備前橋の名残を認めることができるのだが、小説では描写されていたこの2つの橋の間にあるはずの堺橋だけがなくなっていた。

願掛けの行方は…

  • (上)入船橋の川床はいま、子どもたちの遊び場に(下)築地川公園内にある暁橋の名残り

 さて、小説に戻ってみよう。4人の女性たちの願掛けは成就したのだろうか。

 最初に脱落したのは、かな子。3番目の築地橋を渡り終えたところで、自分の願いが「非現実な、夢のやうな、子供じみた願望」であると気づき、腹痛に負けて帰ってしまう。

 残り3人は入船橋を無事渡るが、5番目の暁橋で、小弓に不幸が起こる。昔の知り合いから声をかけられ、あえなく脱落である。

 満佐子とみなは願掛けを順調に続けていくが、最後の備前橋で、今度は満佐子に不幸が起こる。夜道を黙って静々と歩いている姿を見て、投身自殺でもするのではないかと不審に思った警官から尋問を受けるのだ。

 女中のみなに答えさせようとするのだが、みなは沈黙を守っている。そこで満佐子が思わず発した「ひどいわよ」の一言が命取りになった。結局、無事願掛けを成就させたのは、お供についてきたみなだけ。みなが何を願掛けしたかは、だれにもわからない……。

 秋風が感じられるようになった満月の夜、願掛けのお月見散歩としゃれてみるのもよさそうだ。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)