GINZA通信アーカイブ

2012.04.06

銀座の人々がつなぐ街のデザイン

  • 数寄屋橋交差点から北東側を臨む

 1872年(明治5年)、明治政府の立案で煉瓦街の建設が進む中、銀座は日本の近代の表舞台に立ち、注目される街となった。そして、時代の先端を切って「変化することこそが伝統」との自負をもち、あらゆるものを受け入れながら発展してきたといえる。

 発展を支えたのは、銀座で商いをする人たち、働く人たち、そこに住む人たち、そして街に集まるお客様たちであった。

 銀座の人たちは、「銀座フィルター」という言葉をよく使う。銀座にふさわしくないものは、黙っていても自然と消えていく。銀座に内在する不思議な自律力のようなものが働いて、銀座らしからぬものは通過させない。それが「銀座フィルター」である。銀座の人たちとお客様の暗黙の了解で、銀座らしいものをより分ける、粋な不文律といってもいいかもしれない。

  • このほど出版された「銀座デザインルール」第2版

 自分たちの街をこれからどうするべきか――銀座で活動する人々は、それを常に話し合って決めてきたという歴史がある。

 2006年、銀座の人々による話し合いを基本とした街づくりの仕組みとして、「銀座デザイン協議会」が組織された。一定規模の開発計画や工作物について、開発事業関係者と街の人たちとが協議を行いながら、銀座の街にふさわしい計画へと誘導する。

 同協議会は、設立以来600件以上の申請案件にあたりながら、銀座の街づくりを模索してきた。典型的な事例を中心に、このほど「銀座デザインルール」第2版が出版された。

前例にとらわれずに変革、進化

 同冊子の制作に協力した、慶応大学准教授で小林・槇デザインワークショップの小林博人さんは、「銀座における街づくりのルールは、法的な強制力に裏打ちされた地区計画など行政のルールと、銀座の人々が昔から継続してきた、何事も話し合うという日本型の物決めの2本立てで成り立っている、極めてユニークなルール」と評する。

 「設立時にまとめた第1弾の出版から、はや4年以上の歳月が過ぎた。一度出版すると、ルールは固定化するものだが、前例にとらわれずに、協議をしながら変革し、進化していくところが銀座のすごさ。冊子に掲載した写真を見ると、銀座の人たちがどんなところを気にかけ、こだわっているかが一目瞭然です」という。

 こだわりの一つは、たとえば、近隣との調和・強調。

 プランタン銀座の正面口が面している西銀座通りは、同じ大通りでも、4丁目交差点を中心とする銀座通りに比べてやや地味な存在かもしれない。だが、今秋、銀座の表玄関・数寄屋橋交差点にある銀座TSビル(モザイク銀座阪急)の解体・建て替え計画が決まっており、注目されている。ここで協議会は、「西銀座通り6-8丁目は、低層部に店舗が並んでいてもオフィスなどで途切れているところがある。にぎわいの連続性につながるような工夫が求められる」と指摘。また、この通り沿いに植えられた銀座のシンボル、柳のある街並みを維持するようにと注文をつける。

  • 今秋から解体が始まる銀座TSビル
  • 西銀座通り沿いの柳並木
  • 銀座のシンボル、柳も芽吹きの季節

ゆっくり流れる“路地裏時間”

 もう一つ、銀座のこだわりをご紹介すると、路地機能の維持・再生が挙げられるだろうか。

 銀座の街は、起伏のない平坦な地形の上に形成されている。江戸時代に整然と敷かれた町割が近代に入って整理され、約120メートル×40メートルの縦長の短冊形グリッド形状の街区となって現在にいたっているという。それらをつなぐ通りは、大通りから路地まで、幅員の異なる大小様々な通りが街区を縦横に編むように構成されている。

 大中小の通りの間に毛細血管のように張り巡らされている路地は、銀座の街の魅力でもある。色鮮やかな表通りのにぎわいから一転、路地裏にはゆっくり流れる時間を慈しむような静かさが漂っているのだ。

 銀座通りの2丁目あたりを歩いていると、ワインの試飲の小さな看板があった。それに魅かれて、暗い路地を入ると、地下にワインバーがある。路地を通り抜けて反対側に出ると、実はこの路地を作っているのが、2棟の新しい店舗であることが発見できた。

 東へ。かつて銀座の外縁、三十間堀川の埋め立てによってできた地区には、おしゃれではあるが、庶民的な店構えの店舗が並ぶ。道行く人を楽しませる工夫も楽しい。

  • (左)銀座通りで見つけた「ワインの無料試飲」の看板(右)路地を進むと、地下にワインバーがある
  • 路地を通り抜けると、2棟の新しい店舗が……

  • 三十間堀川の埋め立てによってできた地区のおしゃれな店
  • 道行く人を楽しませる工夫がなされている

下町的生活感の象徴「チョウシ屋」

 さらに、昭和通りを渡って東へ進む。昭和通り以東3丁目以北のエリアには、下町的生活感があふれている。

 歌舞伎座の裏手、1927年(昭和2年)創業の「チョウシ屋」は、その象徴と、私は思っている。名物はコロッケパン。コッペパンに辛子を塗って、揚げたてのコロッケをはさみ、オリジナルソースをかけるだけ。240円。私はメンチカツが好きなので、こちらは食パンにマカロニサラダを一緒に載せていただく。

  • 自転車もしゃれたディスプレイの1つに
  • 桜の枝が春の風を運ぶ

  • 名物コロッケパンがおいしい「チョウシ屋」
  • 下町的生活感があふれる銀座東3丁目あたり

 向かいの路地裏にいい感じの竹の縁台があって、コロッケパンにかぶりつく。衣はさくさく、ジャガイモはほっくり、さわやかな甘みのソースがおいしい。この付近の路地を入ると、手入れの行き届いた鉢植えの緑が多く、銀座で最もほっとする場所の一つではないだろうか。

 再開発中の歌舞伎座の仮囲いのデザインを楽しみながら、晴海通りを渡って、三原小路へ。銀座らしい小店の集まった路地だったが、新しい建物が建てられたのに伴い、路地に対するしつらえを配慮して、素敵なゲートができた。お稲荷さんを拝みつつ、反対側に出ると、東通り。「GINZA ALLEY」を通り抜ければ、銀座通りに出て、4丁目交差点のランドマーク、和光の時計台が見える。このあたりのことは、2010年4月9日付の小欄に詳しく書いたので、参照していただきたい。

 春の嵐も通り過ぎ、足どり軽く、銀ブラが楽しい季節がまたやって来た。路地裏の銀ブラを楽しんでみませんか?

  • 再開発中の歌舞伎座の仮囲いも街並みになじんで
  • 三原小路の入口もリニューアル

  • (左)三原小路にあるあづま稲荷(右)古くからあるGinza Alley は路地として大活躍
  • 銀座のランドマーク、銀座4丁目和光の時計台

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.03.23

歌で感謝伝える、被災者たちのミュージカル

  • 銀座で上演されたミュージカル「とびだす100通りのありがとう!」

 日本全国から、いや世界中から届けられたたくさんの支援に感謝の気持ちを伝えたい――東日本大震災から1年が過ぎた3月18日、そんな思いを抱いて、宮城県石巻地方の被災者114人が、東京・銀座2丁目の中央区立中央会館(銀座ブロッサム)に集結した。

 生きる勇気を歌い上げるミュージカル「とびだす100通りのありがとう!」の公演である。2回の公演には約1800人もが来場し、フィナーレでは拍手が鳴りやまなかった。秋篠宮ご夫妻と次女佳子さまも鑑賞された。

 主催したのは、石巻市、東松島市、女川町の被災者を中心にして組織された「ありがとうを言いに行こう♪プロジェクト」実行委員会。実行委員長を務める前谷ヤイ子さんは今、東松島市の仮設住宅で暮らす。ヤイ子さんの夫のひろしさんと、東京在住でミュージカル演出などを手掛ける寺本建雄さんが旧知のミュージシャン仲間だったことから企画がスタートした

 「今も寄せられる支援に何もお返しができないけれど、せめて直接『ありがとう』を言いに行きたい!」との趣旨で賛同者を募集。最初は、「被災者がミュージカル? こんな時に歌って踊って楽しくミュージカルなんて無理ではないの」との懸念もあったそうだが、ふたを開けてみれば100人以上が応募。石巻地方に住む3~83歳の男女が、生まれて初めてのミュージカルに取り組み、昨年11月から毎回3時間の稽古を27回も重ねてきたという。

 最高齢の83歳の女性は、オープニングで、「この年で舞台に立つとは思ってもいなかった。しかも、銀座、ですもの。地球の隅々まで感謝を伝えたい。私たちのこの気持ちをどうぞ受け止めてください」と挨拶した。

  • 津波で流された松の木がギターとして復活。マエヤンが「仙石線のうた」を歌った
  • 第一幕で歌われた「少し無理して歩き出すさ」

被災者本人が語るそれぞれの3.11体験

  • 「みやぎ名物アイウエオおんど」は、皆元気いっぱいで

 ミュージカルの脚本と楽曲は寺本さんが担当、参加者に被災体験を取材して、様々なエピソードを盛り込んだ。舞台で被災者本人が語るそれぞれの3.11体験を中心に、ドキュメンタリー風にまとめられており、臨場感があり、迫力いっぱいだった。

 その語りからいくつか紹介してみよう。

 「地震の翌朝、泥まみれの乾麺を見つけました。雪で洗い、調理ができないので、皆で割ってぼろぼろのままかじりました」

 「食事はカッパエビセン2本とザラメ1粒の時もありました」

 「1週間飲まず食わずの生活で、周りの皆はしくしく泣いていました。男の子が励ますつもりで、『死ぬ時は皆一緒だよ』と言ったら、さらにワーンと泣き始めました」

  • 「まげねえぞう」バンダナも作っちゃいました
  • ポップなデザインのバンダナは会場で500円

男子がジェントルマンに思えた夜

  • 3.11当日のファッションを再現?

 「教室の机を集めて、男子がベッドを作ってくれた。女子はここで寝ろ、俺たちは廊下だって。その時だけはジェントルマンに思えました」

 「避難所に1週間後に設置された電話は1人1回1分までなので、何回も行列に並び直して訃報を知らせました」

 「海外では、日本人の秩序ある助け合い精神が報道されていたようですが、実際は避難所でけんかが絶えませんでした。子どもたちに先に食事を配ろうと提案したら、あるおじさんが、『こんな時は子どもも大人もないんだ』って……」

  • ブロードウェイでも活躍する衣装デザイナー、たかひらみくさんが支援物資をリメイク

 「支援物資を受け取る時、それを下さった日本中、世界中の、顔も名前も知らない人たちがいることを思い、直接感謝が伝えられないもどかしさをずっと感じていました」

 「35日目に夫が(遺体で)見つかりました。子どもがいない私たちです。私だけこのまま生きていていいのか悩みました」

 「ヘドロの中からおやじ(の遺体)を見つけた。ペットボトルの水を10本使って洗ったけれど、きれいにならなかった。父ちゃん、ごめん」

  • 皆で考えたという回文が心を打つ

 さらに、「学者の方々がここなら安全だとされたゾーンまで水が来て、たくさんの人が亡くなったけれど、『想定外』『未曾有』といった言葉で片づけられた。防潮堤を作るからそこに人が来るんだ、作らなかった方がよかった、というばあちゃんの言葉は心に染みました」とも。

 この場面では、皆で考えたという回文「だ・い・さ・ん・じ・は・ん・ぶ・ん・は・じ・ん・さ・い・だ(大惨事半分は人災だ)」が披露された。

歌や踊りが心や身体を解放してくれた

  • 「サンマとるうた」では、大漁旗が舞った

 出演者114人はつらい体験を伝えつつ、支援への感謝の気持ちを込めた「ありがとう」をはじめ、「少し無理して歩き出すさ」「サンマとるうた」など全10曲を歌い切った。中には、「みやぎ名物アイウエオおんど」など、ちょっとコミカルな歌もあって、笑いを誘った。

 東松島の野蒜海岸で津波に流された松の木が、名工、ヤイリギターのマスタークラフトマン、小池健司さんの職人技によって蘇って透明感のある音色を奏でるギターとして登場。また、支援物資として送られた洋服をリメイクしたファッションショーなどもあって、ステージは大いに盛り上がった。

  • フィナーレでは、あの日と同じく雪が舞った 

 それにしても、どの出演者の声も会場の後ろまでよく通り、踊りの振りも見事にそろっていて、ミュージカルとしての完成度の高さに、はっきり言って驚いた。

 実行委員長を務めた前谷さんは、「歌や踊りがこんなに心や身体を解放してくれるものだとは知らなかった。練習することが私たちに笑いや元気や勇気を与えてくれました。会場の皆さんと一緒に、世界の人に向けて『日本を支援してくれてありがとう!』と言いたい」という。

 フィナーレでは、1年前のあの日と同じ、雪が舞っていた。突き抜けるような澄んだ満天の星空も同じだった。

 ♪この街でこの土地で/わき上がる心を歩くのさ/すべて壊れたガタガタの道/夢の一歩を歩くのさ

 だれもが復興を誓って、ミュージカルの幕は静かに閉じられた。

  • 「ありがとう新聞」も壁新聞として登場
  • ミュージカルの裏方には、多くのボランティアが協力
  • 最後は、出演者全員でお見送り

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.03.09

一中節、音のない中にある美意識

 庶民の一番中心になる音楽に

  • 国立劇場小劇場の記念演奏会は、お弟子さんやファンらが詰めかけて盛り上がった

 日本の文化について、まだまだ知らないことがあるなあと、最近改めて恥じ入ることが少なくない。

 そのひとつが、一中(いっちゅう)(ぶし)である。

 先日、国立劇場小劇場で、「十二世(みやこ)一中(いっちゅう)襲名二十年、二世常磐津(ときわず)文字蔵(もじぞう)襲名三十年記念演奏会」を鑑賞する機会があった。

 常磐津、長唄、清元、新内節……。江戸期の粋な歌曲といったジャンルだろうが、その違いとなると、よくわからない。一中節となると、さらにわからなくなる。

 徳川4代将軍家綱のころ、京都の寺の次男坊として生まれた初代一中は、大の音楽好きで、仏教の修行で体得した幸せな生き方を、広く庶民に伝えたいと考え、一中節を確立する。様々なジャンルがある中で、「1番中心になる音楽を」との意味を込めて、一中節と名付けられたともいわれている。

 十二世都一中さんは、二世常磐津文字蔵であると同時に、一中節の十二代目の家元。常磐津の三味線方の家に生まれ、常磐津の世界にあって流派の違う人間国宝常磐津菊三郎に出会い、一中節を学ぶことを勧められたことから、現在に至る。1999年に一中節で、2008年には常磐津節で、重要無形文化財保持者に認定されている。

 記念演奏会では、常磐津「本朝(ほんちょう)廿四(にじゅうし)(こう)」、一中節「天の網島」、一中節「(まつの)羽衣(ほごろも)」の3曲が演じられた。

 どれも能や歌舞伎を通してよく知られている演目だが、一中節の舞台には、役者がいるわけではない。観客は、語られる浄瑠璃から物語の内容を理解する必要があり、この道に精通していない人にとっては至難の業だ。

 にもかかわらず、今回邦楽の知識に乏しい私でも楽しめたのは、前もって、都一中さんの銀座レクチャーを聞いたからだった。そして、このレクチャーを企画したのは、以前小欄(2009年6月12日付)にも登場いただいた、銀座いせよしの千谷美恵さんである。

銀座レクチャーで語られたこと

  • 銀座でレクチャーを行った十二世都一中さん

 レクチャーで、都一中さんは、印象深い話をしてくれた。

 いわく、「常磐津、清元、新内が英語やフランス語だとしたら、一中節はラテン語みたいなものです」。古典の中の古典といった存在で、各時代のある層が有する文化教養的な矜持(きょうじ)に守られつつ、細いながらも筋目正しい流れを作って今に至るということだろうか。

 いわく、「常磐津と一中節の違い、わかりますか? 使う三味線は何ミリ単位でカタチが異なります。そして、常磐津を好んだのは江戸っ子でも現役のばりばりの船頭や大工たち。三味線の糸にバチが触っている時間が短くて、ごついけれどもさっぱりと音を刻んでいく。それに比べて、あんなに速く弾くテクニックは、はしたない、ゆったり上質な音をよしとするのが一中節で、こちらは引退した大旦那たちに人気でした。彼らは直接的な表現は好まない。たとえば、『庭の松を見てごらん』といえば、一喜一憂するんじゃないよ、いつもみずみずしい心を持って臨むのだよ、といった意味が込められているのです」

  • 記念演奏会より

 この話は、都一中さんが、先代から教えを受けていた時のエピソードに通じるところがある。それは、王禅寺善明氏の「一中節十二世都一中の世界」(西田書店)に詳しい。

 「一中節の秘伝が書いてある」と言って渡された書簡を開いてみると、「あ い う え お か き く け こ……」。書いてあるのはそれだけだった。一中節は他の邦楽と違い、三味線の音に合わせて言葉の最後にある母音を長く延ばし、発音する。たとえば、「か」は「かあ~」と延ばす。穏やかに、ゆったりと、上品に。それが、一中節なのである。

 いわく、「日本の音楽を楽しむ秘訣は、音を聴かないこと。音と音の間、音がしていないところに深い表現があるからです。それは、雪舟の絵画にも通じるところがあります」。

 なんだか禅問答のようだが、これも王禅寺氏の本にヒントがあった。

 初代一中は、寺でつく鐘の音が、ゴォーンと鳴り響きながら消えていく刹那を音楽で表現したという。そこで表現した音こそが悟りの境地の音であり、だから自分の三味線も音が消えるところに責任を負わなければならない、との覚悟を都一中さんは語っている。

 記念演奏会で、もう一つ素晴らしかったのは、照明家の豊久将三さんとのコラボレーション。「都一中の音色は、雲の切れ間から強い太陽の光が差す感じと同じ。あくまでも清らかに、透明に、しかし、強く……」と語る豊久さんは、水色、緑色など透明感のある舞台装置を、微妙な光のニュアンスで映し出した。

  • 舞台は、照明家の豊久将三さんとのコラボレーション

 都一中さんは今年、還暦を迎える。

 「この世界、ようやく新卒社会人でスタートラインに立てたといった感じで、80歳ぐらいが全盛期。江戸の趣味人の美意識がいかに優れていたかを振り返りつつ、原点に戻って、また現代の風流人の好尚(こうしょう)にこたえられる三味線音楽を追求していきたいのです」

 昨年、都一中音楽文化研究所を設立し、今後は、世界で活躍する若手・中堅ビジネスマン向けの啓蒙企画や、親子参加型の料亭での音楽会、外国人駐在員や留学生向けの音楽会なども企画している。

 今度はぜひ、畳のある座敷空間で一中節を聴いてみたいと思った。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.02.24

銀座の夜にやさしく広がる歌声&トーク…岡本真夜さん

  • 私にとって聴きたかった唄は何だろう? そんなことを考えさせてくれる企画です

 2011年11月18日付の小欄で小室等さんの「フォーク長屋」シリーズのことをご紹介したが、そのライブが行われた銀座7丁目のヤマハ銀座スタジオは、興味深い催しが目白押しである。客席数90余の小ぢんまりした空間なので、ステージとの距離がものすごく近く、音響効果も抜群なのだ。

 今回のぞいたのは、日本を代表するギタリストでシンガーソングライター、プロデューサーでもある古川昌義さんが企画する「ウタノコトバ~聴きたかった唄声~」。

 CHAGE&ASKA、元ちとせ、中島みゆきら様々なアーティストのツアーやレコーディングに参加する古川さん。ふつうは、ボーカリストに招かれてステージで演奏するのだが、今回は逆。古川さん自身が聴きたいと思うボーカリストに声をかけて、歌ってもらう。

 「仕事なんだけれども、趣味でもほれ込んでしまう歌声に出会うと、愛しきこの声を心ゆくまで聴いてみたいと思う。ただただいい歌声が聴きたいという、実にシンプルな気持ちから始まった企画」なのだという。

 ボーカリスト本人のツアーでは、やりたくてもやれないカヴァー楽曲があったり、挑戦するのが難しいパフォーマンスがあったりする。それを何の制約もしがらみも持たず、自由な発想で実現してもらおうというのだから、これほどぜいたくな企画はない。

少女の心に寄り添い、支えたい

  • なごやかな雰囲気で時間が流れる

 このシリーズ、今までに辛島みどりさん、中西圭三さん、夏川りみさんが登場。4回目になる今回のゲストは、岡本真夜さん。

 ギターの古川さんをはじめ、キーボードの森俊之さん、ドラムの江口信夫さん、ベースの萩原メッケン基文さんとは、デビュー当時に一緒にレコーディングを経験した仲なので、最初からなごやかな雰囲気だった。最初の曲目にオリジナルナンバーから「同窓会」をセレクトしたのも、懐かしい仲間たちとの再会を記念してのことだろうか。

 「Will」「Alone」と続き、3月発売のニューアルバムに入れた新曲「約束」は、歌詞の朗読から始まった。

  • 被災地のことを思い浮かべながら歌う岡本真夜さん

 「約束」は、昨年夏、大震災の被災家族を特集したテレビのドキュメンタリー番組の中で、父を亡くした十代の少女が発した言葉「強くなる」に触発されて作った楽曲。3.11からまもなく1年が経つ。

真夜さんは、ニューアルバムの解説でこう語っている。

 「大震災のあと、日本中が復興に向けて動き始めたとき、一人の人間として、一人のアーティストとして、自分は何をすべきか考え抜いて出した答え は、この大きな爪痕を残した震災が起きたという悲しい事実と、その直後に起こった日本中が団結するという素晴らしい出来事を風化させないように、人々の胸 に音楽を通じて刻んでいこうというものでした」

 「頑張っている少女も、夜、眠りにつくときには、きっといろんなことを思い出して涙することもあるのだろうなと思って……」。真夜さんの目に涙が光った。少女の心にずっと寄り添い、支えられるような曲を作りたいと考えて、「ずっと君を忘れないよ。人は変われると信じて強くなる」という歌詞を紡ぎ出した。

 オリジナルナンバーの最後は、デビュー曲「TOMORROW」。被災地の避難所で、多くの人が口ずさんで元気を取り戻したといわれた曲だ。「涙の数だけ強くなれるよ 明日は来るよ 君のために」。やさしい歌声が心にしみる。名曲だ。ニューアルバムにも新録音で収録されている。

がらりと変わって洋楽のオンパレード

  • 80年代の洋楽を熱唱する岡本真夜さん
  • トークが楽しい古川昌義さん

 なんとなく前向きな気持ちになったところで、がらりと変わって、ここから洋楽のオンパレード。

 キャロル・キングの「So Far Away」、マイケル・ジャクソン「Human Nature」、シンディ・ローパー「Time After Time」、ホール&オーツ「Private Eyes」。

 80年代のヒット曲が次から次へと流れて、当時社会人になったばかりの私には、仕事の失敗のほろ苦い思い出やデートの甘い記憶などが重なって、懐かしいやら、楽しいやら。

 真夜さんいわく、「こういう曲を自分でも作りたいのに作れない、憧れの楽曲をそろえた」そうだが、ボサノヴァ風のマイケル・ジャクソンや、しっとりしんみりするシンディ・ローパーなど、真夜さんの声にのると、とても新鮮だった。「キャロル・キングははずさないですね。シンプルなコードにこだわりがある」と、こちらは古川さんの解説。

 さらに、日本のアーティストの曲に移り、スターダストレビューの「木蘭の涙」、久保田利伸の「Missing」、山下達郎の「Ride on Time」と続いた。

歌い手と観客の交感

 「せつない曲が大好き。でも、私、暗い人ではないんです」と、真夜さん。

 久保田利伸の曲を歌い終わると、「いい曲ですね。私もこういう曲、作りたいなあ」と、しみじみ話す。真夜さん自身、久保田さんのライブに足を運んでいるが、「先日は、自分のライブの前日だったので、さすがにマネージャーから待ったが出たので残念でした。自宅で思いっきり歌ったんですよ」というから、面白い。

  • 古川さんと真夜さんのおしゃべりがまた楽しい

 「メロディーがしっかりした曲が好き」という真夜さんに、「筒美京平さんとかの昭和歌謡のアレンジを聴くと、本当に見事ですよね。昔から日本のメロディーって、すごかったんだって改めて思います」と、古川さんが返す。リビングルームにいるようなリラックスした雰囲気の中で、2人のたわいないおしゃべりが耳にやさしく広がった。

 2度とこんなぜいたくなライブは聴けないかもしれない、と思った。だれよりも、歌い手が一番楽しそうだったし、歌い手を囲むミュージシャンたちが「音楽って、いいよね」という気分オーラを放ち、それに観客が酔っていき、そのハッピーな反応に歌い手がさらにエネルギッシュに応えていくといった循環が心地よかった。

 ヤマハ銀座ビル推進室の大久保康子さんは、「サポートミュージシャンだけでなく、脚本、制作、音響、照明などに携わるステージクリエーターにとっても、わくわくどきどきする空間。シリーズとしてずっと続けていきたい」と話す。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.02.10

銀座の街を音楽で元気に「ジャズひな祭り」

  • 「ジャズひな祭り2012」のパンフレット 深澤さんの手作りの温かさが伝わってくる

 桃の節句にちなんで、東京・銀座では、3月4日、日曜の昼下がり、恒例の「ジャズひな祭り」が開催される。今年で7回目を数える小さなジャズフェスティバルだ。

 中心になっているのは、銀座の地を愛し、銀座のジャズクラブなどで活動を続ける、女性がリーダーのジャズバンド12グループ。40人ほどのアーティストが集まり、ワンステージ40分、24のプログラムを、銀座の8会場を巡って演奏する。

 1会場の定員は25名から60名。アットホームな雰囲気のライブハウスや本格的なカクテルが楽しめるおしゃれなバーなど、参加者も会場をクルージングしながらこの日一日ジャズ三昧で盛り上がれるのだ。

 「最初は男性主導でイベントづくりをしていましたが、今は姫たちにおはやしがついてくるといったなごやかな催しになりました」と、主催者でジャズピアニストの深澤芳美さんはいう。

  • ジャズピアニストの深澤芳美さん

 3月11日の大震災からまもなく1年が経つ。チャリティーライブで義捐金を集めるなど、ジャズ界でも活発な活動が広がった。

 「でも、あの日以来、やはり銀座は元気がないんです。アーティストもお客さまも皆、銀座が好きで、大人の街、銀座だからジャズを演奏したい、聴きたいという人も多いのに、演奏の場が少しずつ縮小されているのが現状。だからこそ、今回のテーマは『銀座より愛をこめて』として、銀座の街をジャズで元気にしようと呼びかけることにしました」と、深澤さん。

“元気の素”のヴォーカリスト、細川綾子さん

  • アーティストも聴き手も銀座の8か所の会場をクルージングする

 今回特に、“元気の素”を注入してくれるのが、アメリカ西海岸のサンノゼ在住のベテラン・ヴォーカリスト、細川綾子さんだ。

 深澤さんとの出会いは、10年ほど前にさかのぼる。細川さんが「日本の歌い手はなんか小さくまとまっているけれど、もっと自由に元気にやってほしいなあ。私、伝えたいことがいろいろあるのよね」と漏らしていたことを思い出し、特別にトークライブを企画したのである。

  • 米国在住のヴォーカリスト、細川綾子さん

 細川さんは、エラ・フィッツジェラルドに憧れてジャズの道に進もうと決心、14歳で浜口庫之助氏に師事した。米軍キャンプなどで歌い始め、1956年にコロムビア・レコードから歌手デビュー。

 米国人と結婚して61年に渡米し、サンフランシスコを中心にさまざまなステージに立ってきた。渡米は、幼いころからの夢でもあったという。

 60年代後半、“ジャズピアノの父”ともいわれるアール・ハインズにスカウトされて、グループ専属の歌手として活躍、花開いた。憧れのエラ・フィッツジェラルドも細川さんの舞台を聴きに来てくれた。

 「でも、順風満帆な時ばかりではなかったのよね」と、細川さんはいう。

オイルショックのしわ寄せで転業…

 「1970年代のオイルショックの時代、アメリカでもショービジネスの世界はしわ寄せを受けました。生演奏のできるジャズクラブがディスコやロックミュージッククラブに変わり、ジャズを歌う場所が少なくなって、転業を余儀なくされたミュージシャンもたくさんいました。私もその一人です。ちょうど離婚した直後で、生活のために銀行に勤めたけれど、歌はやめたくなかったので、週末だけレストランのピアノバーでほそぼそと歌ってきました。それまで華やかなナイトクラブで歌ってきただけに、ピアノひとつの伴奏で歌うのが寂しくて、精神的にも落ち込みました」

 その後、日系三世の男性と再婚。80年代半ばに、夫婦で日本に戻ったが、米国に残してきた家族のことが気になり、そして何よりも細川さん夫婦がアメリカが恋しくなったこともあって、97年に再び渡米。現在は、日米を年に数回往復しながら、日本のジャズフェスティバルなどでも活動を続けている。

 「私も高齢者の仲間入り。もっぱらサンノゼやサンフランシスコの日系人たちが主催するイベントやパーティーなどで仕事をしています。でも、チャレンジ精神は失っていないの。最近では、教会の聖歌隊に入りました。みんなについていくのが精いっぱいで、ソロで歌うよりも難しいけれど……」

米国でチャリティー活動に参加

  • 3月4日のプログラム。チケットは限定300枚

 昨年2011年3月11日、細川さんは、たまたま日本にいた。日本での仕事が次々にキャンセルされていく中、米国に戻ったが、やはり日本人。日本を離れることをとても後ろめたく思ったという。日本で開かれたチャリティーコンサートのほか、米国でもさまざまなチャリティー活動に参加して、震災後の日本を見守り続けている。

 日本のアーティストの間で、「ミュージシャンズミュージシャン(ミュージシャンの憧れるミュージシャンの意味)」と尊敬されている細川さんのトークライブをはじめ、女性ジャズアーティストの活躍に間近に触れられる貴重な機会――見逃せない。

 「ジャズひな祭り2012」は、3月4日午後2時~午後5時15分、銀座5~8丁目の全8会場で。チケット3000円で、全会場を巡れる(ドリンク代別)。限定300枚(売り切れ次第終了)。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.01.31

ザ・タイガース生演奏が聴けたジャズ喫茶

  • 41年ぶりに“復活”したザ・タイガースの武道館コンサートには、早くからファンの列が……

 1971年1月24日。グループサウンズ、ザ・タイガースが東京・日本武道館で解散コンサート「ビューティフル・コンサート」を開いた。ファンの私にとっては忘れられない日である。

 当時中学生だった私は現場には行けなかったけれど、学校から帰って自宅のプレーヤーで彼らのレコードをかけまくり、友人と一緒に「もう聴けなくなっちゃうんだね」と、しんみり涙したことを覚えている。

 そのラストコンサートから41年経った2012年1月24日。武道館に、60代になったジュリー(沢田研二)、タロー(森本太郎)、サリー(岸部一徳)、ピー(瞳みのる)が勢ぞろいした。昨年9月に始まったジュリーの全国ツアーに、ザ・タイガースの当時のメンバー3人がゲスト参加、38公演の最後を飾るのが、武道館コンサートだった。

 開演40分ほど前に武道館に到着すると、正面入口の階段付近はもう人、人、人……。おそろいで作ったと思われるザ・タイガースの文字入りイエローTシャツ姿の女性グループ、ネクタイに背広姿で沈黙したまま背中を丸めている男性グループ、母親に連れられて来たミニスカートの娘さん。ステージの後ろ側も開放して約1万3000人のファンが詰めかけ、様々な思いでコンサートの始まりを待っていた。

  • ステージの後ろ側も開放して、約1万3000人のファンが集まった。
  • 資料提供:ユニバーサル ミュージック

復活を予感させたピーの言葉

  • (左から)岸部一徳、沢田研二、瞳みのる、森本太郎

 ジュリーがソロで歌っていた「G.S.I LOVE YOU」が流れ、メンバーが登場。

 「ミスター・ムーンライト」「ドゥ・ユー・ラブ・ミー」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」など、おはこの洋楽に始まり、「僕のマリー」「モナリザの微笑」「銀河のロマンス」「坊や祈っておくれ」「淋しい雨」「風は知らない」「散りゆく青春」「花の首飾り」「割れた地球」「怒りの鐘を鳴らせ」「美しき愛の掟」「青い鳥」「シーサイド・バウンド」「君だけに愛を」「誓いの明日」「シー・シー・シー」「落葉の物語」「ラヴ・ラヴ・ラヴ」……。

 ザ・タイガースの思い出の名曲が続く。最近とみに記憶力がなくなったと実感している私だが、オリジナル曲はほぼ全曲歌詞をすらすら口ずさめるのだから不思議なものだ。

 41年ぶりにステージに戻ってきたドラムのピーの華麗なスティックさばきにも感動した。

 ピーは、自著「ロング・グッバイのあとで」(集英社)の中で、1971年1月24日の解散コンサートを終えた後のことをこう記している。

  • 解散コンサートを終えて、東京・有楽町のガード下での送別の宴を最後に、ピーは芸能界を引退した

 「内田裕也さんが送別の宴を東京・有楽町のちゃんこ料理店で開いてくれた。その宴の最後、いよいよメンバーと別れるとき、僕は少々いきがって『十 年後に会おう。君らはきっと乞食になっているだろう』と言い残した。強がって言ったものの、その後の生活の保障は何もなかった。ただ、勉強だけを信じ て……」

 そして、コンサートを見に来てくれた中学時代の親友2人と、レンタルした2トントラックに乗り込み、家財道具を積み込んで一路故郷の京都へ。大学に進学し、教職に就いた彼は、以来メンバーとは音信不通だった。

 そのピーが戻ってきたのだ!

 2011年3月9日付けの読売本紙夕刊のピーのその後を伝える記事を読んで、私は、何となくこの日が来ることを予感していた。

 記事の中で、ピーは、慶応高校の教員(中国語)を辞めて北京に拠点を構え、人生を振り返る自伝の出版を準備、「人生に定年はない。今後は様々なことに挑戦したい」と話した。さらに、毎日1時間以上のドラムの練習を続けていると明かしていたのである。

「全員そろってこそ」

  • (左から)岸部一徳、岸部シロー、沢田研二、森本太郎、瞳みのる

 武道館でのサプライズは、後期メンバー、岸部シローの登場だった。脳梗塞を患ったシローは後遺症で歩行が困難。兄のサリーに両脇を抱えられるようにしてステージに立つと、「こんなステージに立てるなんて夢のよう。すべてジュリーのおかげや」と静かに語り、映画「小さな恋のメロディ」のサウンドトラックで知られるビージーズの「若葉のころ」をつぶやくように歌った。透明感のある高音の美声は健在で、私の周囲ではすすり泣きが漏れた。

 「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」のジュリーのジャンプに狭い座席でも同調して飛び上がり、スローな曲ではお行儀よく肩でリズムをとり、「君だけに愛を」のジュリーの指差しには久しぶりに腹筋を使って絶叫し、「ラヴ・ラヴ・ラヴ」ではL文字をつくって共に歌った。

 ローリングストーンズの「サティスファクション」をアンコールに、最後は会場にいる全員で一本締め。

 天井から金と銀のテープが舞い降りて、タイムスリップ。

 初期メンバーのトッポ(加橋かつみ)だけが不参加だったが、ジュリーは、「全員そろってこそ、ザ・タイガース。近い将来、きっと実現させます」と約束した。

 あの日の続きをありがとう!!

 自然に涙があふれた。

間近でGS生演奏

  • 「ヤングメイツ」があった有楽町の東宝ツインタワービルは今も健在

 さて、銀座とザ・タイガースのことを少々――。

 1960~70年代当時、銀座や新宿、池袋には、グループサウンズの生演奏が間近で聴けるジャズ喫茶がいくつかあった。中学生だった私にとって、新宿や池袋はなんだか怖かったし、銀座は大人の場所で敷居が高かった。東京宝塚劇場に近い有楽町の東宝ツインタワービルの地下にある「ヤングメイツ」に潜り込むのが精いっぱい。

 入場整理券をゲットするため、日曜早朝、友人と一番電車に揺られたことがよみがえる。お小遣いをためて、銀座の三愛でちょっとお姉さんっぽいブラウスを買って出かけた。高校生が多く、私たちは「あなたたち、若いね」なんて冷やかされたことも少なくなかった。

 今は大人向けのディスコに変わってしまったこの空間、今思えば、ステージとの距離がものすごく近くて、間近に見ることができたし、多分カメラ撮影もそれほど厳しくなかったし、プレゼントも手渡しできたっけ。

  • 「ザ・タイガース ハーイ!ロンドン」DVD発売中 4,725円(税込)発売・販売元:東宝

 当時の「ヤングメイツ」でのライブの様子は、ザ・タイガースの3作目の映画DVD「ハーイ!ロンドン」(1969年度作品)で見られる。

 多忙なスケジュールに追われるメンバー5人の前に、魂と引き換えに自由な時間をくれるという悪魔の化身(藤田まこと)が現れ、どたばた劇が始まるといった筋書き。「ヤングメイツ」でのシーンでは、ファンクラブ会員の中から抽選で選ばれた女性たちが参加しているが、流行のミニスカートをはきこなしつつ、皆ぽっちゃり型で、時代を感じさせる。

 この映画、日本映画初のロンドンロケとかで、当時のロンドンのストリートファッションや音楽の熱気、それに憧れる日本人の心持ちなどが伝わってきて、実に興味深い。

 英国航空がBOACと呼ばれ、「(飛行機で)南周りだと30時間以上だけれど、北周りだと17時間!」なんて台詞もあり、北極上空を飛んだ証明書が大映しになる。

 久しぶりの“同窓会”を懐かしみ楽しんで、仲間に会えて「本当によかった」と幸福な時間をかみしめ、そして、「また皆で絶対集まろうね」と誓い合う。

 あの心地よい空間と時間は、私にとって何よりも元気の素。大切にしていきたい。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.01.20

時を経て変化、別府の「青い湯」と銀座の銭湯

  • 大分県・別府の鉄輪にある山荘・神和苑

 仕事で大分県・別府を訪ねた週末、以前から気になっていた山荘・神和苑(かんなわえん)に泊まることにした。知人の温泉ビューティ研究家、石井宏子さんもおすすめの、青い温泉である。

 温泉天国・別府の中でも非常に珍しいブルーの温泉で、1万4千坪の敷地内に湧く自家源泉という。

 全国に硫黄系の青白い温泉は数多いけれど、ここの「青の湯」は、メタケイ酸成分の変化によって、時々刻々と色が変化していくところが興味深い。湧出時には無色透明なのに、日を追うごとにコバルトブルーに変化していき、約1週間ほどで白濁色になるのだそうだ。

 確かに、部屋に付いた露天風呂は、毎日入れ替えるとのことで、まだ透明度が高かった。大浴場の露天風呂の湯は、湯を張りかえて3日目なので、透明感はあるものの、かなり青みが増していた。そして翌朝もう一度大浴場に出かけてみると、心なしか鮮やかなコバルトブルーの濃さが進化しているような気がした。

 これから段々と乳白色を帯びていき、1週間後はミルクのような白色に変化を遂げるというのだから、大地の神秘は素晴らしい。

 湯はややしょっぱめで、泉質は肌にやさしい弱酸性。やわらかく、肌を滑って行くような感覚が心地よかった。

  • 部屋に付いた露天風呂はまだ透明度が高い
  • 「青の湯」が自慢の大浴場へ
  • 大浴場の露天風呂はかなり青みを増していた

地獄めぐりでパワーチャージ

  • (上左)臼杵産のふぐの薄造り(上右)ひれ酒は心から温まる(下左)青い湯にちなんだオリジナルカクテル(下右)温泉を用いた湯豆腐が朝食の人気メニュー

 夕食には、この時期ならでは、臼杵産のふぐをいただく。ふぐ皮の和え物にふぐ寿司、薄造り、唐揚げ、ふぐちりに雑炊、そしてもちろん、ふぐ酒も……。担当の仲居さんは、「臼杵産のふぐは、下関のものよりも味が繊細」と自慢していたが、まあ、比べるまでもないだろう。

 青い湯にちなんで、ブルーが基調のオリジナルカクテルもあった。グレープフルーツの酸味がきいて、すっきりした味わいである。

 神和苑のすぐお隣りは、別府地獄めぐりで名高い、国指定名勝の海地獄。1200年前、鶴見岳の爆発によりできた広大な池は、海のように真っ青。ただ、神和苑のブルーのような透明感はない。こちらは、温泉中の成分である硫酸鉄が溶解して青色をつくり出していると聞いた。

 それにしても、大地のパワーを全身で感じることができる温泉は、元気をチャージしてくれる。

 さて、温泉ではないけれど、東京・銀座にも、銭湯があることをご存じだろうか?

  • 翌朝のぞいたら、さらに青の深みが進んでいるような
  • 神和苑の隣にある「海地獄」
  • こちらは硫酸鉄が溶け込んで青色になっている

ビルの中に銭湯

 1丁目の高速道路の高架下に近い区営の「銀座湯」と、8丁目の飲食街が並ぶ通りの「金春湯」。どちらもビルの中にこぢんまりと収まっている。寒空の下、夕方5時ごろ、写真を撮るためにしばらく建物の外で観察していると、近所のお年寄りやら飲食店関係と思われる職人さんやらが、次々と入口に吸い込まれていく。銀座の街の人々に愛されている場所であることがわかった。

 金春湯の歴史は古く、1863年(文久3年)にさかのぼる。1957年(昭和32年)に改築するまでは、木造だったという。吹き抜けの天井には、レトロな扇風機があって、今も夏場は活躍している。

 1960年代には、ほかにも、4丁目の和光の裏に「大黒湯」、2丁目の中央通りと昭和通りに挟まれたあたりに「松の湯」などがあった。

  • 銀座1丁目にある「銀座湯」
  • 「金春湯」は文久期から続く古い銭湯

映画「東京の暴れん坊」は「松の湯」が舞台

  • 映画「東京の暴れん坊」の舞台になった「松の湯」のあたりは、今はおしゃれなホテルに

 先日借りたDVDで、小林旭と浅岡ルリ子が主演している青春映画「東京の暴れん坊」では、この「松の湯」が舞台になっていて、実際にロケを行っている。

 2人は幼ななじみで、浅岡ルリ子は「松の湯」の看板娘、小林旭もやはり家業が洋食屋の銀座育ちで、パリ留学から帰ってきたコックで、とにかくバーのマダムたちにもてるといった設定である。「松の湯」を買収して再開発、実は一大ソープランドを作って一もうけしようとたくらむ政治家一家との間にひと悶着あって、マイトガイ小林旭が江戸っ子のきっぷの良さを発揮して大活躍する。

 時は1960年。松の湯の大きな煙突から煙がもくもく出るシーンと、4丁目の交差点にあった森永の地球儀型広告塔と不二家のネオンサインが重なり合って、成長期の銀座の変化を映し出す。

 今度はゆっくり大きな湯舟につかって、下町のよさを残していたころの銀座に思いをはせてみることにしたい。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.01.16

銀座の老舗で出合う美しき和小物の世界

  • 銀座かなめ屋の3代目、柴田光治さん
  • 見番通りにあるかなめ屋の店頭

 先日、国際サッカー連盟が女子世界優秀選手に選出した澤穂希選手の着物姿を見て、和装が醸し出す何とも優雅な美しさに、改めてほれぼれとした。

 いや、今年こそは、やまとなでしこの一人として、和装をしゃなりと着こなしてお出かけしようと心に誓った私である。

 東京・銀座には、和装を扱う店舗が一時期よりかなり減ったとはいえ、名の知れた名店は老舗ののれんをしっかり守っている。

 仕立てた着物はいくつかあるので、小物でいま風に変化をつけようと、銀座8丁目にある「銀座かなめ屋」をのぞいてみた。

キャッチフレーズは和のセレクトショップ

 場所は、2011年11月4日付の小欄でご紹介した見番通りの一角にある。創業は1934年(昭和9年)。下町・深川出身の一代目は、銀座で袋ものにかけては古いのれんを誇っていた大和屋で修業し、独立して日本橋に店を構え、戦争直後、銀座に移った。

 「歴史ある大和屋さんに奉公していたというのが、祖父の自慢だったようです」と、かなめ屋3代目の柴田光治さんはいう。

  • (上)プラスチックなど手頃な値段の髪飾りもある(左下)カラフルな髪飾りで和装にも変化がつけられそう(右下)帯締めも長さがいろいろそろう

 芸者衆のお披露目の時は、日本髪に(こうがい)という出で立ちが基本。見番通りにある同店は、華やかなる花柳界とともに歩んできたのである。

 屋号は、和装には欠かせない末広の扇子の心棒を意味する「(かなめ)」から取った。心棒は、「辛抱」にも重なり、商いの道の根本と考えてのことだった。

 かんざしやピン、バレッタなどの髪飾りを中心に、帯留、財布、ハンドバック……。「和装小物であれば、頭のてっぺんから足の先までそろう和装版セレクトショップ」というのが、同店のキャッチフレーズで、特にべっ甲のかんざしの品ぞろえは、銀座でも随一であろう。

繊細なべっ甲細工にため息

  • (上)にかわ質でできているべっ甲は漆との相性もよい(下)琥珀を使い、蒔絵装飾が麗しい逸品

 べっ甲細工の技術が生まれたのは長崎といわれるが、江戸の大奥文化でかんざしや櫛などの和装小物が進化・発達し、江戸に職人が集まって、べっ甲細工は東京の伝統工芸品となった。

 ショーケースに入っているべっ甲のかんざしや櫛を一つひとつ手に取りながら、柴田さんの説明を聞いた。1つ10~20万円代。さすがに値が張るものが多い。

 べっ甲の材料となるタイマイ亀はもともと日本近海に生息している数は少なく、従来は主に東南アジアやカリブ海で食用などで捕獲された後、甲羅だけを再利用してきたそうだ。だが、ワシントン条約により国際取引が禁止されて輸入ができなくなったため、現在では過去に輸入した材料を少しずつ使って製作している。また、国内では、石垣島などで、タイマイ亀を増やす努力もなされている。

  • 昭和初期の総べっ甲の婚礼用かんざし一式

 べっ甲は、にかわ質でできているので漆との相性がよい。そのため、貴重なべっ甲に、象嵌(ぞうがん)螺鈿(らでん)、金や銀の蒔絵(まきえ)など、さらに豪華な装飾を施してあるのだから、宝石と肩を並べる価格になるのも当然だろう。

 全体的に黒いものを「黒甲」、黒色とあめ色が混じったものを「茨布(ばらふ)」、全体が透き通った感じのあめ色のものを「白甲」といって、白甲が最も稀少だとされる。

 昭和初期のものと思われる総べっ甲(白甲)の婚礼用かんざし一式を見せてもらった。繊細で雅なその作りに、思わずため息が出る。こんな精巧な細工は、現在ではもう作ることができないという。

  • (上)ブドウのブローチは着脱可能(左下)茨布のかんざしには、愛らしい猫が(右下)裏側には尻尾が描かれていて、とってもキュート

 戦後、日本古来のお稽古ごとが見直されて、踊りの会などでかんざしなどの需要が高まった時期があって、先代は、地方の骨董屋などに出かけ、埋もれている一品を随分と発掘したそうだ。「それを磨いて加工して、新しい命を吹き込む……。80年代後半のバブルの頃は随分と引き合いがあったと聞きます。せっかく集めたものの、売るのが惜しくなったものも少なくなかったようです」と、柴田さん。

美術品から日常のおしゃれに

  • (上)ネット通販でも人気の昇龍の干支かんざし(左下)猫かんざしも根強い人気なのだとか(右下)こちらも猫の帯留め 和装好きには猫好きが多い?

 とはいえ、3代目には、「時代のニーズに合わせて変えていかないと、やがて忘れられてしまう」との危機感も強い。「べっ甲製品を高価な美術品として祭り上げておくのではなく、昔ながらの伝統は守りつつも日常的に親しんでもらえるような工夫が必要ですよね」と話す。

 たとえば、アメジストを使ったブドウのブローチはかんざしにもネックレスにも装着できて、ツーウェイ、スリーウェイの楽しみ方ができる。茨布のかんざしには、キュートな猫が描かれていて、裏を返すと、銀で描かれた尻尾が……。思わずくすりと笑ってしまうお茶目な小物もある。

 新春を飾る福徳繁栄の昇龍の「干支かんざし」(象牙製)に並んで、猫かんざしがあるのも発見! ネズミにだまされて、十二支の仲間に入れてもらえなかったかわいそうな猫が、「福猫」として登場しているのだ。「べっ甲などの髪飾りは特殊なものなので取り扱う店が年々減っています。でも、需要はあるのです。ホームページやブログで私どもの商品を写真で大きく見せるようになって、『それ、探してたんです!』と、全国から問い合わせをいただいています」と、柴田さんは話す。

 職人の手仕事の粋を尽くした和装小物の世界。チャーミングなかんざし一つで、気分はやまとなでしこ、になれるに違いない。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

 ◇銀座かなめ屋

 http://www.ginza.jp/kanameya/

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2012.01.06

イタリア・リヴィエラの宝石たち

  • 帝国ホテル第13代総料理長の田中健一郎さん

 皆さま、正月はいかがお過ごしになられましたでしょうか。今年もどうぞよろしくお付き合いください。

  さて、百貨店で働く私は、正月休みは1月1日だけ。元旦の夜は、東京・日比谷の帝国ホテルで、第13代総料理長・田中健一郎さんが企画した「新春フランス料理懐石」に参加して来た。

 田中さんの総料理長就任以来、年に数回開いている「フランス料理とセレナード」の中から、特に心に残るメニューをデギュスタション(テイスティング)スタイルでいただくという力の入った催し。デザートも入れると、品数は全部で10品にも上る。

 早速、1品ずつご紹介してみたい。

 1品目、三色のアミューズ:ヴィシソワーズ オマール海老のクレムーズ クリュスタッセのジュレ。甲殻類の透明なコンソメゼリーが一番下に敷かれ、オマール海老の淡いオレンジ、そして、ジャガイモのポタージュの乳白色が三層に重なる、美しい一品。さわやかな味わいで、ロゼ・シャンパーニュとの相性が抜群。

 2品目、ラングスティーヌのキャヴィア飾りをミカンのジュレにあしらって 柔らかくボイルしたラングスティーヌには、オマール海老の卵が彩りよく散らしてある。やさしい味の日本のミカン、そしてユズの香りもほんのりと。

  • 三色のアミューズ
  • ラングスティーヌのキャヴィア飾り

 3品目、比内鶏のバロティーヌ フォアグラとトリュフの入ったバスマチ米のピラフを添えて。フォワグラを中に包み込むようにして巻いた鶏肉に、フランス産の米のピラフを組み合わせ。鶏のクリームソースがコクがあって美味しい。

 4品目、塩鱈のブランダードとノルウェー産スモークサーモンの取り合わせ 北海道産の塩鱈をガーリックとオリーブオイルで柔らかくアレンジ。スモークサーモンは通常よりもかなり減塩されていて、さりげないけれどもヘルシーな味わいに感動。

 5品目、甘鯛の天火焼きと先取り野菜 江戸前アサリのコンソメスープ 魚介の旨みと香りがぎゅぎゅっと凝縮されたコンソメソースを、皿に盛られた魚と野菜の上から注いでいただく。菜の花やキントキニンジンが春を連れてきてくれたようだ。

  • 比内鶏のバロティーヌ
  • 塩鱈のブランダード
  • 甘鯛の天火焼きとコンソメスープ

 6品目、帆立貝とたらば蟹のスフレ仕立て スフレの下部は、サフランでちょっと変化を付けているのだそう。ソースは、ソーテルヌの貴腐ワインを使って。甘く濃厚なソースは、魚介のやさしい風味をより引き立ててくれる。

 7品目、帝国ホテル伝統のビーフシチュー 和牛バラ肉をとろとろに煮込み、ベーコンと彩り野菜とともに、小さな銀鍋で熱々のところをサービスするのが、帝国ホテル流。

 8品目、根室産蝦夷鹿背肉のポワレ 姫りんごのコンポートと金柑のチャツネ 田中さんのお気に入りの食材、蝦夷鹿は、チルドルームで約2週間寝かせて、ほどよくエイジングした自信作。トリュフのソースをかけて、ジューシーな肉の食感が楽しめた。

  • 帆立貝とたらば蟹のスフレ仕立て
  • 伝統のビーフシチュー
  • 蝦夷鹿のポワレ

 デザート1品目は、イチゴのコンフィチュールとわさびの一口アイスクリーム

 2品目は、キャラメル風味ミルクチョコレートの滑らかなクリームに載った、小さな和栗モンブラン メレンゲの「寿」と松葉の飴細工、フランボワーズとイチゴを合わせた寒天の赤をアクセントに。

 そして、カフェと一緒に3種類のマカロンで、締めに。

  • わさびの一口アイスクリーム
  • 和栗のモンブラン
  • 3種類のマカロン

  • 最後は、田中総料理長を真ん中に、料理人とサービスの面々が舞台に勢ぞろい

 田中さんのフランス料理は、繊細でやさしくて、また、「日本的なるもの」の懐かしさと温かさを思い起こさせてくれる、と私は思っている。

 昨年の震災で、「料理ボランティアの会」の幹事を務める田中さんは、5月、同ホテルで「カレーで元気になろう!」というチャリティ食事会を真っ先に催し、また、被災地にも4回訪問した。

 「料理ボランティアの会」は、2004年10月の新潟・中越地震の際、料理評論家の山本益博さんの呼びかけで、料理人やパティシエが集まり、ボラ ンティアで料理をサービスしたことから組織された団体。人気ラーメン店の店主から、有名ホテルの料理長まで、ジャンルを超えて20人余が発起人に名を連ね、現地も含め総勢1万人を超える"職人"が何らかの形で参加しているそうだ。

 「『美味しいものを食べて元気を出してください』が会の合言葉。震災発生直後に命をつないだ炊き出しではなく、少々気持ちが落ち着かれた秋ごろを見計らって被災地を訪れました。被災者の方々に、温かくて美味しいものを、前菜・主菜・デザートの形式でしっかり食べていただこうとの企画です。皆さんに、とても喜んでいただけました」と、田中さん。

 今回の正月イベントでも、「美味しいもので日本中が元気に!」との願いを込めて、一品一品作ったという。その温かい心持ちが伝わってくるような、素敵な晩餐だった。

 なお、当日のワインに関しては、私のワインブログで、近日中にご紹介したいと思います。

 永峰好美のワインのある生活

http://www.printemps-ginza.co.jp/wine/

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2011.12.09

イタリア・リヴィエラの宝石たち

 旅の続きは「ヴィーナスの港」から

  • サンタ・マルゲリータ・リグレの朝焼け

 前回に続いて、イタリアの旅の話を続けたい。

 サルデーニャ島をあとに、イタリア半島のつけ根にあたるリグーリア州のリヴィエラ海岸を、サンタ・マルゲリータ・リグレを基点に車で走った。

 左手は目もくらむ断崖絶壁、右手はごつごつした山肌で、その間をくねくねと走る。深いブルーの海の波間に、冬のやわらかな太陽の光が躍っている。

 冬のリヴィエラは、歌謡曲くらいでしか知らなかったけれど、男を港を出てゆく船にたとえて、「哀しければ哀しいほど、黙りこむもんだね」という歌詞は、なんだかこの風景にしっくりくるように思った。

 記録的な大雨で、土石流などの壊滅的な被害を受けたとされるチンクエ・テッレの街中には、残念ながら入れず、東端のポルトヴェーネレへ。到着したころには太陽も高く昇り、半袖シャツで歩きたくなるほど、暖かだった。

  • リヴィエラ海岸の東端、ポルトヴェーネレ

 「ヴィーナスの港」と呼ばれるこの街は、12世紀に繁栄した海洋都市ジェノヴァの出城として築かれた。狭い海岸線に隙間なく並んだ背の高い家々は、砦の役目をしていた。

素朴な町に魅せられて

  • バイロンも愛した美しい海岸が広がる

 このあたりの漁村は、後に記すポルトフィーノやカモーリでも同じなのだが、各家が色とりどりのペンキで塗り分けられ、絵画のように美しい。家族が待つ家に戻る船乗りたちにとって、海上での目印になったようだ。

 初期ローマンスタイルとジェノヴァ風ゴシック様式を併せ持つサン・ピエトロ教会は、海に面した回廊が洞窟のある入り江まで続いている。ローマ時代には、ヴィーナスを祀る神殿があったそうだ。見上げる空はとても高く、乾いた風が心地よく肌をなでる。英国の詩人、バイロンが、愛してやまなかった風景と聞いた。

  • (左上)パルマーリア島の白ワインを味わいながら、外洋に向かうヨットを送る(右上)自家製ジェノヴェーゼ・ソースが人気の「Bajeico」(下)ポルトヴェーネレに近いセストリレバンテで夕日を拝む

 半島に面して、すぐ近くにパルマーリア島という小島が浮かんでいる。この島で造られる爽やかな白ワインは、白い花を連想させるヴェルメンティーノ種。蜂蜜のようにふくよかな余韻があとをひいた。

 教会広場に連なる小路には、花やアロマ、菓子などを売る小さな土産物店が軒を連ねる。

 緑の看板がひときわ目立つ店に入ると、焼き立てのフォカッチャやパンと並んで、瓶詰めのジェノヴェーゼ・ソース(現地では、ペスト・ジェノヴェーゼという)があった。

 店名の「Bajeico」は、土地の方言で、バジルのこと。自家製ジェノヴェーゼ・ソースが売り物の人気店だった。

 同ソースには、いくつかの決まり事があるという。

 大理石のすり鉢を使うこと、材料には、ミント風味に近いソフトな味わいのジェノヴァ産バジル、インペリア産のニンニク、シチリア産の良質な松の実と粗塩、リグーリア産のエキストラ・ヴァージン・オリーブオイルを用いること、そして、仕上げのチーズは、パルミジャーノかグラナ・パダーノ、それにペコリーノ・サルドを混ぜる……。

 「19世紀の半ばに出版された料理本にはこのレシピがすでに掲載されていて、伝統的な作り方をずっと守っているの」と、女主人のラウラ・マッサさんが教えてくれた。

心躍るヴァカンス、ポルトフィーノ

  • 映画の舞台にもなったポルトフィーノ

 翌日は、ポルトフィーノ山の南側斜面の末端にあるポルトフィーノへ。映画の舞台になり、カンツォーネに歌われ、世界中のセレブリティが別荘を持って優雅な長期バカンスを楽しむリゾートだ。

 私は、米国人映画監督フランク・シェイファーの体験をもとに書いた小説「チャオ、ポルトフィーノ」(早川書房)を読んで、そのキラキラした世界に憧れたものだ。

 同氏は、うらやましいことに、幼少のころから幾度となくこの地を訪れた。時は1960年代。レックス・ハリソンがピーター・セラーズとエスプレッソを飲んでいる、ジャッキー・ケネディがサントロペの文字入りTシャツを着て波止場をぶらついていた、グレース王妃がとある画廊に入ってサルバドール・ダリのデッサンを買った……。そんなシーンが、さりげなく書かれているのだ。

  • 港町情緒が残るカモーリ

 特に印象に残っている一節は、地元の友人で画家のジーノの言葉である。

 「イギリスに本当に偉大な画家が生まれなかったのは、いい光がないからだ。車とビールならドイツ、かわいい娘とビジネスはアメリカ、だけど絵を描くならイタリアさ」

 そう、イタリアの光はあらゆるものをまばゆく輝かせる。

 岸辺には、高級ブランドのブティックや画廊が並ぶが、クリスマス前のオフシーズンだったこともあり、今回は1960年代の華やかなリゾートの雰囲気はあまり味わえず、ちょっと残念。

これぞマンマの味!

 ポルトフィーノから1時間ほど西に戻って、カモーリという街を歩いた。昔ながらの港町の情緒が残る趣のある漁村で、とても気に入った。カモーリという地名は、「カーサ・ディ・モッリエ」、つまり「妻の家」に由来するともいう。

  • (上)マンマが手際よくパスタを打つ(下)本場ジェノヴェーゼ・ソースは素朴な味わい

 そんな街で、店頭に「イタリアのマンマ(おふくろ)の味をどうぞ」と書かれた小さなトラットリアに入った。マンマが孤軍奮闘して料理を作る小さな店である。注文したのは、もちろん、ジェノヴェーゼ・ソースのパスタ。

 パスタマシーンで、手際よくパスタを打つマンマの姿を、サービスに回っているご亭主が、「どうだ!うまいもんだろう」と得意満面の笑顔で見つめているのがほほえましかった。

 親しみのわく温かな空気が漂い、マンマお手製ジェノヴェーゼ・ソースの素朴な味わいが忘れられない。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)