GINZA通信アーカイブ

2014.09.12

中秋の名月~お月見限定商品で月の光と戯れる

  • スーパームーンの中に浮かび上がる観覧車(9日午後6時12分、東京都江戸川区の葛西臨海公園で)=中村光一撮影

 中秋の名月(十五夜)とは、旧暦の8月15日に見える1年で最も美しいとされる月のことで、今年は9月8日だった。

 関東地方では残念ながら雲に隠れて名月を拝むことができなかったが、翌9日、月が地球に近づき、満月が普段より大きく見える「スーパームーン」を楽しまれた方も多かったのではないだろうか。

 今秋は、名月を3回も楽しめる特別な年と聞いた。秋のお月見は、十五夜に次いで美しい月といわれる、旧暦9月13日の十三夜があり、今年は10月6日に当たる。例年の名月はこの2回だが、今年はそれだけではない。今年は閏月が加わるため、旧暦の9月13日が2度出現するそうで、11月5日に「のちの十三夜」として、再び美しい月と出合える。なんと171年ぶりの極めて珍しい機会だという。

 そんな話をキャッチして、お月見を()でたい気分になった。十五夜の夜、小雨が降る中、銀座の街を歩いた。天空に名月は期待できなくても、空想の世界で月と向き合うことはできそうだ。

「お月見どろぼうです!」~和製ハロウィーン

 銀座7丁目の「宗家 源吉兆庵銀座本店」を訪ねたら、愛らしい和菓子を見つけた。爽やかな香りのするユズあんの「うさぎさん」まんじゅうと、小豆ようかんの中に輝く月と躍動感みなぎるうさぎの姿が描かれた「舟月夜(しゅうげつや)」。

  • (左)銀座7丁目の「宗家 源吉兆庵銀座本店」の周辺には、「とらや」や「立田野」など和菓子店が集まっている(右)「うさぎさん」と「舟月夜」
  • (左)亀屋良長の京干菓子(右)王様堂本店の「月夜のきなこおかき」

 「うさぎさん」まんじゅうについては、興味深い話を聞いた。三重県や愛知県の一部地域には「お月見どろぼう」という風習が伝えられている。十五夜の日に限って、子どもはお月見の供え物を盗んでもよいというもので、各家庭では、子どもたちが手に取りやすい場所に供え物を置く習慣がある。これにちなんで、同店では、9月1日から8日までの期間、「お月見どろぼうです」と告げた子どもに「うさぎさん」をプレゼントした。

 「今年で4回目になりますが、和製ハロウィーンとして皆さんに認知されてきました。失われつつある日本の季節感のある風習を次世代に伝えていければ」と、同店。 銀座三越で見つけたのは、享和3年(1803年)創業の京都の老舗、亀屋良長(かめやよしなが)の干菓子。金平糖に似た黄と白のゆかりを敷き詰めた上に、ススキが揺れ、うさぎが遊び、月の満ち欠けが表現されていた。「うさぎさん」や京干菓子は9月8日までの限定販売であったが、十三夜に楽しめるものはないだろうか。

 ありました!

 銀座三越の「王様堂本店」にあったのは、「月夜のきなこおかき」。満月に見立てた丸いおかきと、三日月のような柿の種の2種類。ほんのり甘いきなこがまぶしてあって、なかなかおいしい。こちらは、9月23日までの販売。

  • (左)「銀座あけぼの」銀座本店の店頭風景(9月8日撮影)(右) お月見団子の小箱が三方に早変わりするのもアイデア

 銀座4丁目の交差点近くにある「銀座あけぼの」では、「月見だんご」を売っていた。上新粉を使って、お米の味わいがしっかり生きたお団子だ。お団子の数は、十五夜は15個、十三夜は13個。団子の入った小箱が、ふたを裏返すとそのままお供えの三方になるのもアイデアだ。すすきのプレゼント付きだった。すすきは、軒先につるしておくと、1年間病気をせずに過ごせるとの言い伝えがある。ちなみに、十三夜用のお団子は9月26日までに予約が必要。

魅惑の一杯「与謝野ブルームーン」

  • (左)銀座8丁目の「月のはなれ」のお知らせ黒板(右)5階まで急な階段を上る。途中に「あと24段」など、励ましのせりふも

 さて、ちょっと足を延ばして、銀座8丁目の「月のはなれ」というカフェに寄った。

 「大空の月の中より君来しや ひるも光りぬ夜も光りぬ」

 歌人、与謝野晶子の作である。

「月のはなれ」は、1917年創業の銀座の老舗画材店「月光荘」が母体。晶子は、創業者の橋本平蔵を大変かわいがったといわれ、「大空の~」と詠んだ歌が店名の由来になっている。

 「月のはなれ」は、「月光荘」近くのビルの5階に昨年末オープンした。エレベーターはない。狭く急な階段を上りつめると、緑あふれるテラスの奥にこぢんまりとした静かなサロンがあった。壁は小さな額に入ったポップな絵で埋まっている。日によって生演奏も楽しめるらしい。

  • (左)「月のはなれ」は、こぢんまりとした静かなサロン風(右) 「与謝野ブルームーン」は、サクランボと一緒に

 「与謝野ブルームーン」というカクテルを注文した。

 「許したまへあらずばこその今の我が身 うすむらさきの酒美しき」。晶子がそう詠んだのが、このお酒ではないかといわれている。ベースはジンで、ニオイスミレという薄紫色の香草系リキュールを加えているという。リキュールを見せてもらうと、その名も「パルフェタムール」。「完全なる愛」という意味だ。

 「完全なる愛」と「かなわぬ恋」の間で揺れ動き、葛藤する女心、か。魅惑の一杯に酔いしれながら、秋の今宵は月の光と戯れることにしよう。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.08.29

中東文化の発信基地目指す…「日本初の中東各国料理店」

  • 「現地の人々の優しさに感激した」と、店主の草野サトルさん

 「日本初の中東各国料理店」を掲げるレストランが、8月初め、銀座6丁目にオープンした。

 8月1日付の小欄では、夏休み企画の「東アナトリアの旅」の導入部として、銀座のトルコ料理店を紹介したが、トルコとかエジプトとかの国に特化せず、「中東」というくくりで料理を出す店は、極めて珍しいように思う。

中東への思い、馴染みが薄い“中東各国の料理”から

 店名は、「中東Kitchen & Bar MishMish(ミシュミシュ)」。「ミシュミシュ」とは、アラビア語でアンズの意味。「音の響きがかわいらしいので付けました」と言うのは、店主の草野サトルさん。

 中東地域の国際情勢に関心を持ち、20代初めの頃から、語学学校でアラビア語を学んだ。医療支援のNGOで活動しながら、レバノン料理店で働き、中東の文化に関わってきた。

 運命を決めたのは、10年ほど前、国際協力のNGOが中心になって開いている「グローバルフェスティバル」で運営委員を務めた時。「中東大好き」と言いながら、実はそれまで現地に一度も行ったことがなかった。仲間に「現地ではどうなの?」と聞かれることが多くなり、2007年、パレスチナ行きを決意した。

  • チュニジアのモザイクタイルや水パイプがアラブの雰囲気を演出

 西岸に半年間滞在し、周辺国のエジプト、シリア、ヨルダン、チュニジアなどを旅した。

 「正直、最初は、厳しい戒律のあるイスラム教世界にすんなり入っていけるか不安でした。でも、現地で暮らしてみると、心配が吹き飛びました。人々が皆親切。日本の話に興味津々で、レストランでも、『今日はおごるよ。楽しかったから』と言われる場面が多々あった。そんな100%の善意って、今の日本ではあまり体験することがないので、感激しましたね」

 人々の優しさと多彩な食材に魅惑され、「誰もが身近に感じられる食文化を通して、中東のことを日本で伝えていこう」と、レストラン開業を考えたという。

 西は北アフリカのチュニジアから、東は東西文化が融合するトルコまでが、同店の守備範囲。フランス料理のように洗練されてはいないけれど、「素朴で、家族総出でおしゃべりしながら作るあったかい家庭料理が本当においしいんです」と、草野さん。

本格的な現地の日常の食卓を再現

  • 最初に登場する前菜。オリーブオイルはパレスチナ産

 特におすすめは、野菜のおいしさ。肥沃(ひよく)な土壌で育った野菜一つひとつに生命力が感じられるそうだ。

 同店でも、野菜をたくさん使ったヘルシーなメニューがそろっていて、女性客に人気だ。

 必ずと言っていいほど誰もが注文するのが、前菜として用意される「フムス」というひよこ豆のペーストや、「タッブーレ」というパセリとブルグル(クスクスと似た形状の()き割り小麦)のサラダなど。

  • ザータル(左)は、中東の万能調味料

 もちろん、アラブのパン、ピタパンが添えられているが、香辛料もポイントらしい。野生のタイム、ゴマ、日本の“ゆかり”に似た赤紫色のスマック、レモングラス、塩などをブレンドした「ザータル」という調味料は、中東地域では万能調味料として重宝されている。小皿を二つ用意して、片方にこのザータル、もう片方にオリーブオイルを入れて、パンをちぎってこの二つをつけながら食べるのが、現地の日常の食卓という。スマックの酸味がさわやかで、日本人の口にもとても合う。 

 鶏肉料理や牛肉の串焼き、それから、トルコのサバサンドもある。

  • (左)北アフリカ風鶏の丸焼き (右)ビーフケバブ

 サバサンドは、トルコのB級グルメ。イスタンブールの水辺の専門店では、船上でサバを豪快に焼いていたのを思い出した。エメックというバゲットに似たパンにタマネギと一緒にはさみ、レモン汁をかけて食べる。レモンの酸味で魚の臭みが取れて、美味。「なぜ日本にないんだろう」と不思議に思ったものだ。

 パレスチナやレバノンなど、普段あまり見かけないワインやビールもそろっていて、興味は尽きない。新商品として、ラクダ肉のハンバーガーを開発中なのだとか。飲み放題がついたコース料理で3000円台と、価格もお手頃なのがうれしい。

 「写真展や講演会、ベリーダンスなどの催しを徐々に増やして、銀座における中東文化の発信基地を目指したい」と、草野さんは意気込んでいた。

  • トルコのB級グルメ、サバサンド
  • パレスチナやレバノン、チュニジアなどの珍しいワインとビールがそろう

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.08.15

文明の発祥地「トルコ」~東アナトリアを巡る(下)

  • メソポタミアに向かって流れるチグリス川

 前回に続いて、東アナトリアの旅について記したい。

 今回ご紹介するのは、シリア、イラクの国境と接し、チグリス・ユーフラテスの両大河がメソポタミアの平原へと向かって流れる一帯、東アナトリアの南辺の地域である。

預言者の街…シャンウルファ

 預言者アブラハムの生誕地とされ、イスラム教だけでなく、ユダヤ教、キリスト教にも関係の深い聖地が、シャンウルファ。「預言者の街」とも呼ばれ、街全体が一つの歴史博物館のような印象だ。アブラハムが誕生したといわれる伝説の洞窟内は聖水が湧き出し、薄暗い空間は静かに腰をおろして癒やしを求める人たちであふれていた。

 紀元前2000年頃には、鉄の精錬や騎馬技術で栄えたヒッタイトがこの地に入り、帝国を築いた。紀元前6世紀頃、ペルシャの統一を経て、東方遠征のアレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)がエデッサと命名。メソポタミアと地中海を結ぶ要所であったため、続くローマやアラブ支配の時代にも、周辺の勢力による争奪の的になった場所だ。十字軍が11世紀、初の国家、エデッサ伯領(はくりょう)を設立したのがここである。

  • アブラハムの生誕地 建物の地下に洞窟がある
  • アブラハムが火刑に処された時、奇跡が起こってできたという「聖魚の池」
  • シャンウルファの市場は香辛料の香りでいっぱい

紀元前1世紀ごろ栄えたコンマゲネ王国

  • ネムルート山頂のアンティオコス1世の陵墓

 この地域で見逃せないのが、世界遺産の標高2150メートルのネムルート山だ。

 「コンマゲネ王国」。その名前を、私は初めて知った。

 ネムルート山の山頂にある陵墓は、紀元前1世紀、王国が最盛期を迎えていた時の王、アンティオコス1世のものだ。

 高さ5メートル以上ある正面の巨大な5体の神像は、地震によって頭部が転げ落ち、それらの首が無造作に大地に据えられている(現在修復が進んでいる)。この光景を見れば、誰もが一瞬のうちに古代の世界へと引き込まれてしまうと思う。

 発見されたのは、19世紀終わりで、オスマン帝国に雇われて東部アナトリアから地中海の港への輸送ルートを探していたドイツ人技師カール・セステルによって発見された。西アナトリアで、ハインリッヒ・シュリーマンがトロイアを発見した頃である。高所にあったゆえ、長い間見捨てられたままになり、盗掘を免れているともいえよう。

 「コンマゲネ」の語源ははっきりわかっていない。紀元前9世紀、メソポタミア北部にアッシリアが栄えていた頃、「クンムフ」という小王国があって、それがギリシャ風に発音されて「コンマゲネ」という説もあるようだ。ユーフラテス川の支流が形成した深い渓谷の合間のごくわずかな土地で、古代から人々は暮らしを営んできたというわけだ。

  • アポロンの像
  • こちらがアンティオコス1世

ギリシャとペルシャの神々の習合

 コンマゲネ王国のあったこの地域には、紀元前2000年頃、既にメソポタミアとの交易があった。その後に興ったヒッタイト帝国は、鉄の精錬や騎馬技術で栄えた。滅亡後は他民族と混じり合い、南辺にいくつもの小王国を築き、紀元前6世紀頃、アケメネス朝ペルシャに組み込まれる。

 アレクサンドロスはペルシャを滅ぼすが、紀元前323年にバビロンで夭折(ようせつ)。アナトリアは分割され、この地域はセレウコス朝に帰属する。そこに登場するのが、「コンマゲネ王国」である。紀元前163年のことだ。

 アンティオコス1世の墳墓には、父方はペルシャ王長、母方はアレクサンドロスの血統であることが刻まれている。

  • ヘラクレスと握手するアンティオコス1世のレリーフ

 それを象徴するように、陵墓を守る神々は、ギリシャとペルシャの神々の習合であった。端正な顔立ちと半開きの口元はヘレニズム様式、身につけている衣装はペルシャ風で、その姿も折衷である。ヘラクレスやアポロンと並んで、神となったアンティオコス1世もいる。コンマゲネ王国の存続を願い、自らも神々に列せられて永遠の眠りにつくこととしたのだろうか。

 山頂に向かう小道には、王国の夏の離宮、エスキ・カレと呼ばれる城塞がある。中腹には地中に下るトンネルがあり、入り口の上方に、ヘラクレスと握手するアンティオコス1世の美しいレリーフがあった。

 アナトリアの地は、まさに東西文化の出合う場所。古代のロマンに浸るのは、日常から解放され、リフレッシュする最高の妙薬ではないだろうか。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.08.01

文明の発祥地「トルコ」~東アナトリアを巡る(上)

  • 銀座5丁目でトルコの国旗を発見!

 ロッティセリという回転する焼き肉器であぶり焼きした羊肉や牛肉をナイフでそぎ落とす――最近、アナトリア地方の伝統料理、ドネルケバブの屋台を随分と見かけるようになってきた。

 アナトリアは、小アジアとも呼ばれる。アジアとヨーロッパにまたがる国トルコの大部分を占める、アジア大陸側の半島部分だ。

 銀座5丁目、高層ビルへの建て替え工事が進む旧松坂屋銀座店跡地のすぐそばで、トルコ国旗を見つけた。

  • レストラン「コンヤ」のドネルケバブの一皿

 急な階段で地下に下りると、「コンヤ」という名のトルコ料理レストランがあった。さっそくドネルケバブを注文。辛めのスパイスがしっかり効いていて、本場の味だ。バターライスと一緒にいただく。シェフは、12世紀のセルジュク時代に交易の中枢として栄えた、西アナトリアのコンヤ出身なのだそうだ。

“妖精の煙突”“点在する地下都市”…カッパドキア

 初夏に初めてトルコを旅した。コンヤに近い、観光客に人気のカッパドキアでは、妖精の煙突とも呼ばれる奇岩の群れに圧倒されつつ、深い信仰に支えられた人々の地道な生活の営みがあちこちに感じられた。

 カッパドキアには数多くの地下都市が点在する。そのうちの一つ、カイマクル地下都市を訪ねた。深さ55メートル、地下8層。各層に200人くらい収容できた。大部分は、キリスト教を信仰するビザンティン帝国が支配していたこの地に、イスラム化したトルコ族が勢力を拡張し始めた9-10世紀に掘られたもののようだ。

 内部は狭いトンネルや階段で結ばれていて、迷路そのもの。教会、集会所、台所、居室、家畜小屋、墓地などあらゆる暮らしの機能が備えられ、地表に抜ける通気孔も各所に設けられていた。粉をひく石臼やワイン醸造の場所も確保されていて、興味は尽きない。岩でできた円盤状の回転扉は、敵が迫って来た時に、これを転がして通路をふさいだという。

  • 奇岩の群れに圧倒されるカッパドキア
  • カッパドキアは地下都市が面白い。岩でできた回転扉

“ウラルトゥ語”“ワン猫”“ノアの箱船漂着地”…東アナトリア

  • 東アナトリアのワン城塞

 今回の旅では、実はあまり日本人にはなじみのない東アナトリアを巡った。

 東アナトリアは、グルジア、アルメニア、イラン、イラクなどと国境を接している。西部に比べて欧風化の影響が少なく、トルコらしいトルコが残っているともいわれている。万年雪をいただく山々に囲まれたワン湖は、琵琶湖の約6倍の広さの塩湖だ。湖畔に残る城塞は、古代王国ウラルトゥの繁栄を物語る。

 ウラルトゥ王国は、鉄の精錬や騎馬技術で栄えたヒッタイト帝国滅亡後、紀元前9世紀頃に誕生した王国。東西約2キロに及ぶ城塞が築かれたのも、その頃だ。紀元前6世紀初め、遊牧民のメディア・スキタイ連合軍に滅ぼされるまで、コーカサス地方への中継点として重要な位置を占めた。

 城跡の岩壁に、当時の王の業績をたたえる楔形(くさびがた)文字の碑文が刻まれていた。そこで、案内役のモハメッドさんに会った。ウラルトゥ語が読めて書けて話せる最後の1人ともいわれていて、古代語の国際学会があると、ひっぱりだこなのだそうだ。

  • 城跡で見つけたウラルトゥの楔形文字
  • ウラルトゥ語の生き字引、モハメッドさん

  • 地元の人に愛されているワン猫。ちょっとご機嫌斜め?

 ワンの街で皆から愛されている名物というと、ワン猫がいる。特産のキリム工場を訪ねた時、その正体がわかった。なんと、左右の目の色がイエローとブルー。違うのだ。突然変異で生まれるそうで、貴重種として大事にされている。

 東アナトリアでは、トルコ最高峰、標高5000メートル超のアララト山が有名だ。

 アララトは、旧約聖書でノアの箱船が漂着したとされる山。映画でも話題の場所だ。麓のドウバヤズットからミニバスを乗り継いで、地元の人が「Gemi(船)」と呼ぶ現場を見に行った。

 船形地形の台地の下にノアの箱船が埋まっていたというのだ。聖書に書かれている箱船と大きさが一致する、いかりとおぼしき物体の一部を発見…。1980年代にアメリカの資産家が大掛かりな調査に乗り出し、幾度か新聞報道もされ、その資料を収集している資料館もあった。夢のある話ではあるが、今までに木質は検出されていないそうで、真相は定かではない。

  • ノアの箱船が漂着されたという台地
  • 早朝のアララト山

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.07.04

「憧れ・敷居が高い…」と戸惑いの方への銀座案内

銀座おさんぽマイスターが語る“銀座”の魅力

  • 「銀座おさんぽマイスター」の岩田理栄子さん
  • 写真やイラストがいっぱいで楽しい本「銀座が先生」

 「銀座おさんぽマイスター」なる肩書をもつ岩田理栄子さんが、「銀座が先生」(芸術新聞社)という本を出した。

 銀座伊勢由、銀座松崎煎餅、ギンザのサヱグサなど、銀座の老舗や名店の主人や職人たちとのたくさんの対話から生み出された本で、「へえ、こんな銀座もあったのか」というサプライズが満載だ。

 「銀座」を題材にした本は数あれど、散歩の達人が実際に歩いて、人と出会って描く銀座の世界は、一段ときらきら輝いている。何といっても、岩田さんの「銀座愛」が、どのページにもあふれている気がする。私も何度か、岩田さんの主宰するお散歩イベントに参加したことがある。銀座で商いをする主人たちとの会話は、「おもてなしの心とは何か」をそれとなく教えてくれて、心温まる時間が過ごせたように思う。

 岩田さんは、政府系の財団で十数年、女性を対象にした相談事業や編集企画に携わった。その経験を生かして、コミュニケーションスキルを磨くビジネスコーチとして独立。交流ができた経営者たちを銀座の街に案内し、銀ブラしながらコーチングしたところ、とても喜ばれた。そんなことがきっかけで、「銀座おさんぽ」が仕事の一つになったという。

◇  ◇  ◇

 岩田さんに、銀座についてあれこれ聞いてみた。

 ――銀座での「初」体験で、印象に残っているのはいつ、どんなことですか?

 「銀座のウインドーはいつもキラキラしていてスケールが大きく、銀座の華やかさを演出してくれています。『銀座はどうしてこんなに美しいのだろう』というのが、いつも私の頭に浮かぶ問いでした。その秘密を知りたくて、朝に夕に銀座の街を回遊し続けました。すると、早朝、銀座松屋通りを清掃する店主の姿に遭遇。奥まった路地で掃き掃除をしている方もいらっしゃいました。『銀座は見えない所こそ美しく磨き上げる』という言葉を実感した瞬間です。20年くらい前のことです」

 ――ズバリ、岩田さんにとって、銀座の魅力は何でしょう。

 「有為転変の市場を生き残るために挑戦する商人のヒノキ舞台だと思います。私は『世界一の商店街』とお話します。どういう意味かというと、ブランドから専門商店、歌舞伎座や花柳界など日本文化の粋までが1キロ圏内に集まっているということ。このようなエリアは世界広しといえども銀座だけです。しかもその多様さは見事で、それこそが銀座の楽しさの理由だと思います」

 ――たくさんの出会いの中でも、特に忘れられない出会いはありますか?

 「銀座おさんぽで、『この老舗名店をお訪ねしたいなあ』と願いながらもなかなかご縁をつくれない場合があります。ある日、そんな老舗のご店主に直接電話をして、『一度お話させて下さい』とお願いしたところ、『5分以内に来ることができたら会いますよ』と無理難題を言われました。でも、たまたま携帯で電話をした場所がお店の真ん前(笑)。1分もたたずに現れたので、ご店主は目を丸くして『あっぱれ!』」とおほめいただいたことがあります。その日は土砂降りでしたので、ずぶぬれ姿の私に、相当驚かれたようでしたけれど。銀座の旦那衆には、そんな洒脱(しゃだつ)な一面もあって、お一人お一人との出会いがドラマです。いくつもの物語がおさんぽメニューに反映されていく楽しさがあります」

 ――銀座おさんぽイベントを開くようになったのは、いつから、何がきっかけでしたか?

  • いつも和服で銀座を歩く。後ろ姿を拝見したら、背中に草履やハイヒールの「おさんぽ紋」が

 「インカムをつけて着物姿の銀座おさんぽスタイルになったのは、今から8年くらい前から。それ以前に,ビジネスコーチとして経営者や個人投資家の方などと街に飛び出し、“経済のかけら”を探すツアーを企画していました。銀座の街角とお店をステージに見立て、主役は店主といった具合に、エンターテインメント性を少しずつ加えていきました。それが一般の方にも広がりました」

 ――本は、どんな人にどのように読んでほしいと思いますか?

 「銀座に憧れはあるけれど敷居が高いと感じている方、情報が多過ぎてどこに行ったらいいかわからないと戸惑っている方にこそ、手に取っていただきたいです。高校生でもわかるように、読みやすく楽しい銀座本を目指しました。写真やイラストをふんだんに使っているので、新世代のOLさんや趣味男子の目に留めてもらえるとうれしいです。先日銀座ファンの親御さんが娘さんにこの本をプレゼントしたお話を伺いました。世代を超えて手渡される本になってほしいと思います」

 ――銀座の『本当は教えたくないお気に入りスポット』ベスト・スリーを挙げるとしたら、どこでしょうか。

 「教えたくないスポットはたくさんありますが、銀座にしかなくて、扱っている商品が本物で、ご店主や女将(おかみ)さんの熱いおもてなしが受けられるという視点で、今挙げるとすれば、次のスポットでしょうか」

 <1>天空CAFE BAR(銀座8丁目、老舗画材屋・月光荘が屋上に創る天空エリア『月のはなれ』。生演奏と画材屋空間がすばらしい)

 <2>国宝が買える老舗(銀座7丁目、魯山人をデビューさせた黒田陶苑「夢幻 ギャラリー」で出会える本物)

 <3>高級ドイツワイン専門店(銀座6丁目、松坂屋再開発で一度は撤退した専門店がよみがえったことで有名。ドイツ大使館御用達の銀座ワイナックス)

 ――銀座でこれからやってみたいことは、何ですか?

 「銀座を舞台にした未来映画をぜひ作りたいですね。銀座中央通りや裏路地などの街角を背景に、大切な人や街を守るために戦う銀座7人衆が主人公。モデルはたくさんいらっしゃいますから、ドキュメンタリーでも素敵(すてき)なフィルムになりそうです」

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.06.20

“ロマネ・コンティ”の歴史~サン・ヴィヴァン修道院

銀座の片隅でさりげなく…

  • 銀座8丁目の「八官神社」のお隣は酒屋さん

 解体作業が始まっている銀座8丁目の「ホテル日航」ビルの裏手に、ひっそりたたずむ神社がある。

「八官神社」といって、金運アップの御利益があると名高い、宝くじファンにはおなじみの神社だ。

 このあたり、旧地名を「八官町」という。17世紀初め、オランダ人ヤヨウス・ハチクワンに下賜(かし)された屋敷地に由来するのだそうだ。もともとは「穀豊稲荷」として町民に親しまれていた氏神であったが、区画整理でなくなる旧地名を残そうと、「八官神社」と改名された。ビルの谷間に、こういう神社がさりげなくおさまっているのが、銀座である。

 神社の隣には、御神酒(おみき)を扱う酒屋がある。といっても、ここ「銀座フェリーチェ」の主力商品はワインだ。高級クラブが多い土地柄、棚にはかなり値の張る商品がずらり。しかも、案内にある通り「呑めるワイン屋」。奥のカウンターで、高級ワインをグラスでいただけるのが特徴だ。

 サンテミリオンの「シャトー・フィジャック(2007年)」が1800円、ブルゴーニュのモンジャール・ミュニュレ「クロ・ド・ブージョ(2011年)」が2000円など。フランスワインが中心だが、一番人気は、カリフォルニアの「オーパス・ワン(2010年)」2800円だと聞いた。

 ふと頑丈なカギで厳重に保管されている冷蔵庫を見ると、中には、DRC(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ)など1本ウン十万円という値段のついた超高級ワインが眠っていた。銀座だと、こういうワイン需要も少なくないのだという。さすがに、グラス売りはしていなかったけれど。

  • 「高級ワインがグラスで飲める」が売りの「銀座フェリーチェ」
  • カウンターで、フランスの赤ワインをいただきました。温度管理も行き届いています

DRCのヴィレーヌ氏来日

 ところで、先日、8年ぶりにDRCの共同経営者であるオベール・ド・ヴィレーヌさんが来日した。ブルゴーニュワインのファンが多い日本で、サン・ヴィヴァン修道院の修復・保存活動への理解と協力を求めるのが、目的だった。

修道院の歴史

  • 8年ぶりに来日したオベール・ド・ヴィレーヌさん
  • 中世末期のサン・ヴィヴァンの復元図を示しながら行われた、ヴィレーヌさんの講演
  • 修道院保存運動の日本側の会長、山本博さん(左)とヴィレーヌさん
  • 日本語訳も出版された非売本。寄付者にのみ配られる
  • ヴィレーヌさんを囲む会で出されたワイン。DRCが造る白の「オー・コート・ド・ニュイ」も

 時は、紀元900年頃。現在DRCのあるヴォーヌ・ロマネ村から西へ10キロほどのオー・コート・ド・ニュイのヴェルジィに、フランスでもっとも難攻不落といわれた城があった。スタンダールの「赤と黒」の舞台にもなった場所である。

 城のあった小高い丘の中腹に建てられたのが、サン・ヴィヴァン修道院。ノルマン人(バイキング)の侵攻により追い立てられ、庇護(ひご)を求めてきた修道僧たちに、ブルゴーニュ公が与えたものだった。修道僧たちは、熱心に土地を耕し、ピノ・ノワールを植えた。そのブドウ畑が、のちに「ロマネ・コンティ」や「ロマネ・サンヴィヴァン」を産み出すことになる。

 「自分たちの土地から世界で最も優れたワインが誕生するとは、修道僧たちは考えてもみなかったことでしょう」と、ヴィレーヌさんは言う。

 しかし、美しかった修道院も、フランス革命で破壊され、その後も修復されることなく長い年月の中、廃虚と化した。こうした歴史的史跡の状況を憂えて、1990年代、修道院の敷地を買い戻し、復興・保存運動に乗り出したのが、ヴィレーヌさんだった。

 「ここには、幾世紀もの間暮らしてきた人々のエスプリ(精神)が残っている。こうした文化を残し、伝えたいという情熱で、運動を続けている。今は何でもスピーディーに事が進んでいくが、2000年という歴史の重みを、ワインの造り手としてもしっかり受け止めていきたい」と語る。

保存活動への賛同・寄付金を募る、有志へのお礼は貴重本

 10年ほど前から建物の保護工事が始まり、考古学者や歴史学者の協力を得て、多くの貴重な史料も発掘された。資金はフランス政府からの補助金にとどまらず、運動に共感した世界中のワイン愛好家らの寄付でまかなわれている。現在第一期工事が一段落しており、それを機に、成果を「ヴェルジィのサン・ヴィヴァン修道院」という本にまとめた。

 日本でも、弁護士でワイン研究家として著名な山本博さんを中心に修道院の保存を支援する会が組織され、翻訳本が出版された。非売品で、一口1万円の寄付をした人にお礼として渡す。寄付は、ヴィレーヌさんが会長を務めるサン・ヴィヴァン修道院協会で今後の修復・保存事業に役立ててもらう。既に、日本から1万ユーロが寄付された。

 本には、当時の修道院で使われていたミサ典書の写本など、宗教史的にも興味深い史料が載っている。銀座で出会った1杯のワインから、1000年以上前のブルゴーニュのブドウ畑に思いを巡らせるのは、楽しいひとときだった。

 なお、日本で修道院保存を支援する「日本サン・ヴィヴァン修道院協会」事務局は、東京都港区南青山5-4-35―501 日本輸入ワイン協会内。電話03・6450・5547。

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.06.06

踊りと食、日本の文化を総合的に楽しむ「東をどり」

  • 新橋演舞場近くには、「東をどり」のちょうちんがかかる
  • 美しい着物姿の女性も多い

 今年で90回目を数える「東をどり」に行ってきた。新橋花街の初夏の風物詩で、5月24日から27日までの4日間、銀座6丁目の新橋演舞場で開かれた。

 演舞場には、開演前から長蛇の列。毎年この催しを楽しみに、はとバスで乗り付けるというおばあちゃまたちのグループもいて、そのおしゃべりを聞いていると、こちらもうきうきしてくる。(りん)として美しい着物姿の女性も多く、開演前から正面入り口周辺は、早くも華やいだ雰囲気に包まれていた。

 新橋演舞場の創設や東をどりのはじまりについては、2011年5月27日付の小欄で書いたので、ご興味のある方は参考にしていただきたい。

復興支援への特別な思い

 2011年以降の「東をどり」には、踊りのプログラムをはじめ、演舞場のあらゆるところに、被災地・東北の復興支援への特別な思いが込められている。

 以前、東京新橋組合頭取の岡副真吾さんにお話を伺った時、「被災直後、まず優先されるのは命、続いて、生活の基本となる衣食住。さらに、人がひとらしく、きらきらと輝いて生きていくためには、文化は不可欠なものではないだろうか。先達が築いてきた伝統芸の灯は守らなければなりません。日本の踊り、音楽、料亭の食文化などが一つにまとまって体験できる東をどりは、日本人の心の潤いであり、誇りでもある。文化復興の一翼を担うことができるのでは」と語ってくれた。今年のプログラム第二部は、「にっぽんの四季」をテーマに据えた。春の巻は、太閤秀吉の「醍醐の花見」、夏の巻には、人気芸者の喜美勇さん演じる「滝の白糸」の水芸が登場。秋の巻は、「陸奥の旅」と題して、東北地方の民謡「さんさ時雨(しぐれ)」や「大漁唄い込み」などの踊りが、地方色豊かに、エネルギッシュに展開された。

特産食材と知恵や伝統のコラボ、料亭の食…グルメ巡り

  • (左)「やっぱ銀座だべ」プロジェクトのコーナー (右)三陸気仙沼産の厚焼き笹かまぼこ
  • (左)「丸の内シェフズクラブ」が協力した缶詰 (右)三陸特産の金華サバとムール貝が楽しめる汁もの

 「東をどり」では、幕間のグルメ巡りも楽しみの一つである。2階のロビー中央には、昨年4月から始まった「やっぱ銀座だべ」プロジェクトの企画商品が並んでいた。被災地の特産食材と、銀座の企業や商店が持つ知恵や伝統を結びつける試みだという。

 私が注目した一つは、三陸気仙沼産の厚焼き(ささ)かまぼこ。吉次(きちじ)という高級魚のすり身が入っているそうで、ぷりぷりした食感がたまらなく美味(おい)しかった。

 もう一つ、石巻の水産加工会社と東京の「丸の内シェフズクラブ」が協力して完成させた「山椒(さんしょう)香る金華サバとムール貝とたっぷり野菜のお(わん)」という缶詰。三陸沖で取れた脂ののった金華サバとこれも三陸でたくさん取れるムール貝を使っている。

 自宅に戻って、開けてみた。野菜のうまみと昆布だしがきいていて、ほんのり山椒の香りがアクセントになっている。いやはや、缶詰といっても、これほど美味(おい)しくいただけるものに進化しているとは、新たな発見だった。

 今回興味深かったのは、普段なかなか行く機会のない、新橋の料亭の卵焼き食べ比べ。私は、新喜楽、金田中、吉兆の三つの卵焼きを、獺祭(だっさい)をグラスでちびりちびりやりながら、いただいてみた。卵焼きといっても、ふわふわ感、甘さなど、どれも違う。私は口の中でとろけるような柔らかさの金田中のが好みだったが。

 さて、幕が下りて、本格グルメタイムの始まりだ。地下の食堂で松花堂弁当が待っていた。同じ献立で、新橋の6料亭がそれぞれにつくり、競い合っているのだから面白い。お客は、どの店の弁当がくるかは、ふたを開けてからのお楽しみである。

 私のは、金田中のものだった。マスの木の芽焼き、ソラマメの蜜煮、ウナギの白板昆布煮、稚アユ空揚げ…など。周りをみると、異なる料亭のものを互いに分け合って味比べしている人も多かった。

 帰り際、うちわや扇子のコーナーをひやかし、銀座くのや見たての朝顔の手ぬぐいと、松崎煎餅がつくる「東をどり煎餅」をおみやげに。

 非日常に(うたげ)文化へのトリップ。「ほんと、日本人でよかったあ」。そうつぶやきながら演舞場を後にした。

  • 新橋料亭の卵焼き食べ比べは面白かった
  • おみやげに買った「東をどり煎餅」

  • どこの料亭の松花堂弁当か、開けてからのお楽しみ
  • (左)金田中のお弁当 (右)吉兆のお弁当

  • 芸者さんも会場でおもてなし
  • 東をどりのフィナーレ 黒の裾引きで登場する (公文健太郎撮影)

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.05.23

海外公演をテーマに「歌舞伎は旅する大使館」

  • 歌舞伎座ギャラリーで開催中の海外公演をテーマにした展示が好評
  • 会場では、現地のポスターやパンフレットなどが年表形式で紹介されている
  • 1961年のソ連公演のパンフレット。左側は表、右側は裏(松竹大谷図書館蔵
  • ニューヨークを羽織袴(はかま)姿で闊歩する俳優たち(1960年)(松竹大谷図書館蔵)
  • 1982年、ホワイトハウスにレーガン米大統領夫妻を表敬訪問(松竹大谷図書館蔵)

 海外に出かけて喜ばれるお土産の一つが、「歌舞伎」にまつわるものだと思う。どんな小さなものであってもいい。ハンカチ、キャンディー、あぶらとり紙……。

 先日、親日家の多いトルコに出かけた時、市川染五郎さんが監修したという隈取をデザインしたフェースパックを持参したところ、大ウケだった。顔全体にふわりと載せれば、あなたも「船弁慶」に? ガイドの男性は、「ちょっと怖いね」と笑いながら、「今晩妻に試してもらおう。トルコは気候が乾燥しているから、女性にとって潤いパックは必需品なんだ」と言っていた。

海外公演の足跡

 歌舞伎の海外人気を特集した展示が、いま、東銀座の歌舞伎座タワー5階にある「歌舞伎座ギャラリー」で開催中だ。

 題して、「歌舞伎は旅する大使館」。松竹大谷図書館所蔵の資料を中心に、これまで36か国96都市で展開された海外公演の足跡が明らかにされていて、とても興味深い。この企画、1年間に及ぶ大掛かりなもの。8月24日までは「前期」と位置づけられ、1928年(昭和3年)第1回のソ連公演から1989年第30回の訪欧公演までに焦点が当てられている。

昭和3年頃

 昭和3年頃の銀座といえば、関東大震災で多くの店舗が焼失した街に、再び活気を取り戻そうとする機運が高まってきた時。銀座通りには、松坂屋(1924年)、松屋(25年)、三越(30年)など、デパートが相次いで進出した。

 <ギンザ・ギンザ・ギンザ、男も銀座、女も銀座、夜も銀座、昼も銀座、銀座は日本だ。…銀座を享楽することは今や日本の渇仰の的だ>。美術史家の安藤更生が『銀座細見』で当時の様子を活写しているように、モガ(モダンガール)やモボ(モダンボーイ)が華やかに闊歩(かっぽ)していた。映画、ジャズ、カフェ、ダンスホールなど、上流階級を中心に、海外のモダンな風潮を取り入れる傾向がみられた。

第1回海外公演

 歌舞伎の第1回海外公演は、ソ連だった。公演の前年の1927年、モスクワを訪れた劇作家の小山内薫氏とソ連対外文化連絡協会会長のカーメネフ夫人の会話の中で、比較的短期間にとんとん拍子でまとまったようだ。

 一行は、28年7月12日に東京を出発、敦賀港から船でウラジオストク経由、シベリア鉄道で26日にモスクワ到着。約2週間の旅だった。8月1日からほぼ1か月間、第二モスクワ芸術専門劇場、ボリショイ劇場、レニングラード国立オペラ劇場の3か所を巡回して上演されたのは、「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」「番町皿屋敷」「鳴神(なるかみ)」などおなじみの演目だった。初演の第二モスクワ芸術専門劇場は、当時モスクワ一の人気俳優といわれたミハイル・チェーホフが支配人だったという。

 初めての公演をニュースなどで取り上げた現地の新聞・雑誌記事は260本以上に上り、関心の高さがうかがえる。出演した一人、二世市川左團次は、「外国で日本の芝居をやる場合に、ともすると演技の上で外国人の気にいるようにと殊更に改めることが多いが、そんなことは今度のロシヤ興行ではとらない所である。あくまでも純日本式に()って、日本固有の國劇を忠実に紹介する」と熱い思いを述べている。

事欠かないエピソード

 時代は下って、1955年、国交回復前の中華人民共和国で公演が実現。1982年の米国公演では、ホワイトハウスにレーガン大統領夫妻を表敬訪問するなど、エピソードには事欠かない。

 そんな中で、海外ならではの失敗もあるようだ。歌舞伎で芝居がはねると、打ち出しの太鼓を打つことがしきたりになっている。中国公演でもこれを強行したところ、劇場にいた周恩来首相(当時)をはじめ退場しかけた観客のほとんどが席に戻ってきてしまったそうだ。「郷に入れば郷に従え」を無視した失敗談と、のちに三代目市川猿之助さんが、初世猿翁から聞いた話として本につづっている。

 さて、海外公演で多く上演された演目ベスト3はというと、舞踏劇「連獅子(れんじし)」がトップで全12回。次が「鳴神」の10回、続いて、「仮名手本忠臣蔵」「勧進帳」「俊寛」の9回。ところで、歌舞伎がまだ訪れていない大陸が一つだけあるそうな。それは、南極大陸。舞台づくりが大変そうだけれど、いつか実現したら面白いでしょうね。

  • 1985年、喝采(かっさい)にわくウィーンのオペラハウス(C)松竹
  • 海外公演でも人気の「鳴神」の衣装
  • 必要な道具は「ボテ」と呼ばれる箱で運ぶ。化粧道具や浴衣のほか、インスタントラーメンや栄養ドリンクも

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.04.25

アジアで国民的人気キャラクター「ちびまる子ちゃん」

 東京・銀座では、東日本大震災以降減っていた外国人客が、このところ戻ってきた。

 家電量販店や人気ブランドの化粧品専門店の前は、観光バスが横付けされ、たくさんのお土産袋を抱えた人々でにぎわっている。

アニメやキャラクターグッズ好きの聖地・博品館

 銀座8丁目の「博品館トイパーク」は、アニメやキャラクターグッズ好きの聖地だそうだ。スタジオジブリからキティちゃん、ドラえもん、ちびまる子ちゃんまで、様々なキャラクター商品がずらりと並んだ2階フロアは圧巻だ。まる子ファンだという台湾からの観光客は、親戚(しんせき)や友人へのお土産にと、まる子人形を大量に買っていた。

 いまや日本を飛び出し、アジアでも国民的人気キャラクターになった「ちびまる子ちゃん」は、1986年に漫画としてスタート、90年からテレビアニメが始まった(最高視聴率39.9%)。来年でテレビ放映25周年になる。流行の移り変わりが激しい昨今のアニメの世界で、日曜午後6時からの30分番組をこれほど長く続けている作品は極めて珍しいといえよう。

数々の名作を手掛ける“日本アニメーション”

  • 銀座7丁目にある日本アニメーションビル

 その「ちびまる子ちゃん」のアニメを手がけている会社は、実は銀座にある。

 1975年創業の日本アニメーションを訪ねた。商談スペースのあるフロアでは、ちびまる子ちゃんのパネルが迎えてくれた。

 「まる子ちゃんの顔も、放映当初に比べると、結構変化があるんですよ」。そう教えてくれたのは、同社の石川和子社長。

 確かに、放映第1話と現在を比べてみると、目の大きさや頬の形、前髪の切れ込みなどが微妙に違う。段々とべっぴんさんになっているような気もする。正義感の強いちびまる子ちゃんの発言に時々はっとさせられたことがあったけれど、様々な社会経験が表情をより柔和に変えたのかなあ、などと思った。

  • 日本アニメーションの石川和子社長。背景には、銀座のシンボル、4丁目交差点の時計台が…
  • ちびまる子ちゃんがお出迎え

  • アニメ「ちびまる子ちゃん」テレビ放映第1話から((c)さくらプロダクション/日本アニメーション)
  • ちびまる子ちゃんの仲間たちも勢ぞろい

 石川社長は2代目で、父の本橋浩一氏が創業した。本橋氏は70年の大阪万博で電力館をプロデュースするなど、イベント・プロデューサーとして活躍していたが、縁あってアニメ制作にかかわることになった。

 「ライセンスをしっかり確立して、グローバルな展開を目指さないと、アニメ制作費は回収できない」「人間が成長していく過程で、できるだけ多くの感動的な場面と遭遇できるような健全な物語、その感動がどこの国でも通用する作品を制作していきたい」――。それが本橋氏の口癖だったと、石川社長は振り返る。

話題の「赤毛のアン」も制作

 こうして誕生したのが、「世界名作劇場」のシリーズだった。

 記念すべき第1作は、「フランダースの犬」。ベルギー・フランダース地方の、貧しいネロ少年とネロに助けられた犬のパトラッシュとの心の交流物語。ベルギー本国では、アニメを見て初めて物語の存在を知ったという子どもたちが多かったという。

 そして今、NHKの朝ドラの影響で、再ブレイクしているのが、「赤毛のアン」(1979年放映)。NHK-BSプレミアムでは、この4月から、毎月曜日午後6時半に再放映されている。また、3月には、全50話を収録した「赤毛のアン Blu-ray メモリアルボックス」も発売されるなど、関連商品が続々登場している。

 「赤毛のアン」は、少女時代、大好きな物語の一つだった。あいにくアニメになった時には大人になっていたので、見る機会がなかったが、今改めて見ると、その質の高さに驚かされる。

 台詞(せりふ)も場面展開も、モンゴメリの原作に非常に忠実だ。舞台となるカナダのプリンス・エドワード島の自然も、アンをはじめとする登場人物の心理描写も、実に丁寧に描きこまれている。受け手が主人公と一緒に時に悩み、時に喜びを共有できるようなゆったりした時間の流れが、何よりも心地よい。監督は、ジブリ作品「かぐや姫の物語」でも話題の高畑勲氏と知り、納得した。

  • アニメ「赤毛のアン」から。初登校にアン(左)は胸をはずませる( (C)NIPPON ANIMATION CO.,LTD. “Anne of Green Gables”(TM)AGGLA)
  • アニメ「赤毛のアン」から。主人公のアンの豊かな表情に、見る側も一喜一憂してしまう( (C)NIPPON ANIMATION CO.,LTD. “Anne of Green Gables”(TM)AGGLA)

制作した作品は130以上

  • 愛らしいペネロペは子どもだけでなく、OLさんにも人気
  • 「世界名作劇場」の人気キャラクター、あらいぐまラスカルも様々な商品に登場

 「私たちのこだわりは、監督やアニメーターらスタッフが、物語の舞台に出かけ、五感で実際に感じたリアルな世界観を作品にしていくこと。ネットの仮想空間だけでは感じ取れない微妙なニュアンスをこれからも大切にしていきたい」と、石川社長は意気込む。

 「フランダースの犬」から数えて、制作した作品は130以上。創業40年の来年は、「世界名作劇場」の主人公や「ちびまる子ちゃん」、最近加わった青い女の子コアラの「ペネロペ」など、人気キャラクターを総動員した記念イベントで全国巡回を計画しているという。

 幼い時に親しんだ物語を大人になってアニメで見直すと、新しい発見があるものだ。

 <(卒業した時は)未来が1本のまっすぐな道のように思えたわ。でも今はそこに曲がり角があるのよ。角を曲がると、どんなことが待っているのかわからないわ。でも、あたしは、一番良いものがあるって信じてるの>…。「赤毛のアン」49話に登場するこの台詞に、私は胸が熱くなった。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.04.11

大人の空間 「ケネディハウス銀座」

  • 銀座コリドー街にある「ケネディハウス銀座」の入り口
  • 夜はブルーに輝くエレキギターの看板が目印

 ザ・ワイルドワンズを率いる加瀬邦彦さんが1983年、東京・六本木のロアビル近くに開いたライブハウス「ケネディハウス」には、バブル景気の頃、時々足を運んだことがある。

 踊るスペースもあって、おしゃれな空間だった。店のネーミングには、アメリカに、中でもケネディ家に憧れを抱いていた加瀬さんの好みが反映されていた。

 その2年後、銀座コリドー街の地下に、「ケネディハウス銀座」がオープンした(六本木店は97年に閉鎖)。渡辺プロ直営のライブハウス「銀座メイツ」があった場所だ。「銀座メイツ」といえば、ナベプロのアイドル、太田裕美、天地真理、キャンディーズらが登場していたことで知られる。キャンディーズの解散記者会見が行われたのも、この場所だったそうだ。

往年のファンとGSを知らない若者たち

 81年1月、グループサウンズの有志が日劇に結集し、「最後のウエスタンカーニバル」が開催された。それをきっかけに再結成のラブコールが湧き起こって誕生したのが、新生の「加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ」。現在も続く「ケネディハウス銀座」の月に1度のライブには、往年のファンとグループサウンズ(GS)を知らない若者たちとが入り交じり、大いに盛り上がる。95年からは、加瀬さんと親しい加山雄三さんの定例ライブも加わっている。

 「ケネディハウス」の開業以来、通常のライブを務めているのが、専属バンドの「スーパーワンダーランド」である。リーダーは、上田司さん(62)。平日の夜は午後7時半から4回のステージをこなす。

 60~70年代のロックやポップス、ビートルズナンバーにグループサウンズ、最近のヒットソングまで、バンドのレパートリーは300曲以上とか。ボーカルのMioさんは1982年生まれ。「五番街のマリーへ」や「異邦人」などを、ちょっと哀愁のある声で歌い上げる。7歳から母親に連れられて店に通っていたというから、幼い頃の貴重な体験がそのままライブに()かされているのだろう。

 上田さんは、加山雄三さんに憧れて、熊本から東京の大学に進学。フォークソング全盛期で、学生時代は100人のシングアウト(合唱)のコンサートマスターを務め、音楽の道に進んだ。ザ・ワイルドワンズの再結成後は加瀬ファミリーの仲間に入り、コンサートツアーに同行してサポートバンドを務めたりしていた。加瀬さんからライブハウスの専属バンドをと頼まれて、六本木の店から数えるともう30年近く活動を続けている。

  • ハウスバンドのスーパーワンダーランドの面々
  • スーパーワンダーランドのステージはアットホームな雰囲気
  • スーパーワンダーランドのステージ・プロデューサー、上田司さん

 

とても近いステージとの距離

  • 人気の加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズのステージ

 どんな音楽を楽しみたいか、お客の要望を聞きながら選曲する。「アーティストとお客様が一緒になって作る楽しいライブ空間――そんな加瀬さんのスピリッツを受け継いで、ずっとやって来ました。バンドメンバーは入れ替わっても、目指すところは変わりません。ライブが終わって、お客さんから『これで明日の仕事にも力が入るよ』と声をかけられるのが一番うれしい」と、上田さんは言う。

 ある日のステージを見た。席数100人ほどなので、客席とステージとの距離がとても近い。40~50代のサラリーマンを中心に、上司に誘われて来たOLさんなどの姿も目に付いた。

 ザ・タイガースの曲をリクエストしたら、加瀬さんが作曲した「シー・シー・シー」(作詞は安井かずみさん)を最初に演奏してくれた。途中の「アイム・ソー・ハイ」に反応し、「ノー・ノー・ノー」と人さし指を振って答えるのは、タイガースファンしかわからない仕草(しぐさ)だろう。私はちょっと得意だった。

 深夜放送メドレーでは、オールナイトニッポンの最初に流れる「ビター・スウィート・サンバ」に始まり、「木綿のハンカチーフ」や「YMCA」、「セーラー服と機関銃」、ヤザワあり、松山千春あり、一緒に歌って動いて、あっという間の30分だった。

どこの席に座ってもバランスの良い音

  • 音響機器のヒビノのこだわりの機材が入っている店内

 「バブル景気がはじけた90年代、昔の音楽はもうダメじゃないかと言われた時期もあったけれど、いま、心安らぐねと、昭和歌謡が見直されている。もちろん、音楽は時代とともにあるから、若い世代の名曲、たとえば森山直太朗の『さくら』なんかもやりますよ」と、上田さん。

 「ケネディハウス銀座」を運営する、加瀬邦彦さんの息子の加瀬友貴さんは、「だれもが自分の家だと思って『ただいま』と帰って来られる、ハートウォーミングな場所であり続けたい」と、語る。友貴さんの美声も、次回はぜひ聴きたいです!

  • ケネディハウスの誕生から昨年で30年を迎えた

 実は、「ケネディハウス銀座」の親会社は、音響機器メーカーのヒビノ。100人規模のライブハウスなのに、2000人規模のホールで行うコンサートと同程度の質が保てる音響機材を投入しているそうで、店内のどこに座ってもバランス良く音が楽しめるのはうれしい。

 オリジナルカクテルの「想い出の渚」を片手に青春時代を振り返りながら、少しばかり、いや、かなりはしゃげる大人の空間。では、もう1曲、タイガースをリクエストしようかな…。

  • (左)カクテル「想い出の渚」 (右)カクテル「光進丸」は加山雄三さんの船から創作
  • (上)懐かしのザ・ビートルズのLP (下)LPを開けてみると、あれれ、メニューでした

 

◆ケネディハウス銀座
http://www.kennedyhouse-ginza.com/

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)