GINZA通信アーカイブ

2012.08.24

都市デザインの変遷とそれぞれの想い…南イタリアの風(6)

 GINZA通信の夏休み特別企画「南イタリアの風」を始めるにあたり、第1回でシチリア島の「歴史の重層性」について触れた。

 フェニキア文化に始まり、4回目と5回目では、この島におけるギリシャ植民都市の繁栄を物語る遺跡の数々について、かなり詳しくつづってきた。

 繁栄を誇ったギリシャ都市の中でも中心的な役割を果たしたのは、第4回に記した島南東部のシラクーサ。紀元前8世紀に建設され、前5世紀には、アテネと覇権を競い合うほど影響力を拡大した。数学者アルキメデスや詩人テオクリトスはこの街で生まれた。だが、前3世紀、ローマ軍と戦って敗れ、占領下に置かれる。アルキメデスはこのとき、ローマ軍の一兵卒によって殺害されたともいわれている。

 シチリアには、ローマの建築遺構も多い。そして、中世には、州都パレルモを中心に、ビザンツ、イスラム、そしてノルマンの3つの文化がそれぞれに発展・融合、共存し、独特のエキゾチックな雰囲気が醸し出されていく。ルネサンスの時代にはあまり特筆すべきものがなさそうだが、バロックの時代になって再び存在感が増す。

 そうした歴史の重なりを、具体的に見てみよう。

ギリシャ劇場の「借景」

  • シラクーサの大聖堂の正面はバロック様式
  • ギリシャ神殿の列柱間を壁でふさいで、キリスト教聖堂に改造

 丘の上の聖域にあるシラクーサの大聖堂には、この島の歴史が刻まれていて興味深い。大聖堂のもとをたどれば、紀元前5世紀初めに建設されたドーリス式のアテナイ神殿であった。アテネのパルテノン神殿が造られたのは、その数十年後という。このギリシャ神殿が、7世紀、ビザンツ(東ローマ)帝国の支配下に入ると、聖堂に改造されたのだ。

  • タオルミーナからイオニア海を見下ろす
  • 街のどこからでもエトナ山の雄姿が望める
  • ギリシャ劇場。夏の映画祭でスクリーンが視界を遮っていた

 それは、外壁を見ると、一目瞭然。太く堂々とした何本かの列柱の間が壁面でふさがれている。神殿の柱は、壁に埋め込まれるようにして残っている。聖堂になって、建物の向きも東西が逆転。ギリシャ神殿は、神室に安置された神像に朝日が差し込むように東向きに建てられたが、キリスト教会堂は東にアプス(後陣)を配置するので西向きなのである。

 堂内に入ってみよう。大理石の床はスペインの属領時代が始まった15世紀、バロック様式のファサード(正面)は18世紀のものとされている。また、屋根にはイスラム時代の名残もみられる。

 険しいタウロ山の中腹にあるタオルミーナは、今では世界中の観光客でにぎわう景勝地。先住民シクリ族の集落であったところを、前4世紀初め、勢いのあったシラクーサによってギリシャ化された。

 前3世紀に創建されたというギリシャ劇場は、海に突き出た崖の上にある。イオニア海の紺碧の海、さらにその奥にあるエトナ山の雄姿を背景に芝居を見るように計算して造られたものであろう。ギリシャ人にとって演劇や音楽とは、神々に奉納するとの目的があった。

 和辻哲郎は「イタリア古寺巡礼」(岩波文庫)の中で、「その演劇が、蒼い空、青い海、白い山などを見晴らしながら鑑賞せられていたということを(中略)、ギリシア人はこのことを勘定に入れているのである。その証拠は、この劇場の位置の選定で、この場所こそタオルミーナの町のうちで最も眺望のよいところなのである」と記している。

 しかし、現在残る劇場のれんが積み工法を見ると、ローマ人によって改造されたことは明らかだ。ローマ人は剣闘や猛獣ショーや模擬海戦などの見せ物を催す空間に変えた。それゆえ、下界の眺望をさえぎるような高い舞台の壁(今は中央の壁はV字型に崩壊)を造ったりしたのである。

迷宮の街を抜け、シチリアで最も美しい大聖堂へ

 タオルミーナで注目される古代遺跡のもう一つが、ナウマキエ(海戦の意味)の遺構。帝政ローマ時代らしく、煉瓦造りの巨大な構造物が100メートル以上も続く。用途については水道施設など、諸説あるようだ。

  • ナウマキエ(海戦)と呼ばれる遺構
  • ナウマキエの下に広がる階段状の坂道
  • アートな空間もあちらこちらに
  • 街の中を歩く新郎・新婦に皆が祝福の言葉をかける

  • モンレアーレの大聖堂はアラベスク模様の外壁が特徴
  • (左上)堂内の金地モザイクから キリストとグリエルモ2世、(左下)床にはイスラムとビザンツの影響が、(右上)堂内の柱の美しいデザイン、(右下)最期の晩餐

 このナウマキエの下に広がる地区は、階段状の狭い坂道が複雑に巡っていて、迷宮のようで面白い。レストランやカフェ、ギャラリーや雑貨の店など、おしゃれな店が並ぶ。いろいろ立ち寄りながら、やがて旧市街の中心、「4月9日広場」に出るあたりで、結婚式を挙げたばかりのカップルを発見。これから、レストランで披露バーティーをするところだった。

 ビザンツ、イスラム、そしてノルマンの3つの文化が共存した中世、その時代の建物や内部を飾るモザイク画や彫刻に、その痕跡がみてとれる。第1回で紹介したパレルモのノルマン王宮がその典型だが、パレルモの西方郊外にある、モンレアーレの大聖堂にも金地で覆われた素晴らしいモザイク画がある。12世紀にグリエルモ2世によって建造された大聖堂は、「シチリアで最も美しいノルマン建築」とも呼ばれている。外壁には、石灰岩と黒い溶岩石を組み合わせたアラベスク模様が施されている。ちなみに、グリエルモ2世は、初代シチリア国王のルッジェーロ2世の孫にあたる。

  • (上)大聖堂からつながる中庭(下)噴水のデザインもイスラム風

 大聖堂の南側には、修道院に付属する美しい回廊があった。アラブ・ノルマン様式の尖塔アーチを支える細い円柱の柱頭には、ロマネスク彫刻が施されている。一角にある噴水は、椰子の(みき)をかたどり、噴き出す水を葉に見立てたデザイン。サイフォンの原理を応用したものだそうで、アラブ的な要素が見て取れる。

 ビザンツ時代の教会で印象的だったのは、シチリア島からイタリア半島のつま先、レッジョ・ディ・カラブリアに渡り、クロトーネに向かう途中、スティーロという小さな村に立ち寄った時だった。素朴な教会の壁面には、聖書のひとこまを描いたビザンツ時代の絵が残されている。この地帯は、岩窟居住集落として世界遺産に指定されたマテーラに似た田園風景が広がっていた。

  • スティーロの集落
  • (左)素朴なビザンツ教会が残っている、(右)ビザンツの壁画が教会内に残る

バロックの都市空間、ノート

 時代は下る。シチリアには、バロック様式の教会や建物も少なくない。第1回で、パレルモの旧市街中心にあるクワットロ・カンティのことを書いたが、シチリアのバロックを語る上ではずせないのは、ヴァル・ディ・ノートの辺り。

 その中で立ち寄ったノートという街は、シラクーサによってギリシャ化され、中世にも繁栄していたが、1693年の大震災でほぼ街全体が瓦解。古い街を放棄し、16キロほど離れた海寄りの台地にまったく新しく建設されたニュータウンである。丘の上にありながら、地形が緩やかで地震にも強いという長所があったらしい。オランダ人の指導の下、計画的にバロックの都市空間を実現する。

 ニュータウンでの教会の建設には、旧ノートで使われていた装飾された石材などが再利用され、人々の思い出を刻んでいった。日本の震災復興にも参考になるような事例だ。

 街の中心にある大聖堂は、緩やかな大階段の上に堂々とそびえている。両端に鐘楼が配されているのは、フランスからの影響だろうか。その東側に、サン・フランチェスコ教会とサン・サルヴァトーレ修道院があり、やはり階段状の広場がドラマティックな景観をつくっている。

  • (左)ノートの街は美しい建築物でいっぱい(右上)ノートのサン・フランチェスコ教会(手前)とサン・サルヴァトーレ修道院(右下)街の中心にある大聖堂
  • 貴族の館が並ぶニコラーチ通り
  • (上)バルコニーを支える彫刻群は見ているだけで楽しい(下)華麗な彫刻はシチリアのバロックを代表する

 興味深いのは、貴族の邸宅などのバルコニーを支える独創的な造形。大聖堂の西側にあるニコラーチ通りでは、スフィンクスやセイレーンなど、幻想的な彫刻に出会えた。

 自由で開放的な都市デザインのニュータウンもまた、シチリア島の魅力の一つである。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.08.17

神殿の谷に残る争いのあと…南イタリアの風(5)

  • (左上)アグリジェントのコンコルディア神殿(左下)神殿は前5世紀の建立(右)内部の神室にはアーチがみられる

 前回に続いて、古代ギリシャ時代の遺跡群が残る都市を紹介したい。シチリア島の西部にあたる3か所、アグリジェント、セリヌンテ、セジェスタ。それぞれに前回とはまた趣の異なる場所である。

 まずは、アフリカに面した海を望むアグリジェント。1927年まで、ジルジェンティと呼ばれていたのだが、ローマ帝国再興を思い描いたムッソリーニが、ラテン語のアグリジェントを復活させたという。ちなみに、古代ギリシャ名はアクラガス。東側を流れる川の名前にちなんだものだ。

 アグリジェントは、前6世紀、クレタ島とロドス島からの植民により建設され、先住民のシカニ族を征服しつつ、内陸部へと領土を広げていった。植民初期のころの有名人に、ファラリスという支配者がいる。極めて残酷な処刑具を造ったことで知られている。中が空洞のブロンズの牛を鋳造、そこに罪人を閉じこめて下から火であぶると、うめき声が牛の口からもれ聞こえるという装置。後に、戦いに勝利したカルタゴに持ち去られたといういわくつきの道具である。

横たわる不思議な巨人、テラモン

  • 小アジアからもたらされたイナゴ豆

 「神殿の谷」と呼ばれる神殿群のある考古学地区に向かった。点在するギリシャ神殿は、緑深い土地にすっかり溶け込んでいる。道すがら、エンドウ豆の房を少し大きくしたような形のイナゴ豆の木々に出合う。聖書にも登場するこの豆は甘味があって昔から菓子類に用いられたそうだ。今では薬局で、咳止めキャンデーとして売られている。

 アクロポリスのあった旧市街は眼下に広がる。青い海を背景に、崖の上にそびえるのはヘラ神殿。ヘラは船乗りの守護神である。ヘラクレス神殿は、柱も太く、重々しい。

 ほぼ完璧な神殿の姿をとどめているのが、コンコルディア神殿。コンコルディアとは、和解・協調の意味で、現在も平和の祭典がこの神殿を舞台に営まれているそうだ。前5世紀の建設だが、6世紀の東ローマ帝国の時代に教会堂に転用されていたため、神室の内部にアーチが造られているのが興味深い。

  • (上)崖の上にそびえるヘラ神殿(下)ヘラは船乗りの守り神だった
  • (左上)神域に残る丸い祭壇、(左下)重厚感のあるヘラクレス神殿、(右上)オリュンピアのゼウス神殿跡、(右下)考古学博物館前の集会場跡
  • アスリートが座るベンチとして使われていたらしい
  • (左)ゼウス神殿にあったテラモンの本物は博物館に、(右)当時の富裕階級が所持していたギリシャの陶器

  • アジア風の日傘を売っているお兄さんがいた

 前480年、シチリア島には歴史的出来事が起こる。アグリジェントはシラクーサと同盟した支配者テロンの下、ヒメラの戦いでカルタゴ軍を大破する。戦いで得た大量の捕虜を使い、数々の大規模土木工事に着工する。

 その一つが、オリュンピアのゼウス神殿。全ギリシャ世界においても最大級の規模を誇る神殿として名をとどろかす。石材の大半は失われてしまっていて廃虚のようだが、崩れた柱頭などからその大きさは容易に想像できる。

 ゼウス神殿跡で、不思議な巨人が横たわっているのを見た。身長8メートル近いテラモン(人柱像)。神殿前面の列柱の間などに柱として組み込まれ、梁を支える役割を担っていた。実は、横たわっている像はレプリカで、オリジナルの本物はアグリジェントの考古学博物館にあった。博物館の所蔵品の中でも飛び抜けて巨大で、地下と1階の2フロアを貫いた中央展示室に無防備に展示されていた。

アグリジェントの美しき青年

  • アグリジェントの青年像

 博物館でもう一つ目に留まったのは、アグリジェントの青年像。前5世紀に造られた大理石像で、冷たい肌の質感が何とも美しい。

  • セリヌンテのアクロポリスの城壁
  • E神殿は1950年代に再建された
  • (左上)規模の大きなG神殿(右)未完のまま崩れた柱がそのままに(左下)C神殿の列柱も一部再建された

 テロンの下で発展したこの都市は、民主制に移行する。中心的政治指導者は、哲学者でかつ医者でもあったエンペドクレス。同時代にクロトーネで活動していたピュタゴラスの影響を受け、薬草を使った治療法や音楽療法なども開発している。非戦中立を唱え、また、身寄りのない娘たちの後見人になったり、オリュンピアの競技会に出かけてアスリートとしても勝利したり、何かと目立つ活動も少なくなかった。その評判は人々のねたみの的になり、エトナ山の火口に身投げをしたなど、不幸な晩年が語り継がれている。

 こうしたアグリジェントの黄金期は長続きせず、前5世紀末、カルタゴ軍に攻め込まれ、陥落する。そう、あの「ファラリスの牛」も戦勝品として持ち帰られたわけである。

 アグリジェントよりもさらに島の西に位置し、アフリカに面した海を望むセリヌンテ。対岸のカルタゴとの交易で繁栄したが、前5世紀、島北西部の内陸にある先住民の都市セジェスタとの領土争いを繰り広げる。

 セリヌンテの遺跡は広大で、3つの神殿が残るが、どの神殿にどの神が祀られたかが不明で、神殿名は便宜的にE神殿、G神殿、C神殿という具合に、アルファベットで呼ばれている。後に大地震で瓦解し、風化した石材の山は、歴史の物語を語ってはくれない。崩れた柱の太さは直径3メートルを超えるものもあり、その巨大さを感できる。

ゲーテも記したセジェスタの謎の神殿

  • セリヌンテの神域から見下ろせば、海水浴場が広がる
  • 山の中にぽつんと見えるセジェスタの神殿
  • (上)神殿について史料は少ない(下)神殿の柱は、塩の産地トラバーニ県から切り出した石灰岩を使っている

 一方、セジェスタの先住民エリミ族は、小アジアから漂着したトロイア戦争の落人ともいわれている。あたりには、きれいに作付けされたブドウ畑が大海原のように広がっていた。カタラットなど、白ワインの産地アルカモが近い。

 シャトルバスでバルバロ山を登り、アゴラ(市民広場)の発掘地域に出る。その先に、小さめのギリシャ劇場があった。

 劇場から1キロほど離れたところ、緑深い山のふところに抱かれた神殿がぽつんと望める。神室も床石もなく、列柱の囲いのみの、不思議な神殿である。

 ゲーテは「イタリア紀行」(岩波文庫)の中で、セジェスタのこの謎めいた神殿についてかなり詳しく記している。

 「側面には隅柱を除いて十二本の柱があり、前面と背面には隅柱を入れて、六本の柱がある。石を運ぶためのほぞが、まだ削りとられぬままで殿堂に横たわっているのは、この寺院が完成しなかった証拠である……」

  • (上)山頂にあるアゴラ(市民広場)跡、(下)紀元前3世紀ごろにつくられた劇場
  • (左)テキーラの原料になるアガペ(竜舌蘭)(右)コリント式の柱のデザインに使われるアカンサスの花

 「神殿の位置はいかにも変わっている。広く長い谷の最高の端、孤立した丘の上にあるが、しかも険崖に取り囲まれており、むこうにはひろびろとした陸地が見えるけれど、海はほんのわずか見えるだけである。この地は豊饒でありながら物わびしく、どこもよく開墾されているが、ほとんど人家というものを見ない」

 神殿の周辺には、テキーラの原料になるアガペ(竜舌蘭)やコリント式の柱のデザインに使われるアカンサスの花が群生していたが、こうした景色をゲーテも見ただろうか。

 さて、セリヌンテとセジェスタの領土争いの話に戻ろう。セリヌンテの勢いに脅威を感じたセジェスタはアテネに接近するが、シチリアに遠征してきたアテネ軍はなんと敗退してしまう。そして、それからまもない前409年、ヒメラの戦いで敗退したカルタゴのリベンジが始まり、アグリジェントもセリヌンテも陥落する。アテネに見放されたセジェスタは、カルタゴにひよったものの、勢いのあるシラクーサに征服される。

 未完の神殿は、度重なる人々の争いをどのように見つめてきたのだろうか。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.08.10

古代ギリシャ人の誇りを巡る旅…南イタリアの風(4)

 シチリアの旅の見どころと言えば、やはり、美しい自然に抱かれた古代ギリシャ時代の遺跡群ははずせないだろう。

 ギリシャ本土の人口が増加し、慢性的な食糧不足に悩まされたギリシャ人たちは、計画的に移民団を組織し、西地中海に入植活動を始めた。紀元前8世紀半ばのことである。行く先は、デルフォイの神託(予言)次第。多くの人々が、新天地に野望を抱き、故国を後にする。

 ティレニア海に遠征した人たちが最初に入植したのは、ナポリ湾内に浮かぶ緑豊かなイスキア島のピテクーサ。

 続いて、前734年ごろ、シチリア島東岸のナクソス(現ジャルディーニ・ナクソス)に、エウボイア島(エヴィア島)のカルキスの人たちが定住を始めた。天地創造などギリシャ神話に描かれた物語の“編纂者”として能力を発揮したとして知られる人々である。商才にも長けており、島の産物である金属細工や陶器、紫貝で染めた織物などを地中海各地に広めていった。

  • ジャルディーニ・ナクソスは今は庶民的なリゾート地として人気がある
  • 高台からイタリア半島を望む
  • ナポリ湾の北、ソルファターラは、高温蒸気が噴き出す自然の温泉として知られていた

 ナクソスは、イタリアを代表するリゾート地の一つ、タオルミーナから南へ5キロほど。高台に上れば、間近にイタリア半島が望める。今は、家族連れで楽しめる海水浴場として人気がある場所だ。ちなみに、タオルミーナには比較的大きなギリシャ劇場が残るが、こちらはもともとシクリ族という土着民の集落で、ギリシャ化されるのは前4世紀になってからという。

イタリア本土最初のギリシャ植民都市、クーマ

  • クーマ遺跡のシビラの洞窟

 ナクソスへの入植とほぼ同じころ、イタリア本土でも最初のギリシャ植民都市が誕生する。イスキア島に移民した人たちが、海を隔ててちょうど向かい側にある地にキュメ(クーマ)という都市を建設したのだ。キュメとは小アジアの都市の名前で、イスキア島入植者にはその出身者が多かったようだ。

  • クーマ遺跡からイスキア島が望める

 ナポリからこのクーマの遺跡に行く途中には、ソルファターラという、硫気孔が連なる火山地帯ならではの風景が興味深い。むせ返るような硫黄の臭いがあたりいっぱいに立ちこめ、白茶けた石灰岩が黄土色に染まっている。地下のマグマの活動が今も活発に続いていることを教えてくれる。

 クーマ遺跡では、台形状の長い長いシビラの洞窟を通り抜けると、アポロン神殿跡に出る。そこからは、イスキア島が間近に望める。ここまで足をのばす観光客はいないらしく、波の音しか聞こえない。

  • クーマのアポロン神殿跡

 こうして、シチリア島東部沿岸をはじめ、南イタリアのティレニア海およびイオニア海に面した地域(現在のほぼカラーブリア州にあたる)でギリシャ人の入植活動が盛んに行われ、やがて、マグナ・グラエキア(大ギリシャの意味)と呼ばれるようになる。

 大ギリシャの首都となったのは、クロトン(現クロトーネ)という都市。イタリア半島のつま先にあたるレッジョ・ディ・カラブリアの北東方向、イオ ニア海に面したところにある。前6世紀、ギリシャのサモス島からクロトンに渡り、医学学校を開設したのがピュタゴラス。いまや、当時の繁栄ぶりは、コロン ナ岬に残るヘラ神殿の一本柱からしか推測することができない。

 ギリシャ時代の遺跡を語るにあたって、イタリア半島南部で、もう2か所忘れられない場所がある。

  • コロンナ岬に残るヘラ神殿の一本柱
  • 神殿跡から青きイオニア海を望む
  • エメラルドグリーンの海は透明度が高い

前5世紀に生きたギリシャ人の躍動する姿が今も鮮やかに

  • ギリシャ時代の城壁跡が残るヴェリア(左)、哲学者パルメニデスの像が残る(右)

 ナポリの南、チレント半島沿岸には、前6世紀、小アジアからやって来たフォカイア人が建設したエレア(現ヴェリア)がある。ピュタゴラス派と親交があった哲学者、パルメニデスが活躍した場所で、エレア派と呼ばれた形而上学の発祥の地となった。ここでは、ギリシャ時代の城壁やアゴラ(市民広場)などが発掘されている。

 エレアから北へ走ると、パエストゥムに至る。ここに残るギリシャ神殿は圧巻だ。まず、保存状態が素晴らしい。横6本、縦13本の柱を巡らせたドーリス式神殿をはじめ、柱も神室もいけにえを捧げる祭壇も、見事に残っている。

 博物館にあった、前5世紀のギリシャ時代の石棺のふたの図は、「飛び込む人」との表題の通り、躍動感がみなぎっていた。

  • パエストゥムにある、正面6円柱のドーリス式神殿
  • パエストゥムでは、世界屈指の保存状態を誇る神殿に出会える
  • パエストゥムの博物館にあるギリシャ時代の棺のふた(上)同じくギリシャ時代のもので、のびのびした作風が特徴(下)

ギリシャ世界で最も美しい街、シラクーサ

  • シラクーサの港

 さて、シチリア島に戻ろう。

 ナクソスやクーマへの入植が始まってしばらくして、ギリシャ・ペロポネソス地方で勢力をもっていたコリントス人が、島南東部にシラクーサを建設する。それをきっかけに、植民市の数は急激に増えていく。

 シラクーサは、当時から美しい街であった。「あらゆるギリシャ世界の都市の中で最大にして最も美しい」とたたえたのは、キケロだった。シラクーサの豊かさにひかれてか、プラトンは3度もこの地を訪ねている。

 神殿の遺構は、海に突き出た半島のようなオルティージャ島に残る。前6世紀初めにさかのぼるアポロン神殿の遺構で、イタリア半島で最古の石造り神殿の一つともいわれている。

 考古学地区には、ギリシャ世界最大級の古代劇場があり、現在も毎年夏の2か月間、古典劇が連日上演されるという。シラクーサはアテネやアレキサンドリアと並ぶ演劇の中心地だったのだ。ちょうど訪問した日は、上演の準備中で、観客席などが覆われていて、趣のある写真が撮影できず、残念だった。

  • シラクーサの街中に残る、シチリア最古のドーリス式神殿の遺構
  • オルティージャ島では、ムール貝を採る人も
  • 天国の石切り場

 劇場の東に位置するのが、「天国の石切り場」。断層には、ギリシャ時代の地下水道の横穴がみえる。さらに進むと、「ディオニュシオスの耳」と呼ばれる、ロバの耳のような形をした石窟があった。前5世紀末にこの地で権力を手にしたディオニュシオスは、非常に猜疑心が強く、捕虜として捕えたアテナイ兵の内緒話をここに閉じこめて聞いたという。その伝説を知った画家のカラヴァッジョが名付け親なのだとか。

移住先に神殿や劇場を造り続けた意味とは

  • 「ディオニュシオスの耳」と呼ばれる石窟

 今回、シチリア島やイタリア半島南部を歩き回りながら、「古代ギリシャ人たちは、どうしてかくもたくさんの、しかも大規模な神殿や劇場を、移住した先の外国の地に造り続けたのだろうか」という疑問が、常に頭の片隅にあった。

 結局、彼らにとって誇れるもの、ギリシャ人であることを強く意識し、自らのアイデンティティを確認できるもの、それが、神殿であり、劇場であったのだろう。ふと、中国東北部で日本人が満州国建設を試みた時、城や神社のような建物を意識的に建設したのを思い出した。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.08.03

古代の酒宴と神々の物語…南イタリアの風(3)

 イタリア半島とシチリア島の間に、点々と浮かぶエオリエ諸島。シチリア島北のミラッツォから水中翼船で1時間ほどで、島々の最南端にあるヴルカーノ島に到着する。人口1万人ほどの小さな島だが、夏は国内外からのリゾート客で一気ににぎわう。

 船着き場に降りると、硫黄の臭いが漂ってきた。そう、ここは活火山の島なのである。「ヨーロッパプレートとアフリカプレートが重なり合う場所なので、地震も頻発している。日本の震災はとても人ごととは思えなかったよ」と、地元ガイドのパウロさんは言う。

 船着き場の近くに、泥温泉があった。海底の噴気孔からガスが出ているとかで、海水浴ができる海へとつながっていた。

 島々の中には、ソーラー自家発電で電気をまかなっていたり、はたまたろうそくやランプを使っていたりと、太古の生活がそのまま残っている島さえあると聞いた。

 ヴルカーノ島に宿をとり、翌日は、再び水中翼船に乗ってお隣りのリパリ島を目指す。火山群の中心にあるのが、このリパリ島であり、30万年前の地層が残る、歴史の宝庫でもあった。

  • エオリエ諸島のヴルカーノ島は活火山の島
  • 船着き場の近くに、海に続く泥の温泉がある

  • 夏はリゾート客でにぎわうヴルカーノ島のホテルから。向かいにリバリ島が望める
  • リパリ島からの一望

 酸性火山の島で、鋭利な石器を作るための黒曜石が採取できる。そのため、石器時代から交易が盛んで繁栄した。やがて青銅器時代に入り紀元前1300年ごろになると、青銅を造るための(すず)など鉱物を求めて多くの船がエーゲ海域から往来するようになり、中継地として栄えたという。

 歴史家ディオドロスによれば、紀元前1600年ごろ、イタリア半島の原住民、アウソーニ族が移住を始め、アウソン王の息子リパロスによって征服され、その名前が付けられたとしている。そのリパロスの一人娘をめとって王位を継いだのがアイオロスであった。ホメロスが長編叙事詩「オデュッセイア」の中で「風の司」と呼んだ人物である。

風の神アイオロスが司るリパリ島

  • 城砦からシチリア島の北に広がるティレニア海を眺める

 ここで、「オデュッセイア」について、簡単に触れておきたい。

 主人公のオデュッセウスはイタケーの王で、トロイア戦争に参戦、知略を巡らせて木馬作戦を指導するなどして、ギリシャ軍を勝利に導いた英雄である。ところが、故国に凱旋(がいせん)する際、嵐に襲われて漂流し、10年にも及ぶ冒険が始まる。オデュッセウス自身が語る奇怪な漂流冒険物語と、留守中に起こった事件への復讐の話などで構成されている。ホメロスの伝承作品として成立したのは、紀元前8世紀ごろ。後に文字化されたといわれている。大学1年の夏休みの課題で読んで、西洋古典をかじってみようかなと思った、私にとっては印象深い作品である。

  • 海の透明度が素晴らしい

 さて、リパリ島の話に戻ろう。

 「オデュッセイア」の第10歌には次のような記述がある。

 「ついでわれらはアイオリエ(アイオリア)の島に着いた。これは浮島で、ヒッポタスが一子、不死なる神々の寵愛に恵まれたアイオロスが住んでいた。島の周りには、ぐるりと青銅造りの不壊(ふえ)の城壁がめぐらされており、さらに険しい岩が切り立っている……アイオロスはクロノスの御子から、風の司に任ぜられており、いずれの風も思うままに止めもし起こしもできた」(岩波文庫「オデュッセイア」松平千秋訳)

 結局、オデュッセウスは、風の神アイオロスのリパリ島の屋敷で厚遇され、トロイア戦争の話を1か月もの間、所望されるままに話す。そして、帰り際、アイオロスから海上の荒ぶる風の通い路を封じ込めた革袋を餞別に贈られ、再び旅立つ。ところが……。

  • リパリ島の落ち着いた街並み
  • 店頭に並ぶトマトの種類も豊富

  • リパリ島特産の黒曜石が売られている
  • 紀元前の石畳にも、黒曜石が光る

風を封じ込めたオデュッセウスの革袋は…

  • リパリ島の遺跡群

 風の神アイオロスのリパリ島をあとにしたオデュッセウスだったが、船の乗組員である部下が嫉妬して、海上の荒ぶる風の通い路を封じ込めた革袋を開けてしまい、後退を余儀なくされるのだ。

 風の神が司るこの島の見どころは、城塞内にある考古学博物館。

 黒曜石の石器などとともに、青銅で造られた大きな(かめ)など、島が繁栄していた時代を想像させる品々が展示されている。

  • リパリ島の考古学博物館には、クラテールという饗宴で使われた酒器が多い

 古代ギリシャでよく使われた「クラテール」と呼ばれる大型の酒器も多数あった。

 これは、饗宴で、ワインと水を混ぜ合わせるのに使われた。当時のワインは、ブドウを干して糖度を増してから醸造したタイプなので、水と特産のハチミツを加えて薄めるのが常識だった。ものの本によれば、薄めないで提供するワインは不作法とされ、饗宴の主催者は、参加者の好みによってワインをどの程度薄めるかにかなり気をつかったらしい。

 出土された副葬品の中で、演劇に使われたミニチュア仮面のなんともユーモラスな表情が印象に残っている。地元の作家による、紀元前4~3世紀ごろの作品のようだ。

  • 酒の神様ディオニュソスがモチーフの主役

 アリストファネスの戯曲「女の議会」は、女性たちが自分たちの意見を述べようと、男装して民会に乗り込み、実際に採用されるといった喜劇だが、その仮面からは、しかつめ顔で雄々しく振る舞おうとしている様子が伝わってくる。

 酒の神、ディオニュソスの仮面も何種類もあり、当時も、酒宴がコミュニケーションの中心的な役割を果たしていたことが透けて見える。

  • (左上)出土品には演劇のミニチュア仮面が多数ある、(左下)アリストファネスの「女の議会」の仮面、(右上)副葬品の数々、(右下)心理学では「エディプスコンプレクス」で知られるオイデプスと母のイオカスタ
  • (左)ソクラテスら哲学者も勢揃い(右)紀元前3世紀ころのディオニュソスの仮面

一つ目の巨人族キュクロプスの伝説

  • ヴルカーノ島のホテルから見た日没

 ところで、「オデュッセイア」の挿話から、シチリア島に関係している話をもう一つ紹介しよう。

 舞台は、イオニア海に面した東海岸のアーチ・トレッツァ。

  • 特産ワインのマルヴァジーア

 第9歌で、オデュッセウスは、アルキノオス王の宴で自分の素性を明らかにし、これまでの漂流の一部始終を物語る。その中に登場してくるのが、一つ目の巨人族キュクロプスの国での冒険。

 そもそも、ギリシャ人は、シチリアには最古の先住民として、一つ目の巨人族キュクロプスが住んでいると思っていたようで、前5世紀の歴史家トゥキディデスの記述にもある。

 「オデュッセイア」では、ある浜に漂着したオデュッセウス一行がだれもいない岩屋に入ってチーズなどを盗み食いする。そこへ戻ったキュクロプス族の羊飼いは怒り、一行の中の2人を食べてしまうのだが、オデュッセウスは機転を利かせて、手持ちのブドウ酒で彼を酩酊させてしまうのだ。そして、酔って寝入った巨人の一つ目に焼いたオリーブの木を突き刺し、翌朝、脱出に成功する。羊飼いは、父である海神ポセイドンに、オデュッセウスの航海をのろうように呼びかけ、岩の塊を海に向かって投げつけたという。

  • イオニア海に面したアーチ・トレッツァ

 それが、アーチ・トレッツァで、浅瀬に黒く点々と並ぶ岩礁が、投げられた岩とされている。

 ヴルカーノ島の宿に戻り、日没を待ちながらオデュッセウスの漂流を思う。グラスに注がれたワインは、特産のマルヴァジーア・デッレ・リパリ・パッシート・リクオローソ。アルコール度数の高い甘口白ワインは、ハチミツのように口の中でとろける。ギリシャ時代にクラテールでブレンドされたワインの名残だろうか。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.07.27

海洋国家カルタゴの盛衰…南イタリアの風(2)

  • 風車小屋が点在するモツィアの一帯

 シチリア島の西端にあるモツィアは、赤い屋根の風車小屋が点在するのどかな田園地帯。風車は塩田に海水をくみ上げるためのもので、円錐型の塩山は、オレンジ色の素焼きの瓦ですっぽりと覆われている。

 港から小舟に乗って10分、滑るようにして潟を渡れば、カルタゴ遺跡が残る緑豊かな小島、サンパンタレオ島に到着する。

 紀元前8世紀半ばのギリシャ人の入植活動が活発化する以前のこと、北アフリカにカルタゴという都市国家を建設した海洋民族、フェニキア人が、シチリアに多くの寄港地を設けている。

 セム語族に属するフェニキア人は、現在のレバノンに当たる東地中海の沿岸部に住み、特産のレバノン杉や香油をエジプトに輸出するなどして、商業と工芸を核に生計を立てていた。優れた造船技術を武器に、海上交易で拠点を広げ、地中海沿岸はもとよりイギリスにまで進出していたようだ。

  • 素焼きの瓦で覆われた塩山も、モツィアの特徴的な風景
  • 小舟でカルタゴ遺跡の広がる小島に渡る
  • 舟は、潟を滑るようにして進む

幼いわが子を神への生け贄に…

  • 仮面は、親たちの複雑な思いを映し出しているのだろうか

 さっそく、島内を歩いてみた。

 島は、19世紀、英国人実業家、ウィタカー家に買い取られ、発掘が進められた。「古代への情熱」で知られるシュリーマンにも声がかかったが、彼はホメロスの世界に夢中で、あまり興味を示さなかったらしい。

 塔にはさまれた頑強な北門の先に、紺碧の地中海が開ける。ここは、アフリカ本土へと延びる海底道路の入り口。その遺構は海底に眠る。カルタゴが位置する現在のチュニスまで、わずか140キロほど。いまもアフリカから逃れて来る難民は絶えない。

 要塞のような城壁に囲まれたネクロポリス(大規模な共同墓地)に足を踏み入れると、小さな祭壇跡の多さに気づく。カルタゴでは、父なる神バールに長子の()(にえ)を捧げる風習があった。

  • 染色に使ったと思われる出土品も少なくない
  • 繊細な衣装デザインの「モツィアの若者像」は、博物館の目玉。現在大英博物館に貸し出されている

  • 幼児の生け贄を捧げた祭壇跡が残るネクロポリス
  • 北門の先には地中海が開ける

 現在、ウィタカー家の居住地跡が博物館になっており、島内からの出土品が並ぶが、目を引くのは、生け贄になった幼児の墓碑や埋葬品の数々。小さな人形(ひとがた)に、親たちは祈りと誇りと、そしてたくさんの悲しみを刻んだのだろうか。素焼きの泣き笑い仮面は、そうした親たちの心模様が映し出されたものとも……。

 織物や染料、ガラス製品に関する出土品も多い。モツィアとは、セム語で紡織工房の意味なのだとか。

  • 島の発掘者として大きな貢献をしたジョセフ・ウィタカー氏
  • 埋葬品として使われた壺の数々

  • 出土品にはガラス製品なども
  • 生け贄になった幼児の墓碑

アルファベットの原型を伝えたフェニキア人

  • ポエニ戦争で沈没したフェニキア船の実物が展示されている
  • 海底から出土した保存用の器アンフォラ
  • マルサーラ博物館にあった女神タニットが描かれた墓碑

 シチリアの古代史は、カルタゴの戦史と重なり合う。

 紀元前480年、ヒメラの戦いで、ギリシャ連合軍に敗退したカルタゴは、70年後、汚辱を晴らすかのように決起し、次々とギリシャ植民市を陥落させる。だが、それもつかの間、シラクーサで頭角を現しつつあった支配者、ディオニュシオスによって滅ぼされる。前397年のことだ。

 カルタゴはモツィアから脱出し、シチリアでの拠点を速やかにリリベーオ(現マルサーラ)へと移す。そして前3世紀、勢力を増したローマとの第1次ポエニ戦争で敗退する。ちなみに、リリベーオとは「アフリカの対岸」を意味し、「アラーの港」を表すマルサーラは、アラブ支配後に付けられた地名である。

 マルサーラにも考古学博物館があり、ここには、ポエニ戦争で沈没した木造のフェニキア船の実物が展示されていた。ほかには、カルタゴの守り神、豊饒の女神タニットと、商業の神、ヘルメスの杖が描かれた墓碑などが目にとまった。

 度重なる戦いに翻弄されながらも、フェニキア人は、高度な技術の芸術や文化を次々と残した。フェニキア人の“偉業”としてもう一つ忘れられないのが、アルファベットの元になる文字をギリシャに伝えたことだろう。

 ローマのヴィラ・ジュリア・エトルスキ博物館では、興味深い金板を見つけた。カルタゴは、前6世紀、イタリア半島中部で隆盛を誇った謎の民族、エトルリア人とも交流があった。金板には、いまだ解明されていないエトルリアの文字が一部ではあるが、フェニキア文字に翻訳されていた。

英国人が作った酒精強化ワイン「マルサーラ」

 さて、マルサーラという、地名と同名のお酒についても触れておきたい。マルサーラは、英国人が作った酒精強化ワインの産地として知られる。以前から、なぜイタリアの地で英国人が作ったのか疑問に思っていたのだが、その謎がようやくわかった。

 18世紀末からのナポレオン戦争当時、ナポリを離れてパレルモに避難したブルボン王家を保護したのが、英国海軍。それに伴い、同じころ、島で発掘を進めたウィタカー家のように、シチリアで活躍する英国人実業家が増加し、アルコール度の強い酒を好む彼らは、マルサーラを開発したというわけだ。

 なるほど、歴史をひもといていくと、様々なつながりが見えてきて、興味は尽きない。

  • ヴィラ・ジュリア・エトルスキ博物館にあったエトルリア文字とフェニキア文字の金板
  • こちらが、フェニキア文字での記載

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.07.20

シチリア、歴史の多重奏…南イタリアの風(1)

  • 3つの岬を意味する「トリナクリア」は、シチリアのシンボルマーク

 銀座が立地している東京・中央区が最近まとめた2012年版「観光振興ビジョン」で、国際観光の視点を取り上げている。それをきっかけに、銀座街づくり会議が「GINZAーTOKYO 国際観光都市としての銀座」という興味深いシンポジウムを開催した。

 講演者として壇上に立った法政大学教授(イタリア建築・都市史)の陣内秀信さんの話で、「銀座には、東西の歴史の重層がある」という言葉が印象的だった。

 「歴史の重層性」――。それは、陣内さんが専門とするイタリア、特に南イタリアに顕著でもある。

 6月末から7月初めにかけて、地中海に浮かぶシチリア島を中心に、南イタリアを旅した。学生時代にかじった西洋古典学の先生たちに交わっての旅である。

 少しは勉強したはずのラテン語をすっかり忘れている自分を情けなく感じつつも、古来多くの文明を育んだこの地に実際に立ち、恩師からいろいろと解説を受けながら、幾層もの歴史の重なりとそのつながりを知ると、感動は尽きなかった。

 18世紀、グランド・ツアーといって、英国など大陸ヨーロッパの国々から、芸術家や学者、貴族の子弟らが自己研鑽(けんさん)を目的に、アルプスを越えてイタリアにやって来た。北のフィレンツェやローマに加えて、南のナポリも目的地だった。美しいギリシャ神殿が残るペストゥムが再評価されると、グランド・ツアー一行の足はさらに南に伸びたという。

 夏休みシーズン、GINZA通信も番外編として毎週更新で、私にとってのグランド・ツアー、南イタリアの旅を7回に渡ってお届けしたい。

多様な文化に彩られたシチリア島

  • こちらもトリナクリア

 先史時代から様々な民族が押し寄せたシチリア島は、地中海最大の島。500万人近くが暮らす。

 最初の移住民といわれているのは、イベリア半島からのシカニ族。紀元前8世紀にはギリシャ人が大量に入植し、ギリシャ世界の一部になった。同じころ、カルタゴのフェニキア商人たちも沿岸部に交易の拠点を設け、活躍した。

 やがてローマ帝国に征服され、西ローマ帝国滅亡後は東ローマ(ビザンツ)の支配下に入り、中世にはアラブ世界に組み込まれ、イスラム文化の大いなる影響を受ける。11世紀、南下してきたノルマン人によってキリスト教世界に戻って王国となり、近世には大国スペインの支配が続く。ガリバルディと千人隊によるシチリア遠征により、統一イタリア王国に併合されたのは、19世紀半ばである。

 フェニキア人の古代カルタゴ遺跡が残るモツィア、神殿の谷が保存されているアグリジェント、ギリシャ世界最大級の古代劇場があるシラクーサ、1693年の大地震で瓦解した後バロック地帯として再生したノート……。島をほぼ一周し、それぞれの街が建築物などを通して語りかける歴史に静かに耳を傾ける。シチリアというと、マフィアの影が話題の中心になるが、なんと多様で豊かな文化に彩られていることか。

 旅の始まりは、州都パレルモから。パレルモ(Palermo)の地名の由来は、ギリシャ語のPanormos。「すべてが港」の意味という。古代には、パピレート川とマルテンポ川とい う2本の川が流れ、地中海に注ぎ、湾は奥まで入り組んでいたらしい。紀元前3世紀、ローマとカルタゴが覇権を争ったポエニ戦争では、戦略上重要な港を持つ パレルモは、争奪の舞台にもなった。

 1787年4月2日、ナポリから乗船してパレルモの港に降り立ったゲーテは、「イタリア紀行」(岩波文庫)で次のように記している。

「金の盆地」州都パレルモ

  • パレルモの旧市街にあるクアットロ・カンティ
  • 彫刻群が並ぶプレトーリア広場
  • ノルマン王宮の王室礼拝堂の円蓋

 「右手にはあかあかと陽を受けたモンテ・ペレグリーノの優雅な姿、左手には湾や半島や岬のあるはるかに伸びた海浜、さらにこよなく美しい印象を与えたのは、優美な木々の若々しい緑」

 当時のパレルモは、スペイン・ブルボン家の支配。コンカ・ドーロ(金の盆地)と呼ばれ、青い海と緑の田園に包まれた楽園のイメージを誇っていたという。

 スペイン支配の残像は、旧市街の中心にあるクアットロ・カンティに見られる。ヴィットリオ・エマヌエーレ大通りとマクエーダ通りが交差するこの四つ辻は、17世紀初めに造営されたバロック広場である。この街の4地区を象徴する四つ角の特徴は、それぞれの建物がもつ緩やかに湾曲した美しいファサードの装飾。一番下の段には季節の噴水、2段目がバロック都市計画を導入した歴代スペイン総督、3段目が街の守護神が配されている。

 四つ辻から歩いてすぐのところにあるプレトーリア広場には、30を超える彫刻群が並ぶ不思議な光景があった。もともとはフィレンツェにある貴族の別荘のために制作されたものがパレルモ市に売られ、16世紀に移築された。ルネッサンスの風を感じつつも、街中のひときわ目立つ彫刻群は、バロック精神を体現しているようにもみえる。

 パレルモ州立美術館で見た、ヨハネ黙示録を主題にしたと思われる大フレスコ画「死の勝利」や、大理石で彫られた「アラゴン家のエレオノーラの胸像」は、ともに15世紀半ば、スペインの属国支配の時代のものとされる。

 時代はさかのぼるが、パレルモで特筆されるのは、中世地中海王国の栄光を築いたノルマンの時代だろう。

 バイキングの血を引くノルマン人は、11世紀、北フランスのノルマンディーからやって来て、南イタリアを征服。12世紀、シチリア島を中心にノル マン・シチリア王国を建国した。この時代、パレルモは世界で最も美しい都市といわれ、華やかな宮廷文化を開花させたのだ。ノルマン人の王たちは、それまで 築かれたアラブ・イスラムの高度な文化に魅惑され、宮殿にも大聖堂にも、アラブ様式の建築技術をふんだんに取り入れたという。

 王国の寛容なる文化政策のもと、ギリシャ語、ラテン語、アラビア語が公用語として認められ、コスモポリタン都市として栄えた。

  • 礼拝堂各所にみられるアラブ・ノルマン様式
  • ルッジェーロ王の居室には、ペルシア風楽園の黄金のモザイク
  • 王宮内の中庭の空間

イスラム建築とノルマン様式の融合

  • 王宮の南隣りにあるサン・ジョバンニ・デッリ・エレミティ教会
  • オレンジや椰子が茂る教会の小回廊

 思えば、都市建設の技術をはじめ、水を引く高度な技術もナスやホウレンソウ、米やピスタチオなど、様々な農作物を紹介したのも、アラブ人であっ た。イスラム圏との出会いが、アラビア語で書かれた多くの文献のラテン語翻訳につながり、のちの文化・学術の発展にも大きく寄与する。

 アラブ世界との交流を最も強く感じさせてくれるのは、現在はシチリア州議会として使われているノルマンの王宮である。11世紀にアラブ人が築いた城壁の上に、12世紀、ノルマン人が拡張・増築して、独特のアラブ・ノルマン様式を造りだした。

 12世紀をしのばせる美しい王宮礼拝堂に入ると、壁面の高い位置にある窓の造りや、様々な色石を組み合わせた床のモザイクなど、イスラム建築からの影響が各所に見られる。

 王宮の2階には、ノルマン王国最初の王、ルッジェーロ王の居室があり、椰子などの南国植物や狩人、野生の動物たちなどをモチーフに、金地モザイク で飾られている。ラテン、ビザンツ、アラブの文化の融合は、当時の躍動感あふれるダイナミックな世界へと私たちを誘ってくれるようだ。

 王宮の隣にある、サン・ジョバンニ・デッリ・エレミティ教会も、12世紀アラブ・ノルマン様式を踏襲している。5つの赤い丸屋根が特徴だが、教会内部はむきだしの積み石に囲まれ、いたって簡素。中庭は一転、南国のムードが漂う小回廊に囲まれ、明るいイメージである。

  • 「死の凱旋」(シチリア州立美術館で)
  • 「アラゴン家のエレオノーラ胸像」
  • シチリアの空は、吸い込まれそうになるくらい青く澄み切っている
  • 旧市街にある市場には新鮮な野菜がいっぱい

 ここで、シチリアのB級グルメをご紹介しておこう。名物のアランチーナは、アラブ人がもたらした米を使ったおおきめの揚げおにぎり。店によってい ろいろな味があるようだが、シチリア人に一番人気があるというハムとチーズ入りにした。ボリュームがあって、ランチはこれ1個で十分だった。もちろん、濃 いエスプレッソと一緒に。

 開放的な風土、陽気な笑い声、コバルトブルーに輝く海、そして太陽の恵みを享受したおいしい料理とワイン……。それがすべて、シチリアの宝物である

  • シチリア名物のアランチーナ
  • エスプレッソは1ユーロでおつりが来る

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.06.29

高級クラブがコーヒー店に!? ほっこりおいしい癒し空間

  • 夜はネオンで華やぐ銀座7丁目界隈

 華やかな東京・銀座の夜を彩る店が軒を連ねる資生堂本社近くの銀座7丁目界隈。一見さんではなかなか入るのに勇気が入りそうな高級クラブが入居するビルの入り口に、「おいしい珈琲をどうぞ」と記された小さな看板を見つけた。

 天然水、ハンドドリップ、手作りクッキー、600円……。そんなキーワードに誘われて、探検するつもりでビルの中に入った。エレベーター横のフロアガイドには、「くらぶ」「会員制」を冠にした店がずらり。4階に上がり、重厚な造りの扉を見て、「ああ、やはり場違いなところに来てしまったな」と、一瞬、躊躇した。とはいえ、せっかくここまで来たのだもの、内なる好奇心がむくむくとわき上がってきた。

 思い切って扉を開けると、「いらっしゃいませえ!」と、柔らかい笑顔のご夫婦が迎えてくれた。

 「カフェ&ダイニング玲」。コーヒー好きの中村範次さん(58)が3年前、住宅設計の仕事に区切りをつけて開いた店である。銀座の一等地の16坪ほど。家賃もかなり高いはずだが、実は姉の玲子さんがこの場所で20年以上もクラブを開いていて、昼間の時間帯だけ喫茶店にしているという。

  • 「おいしい珈琲をどうぞ」の看板に誘われて……
  • 高級クラブが入居するビルでした
  • 重厚な扉に、ちょっと戸惑いました

福岡で目覚めたコーヒーへの思い

  • 柔らかな笑顔が素敵な中村さんご夫妻

 鹿児島出身で、福岡の大学に進学した。「福岡は喫茶店文化が盛んなんです。朝は雑誌や新聞を読みながら、コーヒーと軽食をとるのが習慣でした。自分でも入れていましたから、1日6~7杯、いや、もっと飲んでいたかなあ」

  • 「お茶のように何杯でも飲んでほしい」と、範次さん

 東京で就職し、大学の後輩の八千代さん(56)と結婚。たまたま自宅近くに住んでいた、素晴らしいコーヒー豆の焙煎士に出会い、範次さんの“コーヒーへの思い”はさらに募る。

 あるとき、妻のショッピングに付き合って銀座に来たら、「ゆっくりコーヒーを飲める喫茶店が銀座には意外に少ないことに気づいたのです。友人たちに聞いてみると、同じような感想でして」。頭に浮かんだのが、姉の店だった。酒のボトル棚やカウンターの木の感触、アンティーク風なピアノ。「どれも、僕にとっては喫茶店向きに感じられたので、ここでやると決めました」

 コーヒーが苦手な人でも飲めるように、すっきりした味わいに仕上げるのが、範次さん流。豆を粗めにひいて、若干ぬるめの湯で入れるのだそうだ。「玉露を入れるのと同じで、コーヒー豆をやけどさせないように気をつける」のだとか。通常78度くらいを目安にしているが、熱くて濃厚なタイプがいいという注文には、もちろん、しっかり応えるようにしている。

 最初はコーヒーだけしかサービスしていなかったが、「カレーが食べたい」「お肉が食べたい」というお客からのリクエストが次々出てきて、料理が得意な八千代さんが、カレーやビーフストロガノフ、シチューなどを作り置きして渡した。

客の要望に応えるうち、営業時間も変更に

  • 野菜たっぷりのカレーは一番人気

 集客は口コミ頼み。「ビルの4階だし、そんなに人が来ないだろうと思っていた」(範次さん)ら、1日に少なくとも2、3人、あの小さな看板を頼りに新規のお客が来るではないか。そのうちに、近隣の会社員からは、「ミーティングで使いたいから、朝11時くらいにはオープンしてほしい」などの声も上がってきて、「予想以上に忙しくなってしまった」という。

 当時外資系IT企業の営業支援の仕事で忙しかった八千代さんも、料理担当として本格的に巻き込まれることになった。

 「な~んか、成り行きなんですよね。何かをやろうとこだわりがあってことを進めていくのではなくて、お客様がこんなことしたい、こんな店だったらいいのにって教えてくれて、じゃあ、そうしましょうかという感じなんです。何となく社会がぎすぎすしている時代、たとえ短い時間であっても、ほっと癒やされる空間であればいいのかな、と思うんです」と、八千代さん。

 ランチタイムにお邪魔したので、まず、八千代さん手作りのカレーをいただいた。店で一番人気のメニューだそうだ。

 ココナッツミルクとマンゴーチャツネのマイルドな味わいだが、しょうゆが隠し味になっているそうで、香辛料を感じさせない。この店ではあくまでもコーヒーが主役なのだ。

もっともっと極めて、楽しませたい

  • 八千代さん手作りのクッキーとともにコーヒーを味わう

 範次さんが丁寧に入れてくれたのは、ブラジルとクリスタルマウンテンの定番ブレンド。何杯でもお代わりをしたくなるような、癖のない味わいだ。水にはこだわっていて、大分県由布市の阿蘇野にある白水(しらみず)鉱泉の天然炭酸水を使っている。炭酸水をそのままいただいてみたが、かなり酸味がある。甘味を加えたら、ラムネのようになるのだろうか。

  • 土曜夜は落語会など、様々なイベントで盛り上がる

 「ほっとするね、落ち着くねと言ってもらうのが、一番うれしい。コーヒーをもっともっと極めて、皆を楽しませたいですね」と、範次さん。

 週末土曜日は、クラブが休みなので、深夜まで営業する。ジャズライブあり、落語あり、トークイベントありで、行動派の八千代さんが、お客からの要望を聞きながら、組み立てる。

 夫妻の話を聞いているうちに、私もほっこり温かい気持ちになってきた。

 何とも居心地のいい、銀座の癒し空間。本当はだれにも教えたくなかったのだけれど、あまりに素敵な店主夫妻なので、つづってしまいました。

 (読売新聞 編集委員・永峰好美)

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2012.06.15

みんなが感じる「銀座らしさ」のヒミツ

  • 抜けるような青空も、銀座の街並みデザインで重要な役割を果たす

 東京・銀座の街をぶらぶら歩きながら、銀座で商いをしている人たちがよく使う「銀座らしさ」って何だろう?と考えることがある。7年ぶりに新聞社に戻り、仮社屋のある東銀座の周りを探索しつつ、改めて考える機会があった。

 4月6日付の小欄で、銀座街づくり会議・銀座デザイン協議会が「銀座デザインルール」の第2版を出版した話題を紹介した。

 銀座における街づくりのルールは二本立てで、一つは、法的な強制力に裏打ちされた地区計画など行政のルール。もう一つは、銀座の人々が昔から継続してきた、何事も話し合うという日本型の物決めのルールである。「二つのルールは表裏一体で、銀座という街を支えている」と、このほど開かれた同会議の報告会で、アドバイザーで慶応大学教授の小林博人さんは強調した。

 その延長線上でデザインルールが作られ、銀座地区では、新築される建物や屋外広告などの工作物について、そのデザインや色が銀座の街にふさわしい景観を作っているか、「銀座らしさ」を損ねていないか、事前に地元の人々と協議されることになっている。

 数値や言葉の定義では規定できないデザインルールが導入されるまでの経緯を、ちょっと振り返ってみよう。

大規模開発で銀座に超高層ビル!?

  • ユニクロ1号店は、今はg.u.に。隣は、間接表現で柔らかなイメージになったモーブッサン
  • ファサードのカラーを変更した銀座通りのユニクロ1号店(「銀座デザインルール」第2版から)

 銀座街づくり会議企画運営担当の竹沢えり子さんによれば、銀座地区で、建物の高さを56メートルまでに制限するとした地区計画「銀座ルール」が導入されたのは、1998年。中央区と銀座通連合会が協議の末、通りごとに容積率、高さ、壁面後退を定めた条例である。ところが、総合設計や特定街区の例外事項が認められていたため、2003年、銀座の人々にとって想定外のことが起こった。その前年に制定された都市再生特別措置法に依拠して、200メートル近い超高層を含む大規模開発が銀座通りの6丁目で提案されることになったのだ。

 「ほかにも、大規模開発の案件がいくつか登場してきて、当時の『銀座ルール』のままではいつの間にか街が大きく変化してしまうのではないかという危機感をもつようになったのです」(竹沢さん)

 前後して、銀座通連合会の80周年記念事業で「銀座まちづくりヴィジョン」が発表された。銀座全体で銀座をどういう街にしていくか、専門家と地元の人々とが話し合える場づくりが求められるようになってきた。こうして、2004年、「銀座街づくり会議」が発足する。

 そのうちに、「高さや容積率は問題ないけれど、このデザインは少々銀座にふさわしくないのではないかといった案件が出てきました。結局、事業者や建築家を呼び出して、何度か議論することになりまして。そこで2年後に誕生するのが銀座デザイン協議会の仕組みでした」(竹沢さん)。

 では、実際に、デザインルールはどのように活用されているのだろうか。

ユニクロ、資生堂、大黒屋らデザインを変更

  • 銀座4丁目の大黒屋の広告も、落ち着いたイメージに

 2006年の銀座デザイン協議会発足以降、現在までに協議された案件は約700件。広告デザインの変更が、その多数を占める。

 報告会で小林教授が挙げた事例をいくつかご紹介すると――

 ▽際立ちすぎる色の使用や組み合わせを避けて、周囲の街並みに調和する配色になるように工夫する。銀座通りに進出したカジュアル衣料のユニクロ1号店は、企業のテーマカラーである赤を使ったファサード案を、最終的には白に変更した。

  • 資生堂の仮囲いは街のにぎわいに貢献している

 ▽銀座通りの高級ジュエリーのモーブッサンは、ブランドイメージの表現として、大柄の花柄模様をファサードに直接貼り付ける方法をとる予定だったが、周りとの調和を考え、透明ガラスの内部に模様を描くことで柔らかい間接的な表現に変えた。

 ▽銀座4丁目交差点の「大黒屋」の広告は、ズバリ商品が登場するデザインを見直し、文字サイズも縮小して、落ち着きのあるものにした。

 ▽工事中の仮囲いも、華やかな通りのにぎわい感を演出する重要な要素。資生堂のデザインは、当初、唇部分がもう少し大きく強調されていたが、近隣からの要望で小さく修正した。

 ▽住生活関連産業のリクシルは、屋上広告の企業ロゴの色調を抑えめに。同社の所在地は京橋地区なので、本来は銀座ルールに従う必要はないのだが、自主的に配慮がなされた。

話し合いで「銀座らしさ」共有

  • 空の連続性が貴重な銀座だからこそ、隣接の京橋地区の屋上広告も色彩に配慮が……

 銀座デザイン協議においては、チェックリストが用意されている。「使われている素材や色は銀座のにぎわいと風格ある街並みにそぐわないものではないですか?」「周囲から突出した内容の看板デザインになっていませんか?」などだが、項目を一つ一つ厳密にチェックするというわけではなく、互いに、「これは銀座らしくないんじゃないですか?」「ああ、そうかもしれませんねえ」といった風に、あうんの呼吸で決着していくのだという。

 どういう形であれ、銀座という街に関わっている人たちを包み込む、この独特の空気感……。今後も、いくつもの話し合い事例を積み重ねつつ、「銀座らしさ」を象徴する銀座デザインルールは、柔軟に進化していくに違いない。

 (読売新聞 編集委員・永峰好美)

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2012.05.18

メニューブックに息づく仏料理120年の歴史

  • 「帝国ホテル フランス料理の源流紀行」のメニュー

 今をさかのぼること120年余、1890年(明治23年)の開業当時、帝国ホテルが提供してきたフランス料理のメニューが、初代料理長によって書き残されていた――。

 海外からの賓客を迎える正餐としてフランス料理を採用し、迎賓館としての重要な役割を果たしてきた同ホテルだが、当時の華やかな晩餐会の様子は、書物に載せられた挿画や写真などから想像するほかなかった。ところが、2009年、思いがけない宝物が寄贈された。初代料理長・吉川兼吉氏と子息の林造氏の共著によるメニューブックである。吉川家では、この本を袱紗(ふくさ)に包み、桐箱に入れて代々大切に保管してきたそうだ。

  • 吉川兼吉氏のメニューブック

 現在の13代料理長、田中健一郎氏は興奮した。そして、そのメニューブックをはじめ、歴代の料理長たちによって受け継がれてきたフランス料理の数々を再現させる一夜限りのイベントを考えた。名づけて、「帝国ホテル フランス料理の源流紀行~吉川兼吉初代料理長から田中健一郎へ (よみがえ)る正統派フランス料理の世界~」である。

  • 吉川料理長が作ったパイナップル型菓子と帝国ホテル開業翌月の晩餐メニュー

 吉川兼吉氏は、1853年(嘉永6年)生まれ。日本のフランス料理の草分け的存在の一つ、横浜グランドホテルで修業を積み、鹿鳴館を経て帝国ホテルの開業と同時に初代料理長に招聘(しょうへい)された。37歳だった。明治期において最高峰ともいえる料理を提供、各国の賓客から高い評価を得ていた。

  • 天長節夜会の図(明治のグルメ本「食道楽」に掲載)

 その後、「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵氏とともに宮内省大膳寮で活躍。さらに、伊藤博文に呼ばれて朝鮮李王朝の料理人になり、82歳で同地で亡くなった。林造氏も、帝国ホテルの料理人だった。

伝統のメニューを新しいアレンジで

  • 代々受け継がれるホテルの食器等

 美濃紙に毛筆で書かれたメニューブックは、A4判で数百ページに渡る大作で、料理の種類は286種に及ぶ。料理のフランス語名と日本語名、作り方、ポイント、食材の説明のほか、フランス料理の食卓作法や目方の単位にいたるまで、図解入りで丁寧に記されている。今回、展示されている実物を見たが、素人目にも、実に詳細な記述で、当時の料理レベルの高さがうかがえる。

 食材や調味料の分量は、1升、1合、1勺、1貫、1(もんめ)などと書かれていて、帝国ホテルでは、今もその伝統が受け継がれているという。

  • 13代料理長、田中健一郎氏

 「メニューブックは、フランス料理を学ぶ人たちへの手引書になるように懇切丁寧に書き記されていました。恐らく、吉川氏は、フランス語の辞書を片手に一言一言、翻訳されていかれたのでしょう。こうした偉大なる先人から始まる日本のフランス料理の源流と出会い、万感迫るものがありました。今回のイベントのメニューを考えることは、頭の中でワーグナーのシンフォニーが流れるみたいで、本当に楽しくて仕方がありませんでした。すべてがクラシックというわけではなく、私のは私なりのアレンジでお届けいたします」と、田中料理長は話す。

 では、どんな料理がサービスされたのか、次にご紹介しよう。

歴代料理長の渾身のひと皿

 最初の料理は「アスパラガスと雲丹(うに)のフラン キャヴィア添え」。田中さんがフランス・エヴィアンに研修に行った時、スイスに足を延ばし、天才シェフの誉れ高い「オテル・ドゥ・ヴィル」のフレディ・ジラルデ氏のスペシャリテと出会った。これは、そのころの思い出に浸りながら楽しんで作った一品。

 続いて、「帆立貝・毛蟹・本鮪のタルタル仕立て スモークサーモンで包んで」。田中さんのオリジナル料理で、3種類の甲殻類を用いた冷たい一皿。アボカドとレモン、マヨネーズの味わいに、オレンジの香りがやさしくアクセントに。

 「帝国ホテル一の功績者」(田中さん)の8代料理長、石渡文治郎氏の一皿は、「プティットマルミット アンリ4世風」だ。鶏肉のクネル、牛ばら肉、野菜が少々入ったコクのあるコンソメスープ。パリのホテル・リッツで修業時代、名料理人オーギュスト・エスコフィエから薫陶を受けた石渡氏の得意料理だ。

  • アスパラと雲丹のフラン。ナイフで切ると、ウニが顔を出す
  • 帆立貝・毛蟹・本鮪のタルタル仕立て
  • プティットマルミット

 初代料理長、吉川兼吉氏の一品は、数あるレシピから「オマール海老のムースを包んだ舌平目のターバン カルディナル風」を選んだ。型に舌平目の身を敷き詰め、平目と車海老のムースを入れて蒸し上げる。マッシュルームと海老、それからトリュフをペシャメルソースであえたものが添えられていて、魚や海老のエキスがたっぷり入ったソースとともにいただく。「カルディナル風」とは、本来カトリック枢機卿の意味。法衣が赤いことから、ゆでると赤くなる甲殻類や赤い果実などを使った料理に付けられる。

 ドンペリニヨンのグラニテと桜の香りのシャーベットで口の中をさっぱりさせた後、いよいよメインディッシュの登場。

  • 吉川料理長の舌平目の蒸しもの
  • 「日本のフランス料理史を残す会 魯里人」がまとめた本にも掲載
  • ドンペリニヨンのグラニテ

 11代の村上信夫料理長の「和牛フィレ肉とフォワグラの取り合わせ トリュフソース ロッシーニ風」である。1979年から2003年まで258 回開催した「村上信夫とフランス料理の夕べ」という催しの中で7回も提供された、村上ムッシュの大好きな料理だ。マデラベースのソースとモルネーソース(ベシャメルソースにブイヨンとチーズ、バターを加えたもの)が、ボリューム感のある肉料理を引き立てる。“マカロニ・ロッシーニ”には、フォアグラとパルメザンチーズの詰め物が……。

  • 村上ムッシュの和牛フィレ肉とフォワグラの取り合わせ ナイフを入れてみました
  • マカロニ・ロッシーニもボリュームたっぷり
  • イチゴのグラン・マニエ風味

 そして、現代の名工、望月完次郎氏がつくるデザートは「イチゴのグラン・マニエ風味ロマノフ風」。バニラのパフェにタピオカ、イチゴのゼリーが加わり、ナイフで切ると流れるようにゼリーがあふれ出す。

 ちなみに、ワインは、白はシャブリ・グラン・クリュ レ・クロ(2008年)、赤は、猛暑だった2003年のボルドー5級「シャトーカントメルル」だった。

  • シャブリ・グラン・クリュ レ・クロ
  • 渡辺ソムリエの笑顔のサービスも心地よい
  • シャトー・カントメルル

  • 料理を担当したホテルのシェフたちが勢ぞろい

 田中料理長は言う。「村上ムッシュがこのメニューブックを見たなら、さぞ喜んだに違いありません。ムッシュがこの場に来れなかったことが何とも残念で、胸が詰まります」

 120年余の歴史の中で作り上げた帝国ホテルのフランス料理は今も正統派クラシックなフランス料理の基本を守りつつ、時代のニーズを取り入れて進化している。

 生前の村上ムッシュにインタビューした時、「料理人として一番大切なことは、まず料理が好きなこと」と言っていたのが印象的だった。歴代料理長の料理を味わいながら、皆がうきうき楽しみながら料理を作っているシーンが目に浮かぶようでもあった。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.04.20

春らんまん、香遊びで桜を愛でる

  • 銀座4丁目にある香十の本社ビル

 ソメイヨシノから八重桜へ。花あかりのそぞろ歩きが楽しい銀座は、足取り軽く、心弾む季節である。

 「千年前にタイムスリップして、桜香で遊んでみませんか?」――銀座おさんぽマイスターの岩田理栄子さんから素敵(すてき)な企画のご案内をいただいた。

 指南役は、銀座4丁目、創業430年の老舗「香十」の稲坂良弘社長。映画「源氏物語」の時代考証など、和の香りの伝道師として国内外で活躍している。

 香の歴史をさかのぼれば、4000年以上前のインドの神話に始まるのだとか。とはいえ、「貴族階級の公家が守ってきた伝統文化に精神的な道を求め、また、芸事を通して自分を高めるといった武家の価値観が加わって、独自の芸道の世界をつくり上げたのは日本人」と、稲坂さんは解説する。

 香道では、香りは、「()ぐ」のではなく、「聞く」という。気持ちを静かに落ち着かせ、五感をとぎ澄ませ、香が語りかけてくるメッセージを心の耳でしっかりと受け止める。これが日本の香りの文化の本質なのだという。

  • 和の香りの伝道師として活躍する稲坂良弘・香十社長
  • 桜がテーマゆえ、手記録紙にも桜の花びらが散る

香りの宝石、伽羅

  • 案内にも、桜のすかし模様が……

 稲坂さんの案内で、日本における香の歴史を簡単にまとめておこう。

 「日本書記」には、推古3年(595年)の夏、淡路島に1本の香木が漂着したとの記録がある。その香木からは何ともいえない芳香が立ち上り、島人たちを驚かせたそうな。木は水に浮かぶが、この香木は水に沈むことから「沈水香(ちんすいこう)」、略して「沈香(じんこう)」と呼ばれ、日本の香の主軸になってきた。香りの文化の物語といわれる「源氏物語」を彩る薫物(たきもの)の原料も、沈香が中心だ。

 沈香は、真菌類というバクテリアが樹液に作用してできる、自然界の偶然の産物。科学が進んだ現代でも、最高級の香木、伽羅(きゃら)の香りを完全に人工的につくることはできないのだそうだ。

 まさに「天与の香り」といえる香木は、仏教とともに人々の間に広まった。仏教の教えでは、現世というのは(けが)れた世界。仏に祈る前には、その空間とともに人間も心身を清める必要があり、香を()いた

「源氏物語」の香に隠された意味

  • 銀座コアビルにある香十本店(左)、明治の日本人が作った西洋香水のフローラルな香りを生かした香。「銀座花粒」はロングセラー

 続く平安時代になると、貴族たちが独自の香文化を開花させる。自らの生活空間をより快適なものにするため、また、自己表現の手段としても活用するようになった。手紙を開けば、その紙に焚きしめた香が立ち上り、文面を読む前にメッセージが伝わるといった具合である。

 平安の香は、自分で原料を選んで調合してつくるので、高度な知識や経験が不可欠で、各人のセンスも問われた。

 たとえば、「源氏物語」の「梅枝(うめがえ)の帖六條院の薫物合わせ」では、光源氏が、ただ一人の娘、明石の姫の御裳着(十歳の成人式)に続く東宮入内にあたり、愛する4人の女性たちにそれぞれ香をつくるように命じた場面がある。

 紫の上は伝統に今様の創造を加えた「梅花」、朝顔の君は祝儀のための最高峰「黒方」を、花散里(はなちるさと)は清楚な夏の香りの「荷葉」をつくり上げる。

 そして、明石の姫の実母、明石の君だけは、着物に焚きしめる「薫衣香(くのえこう)」を贈る。幼子の時から別居を強いられ、直接抱きしめることがかなわない娘に、せめて手作りの香りを焚きしめた祝い着でその身を包んでほしいという、せつない母の思いが読み取れるのだという。このあたりの話は、稲坂さんの「(かおり)と日本人」(角川文庫)に詳しい。

武士が遊びを生んだ

 さて、武家という新しい支配階級が登場する鎌倉時代。武家流の価値観や美意識が、貴族の香文化に加わっていく。武士たちは、戦への出陣に際して、香を(かぶと)に焚きしめることを好んだ。万が一、敵に首を取られても兜の香で「さすが」と武将の格や覚悟がたたえられるかもしれない。また、香の鎮静効果が期待され、冷静さを失わず、怖気づくこともない勇敢な武士のありようを全うできると考えられたのであった。

 こうして香木の目利きとなった武士たちは、香木を持ち寄り、その違いを聞きわける遊びを誕生させた。明日戦場で死ぬかもしれない武士にとって、平安貴族のように、1か月かけてつくった薫物を土に埋めて熟成させるといった悠長なことはしていられない。一定の時間の中で決着がつくような遊びが求められたわけである。

 香りの違いを当てるというゲーム性を持ちながら、季節の移ろいや歳時記、文学を愛でるテーマを設定、そこに美しい作法のカタチを加えたのが「組香」で、今回は「桜香」がテーマである。

 というわけで、いよいよ実践!

はじめての聞きわけに挑戦

  • 御家流香道師範の登場で、桜香の遊びがスタート

 公家の香道、御家流香道師範の登場である。本来ならば香間を使うということだが、「足のしびれに気を取られて香のメッセージに精神を集中できなくなってはいけないので、椅子テーブル式で気楽にやりましょう」と、これは稲坂社長の配慮である。

 台本は、「桜花さきにけらしなあしひきの 山のかひより見ゆる白雲」(古今集 紀貫之)から。歌中にある3つの言葉、「桜花」「山」「白雲」にそれぞれ香木が当てられ、その香りの差を聞きわけ、「桜香」を探すゲームだ。

 香元となる師範が、手のひらサイズの香炉(聞香炉)にたどんを沈め、上部に香木の切片をのせる。参加者は香炉を順に回しながら、鼻を近づけ3回深呼吸するようにして、わずかに漂う香気を嗅ぐ(聞く)。

 最初に回ってきたのは、試み香の桜花。「特徴を自分の知っている香りに置き換えて、記憶してください」と言われ、私は、「桜餅を包む塩漬けの桜の葉のように、ちょっと甘く、さわやかな香り」とメモした。

 そして、本番だ。5つの香炉が順に回り、その中から、2つの桜花を聞きわける。他の3つのうち、白雲はただ1つ、香りの宝石、伽羅とのヒント。残りの2つが山の香になる。

 「本香を焚きますので、どうぞご安座に」と、香元が指示。試み香も終わり、ここからはリラックスしてゲームを楽しみましょうとの意味らしいが、初体験の私はとてもリラックスなどできない。「香水のように向こうから自己主張してこないので、意識を集中させないとわかりません。感性と知的な判断力が求められます」との稲坂社長の言葉に、さらに心が引き締まる。

 聞きわけた結果は手元の手記録紙(てぎろくし)にしたため、香元に提出。香元は、各自の回答を一枚の奉書に書き込み、正解とともに朱で採点する。採点といっても、点数を書くのではなく、すべて当てれば「花盛り」、全部はずすと「葉ざくら」、いくつか間違った場合は「花ふぶき」で、これも遊びの粋なところである。

  • 聞香炉を準備する作法も美しい
  • 「どうぞご安座に」といわれても、やはり緊張してしまいます
  • 奉書をしたためる師範は、書家でもある

「香、満ちました」

 結局、私は2つはずして、「花ふぶき」。桜花を当てることはできたが、伽羅をはずしたのは何とも残念。全問正解したのは、大手化粧品会社の女性だった。さすがである。

 ゲームの終わりは、香元が一言、「香、満ちました」と締める。

 一期一会のこの席に居合わせた人たちの心にも、素晴らしい香りが満ちましたという意味。味のある言葉だ。

 その出所は、先に挙げた「源氏物語」の「梅枝」にあるという。4人の女性たちから届けられた香を、光源氏と異母弟が月を眺めながら焚き上げ、「どの香も素晴らしい」と、美酒とともに愛でる。この情景の結びの言葉が、「御殿の辺りいひ知らず匂ひ満ちて 人の御心地(みここち)いと(えん)なり」。

 確かに、よき香りに包まれた空間ほど、心に艶やかなときめきと安らぎを与えてくれるものはない。

  • これが奉書。ゲームの得点優秀者に贈られる
  • 香十の本社ビルにある香間。銀閣寺の弄清亭(ろうぜいてい)がモ

 その後は、銀座2丁目の料亭「うち山」で、桜会席のランチをいただいた。

 なんと、箸置きも桜。焼きゴマ豆腐、鯛の揚げものにタケノコのあんかけ、子持ちヤリイカを道明寺とともに蒸した料理……。

 春爛漫の一品は、能登のもずく酢、浜名湖の淡水育ちの青のりをサンドイッチしただしまき卵、車エビ、ナス田楽、サクラマスの焼き物、香川のグリーンアスパラとホワイトアスパラ、ホタルイカ、雷コンニャクなどなど。旬の食材が次々と登場する春の勢いを感じる料理だった。名物の鯛茶漬けをいただき、最後はサクラと豆乳のアイスクリームで締め。桜の季節を十二分に満喫できた。

  • 「うち山」の桜会席の箸置き。京焼の老舗・東哉の器でいただく
  • 焼きゴマ豆腐は白子のような食感(上左)、(上右)鯛とタケノコのあんかけ、旬を詰め込んだ春爛漫の一品(中左)雅なお椀で、鯛をいただく(中右)子持ちヤリイカは今が旬(下左)「うち山」の名物、鯛茶漬け。濃厚なゴマみそ味がくせになる(下右)

 (プランタン銀座常務 永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)