GINZA通信アーカイブ

2013.10.04

本をヒントに「終わり」と向き合う展覧会

 東京・日比谷にある千代田区立日比谷図書文化館で、刺激的な展覧会に出合った。

 タイトルは、「終わりから始まるものがたり」。昨春、日本科学未来館で開催された企画展「世界の終わりのものがたり~もはや逃れられない73の問い」をもとに再構成したものだそうだ。

25の「問い」の“森”をヒントとともに巡る

  • 思索の秋にふさわしい、日比谷図書文化館の展覧会
  • 会場のボードに自分の答えを書き込める、参加体験型なので楽しい
  • リンゴの木をイメージしたボードにも、たくさんの答えが貼られていた
  • 会場を巡りながら、展示された本からヒントを得よう
  • 「運命的な本との出会いは?」の問いかけに、漫画から哲学書まで様々な回答が…

 メイン会場の特別展示室に入ると、「ものがたりノート」と呼ばれるハンドブックが一人ひとりに手渡される。それを片手に、25の「問い」の“森”の中を巡り歩くのだ。

 「世界の終わりを想像したことがありますか?」

 「一番怖いものはなんですか?」

 「死んだらすべては終わりでしょうか?」

 「いつまでも若さを保ちたい? それとも年相応に老いていきたいですか?」

 「どこまで『わたし』なのでしょう?」

 「あなたの幸せとみんなの幸せは同じでしょうか?」

 「必要でないものはこの世界に存在するでしょうか?」

 「100年後の未来へとつなげたいものは何ですか?」

 「生きているあいだに絶対やってみたいことは何ですか?」

 「『終わり』から、あなたが始めるものは何でしょうか?」

 どの質問も、とても哲学的だ。恐らく、一つとして同じ答えは出てこないであろう。

 企画の趣旨は、こんな風に記されていた。「2011年3月11日に発生した東日本大震災は、私たちの『今』を支えているものがいかに危うく、もろいものであるかが明らかになった出来事でした。その事実から2年半を経た今、私たちは遠ざけてきた『すべてはいずれ終わる』という真実を踏まえ、人は何を大切に生きていくべきか、人は何を未来に残すことができるのかを、改めて問い直す時期にきているのではないでしょうか?」

 確かに、すべてのものごとには「終わり」がある。楽しい集まりも、人の一生も、そして、文明やこの世界も・・・。にもかかわらず、私たちは日々の忙しさにかまけ、「終わり」に真剣に向き合わずに過ごしているのではないか。いや、終わりがあることを意識するのが怖くて、このテーマに向き合うのを避けているのかもしれない。

 そんなことをあれこれ考えながら、靜かな会場をゆっくり歩き回った。

 答えに窮した時、ヒントを与えてくれるのが、質問ごとに近くの棚に置かれている参考書籍であった。

 たとえば、「いつまでも若さを保ちたい? それとも年相応に老いていきたいですか?」の問いかけには、4冊の本が指南してくれる。

 周囲が年を取っても、子どものままでいるネバーランドが登場する「ピーター・パンとウェンディ」(J・M・バリー)、60歳以上の女性のファッションを特集している写真集「Advanced Style~ニューヨークで見つけた上級者のおしゃれスナップ」(アリ・セス・コーエン」、老いを肯定し、年を取ることの楽しみを教えてくれる「老人力」(赤瀬川原平)、体力の限界に挑戦しつつ、40代後半になっても現役でのプレーにこだわる“キング”の生き方を記した「やめないよ」(三浦知良)の4冊である。

 その本に目を通したからといって、答えが見つかるわけではない。だが、ニューヨークの写真集をぱらぱらとめくっていたら、登場する高齢の女性たちがあまりにおしゃれで格好良くて、自信に満ちていて、年を取るのって素敵だなと、前向きな気持ちになった。

 「会場に並んだ100冊の本は、図書館司書がテーマごとに厳選したおすすめです。コメントはつけず、あくまでも思索の手がかりにしていただきたいという思いで選んでいます」と、同館のミュージアム企画を担当する学芸員、下湯直樹さんは話す。

 「どこまで『わたし』なのでしょう?」の質問があるコーナーには、コンタクトレンズ、携帯電話、日曜大工の道具など、毎日使っていて、空気のような存在ともいえる数々のものが並べられていた。たとえば、これだけ携帯電話が離せない日常を過ごしていると、それは『わたし』の延長上にある、『わたし』と一体化している、と考えてもいいのかもしれない。

100年後まで残したい18冊

 2階のコーナーでは、「100年後まで残したい18冊」の本が紹介されていた。同館の日比谷カレッジに登壇した16人の講師らにアンケートをとって選んだという。参考になるので、本のタイトルと著者名を挙げておきたい。

 幸田露伴「五重塔」

 プリーモ・レーヴィ「アウシュヴィッツは終わらない」

 司馬遼太郎「街道をゆく1 甲州街道、長州路ほか」

 ウィリアム・モリス「ユートピアだより」

 司馬遼太郎「坂の上の雲」

 近松門左衛門「曽根崎心中」

 國木田独歩「武蔵野」

 童話屋編集部編「復刊 あたらしい憲法のはなし」

 トマス・マロリー「アーサー王の死」

 青木正美「東京下町100年のアーカイブス」

 中里介山「大菩薩峠」

 司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」

 春日野八千代「白き薔薇の抄」

 紫式部「源氏物語」

 福永光司「荘子 内篇」

 ドナルド・キーン「Appreciations of Japanese Culture」

 プラトン「ソクラテスの弁明」

 サン=テグジュペリ「星の王子さま」

 深まりゆく秋。本を片手に、あなたなりの「終わりから始まるものがたり」を紡いでみてはいかがだろうか。

 同展は10月14日まで。入場料は一般300円。

(読売新聞編集委員・ 永峰好美)

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2013.09.27

帝国ホテル 「ライト館」の面影を訪ねて

  • 帝国ホテルのライト館は90周年を迎えた(帝国ホテル提供)
  • 孔雀の間 内装が斬新です(帝国ホテル提供)
  • 神殿(?)のようなライト館正面入り口(帝国ホテル提供)

 東京・銀座のお隣り、日比谷の帝国ホテルの旧本館、ライト館が開業90周年を迎えた。

 同ホテルの本館1階の正面ロビーでは、現在記念企画として、「『ライト館』の面影を訪ねて」という写真を中心とした展示が始まっている(来年3月末までを予定)。

 同館の開業式典は、90年前の9月1日。まさに関東大震災の日であった。周辺の多くの建物が倒壊、延焼する中、損傷が少なく、震災に生き残った建物として知られている。1967年、老朽化のために取り壊され、玄関ロビーの一部が、愛知県の博物館明治村に復元保存されている。

 建物を設計したのは、すでに世界でも有名になっていた米国人建築家のフランク・ロイド・ライトだった。当時のホテル支配人、林愛作が、米国に留学し、ニューヨークで古物商を営んでいた時にライトと知り合ったのがきっかけだった。

 山口由美著「帝国ホテル・ライト館の謎」(集英社新書)を読んでいたら、興味深い記述に出合った。1923年9月号の「主婦の友」に、「新築の帝国ホテルに泊る記」という記事があり、記者はライト館の外観をこう形容している。

 「玄関前の広庭を囲んで両翼をなしたその低い東洋風の屋根の形と、緑青の色、太くしっかりと立てられた黄土色の煉瓦の柱、遠く望み見た目には、インドかビルマあたりの寺院を思わせ、ラインの河辺に取り残された寂しい廃墟の姿を印象させます」

 新築のホテルを「廃墟の姿」と表現しているのだから、驚く。だが、確かに、当時の正面写真を見ると、寺院や神殿のような印象が強い。

近代建築の巨匠 フランク・ロイド・ライト

  • 六角形と菱形モチーフは、ライトがデザインした椅子の特徴(帝国ホテル提供)
  • ライトが愛した市松模様をイメージ(帝国ホテル提供)
  • 90周年記念カクテルにも工夫が…(帝国ホテル提供)

 ライトは、1893年のシカゴ万博で、宇治の平等院鳳凰堂をモデルにして建てられた日本館を見て、日本建築に魅せられた。ホテル建築を頼まれてからも、日本の素材、たとえば大谷石などにこだわった。少年時代からマヤやインカの古代遺跡に非常な憧れを持っていたようで、ライトの弟子だった田上義也(たのうえよしや)の証言によれば、大谷石の石切り現場に行くと、「石の山脈だ。マヤの遺跡を発掘しているようだ」と、興奮していたらしい。

 ライトが作ったものは、荘厳で神秘的な建物だけではなかった。館内の装飾はもちろん、六角形の背もたれが特徴的な椅子や斬新でモダンな食器類までデザインした。

 今回、同ホテルでは、90周年を記念して、「ダーク&“ライト”」というチョコレートムースを使ったケーキが売られているが、これは、ライトがデザインした椅子にある六角形と菱形をモチーフに創作されている。

 ライトが好んでだ使ったデザインモチーフ、市松模様も、ホワイトブレッドとキャラメルブレッドの2種類のパンを組み合わせたサンドイッチとして登場している。

 また、ドライジンがベースのオリジナルカクテルには、独創的な幾何学模様をかたどったオレンジとレモンの皮がさりげなく浮かべられていた。

ライト館から始まったサービス

 ライト館では、日本初の様々なサービスが誕生したことも忘れられない。

 開業と同時に設けられたショッピングアーケード、挙式と披露宴を一貫して行うホテルウェディング(1923年)、ディナーショー(1966年)などである。

 1958年、今では食べ放題の別の名としてすっかり定着した「バイキング料理」も、帝国ホテルが始まりだ。

  • インペリアルバイキングも55周年。1958年頃。左が村上さん、先輩の一柳一雄料理長と

 パリのホテルに派遣されて修業中だった元総料理長の村上信夫さんが、犬丸徹三社長(当時)からの特命を受けて、北欧のスモーガスボードを日本に初めて紹介した。

 40種類以上の北欧料理が好きなだけ食べられるレストランで、店名は社内公募で「インペリアルバイキング」に決まった。この名前の由来を、以前村上さんにインタビューした時に聞いたことがある。

 当時、ホテル近くの映画館でカーク・ダグラス主演の「バイキング」が上映中で、海賊がごちそうを並べて豪快に食べる場面があって、それがヒントになったというのだ。

 銀座でおでん定食が150円の時代。昼は1200円、夜は1800円という値段設定だったが、口コミで評判が広がり、テーブルは連日満席だったそうだ。ただ、当初はシステムがよく理解されず、食べきれなかった料理を弁当箱に詰めて持ち帰ろうとするお客もいたらしい。

 その「インペリアルバイキング」も、今年、55周年を迎えている。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.09.06

この夏、なにかと話題の“エリゼ宮”

 美食の国、フランス大統領府のエリゼ宮に招かれた賓客に供される食事って、どんなものなのだろう。以前から並々ならぬ関心があった。

映画「大統領の料理人」…ダニエル・デルプシュさん

  • 「大統領の料理人」は、ミッテラン大統領のお抱え女性シェフがモデル(GAGA提供)
  • エリゼ宮が彼女の仕事場だった(GAGA提供)

 9月7日から東京・銀座の「シネスイッチ銀座」などで公開の映画「大統領の料理人」は、1988年から2年間、ミッテラン大統領のお抱えシェフとして活躍した女性料理人、ダニエル・デルプシュさんの実話をベースにした物語である。

 フランス・ペリゴール地方出身の彼女は、伝統の郷土料理を教える料理学校を設立、自宅でも小さなレストランを運営していた。そんな彼女がエリゼ宮入りしたのは、有名シェフのジョエル・ロブション氏の推薦によるものだった。当時大統領は、私生活では、過剰な装飾を排し、素材そのものを生かした<癒しの料理>を求めていたようなのだ。

 デルプシュさんは、大統領のシェフを務めた後も、南極調査隊の料理人として同行したり、地元特産のトリュフ生産に適した場所を見つけるために世界中を飛び回ったり。とにかく精力的な女性である。

 映画に登場する料理は、当時彼女が作ったメニューを忠実に再現したものなのだとか。「チリメンキャベツを使ったサーモンファルシ」など、観ているだけで、お腹がぐうぐう鳴ってしまいそう・・・。

 ただ、彼女はあくまでもミッテラン大統領のプライベート・シェフだったのであって、エリゼ宮の美食外交を支える料理人集団は別にいる。

エリゼ宮料理長のベルナール・ヴォション氏来日

  • エリゼ宮料理長のベルナール・ヴォションさん(今年2月、日本記者クラブで)
  • 福島産のイチゴの甘さに感動

 今年2月、東北被災地支援のイベントで来日した、エリゼ宮料理長のベルナール・ヴォション氏に話を聞く機会があった。

 氏は、菓子を作るパティシエとしてスタートし、在オランダや在英国の大使館勤務を経て、1974年にエリゼ宮入り。2005年から料理長を務める。現在のオランド大統領で6人目の大統領に仕えている。

  • モナコ宮殿料理長のクリスチャン・ガルシアさん(日本記者クラブで)
  • 船に乗って、ワカメ漁を体験

 「エリゼ宮には20人の料理人がいる。フランスの食材を使うのが基本だが、伝統のフランス料理を頑なに守るというよりは、時代とともに新しい調理法を取り入れている。クラシックもあれば、ヌーベル・キュイジーヌ、フュージョンまで、幅広い。国賓を迎える時には、執事長からまず好みや宗教上の制約などの情報を得て、きめ細かな配慮をする。数種類のメニューを考え、最後は大統領に決めていただく。オランド大統領は日本料理も好みで、家族と囲むプライベートな食卓では、寿司や刺身など、日本的なテーストを取り入れることもある」などと話した。また、東北地方の食材の現場を視察して、特に福島のイチゴの甘みと香りが素晴らしかった、とも。

 ヴォション氏とともに、モナコ宮殿料理長のクリスチャン・ガルシア氏も来日し、宮城県気仙沼で船に乗り込み、ワカメを収穫した体験を興奮気味に話していたのが印象的であった。

 「ワカメは今後、モナコ大公の食卓に確実にのることになるでしょう。珍しい魚が多く、ドンコを使った汁物は絶品だった。酒粕も興味深い調味料だが、オリーブオイルで私なりの地中海風味付けをしてもおいしいのではないかと思っている」と語った。

エリゼ宮所有のワインオークション

  • ピーロート・ジャパンがオークションで落札したワインをお披露目

 さて、エリゼ宮の話題をもう一つ。今夏注目されたのが、ワインセラーのオークションのニュースであった。

  • 偉大なヴィンテージの偉大なワインが落札された

 1947年に設けられたセラーのワインは、1980年代半ばまで、大統領個人の所有で、時の大統領の好みと趣味に沿ってそろえられたため、特定の銘柄に偏りがあった。西川恵著「エリゼ宮の食卓」によれば、大統領が辞任する時、ワインも一緒に持ち去るため、また一からそろえ直す必要があったという。料理にふさわしいワインリストの構築が長年の課題だったのである。

 セラーを大統領個人の所有からエリゼ宮に移し、そのための予算措置が講じられるようになったのは、ミッテラン大統領時代の1980年代半ばからのようだ。

 かくして改めて収集されてきたわけだが、セラーの備蓄ワインのほぼ1割にあたる1200本を放出し、オークションにかけるというニュースが突然発表されたのは今年5月のこと。厳しい財政難に直面する仏政府が、緊縮政策のお手本を自ら示そうとの試みだった。

 こうした政府の方針に対して、フランスの著名なワイン収集家らからは「我国の遺産の一部である貴重なワインが他国の富豪に売り払われることは遺憾だ」などと反発の声も少なからず上がっていた。

 オークションは、エリゼ宮にとって初めての経験である。落札価格は総額で25万ユーロと見積もられていた。5月30日と31日の2日間、パリのホテルを会場に競売にかけられ、実際には、見積もりの3倍近い71万8800ユーロ(約9400万円)を売り上げた。最高価格は、1990年の「ペトリュス」で、7625ユーロ(約100万円)の値がついたという。値段をつり上げたのは、中国人やロシア人だったともいわれている。

 仏政府はこの売却代金で新たにお手頃ワインを買ってセラー内を入れ替え、余った資金は政府予算に繰り入れると伝えられている。

注目の落札…銀座でお披露目

  • エリゼ宮セラーに貯蔵されていたという来歴を示すラベル

 果たして、どんな銘柄のワインが落札されたのだろうか。

  • ピーロート・ジャパン代表取締役のローラン・フェーヴル氏

 オークションの最高入札者の一つ、出品されたうちの18パーセントを落札した「ピーロート・ジャパン」(東京都港区)は、計166本を入手した。そのワインが日本に届き、7月には銀座の「ベージュ アラン・デュカス東京」でお披露目会も開かれた。

 1952年「シャトー・マルゴー」、1961年「シャトー・ラフィット・ロートシルト」、1964年「シャトー・オー・ブリオン」、1982年「シャトー・ラトゥール」…。

 さすが、すごい銘柄の偉大なヴィンテージが並ぶ。来歴を証明するため、「エリゼ宮」と競売の日付が記載されたラベルが全ボトルに貼られていた。

 同社代表取締役営業部門担当で、オークションを指揮したローラン・フェーヴル氏は、「1961年のラフィットを例にとっても、エチケット、状態共に完璧。経年によるワインの目減りも見られない。この保存状態の良さで、いかに素晴らしいセラーであるかが推測できる」と、胸を張った。ちなみに、同社で落札した最高価格は、1985年「ペトリュス」で、約65万円で販売された。

エリゼ宮の饗宴を再現

  • プレス向けにサービスされた落札ワインは4本(シャンパーニュを除く)
  • 1998年のピュリニー・モンラッシェはまだいきいきしていた

 この日、プレス向けにサービスされたのは、4本のエリゼ宮ワイン。1998年「ピュリニー・モンラッシェ シャンガン」(メゾン・ルイ・ジャド)、1990年「ドメーヌ・シュヴァリエ・ブラン」、1978年「ボーヌ クロ・デ・ムーシュ」(メゾン・ジョセフ・ドルーアン)、1990年「ラトリシエール・シャンベルタン」(ドメーヌ・フェヴレイ)であった。

  • (左上)アミューズ・ブッシュ (左中)タカベのエスカベッシュ (左右)スズキのオーブン焼き (左下) 佐賀産の豚を使った料理 (右下)19 サクランボとピスタチオのデザート

 「ピュリニー・モンラッシェ」は、黄金色に色調が変化し、豊潤な香りに広がりがあって素晴らしかった。78年の「クロ・デ・ムーシュ」は、硬さがなくなり、やさしく包み込むような味わいが楽しめた。

 料理は、エリゼ宮で働いた経験のあるシェフが、来賓向けに使われたメニューを日本の食材でアレンジして再現してくれた。コンソメのジュレのアミューズ・ブッシュに始まり、タカベと季節野菜のエスカベッシュ、日本海スズキのオーブン焼き・オリーブオイルとレモンの香りを付けたジロール茸とインゲン、佐賀県産酵素豚ロースのア・ラ・ブロッシュで締めである。メニュー冊子の装丁は、エリゼ宮の饗宴と同じ仕様。ルーブル美術館の所蔵絵画で、今回はギュスターヴ・モローだった。

 ピーロートが落札したワインは7月12日から販売がスタートし、ほぼ完売したらしい。あのペトリュスはどんな人が購入したのだろうか。自分で手が届く金額ではないにせよ、ちょっと気になるこの夏の話題であった。

  • メニュー冊子の装丁も本格的
  • 1975年の「シャトー・マルゴー」など

 (読売新聞編集委員 永峰好美)

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2013.07.12

チーズ職人世界一「村瀬美幸さん」

  • 村瀬美幸さん(撮影・中村光一)
  • 表彰台の真ん中に立ち、満面の笑顔
  • 欧米メディアからも取材が殺到

 世界最優秀「チーズ屋」コンクールで優勝した村瀬美幸さんのことを、6月18日付け本紙朝刊2面の「顔」欄で紹介した。その村瀬さんが5月に独立して運営するチーズ専門の教室「ザ・チーズルーム」は、東京・銀座のお隣り、京橋にある。

 「フロマジェ(チーズ屋)」とは、チーズ販売の専門職人のこと。コンクールは、フランス・ロワール地方のトゥールで6月1日から2日間開かれた初の国際大会で、予選を通過した6か国10人が参加。村瀬さんが、チーズの本場の欧州勢を退けて世界一に輝いた。「なぜ日本人が一位に?」と、欧州のメディアはこぞって報道した。

ワインを経てチーズの道へ

 岐阜県の出身。全日空の客室乗務員時代の1995年、ソムリエ資格を取得。その1年前から田崎真也さんのワイン教室で学んでいた。「トンカツ弁当が出て、これに合うカリフォルニアワインを選んだりする。ソースで食べるならばジンファンデル、塩とレモンならばフュメブラン…。実際合わせてみると、美味しいのです。和食にワインという発想がまだ広まっていなかった頃で、面白いなと思いました」

 ワインの師の田崎さんは、95年にソムリエ世界一に。その田崎さんからスクール講師にスカウトされ、2001年、客室乗務員から転身した。

 職場には、コンテストで他流試合をしながら、舌を磨くという雰囲気があった。当時支配人だった阿部誠さんは2002年度の全日本最優秀ソムリエになって、世界最優秀ソムリエコンクールの日本代表に選出された。大手シャンパンメーカー、ポメリー社のソムリエコンクールで優勝した人もいた。

 職場の先輩が実績を積んでいく中、「ワインでは太刀打ちできないから、違うもので勝負しよう」と思って、チーズの道へ。もともと菓子作りなど料理が得意だった。

  • コンクールを取材したMOFのロドルフ・ル・ムニエさん

 2年ごとに開かれる国別対抗のチーズ大会「国際カゼウスアワード」に出場し、2007年に3位、2009年に2位を獲得。田崎さんに報告すると、「日本人として食い込んだことは誇りに思うけれど、残念だったね」と言われた。

 「やはり2位ではダメ。優勝しなければ意味がないんです」(村瀬さん)。

 次は絶対に優勝をと、頑張ってトレーニングしていたら、資金不足で大会自体がなくなってしまった。

 そこに舞い込んだのが、今回のコンクールの告知だった。主催したのは、2007年のガゼウスアワードで優勝したフランスのロドルフ・ル・ムニエさん。チーズ部門のMOF(フランス国家最優秀職人章)の称号をもつ。チーズ生産者の見本市「モンディアル・デュ・フロマージュ」の一環として、企画された。

 「新しい大会は、本当のチーズ職人世界一を決める素晴らしい大会になる」と、ムニエさんから聞いた。昨年末、応募締め切りまで1週間しかなかったが、どうにか間に合わせたという。

コンクール…様々な課題

  • コンクールの課題で使ったチーズの数々

 コンクールは、2日間。初日、トゥール市内の市場で当日使う生鮮食品を150ユーロの予算内で購入するところから始まる。

 2日目は、午前中に、筆記テスト、チーズのブラインドテスト、タイプの異なるチーズをはかりを使わずに250グラムにカットするテスト、持参したチーズの魅力について語るプレゼンテーションテスト。

 午後は、「アーティスティック・テスト」といって、4時間で5種類の課題のプレートを作成しなければならなかった。時間配分もポイントになる。

 先日教室を訪ねて、コンクール当日の写真を見せていただいた。実際に拝見し、「アーティスティック(芸術的)」と呼ばれる意味がよくわかった。

 言葉で説明するよりも、写真を見ていただいた方がよくわかるだろう。

  • (左)課題1を作成中の村瀬さん 花びらのようにチーズを削っていく(右)5種類のチーズプレートが出来上がり

 課題1は、5種類のチーズを40センチ角のボードに盛りつけるテスト(1時間以内)。村瀬さんは、チーズのカッティングだけでなく、ボードの飾り付けにまで目配りしている。「新緑の季節の季節感を出すために、インゲンやエンドウ豆など緑の野菜をボードいっぱいに敷き詰めました。そう、野菜のじゅうたんです」

  • 課題2のオッソー・イラティーは、和との組み合わせを提案

 課題2は、バスク地方のオッソー・イラティーという乳白色の羊のチーズを使って、他の食材との味のコンビネーションを提案するテスト(1時間以内)。

 村瀬さんは、「和」との組み合わせを考えた。牧草の独特の香りのあるこのチーズは、甘いジャムを添えたり、逆に赤トウガラシと一緒に辛味でアクセントを付けたりして現地では楽しまれている。

 「ワインとの相性も、中国茶のような香りのあるジュランソンなどと合わせます。ならば、緑茶で提案してみようと思いました」

 日本とフランスの水質の違いも考慮し、まろやかな味わいの佐賀の嬉野(うれしの)茶を冷茶で用意。抹茶味のパンと甘いブラックチェリーを組み合わせた。もう一つのグラスには、梅酒を注ぎ、ユズコショウで辛味を演出した。

 課題3は、クリーミーなチーズ、ブリア・サヴァラン(500グラム2個)を使って、最低6人分を立体的に一皿に盛りつけるテスト(2時間以内)。前日市場で買ったスモークサーモンやハーブを使うことにした。「立体的に」というところがポイントなので、ホールケーキを切り分けるような形に仕立てた。

  • 課題3のブリア・サヴァランはスモークサーモンを使ってケーキのように

 課題4は、「子どものためのチーズ」がテーマで、80センチ四方の木製のプレートに盛りつけるテスト(4時間以内)。50種類のチーズが用意されていて、内容はコンクール当日の朝までわからない。

 村瀬さんは、「360度どこから見ても楽しめるチーズガーデンを作ろうと思った」。メリーゴランドやコーヒーカップ、積み木、ネズミの兵隊さん・・・。この課題には、最後の2時間をたっぷり当てた。「子どもの遊ぶ姿を空想しながら、楽しんで仕上げられました」。

 チーズ以外の細部にもこだわった。黒い頭の羊をカリフラワーと黒オリーブで表現したら、コンクールの実況中継をしていたアメリカ人の司会者が、「マジシャンみたいだね。素晴らしい!」と驚嘆した。

  • (上)課題4の「子どものためのチーズ」が完成(下)反対側からみても楽しめて、完成度が高い
  • 村瀬さんの細かな技は、「マジシャンみたい」と驚かれた

  • 課題5では、ミモレットをブドウの房状にくり抜いた

 課題5は、チーズのカッティング技術を競うテスト(4時間以内)。ソムリエであることをアピールするため、ミモレットはブドウの房のようにくり抜いてみた。

チーズとは…

 優勝の報告を、真っ先に、田崎さんに伝えると、「1位が獲れたか。本当によかったね」と、喜んでくれた。

 村瀬さんは言う。

 「チーズは、子どもも食べられる。おやつや料理など、いろいろな角度から発信できると思います。季節によって旬も楽しめるし、日本でも美味しいチーズを作る生産者が増えてきました。発酵食品のチーズのうまみは、日本の食生活に根付いているみそなどと共通するところがあります。モツァレラは、わさびじょうゆで食べてもおいしいでしょう。和食との相性の良さもどんどん紹介していきたいです」

◆村瀬さんの教室「ザ・チーズルーム

 なお、コンクールの「アーティスティック・テスト」で作った5種類のチーズの盛りつけを実際に再現、ビュッフェスタイルでいただく会が、8月29日午後7時から、東京・飯田橋のホテルメトロポリタンエドモンドで開かれる。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.06.28

松坂屋銀座店…88年の歴史の幕を閉じる

流行の最先端を求めて銀座へ

 1920年代末、関東大震災から復興する新しい東京の都市景観をテーマに、おびただしい数の東京論が発表された。中でも、浅草に代わって盛り場の象徴となった銀座についての著作が多い。安藤更生の「銀座細見」と松崎天民の「銀座」が代表作だろう。

 高層ビルの並ぶ銀座通りを自動車が走る。明るく照らし出されたデパートのショーウィンドーが通りを飾り、ネオンサインが頭上にきらめく。モダンガールやモダンボーイが華やかに闊歩する――。

 人々は流行の先端を求めて、銀座に繰り出した。それができない人は、銀座の話をむさぼるように読んだのである。

 19298年(昭和43年)に大ヒットした「東京行進曲」は、西條八十(やそ)が日活映画から「流行るものを書いて欲しい」と依頼されて作った歌詞だ。「昔恋しい銀座の柳♪」と、銀座のモダン風俗の描写で始まっている。

 銀座の景観で中心になったのは、銀座通りの3つのデパートである。1924年(大正13年)に銀座に進出した松坂屋、翌25年に続いてた松屋、そして、30年にの三越。それまでの入り口での下足預かりの制度が廃止され、商品の陳列ケースを導入。また、食堂もカフェテリア形式が採用されるなど、一気にデパートの近代化が進んだ。

松坂屋銀座店88年を振り返る外壁

  • 6月30日、88年の歴史を閉じる松坂屋銀座店

 銀座で最も古い百貨店の松坂屋銀座店が6月30日、閉店する。今後建物は取り壊され、2016年に銀座エリアでは最大級となる大規模複合施設が建設される計画だ。

 さよならセールで連日にぎわう館の外壁を飾るのは、88年の歴史を振り返る写真である。いちはやく店内への土足を解禁したり、東京駅や有楽町駅からの顧客送迎バスを仕立てたり、エレベーターガールを採用したり。同店が導入し、他の百貨店が追随したという事柄は少なくない。

 外壁の写真で、元祖3人娘を見つけた。1956年(昭和31年)、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの3人が登場する映画「ロマンス娘」の舞台になったのも、同店だった。

  • 外壁を飾る「銀座の変遷」
  • 88年間、銀座もいろいろ変化がありました
  • 屋上の遊園地も、とうとう消えてしまう

懐かしのメニュー復刻

  • 6月30日までの復刻メニュー企画に注目
  • 昔ながらのナポリタンは、サラダとスープ付き

 現在店内で開かれている催しで、食いしん坊の私が注目したのは、7階のレストランフロアの懐かしのメニュー復刻企画だ。ファミリー食堂のお子様ランチをはじめ、ヒレカツサンドやしらす・サーモン丼、マーブルケーキなど。広報担当者によれば、どれも人気があるそうだが、特に、一寸かつ定食(1470円)と昔ながらのナポリタン(980円)の注文が多いのだとか。

 ここはやはり、ナポリタンを食べるしかありません! 

 からめたトマトケチャップは甘すぎず、代表的な具材のタマネギ、ピーマン、赤いウインナー、缶詰のマッシュルーム、それに生のトマトが細かく刻んで加えられ、意外におとなの味だった。スパゲッティのゆで方もやや柔らかめといった仕上がり。「25年前にファミリー食堂がなくなるまで提供していました。いつからメニューに載ったかは不明です。レシピは昔と変わりませんが、ただ、味はちょっと今風なアレンジが入っているようです」(広報)とのこと。恐らく昔は、もっとうどんのように柔らかかったはずである。

日本オリジナル“スパゲッティ・ナポリタン”

 ところで、最近、このスパゲッティ・ナポリタン、軽食を出す喫茶店でサラリーマンに人気が出ているそうだ。トマトケチャップは、おとなの郷愁を誘うのだろうか。

 ナポリタンは、日本オリジナルのパスタ料理。横浜のホテルニューグランドの入江茂忠総料理長が、戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の接収解除後に、倉庫にあった乾燥パスタと瓶詰めケチャップを見つけて考案したとの説が有力だ。

 よく知られていることかもしれないが、イタリアのナポリには、スパゲッティ・ナポリタンは存在しない。先日テレビを見ていたら、お笑い芸人が、ナポリのピッツェリアを借りて、日本のナポリタンをイタリア人に勧めて反応をみるというバラエティ番組があった。「ゆで方が柔らかすぎる」「タマネギなんか入れるのは信じられない」「ピリリと辛味があればおいしくなるのに」と、ケチャップ味のパスタは大不評。

  • イタリア・ナポリで食べたトマト風味娼婦風のペンネ

 そりゃそうだ。ナポリのトマト風味のパスタといえば、スパゲッティ・アラ・プッタネスカ。日本語では娼婦風と呼ばれるもので、トマトソースに、黒オリーブ、アンチョビ、ケッパー、赤トウガラシなどで辛味をきかせたパスタである。

 とはいえ、私も、サラリーマン諸氏ではないが、時々ナポリタンが無性に食べたくなることがある。日本人の味覚DNAに埋め込まれているのだろうか。ちなみに、松坂屋銀座店の復刻メニュー企画は6月30日まで。もう一度食べに行こうかなあ。

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2013.06.14

「オーガニックコスメ・ストリート」誕生

  • 銀座3丁目に誕生した「オーガニックコスメ・ストリート」

 銀座3丁目の松屋銀座の裏手に、ちょっとユニークな通りが誕生している。誰が名付けたかは知らないが、「オーガニックコスメ・ストリート」と呼ばれている。

 イギリスの「ニールズヤードレメディーズ」、イスラエルの「サボン」、アメリカの「キールズ」、日本の「ラ・カスタ」――世界4か国のオーガニック化粧品ブランドがずらり並んで店舗を構える。

オーガニックコスメ

 オーガニックコスメは、有機栽培で育てられた植物本来の自然なパワーを生かして作られた化粧品。日本ではまだ化粧品に対するオーガニック認証の制度がないので、定義は明確ではない。

 この分野の先駆者で、1990年代から日本に進出している「ニールズヤードレメディーズ」は、合成香料や合成着色料は一切使用しない、石油から作られる鉱物油は配合しない、遺伝子組み換え作物を用いない、生育数が減少していてサステイナブル(持続可能な)でない食物は使わない、動物実験は行わないなど、「ナチュラル&オーガニック」を企業哲学として掲げている。日本でも、健康や癒し、安全、環境への配慮などへの関心の強まりから人気が広がり、この5年間で市場は約30%増に伸張したとのデータもある。

 私は、結構なオーガニックコスメ好き。それぞれの店に、お気に入りがある。

日本生まれ、アロマコスメのパイオニア…「ラ・カスタ」

  • 5月にオープンした「ラ・カスタ」は日本生まれ。ヘアケア製品が充実している

 「オーガニックコスメ・ストリート」に5月にオープンした「ラ・カスタ」は、カタカナの名前からはわからないが、日本生まれの化粧品。1996年、日本でいち早く植物の精油(エッセンシャルオイル)を取り入れたことで知られる。お香やゆず湯など、日本に古くから伝わる香りの文化を基本に、日本女性のパサつきがちな太い髪質やきめが細かく敏感な肌質などに合わせた製品を独自に開発している。

 行きつけの美容室で洗い流さないヘアトリートメント剤「ヘアエマルジョン」を勧められてから、さらりとした感触とカモミールのすがすがしい香りが好きで、愛用している。

ロンドンでの出会い…「ニールズヤードレメディーズ」

 「ニールズヤードレメディーズ」との出合いは、1980年代半ば。ロンドンの大学にいた私は、コベントガーデンに1号店が誕生した時の印象が忘れられない。店舗の外観は薬屋さん風。野の花のディスプレイに誘われるまま店内にはいると、今まで経験したことのない香りのパラダイスだった。店の周囲には、当時、タロットの館とか、ヒッピー風のファッションを売る店とか、ホールフードのレストランとかが集まっていて、ちょっと不思議で、先端をいく空間だった。

 このブランドで注目したい香りは、フランキンセンス(乳香)だろう。「真のお香」という意味で、大人っぽい独特の香りだ。新約聖書では、キリスト誕生の際、東方の三賢人が、このフランキンセンスとミルラ(没薬(もつやく))、そして黄金を捧げたとの話が伝わっている。

美容大国イスラエル発…「サボン」

  • イスラエルのマーケットには、香料を売る店が多く、歩いているとあちこちからいい香りが…

 「サボン」は、「美容大国」といわれるイスラエル発の化粧品ブランド。同国出身のコンピューター技師がオーストラリアの伝統的な製法で作られる石けんに魅せられて創業した。特産のオリーブオイルやヘチマなどを原料にした手作り石けんをはじめ、死海の塩を使ったボディスクラブなど、特徴的な商品が多い。ボディスクラブで人気なのはバニラ・ココナッツの甘い香りらしいが、私は、爽やかなジャスミンを勧めたい。

 死海は、ヨーロッパで、昔からリウマチの療養地として知られている。海面下417メートル、世界で最も低い場所にある塩水湖は、ヨルダン川から流れる水が出口のないままにたまり、地中海の強い日差しの下に蒸発したため、塩分含有量は通常の海水の10倍、約33%。塩化マグネシウムやナトリウム、カリウムなど、肌の新陳代謝には欠かせないミネラル分が多量に含まれ、化粧品の配合成分として注目されている。

 2年ほど前、現地を訪ねた。ビーチでは、海に入る前に皆がからだに泥を塗りたくっていた。死海の泥は2万年近くかけて海底に堆積した沈殿物。クレオパトラも魅せられて、化粧品を造らせたとの記録が残っているそうだ。極小サイズの泥粒子は、肌の汚れやアカなどに吸着して、デトックス効果抜群だと聞いた。死海関連化粧品では、塩だけでなく、泥にも注目を。

ニューヨークの調剤薬局から生まれた…「キールズ」

  • 死海に入る前には、皆からだに泥を塗りたくっていた。デトックス効果が抜群とか

 1851年にニューヨークで調剤薬局としてスタートした「キールズ」にも、数々の名品がある。名前につられて買った「ミッドナイト・ボタニカル・コンセントレート」が私のお気に入りだ。深酒をして帰宅し、化粧をささっと落としてベッドにもぐり込む時、これを一塗りすると、翌朝、意外に肌がもっちり、滑らかなのだ。本当は顔をしっかりマッサージしながら使用するのがおすすめのようだが、面倒くさがり屋の私は、一塗りだけでも効果ありと信じている。

                    

 もちろん、オーガニックコスメは、男性用もそろっている。ラベンダーやローズの香りに誘われて、「オーガニックコスメ・ストリート」をぶらつきながら、自分だけのお気に入りを探すのは楽しい。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.06.14

「オーガニックコスメ・ストリート」誕生

  • 銀座3丁目に誕生した「オーガニックコスメ・ストリート」

 銀座3丁目の松屋銀座の裏手に、ちょっとユニークな通りが誕生している。誰が名付けたかは知らないが、「オーガニックコスメ・ストリート」と呼ばれている。

 イギリスの「ニールズヤードレメディーズ」、イスラエルの「サボン」、アメリカの「キールズ」、日本の「ラ・カスタ」――世界4か国のオーガニック化粧品ブランドがずらり並んで店舗を構える。

オーガニックコスメ

 オーガニックコスメは、有機栽培で育てられた植物本来の自然なパワーを生かして作られた化粧品。日本ではまだ化粧品に対するオーガニック認証の制度がないので、定義は明確ではない。

 この分野の先駆者で、1990年代から日本に進出している「ニールズヤードレメディーズ」は、合成香料や合成着色料は一切使用しない、石油から作られる鉱物油は配合しない、遺伝子組み換え作物を用いない、生育数が減少していてサステイナブル(持続可能な)でない食物は使わない、動物実験は行わないなど、「ナチュラル&オーガニック」を企業哲学として掲げている。日本でも、健康や癒し、安全、環境への配慮などへの関心の強まりから人気が広がり、この5年間で市場は約30%増に伸張したとのデータもある。

 私は、結構なオーガニックコスメ好き。それぞれの店に、お気に入りがある。

日本生まれ、アロマコスメのパイオニア…「ラ・カスタ」

  • 5月にオープンした「ラ・カスタ」は日本生まれ。ヘアケア製品が充実している

 「オーガニックコスメ・ストリート」に5月にオープンした「ラ・カスタ」は、カタカナの名前からはわからないが、日本生まれの化粧品。1996年、日本でいち早く植物の精油(エッセンシャルオイル)を取り入れたことで知られる。お香やゆず湯など、日本に古くから伝わる香りの文化を基本に、日本女性のパサつきがちな太い髪質やきめが細かく敏感な肌質などに合わせた製品を独自に開発している。

 行きつけの美容室で洗い流さないヘアトリートメント剤「ヘアエマルジョン」を勧められてから、さらりとした感触とカモミールのすがすがしい香りが好きで、愛用している。

ロンドンでの出会い…「ニールズヤードレメディーズ」

 「ニールズヤードレメディーズ」との出合いは、1980年代半ば。ロンドンの大学にいた私は、コベントガーデンに1号店が誕生した時の印象が忘れられない。店舗の外観は薬屋さん風。野の花のディスプレイに誘われるまま店内にはいると、今まで経験したことのない香りのパラダイスだった。店の周囲には、当時、タロットの館とか、ヒッピー風のファッションを売る店とか、ホールフードのレストランとかが集まっていて、ちょっと不思議で、先端をいく空間だった。

 このブランドで注目したい香りは、フランキンセンス(乳香)だろう。「真のお香」という意味で、大人っぽい独特の香りだ。新約聖書では、キリスト誕生の際、東方の三賢人が、このフランキンセンスとミルラ(没薬(もつやく))、そして黄金を捧げたとの話が伝わっている。

美容大国イスラエル発…「サボン」

  • イスラエルのマーケットには、香料を売る店が多く、歩いているとあちこちからいい香りが…

 「サボン」は、「美容大国」といわれるイスラエル発の化粧品ブランド。同国出身のコンピューター技師がオーストラリアの伝統的な製法で作られる石けんに魅せられて創業した。特産のオリーブオイルやヘチマなどを原料にした手作り石けんをはじめ、死海の塩を使ったボディスクラブなど、特徴的な商品が多い。ボディスクラブで人気なのはバニラ・ココナッツの甘い香りらしいが、私は、爽やかなジャスミンを勧めたい。

 死海は、ヨーロッパで、昔からリウマチの療養地として知られている。海面下417メートル、世界で最も低い場所にある塩水湖は、ヨルダン川から流れる水が出口のないままにたまり、地中海の強い日差しの下に蒸発したため、塩分含有量は通常の海水の10倍、約33%。塩化マグネシウムやナトリウム、カリウムなど、肌の新陳代謝には欠かせないミネラル分が多量に含まれ、化粧品の配合成分として注目されている。

 2年ほど前、現地を訪ねた。ビーチでは、海に入る前に皆がからだに泥を塗りたくっていた。死海の泥は2万年近くかけて海底に堆積した沈殿物。クレオパトラも魅せられて、化粧品を造らせたとの記録が残っているそうだ。極小サイズの泥粒子は、肌の汚れやアカなどに吸着して、デトックス効果抜群だと聞いた。死海関連化粧品では、塩だけでなく、泥にも注目を。

ニューヨークの調剤薬局から生まれた…「キールズ」

  • 死海に入る前には、皆からだに泥を塗りたくっていた。デトックス効果が抜群とか

 1851年にニューヨークで調剤薬局としてスタートした「キールズ」にも、数々の名品がある。名前につられて買った「ミッドナイト・ボタニカル・コンセントレート」が私のお気に入りだ。深酒をして帰宅し、化粧をささっと落としてベッドにもぐり込む時、これを一塗りすると、翌朝、意外に肌がもっちり、滑らかなのだ。本当は顔をしっかりマッサージしながら使用するのがおすすめのようだが、面倒くさがり屋の私は、一塗りだけでも効果ありと信じている。

                    

 もちろん、オーガニックコスメは、男性用もそろっている。ラベンダーやローズの香りに誘われて、「オーガニックコスメ・ストリート」をぶらつきながら、自分だけのお気に入りを探すのは楽しい。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.05.31

「ホテル西洋 銀座」26年の歴史、幕を閉じる

  • 広々としたレセプションルームも当時としては珍しかった
  • エルメス社長夫人がデザインしたスイートルーム
  • 「銀座テアトルシネマ」の前身、「テアトル東京」は大画面のシネラマ館として人気だった
  • バトラーサービスを全室に導入した

 西洋スタイルの建物の中に、日本旅館のきめ細やかなおもてなしの心を融合させた隠れ家的な“スモールラグジュアリーホテル”――「ホテル西洋 銀座」が、銀座通りに面した銀座1丁目に誕生したのは、1987年3月2日だった。平均客室面積60平方メートルというゆったりとした空間が77室。ハリウッドスターやスポーツ選手、政財界人にもファンが多かった同ホテルが、5月31日で26年の幕を閉じる。

 セゾングループのフラッグシップホテルだったが、2000年から米国系ホテルグループの運営に変わり、2009年、東京テアトル傘下で再び日本のホテルとして営業していた。だが、親会社が財務体質改善のために、ホテルのある銀座テアトルビルを売却することを決定、映画の「銀座テアトルシネマ」と劇場「ル テアトル銀座 by PARCO」を含め、閉館することになったのだ。

 閉館の日まで館内に展示された懐かしい写真を見ると、このホテルが様々な伝説を作ってきたことが思い起こされる。

行き届いたサービスとそうそうたる先駆者たち

 日本で初めて「コンシェルジュサービス」を始めたり、滞在中のお客様のあらゆる要求や質問に応える「バトラー(執事)サービス」を全室に導入したり。「バトラーサービス」では、裏方であるバトラーたちがいかに想像力と観察力を発揮しながら、臨機応変に対応しているか驚かされる話が多く、2009年4月10日付の小欄で様々なエピソードを紹介したことがある。

 バトラーの統括責任者だった安達実さんは、同ホテル地下にあるイタリア料理店のサービスから仕事をスタートしている。ホテル内のイタリア料理店としては先駆けで、私はここで「アルデンテ」というパスタの理想的なゆで上がりを学んだ。

 初代総支配人は、ニューヨークの名門「ウォルドルフ・アストリア ザ・タワー」支配人に日本人で初めて抜擢(ばってき)されたホテルマンの永井得也さん、総料理長にはフランス料理の重鎮で、現在東京ドームホテル専務総料理長の鎌田昭男さん、シェフソムリエに田崎真也さん、シェフパティシエに稲村省三さん、コンシェルジュに、コンシェルジュの国際組織レ・クレドールインターナショナルから日本で初めて正式認定された(おおい)桃子さん。同ホテルで育てられた人も含め、そうそうたる人材である。

 「世界一のワインリストを作ってくれ」と頼まれた田崎さんは、1995年、アジアから初のソムリエ世界一に輝いた。稲村さんのレシピは代々後輩に受け継がれ、「銀座マカロン」など数々の名作を生み出している。伝統のスイーツについては、2012年11月2日付の小欄に書いた。

  • 永井総支配人(左)と鎌田昭男総料理長(当時)
  • 1995年、「ソムリエ世界一」になった田崎真也さん(中央)
  • コンシェルジュとして活躍した多桃子さん

 閉館を前に、今月、私は同ホテルにゆかりのある人の2つの会に参加する機会があった。

日本最優秀ソムリエ阿部誠さん誕生会

 一つは、5月18日、同ホテルで田崎さんの後にシェフソムリエを務め、2002年度全日本最優秀ソムリエになった阿部誠さんの半世紀を祝う誕生会。阿部さんは現在、銀座のシャンパーニュバー「サロン・ド・シャンパーニュ ヴィオニス」のオーナーソムリエだ。参加者はブラックタイとロングドレスや着物に身を包んだ。ボランジェやフィリポナ、サロンなど、20種類以上のシャンパンボトルが開き、阿部さんは、サーベルでシャンパンの飲み口を勢いよくカットする、シャンパンサーベラージュを格好良く披露した。マロンがごろごろ載った特製バースデーケーキは、同ホテルならではの演出だった。

  • 阿部誠さんの誕生会で登場したホテルの特製ケーキ
  • シャンパンサーベラージュを披露した阿部さん

ソムリエールの草分け、野田宏子さんお別れの会

  • 野田宏子さんのお別れ会には300人以上が集まった
  • 野田さんの著書の数々

 もう一つの会は、5月27日、日本のソムリエールの草分け、野田宏子さんのお別れの会という悲しい会だった。

 享年56歳。あまりに若過ぎる、そして突然の訃報だった。野田さんもまた、同ホテルのソムリエ卒業生であった。

 この日挨拶に立った田崎さんは、野田さんの思い出をこう語った。「開業準備の時から一緒に働いた。全国から多くのソムリエ候補の応募があったが、私は真っ先に野田さんを選んだ。当時高級レストランで女性のサービスはいかがなものかと反対する声もあったが、新しいスタイルのレストランを模索している時、私の意見に同調せずにしっかり自分の意見を言ってくれる人を求めていたので、彼女しかいないと確信した。彼女はそれに十分応えてくれた。日本で女性ソムリエールの道を開いたパイオニアとして、皆の記憶に残る存在だ」

 私は、野田さんが同ホテルに入る以前、ホテル小田急センチュリーハイヤット勤務から浅草ビューホテルのシェフソムリエに引き抜かれた1986年、取材したことがある。「女性に味はわからないと言われることに反発する気持ちもあって、ソムリエになった。私の経験だと、味覚は男女五分五分、香りの感覚は女性の方が優れていると思う」と話していたのが印象的だった。

 今年3月、東京で開かれた「世界ソムリエコンクール」で、初めて女性がファイナリストに進出したので、久しぶりに野田さんに感想を聞いた。

 「決勝戦を会場で見て、女性はワインを大事に慈しむようにしながらサービスしている点に、とても好感がもてた。女性らしい温かいサービスがようやく受け入れられるようになってきた気がする。日本の若手ソムリエールも頑張っていて、これからは世界の舞台で活躍する日も近いのではないかしら」と力強いメッセージを語ってくれたのが忘れられない。

 この小さなホテルには、訪れた人それぞれの、様々なドラマや思い出が刻まれたに違いない。

  • ホテル開業時のスタッフたち

「ホテルでの思い出の一つひとつが玉鋼(たまはがね)の風鈴の音色のように、清らかで心地よい余韻となり、いつまでも響きますように。またどこかで皆さまにめぐり会うことができますように」――31日の閉館の日、総支配人の戸張浩幸さんは、そう締めくくった。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.05.17

ブルゴーニュワインと和食のマリアージュ

ブルゴーニュワインが充実「マルシェ・ド・ヴァン銀座」

  • 銀座日航ホテルの対面にある「マルシェ・ド・ヴァン銀座」

 以前からかなり気になっていたけれど、いつも通り過ぎるだけで、訪れていない店って、ありませんか?

 私にとってのそんな店の一つが、銀座8丁目、銀座日航ホテルの対面にある「マルシェ・ド・ヴァン銀座」だった。入り口に置かれた木箱には、フランスのブルゴーニュワインの瓶がさりげなく飾ってある。約2000本をそろえたワインセラーをのぞかせてもらうと、やはりブルゴーニュワインが充実していた。

 豊通食料というワインのインポーターが運営している店舗で、その前身は、ブルゴーニュファンにとって伝説的な存在、三美(ミツミ)なのだそうだ。そういえば、銀座のシャンソニエで、時々セミナーを開いていたワイン研究家の金子三郎さんから、「80年代、ここに来れば、日本ではなかなかお目にかかれない造り手のものに巡り合うことができた。無愛想だけれど飛びきりワインに詳しいオヤジさんがいた。ここでワインを買って、5丁目の洋書店イエナに行って、6丁目の交詢社ビルのバー、サンスーシーで一杯グラスを傾けるのが、私の銀ブラコースでした」と聞いたことがある。

  • 入り口には、ブルゴーニュワインの瓶がさりげなく
  • セラーにはブルゴーニュを中心に約2000本のワインが並ぶ

ブルゴーニュワイン+和食=おいしく、からだにも良い!

  • ブルゴーニュワイン委員会のピエール=アンリ・ガジェ委員長
  • 「有栖川清水」で開かれたイベントは大にぎわい

 今週、産地ブルゴーニュから、36人の生産者が来日した。東京・広尾の懐石料理店「有栖川清水」では、生産者団体ブルゴーニュワイン委員会の主催で、「ブルゴーニュワインと和食の繊細なマリアージュ」というイベントも開かれた。

 健康志向に後押しされて、和食ブームは世界的に広がっている。

 「ブルゴーニュワインも、和食と相性がいいのでしょうか?」。ブルゴーニュワイン委員会の委員長として来日した、メゾン・ルイ・ジャド社長のピエール=アンリ・ガジェ氏に聞いた。

 「エレガントで繊細で、軽やかで、精巧で、健康的…。ブルゴーニュワインを表現する言葉と和食を形容する言葉は共通している。両者はハーモニーがとてもいい。ブルゴーニュワインを飲んで和食を食べていれば、おいしく、かつからだにも良いのです」

 ガジェ氏は、30年ほど前から、前社長の父親と一緒に訪日しているが、最初は今まで経験したことのない香りの違いに戸惑い、なじめなかったそうだ。それが段々おいしいと感じるようになり、今では「日本に向かう機上で、これから1週間日本食を食べられると思うと、本当にうきうきしてしまう」というほどの和食ファンに。「天ぷら、寿司、鉄板焼。名前を知らないけれど好きなものも数え切れないほどある」という。

ワインと和食のこだわりの組み合わせ

  • ワインに合わせて和食メニューを考えた「ヴィオニス」の阿部誠さん
  • シャブリ・グルヌイユには旬のハマグリとかつお節(フランス食品振興会提供)

 さて、イベントで登場したワインと和食の組み合わせには、銀座のシャンパーニュバー「サロン・ド・シャンパーニュ ヴィオニス」のオーナーソムリエ、阿部誠さんが知恵を絞っている。

 マコン・シャルドネには、わらびの白和え、リュリーにはうまみを凝縮させた鯛の昆布締め、特級のシャブリ・グルヌイユには焼き蛤、シャンボール・ミュジニーには蒸した合鴨ロースのゆずコショウ風味、マジ・シャンベルタンには牛ひれ肉の照り焼き、といった具合だ。

 ほかにも、あなごの湯葉揚げ、銀だらのふき味噌焼き、和牛とごぼうのうま煮など、本格的な和食メニューが続いた。

 「シャブリには生がきが王道と思っている人が多いでしょうが、ここは日本の旬の貝、ハマグリを合わせてみました。かつお節としょうゆで焦がして、さらにうまみを凝縮させた。ちょっと面白いでしょう」と、阿部さんが教えてくれた。

「UMAMI」に魅了

  • (左上)シャブリ・グルヌイユには旬のハマグリとかつお節(左下)シャンボール・ミュジニーに、合鴨ゆずコショウ風味(右下)マジ・シャンベルタンに、牛ひれ肉の照り焼き(右上)日本の春から初夏には欠かせない山菜も登場(いずれもフランス食品振興会提供)

 「UMAMI(うまみ)」という日本語は、もはや飲食業に携わる人ならば、だれでも知っている。とはいえ、うまみの基本である「昆布の海のヨード臭さ、かつお節の魚臭さは苦手」という外国人は少なくないのでは…。

 そんな心配をよそに、テーブルを見ると、どんどんお皿が空になっていった。ガジェさんも、カツオのたたきを、ポン酢とショウガにつけておいしそうに頬張っていた。

 あれこれ取材しているうちに、私は随分と食べそびれてしまったけれど、銀座に戻って、教わったマリアージュをゆっくり試してみたいと思った。

  • ガジェ委員長(左)はカツオのたたきがお気に入り
  •  最後は、手を天にかざして踊るヴァン・ブルギニオンで、締めに

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2013.04.26

世界へ発信!新たな文化スポット「歌舞伎座ギャラリー」

  • 歌舞伎座タワーには、地下鉄・東銀座駅から地下の木挽町広場を経由して行ける
  • 桜色のタペストリーに描かれた「花丸」文様

 新歌舞伎座の開場以来、連日にぎわいが続いている銀座の街。そこにもう一つ、新たな注目スポットが加わった。高層の歌舞伎座タワー5階に、4月24日オープンした「歌舞伎座ギャラリー」だ。

四季折々の企画展…オープニングは「歌舞伎の美 春」

 目的は、歌舞伎を中心とした日本の伝統文化の魅力を世界に発信すること。季節に応じてテーマを変える企画展が目玉の一つだ。オープニングの企画展のタイトルは、「歌舞伎の美 春」(6月30日まで)。早速出かけてみた。

 入り口を入ると、まず、桜色のタピペストリーに丸く大きく描かれた花の文様に目を奪われた。舞台の壁や欄間に描かれ、背景の一部として溶け込んでいる「花丸」だが、単独で見ると、こんなにも華やかだったのかと改めて驚かされた。

普段目にすることはできない「道具帳」コレクション

 続いて、「道具帳」のコレクション。これは、舞台の設計図に当たる。細やかな筆づかいの一つひとつに、大道具方のこだわりが透けてみえる。役者たちは、この道具帳を見ながら完成した舞台を思い浮かべ、「ここの屋台はもう少し大きく派手に飾ってほしい」など大道具方に注文したりするのだそうだ。

 桜にちなんだ6つの歌舞伎作品の道具帳が飾られていた。歌舞伎は初心者レベルの私でもわかる、「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」や「祇園祭礼信仰記 金閣寺」など。次のコーナーでは、その名場面を実際の舞台映像ダイジェストで見られるのがうれしい。歌舞伎の中で、桜がこんなにも愛され、印象的に表現されていることを再認識させられた。

 さらに進むと、「吉原中之町」の道具帳をもとにした大きなパネルが迎えてくれる。「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の主人公である助六の恋人、揚巻(あげまき)の豪華な衣装や箱提灯、傘などの展示が見もの。もちろん、すべて歌舞伎の舞台で実際に使われている本物である。それをこんなに間近で見られるのだから感激だ。

 ところで、天井から吊られている「桜の吊り枝」は、歌舞伎には欠かせない大道具の一つだが、歌舞伎座と新橋演舞場とでは、色が異なるのだそうだ。淡い方が歌舞伎座で、濃い方が演舞場だと聞いた。

  • 舞台の設計図、「道具帳」コレクション
  • 助六の恋人、揚巻のけんらん豪華な衣装
  • 「桜の吊り枝」の向こうに扇子が舞う

オープン記念トークショーは中村梅玉さん

  • オープン記念のトークショーに登場した中村梅玉さん(右)。左は、松竹取締役の岡崎哲也さん

 ギャラリーの奥に併設されている木挽町ホールでは、今後様々なイベントが行われる予定。そのステージには、これまで歌舞伎座で使われていたひのきが利用されているという。オープン記念のトークショーには、歌舞伎俳優の中村梅玉さんが登場、「歌舞伎は、衣装や道具類、楽器に至るまですべて含めて、世界に誇れる総合舞台芸術。展示を見て、こんなに美しい衣装を着けるのならば、歌舞伎の舞台を見てみたいと興味を持ってもらえればうれしい」と語っていた。

 まだまだ見どころはあるけれど、あまり種明かしをしてしまうと、楽しみが半減するので、このあたりで…。

パリでも人気急上昇、創業160年老舗の日本茶カフェ「寿月堂」

  • 日本茶カフェ「寿月堂銀座歌舞伎座店」は竹に囲まれた靜かな空間
  • コクのある煎茶をいただいて一休み (松竹提供)

 さて、私が注目したもう一つのスポットが、ギャラリーに隣接している日本茶カフェ「寿月堂銀座歌舞伎座店」。築地で創業して160年になるお茶と海苔の老舗、丸山海苔店が運営するカフェだ。数年前からパリで緑茶人気が上がっているとのうわさを耳にしていたが、その中心的な店が寿月堂パリ店だった。パリ店を設計した隈研吾さんが、約2000本の竹を使って茶禅の世界を再現している。

 店のスタッフの説明を聞いて、日本茶についてあまりに無知な自分に恥じ入った。早摘み新芽から出るふくよかな香りとまったりとした味わいが特徴の緑茶は75度前後の湯で60秒間くらいかけて抽出。渋みも苦みもしっかりしたコクのある深蒸し茶は、80-85度で30秒くらいでいただくとおいしい。緑茶の基本は、日本人として学んでおかないといけないなと、反省しきり。週末には、急須でゆっくり煎茶を入れてみよう。

歌舞伎なりきり写真にチャレンジ

 さらに、お楽しみスポットを挙げるとしたら、白塗り、衣装、かつらで歌舞伎の役に扮装できる「スタジオアリス歌舞伎写真館」。一度変身にチャレンジしてみるのも面白そうだ。「京鹿子娘道成寺」の主人公、白拍子花子(しらびょうしはなこ)なんて、素敵ではありませんか! 支度代と撮影料金で18000円、別に写真代セットで35000円から。ちと高いか。扮装メニューは、季節に合わせて変わるようだ。

 春らんまん。今年の桜の季節はあっという間に過ぎてしまったけれど、その余韻を思い返し、和の気分に浸ることができる貴重な空間でもあった。

  • 歌舞伎の役に扮装できる写真館もある
  • 白拍子花子に変身すると、こんな感じに(松竹提供)

◆歌舞伎座ギャラリー情報はこちら

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)