GINZA通信アーカイブ

2009.09.18

本場のタンゴを堪能、ブエノスアイレスの長い夜

タンゴ発祥の地ボカを訪ねて

  • カラフルに塗り分けられたカミニートの家々

 前回のペルー編に続いて、南米の旅で訪ねたアルゼンチンのお話をしよう。

 アルゼンチンで私が一番楽しみにしていたのが、本場のタンゴの鑑賞である。

 あの哀愁漂う、それでいて情熱的で力強い旋律に魅せられたきっかけは、30歳のころに観たフランス・アルゼンチン合作映画「タンゴ・ガルデルの亡命」だったと思う。パリの街頭でダンスを踊るアルゼンチン出身の若者たちの姿もさることながら、全編に流れるアストル・ピアソラの音楽が素晴らしかった。

 アルゼンチンの首都ブエノスアイレス中心部から南に位置するボカ地区は、タンゴ発祥の地といわれている。南米屈指のサッカークラブ、ボカ・ジュニオルスのホーム・スタジアムがある地域だ。

 その一角に、タンゴ不朽の名作にちなんで、地元出身の画家、キンケラ・マルティンが造ったカミニート(小径)がある。百メートルほどの散歩道に軒を連ねる家々の壁やテラスはピンクやブルーなど大胆に塗り分けられ、また、絵画やオブジェがさりげなく置かれていて、街全体が“アート”している。

  • カミニートの道標
  • 壁面にタンゴのイラストも(ボカ地区で)

一糸乱れぬ足さばきにため息

 19世紀後半、ボカはブエノスアイレス唯一の港町で、イタリアやスペインなどヨーロッパから夢を求めてやって来る移民たちがあふれていた。

 そういえば、「母をたずねて三千里」のマルコ少年は、イタリア・ジェノバからブエノスアイレスに出稼ぎに行ったきり音信不通になった母を追って旅に出た。約1か月の船旅で、到着したのがボカの港だったっけ。

 「二十世紀最大の海運王」と呼ばれるアリストテレス・オナシス氏も、17歳のころ、ギリシャを離れてしばらくこの地に住みついた。最初は小舟の船頭をしていたが、第一次大戦中に葉巻や食肉の貿易で成功を収めた。彼の下宿屋は、スラム街にいまも残る。

 そんな雑然とした港町で、船乗りや労働者が、日常のフラストレーションのはけ口として酒場で男同士、荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりという。男たちを相手にする娼館などにも広まり、男女で踊るタンゴの原型ができ上がった。

  • ダンサーの足さばきに思わずため息が……(アルマセンで)

 第一次大戦後、パリに渡ったタンゴは、上流階級の間でも絶大なる支持を得る。ピアソラのような名演奏家も誕生し、バンドネオンの切れのいいリズムとともに、官能的で洗練された踊りへと発展していく。

 日本では、1980年代後半に上演された、ブロードウェイの「タンゴ・アルゼンチーノ」が人気の火付け役になり、90年代以降、ダンス愛好家が着実に増えている。

 ブエノスアイレスの中心部に戻って、タンゴのライブが観られるタンゲリーアに出掛けた。

 「エル・ビエホ・アルマセン」という小ぢんまりとした店だ。開演は夜の10時過ぎ。ステーキでエネルギーをたっぷり補給して、ブエノスアイレスの長い夜に備えた。

 間近で観るダンサーの、緊張感を秘めた息づかいと一糸乱れぬ足さばきにため息が出る。

 帰国後も興奮冷めやらず、華麗なる一夜の体験を友人に話したら、銀座にも、アルゼンチンタンゴを楽しめる「クラブ・タンギッシモ」という場所があると教えられた。様々なタンゴのイベントを行っている「アルゼンチンタンゴ・ダンス協会」も銀座の地に居を構えているようだ。今度訪ねてみようと思う。

銀座線のモデル「地下鉄A線」

  • 地下鉄銀座線のモデルになったブエノスアイレスの地下鉄A線。木製の車両です

 さて、ブエノスアイレスで学んだ、「銀座ネタ」をもう一つ……。

 鉄道に詳しい方々にはよく知られたことだろうが、ブエノスアイレスで市民の足として親しまれて入る地下鉄は、日本最古の地下鉄銀座線建設のモデルになったそうだ。

 時は第一次世界大戦が始まる前年の1913年。ラテンアメリカ初の地下鉄A線が、ブエノスアイレス市内中心部、大統領官邸に面した5月広場と郊外の住宅地を結ぶ区間で開通した。

 大戦をはさみ、当時のアルゼンチンの経済発展には目を見張るものがあった。1人当たりのGDP(国内総生産)はフランスと肩を並べ、パリのオペラ座、ミラノのスカラ座とともに世界3大劇場の一つに数えられるコロン劇場がオープンするなど、文化面でも世界をリード、「南米のパリ」と呼ぶ人もいた。

  • (上)「カーサ・ロサーダ(ピンク・ハウス)」といわれる大統領官邸、(下)コロン劇場はいまだ改装工事中

 一方の日本。世界最初の地下鉄が誕生したロンドンでこの都市型交通機関を見て、日本での建設を考えた早川徳次氏(シャープ創業者と同姓同名だが別人)が、1919年、渋沢栄一氏の支援を受けて工事に乗り出す。その時にモデルにしたのがブエノスアイレスの地下鉄A線だったのだ。

 とはいえ、23年の関東大震災で着工が遅れ、現在の銀座線の一部、浅草―上野間に「東洋唯一の地下鉄道」が開通したのは、1927年(昭和2年)を待たねばならない。早川氏は、路線を決めるにあたって、自ら繁華街、銀座の交差点に立って交通量調査を試みたりしている。こうして、銀座線は新橋へ、さらに渋谷へと延伸されていく。

  • 迫力たっぷりのイグアスの滝

 さらに興味深いのは、ブエノスアイレスの地下鉄B線には、赤い車体に白いラインの旧丸ノ内線(これも銀座を通る路線)の中古車両が現役で活躍しているという。開業当時お世話になった恩返し?だろうか。

 ちなみに、アルゼンチンの最後は、世界遺産に登録されているイグアスの滝で締めくくり。悪魔ののどぶえというアルゼンチン側の滝壺近くまで行くボートツアーに参加して、合羽を着たにもかかわらず全身ずぶ濡れに。

 こんなおとなの水遊びも、思い返せば意外に楽しい夏の思い出になりそうだ。 

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2009.09.12

時空を超えた大自然の恵み

「太陽神の聖獣」アルパカのシチュー

  • アルパカは、アンデスの人々の暮らしの中に溶け込んでいる(クスコで)

 前回の小欄で、東京・新橋のペルー料理専門店「荒井商店」をご紹介した。そこのマダムが、ペルー旅行に出掛けるにあたってアドバイスしてくれた2つ目が「日本では手に入らない食材に挑戦してね。たとえば、アルパカとか……」だった。

  • 空中都市マチュピチュは、海抜2400mに浮かび上がる

 アルパカといえば、最近テレビCMでも、「ミラバケッソ」とかいう不思議な“呪文”とともに登場する、つぶらな瞳のおとなしそうな人気の動物。ラクダ科に属する。

 現地では「太陽神の聖獣」とも呼ばれ、荷物運びに、柔らかな毛から作る防寒衣料に、また、良質なタンパク源を供給してくれる食糧として、インカの人々にとっていまも欠かせない家畜だという。

 マチュピチュの入り口にあるレストランで出合ったのは、このアルパカをジャガイモやニンジン、ハーブなどと一緒に煮込んだシチューである。アルパカ肉はクセがあると聞いていたが、シチューになると食べやすい。後ほど紹介するが、ペルーでよく飲まれているブドウの蒸留酒、ピスコを加えてマイルドな風味に仕上げているそうだ。

キリストが食した?“ネズミ”の丸焼き

  • クスコ中心のアルマス広場。左手がカテドラル

 次に挑戦したのは、ちょっとだけ勇気がいった。現地ガイドのマリソルさんから教えてもらった「クイ」である。「私たちにとっては、お祭りの時にしか食べられない高価で貴重なもの」という。

 日本語では、テンジクネズミ!! 手元のガイドブックを見たら、歯をむき出したネズミ君が丸焼きになってこちらをにらんでいるではないか。

  • カテドラルにある壁画「最後の晩餐」。皿の上に注目を

 断っておくが、私はゲテモノ食いが趣味なわけではない。そりゃあ、アフリカやアジアの取材で、日本ではあまりお目にかかれないものを食べてきた経験はある。だが、食用とはいえ、「ネズミ」の丸焼きとなると、一瞬たじろぐ。

 決心したのは、インカ帝国の首都だったクスコの街の中心、アルマス広場に面したカテドラルの壁画を見てからだ。この堂内には、メスティソ(混血)画家のマルコス・サパタ作の「最後の晩餐」の絵がある。

  • こんがり丸焼きのクイ(クスコで)

 ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院にある、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」では、皿の上にあるのは魚料理といわれている。だが、クスコのカテドラルでは、皿の上に、丸焼きのネズミらしきものが載っている。これが「クイ」らしい。

 ペルー流解釈によると、「最後の晩餐」でキリストが召し上がりたいと思われたほど美味な食材なのだから、これは挑戦するに値するだろう。

 マリソルさんに予約してもらった地元レストランで、食べてみた。内臓を抜いたお腹の部分にはハーブ風味の穀物が詰められ、こんがりと焼き上がっていた。耳にあたる部分はニンジンで愛らしく飾ってある。

 店の人が上手に切り分けてくれたが、皮は厚くて硬く、食べられる肉の部分が意外に少ない。コクがあって、鴨のコンフィのような味わいがあり、なかなかおいしかった。

 ゆでジャガイモと、ロコトという肉厚のトウガラシに挽肉やタマネギを詰めて揚げたものが、同じ皿に添えられていた。

古代ナスカ人のスイーツ

  • (上左)ルクマのアイスクリーム、(上右)とってもジューシーなトゥナ。皿の右手、粒粒がある赤と緑の実、(下左)ペルー人が大好きなインカ・コーラ、(下右)甘いけれどアルコール度数が高いピスコ・サワー

 ペルーでは、果物の種類も豊富だ。グラナディア(パッションフルーツ)、チリモヤ、ブランキージョ。聞いたことのない果実がたくさんあった。

 その中で、「荒井商店」のマダムのイチオシだったルクマのアイスクリームを、ナスカの砂絵を見に行く途中で見つけた。

 ルクマは、黄色がかった緑色のミカンサイズの果物で、中身は橙色のカキのような感じ。古代ナスカ人も好んだらしく、当時の土器などにはルクマを食している場面が刻まれている。現地の人にいわせると、「水気が少なく、生だとまずい」そうだが、アイスクリームはクリのように濃厚な風味があった。ほかに、スープやケーキにも入れて食べるらしい。

  • マチュピチュの最高地点にある日時計で、太陽神のエネルギーをもらう

 その他の私のおすすめは、トゥナというウチワサボテンの実。みずみずしく、生のままスプーンで中身をすくうと、じゅわっと甘酸っぱいジュースが口の中に広がる。

 飲み物で忘れられない味は、インカ・コーラとピスコ・サワーだ。

 インカ・コーラは、首都リマ市建国400年を記念して1935年に発売された黄色いコーラ。米国では、ゴールデン・コーラと呼ばれているようだ。とっても甘い。

 ペルーで国内線の飛行機に乗ると、現地人らしき乗客の多くが注文していたから、人気なのだろう。当初はレモングラスの花粉で着色したらしい。

  • ナスカの地上絵は宇宙人のシグナル説もある。これはオウムの絵らしい

 ピスコ・サワーも、ペルーのいくつかのバーで口にした。ピスコはブドウの蒸留酒で、アルパカ・シチューの隠し味にも使われていたお酒。これに卵白とライムジュースを加えてシェイクしたカクテル。ガムシロップで甘みが付いているので飲みやすいが、アルコール度数は43度と高め。

 また、ペルーの南部、イカの周辺にはブドウ畑が広がっており、気軽に楽しめるタイプのワインが豊富にあった(ワインについては、プランタン銀座のホームページ内にある私のワインブログhttp://www.printemps-ginza.co.jp/wine/をご参照ください。近日中に南米ワインの情報をアップします)。

 この夏は、マチュピチュの神殿で、また、ナスカの上空で、時空を超えた大自然のエネルギーをもらったような気がする。

 さあ、秋からの仕事も頑張ろう。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2009.09.07

500年の時が作った、食文化のフュージョン

東京で味わう本場ペルー料理

  • 熱帯の緑に囲まれた新橋の「荒井商店」入り口

 夏もとうとう終わりに……。この夏休み、皆さまはどのように過ごされましたでしょうか?

 私は、記者時代に未踏だった南米アルゼンチンとペルーに出掛けた。目的は、アルゼンチンでは本場のタンゴ観賞、ペルーは世界遺産にも登録されている空中都市、マチュピチュを歩くこと。飛行機を乗り継ぎ、日本から片道1日以上かかる旅である。

 未知の国の文化を知るには、まず食から。出発前に“予習”を兼ねて訪ねたのが、東京・銀座のお隣り、ビジネスマンでにぎわう新橋にあるペルー料理専門店だった。

 新橋の柳通りをしばらく歩くと、バナナの葉やらサボテンやらの南国の緑に囲まれた、ちょっと変わった入り口が目に付く。「荒井商店」という食べ物屋さんらしくない名前の店。若き店主、荒井隆宏さんは、フレンチの名店で修業後、ペルーの大自然にほれ込み、夫婦で1年間ほど滞在しながら地元の料理を学んだという。

 ちょっと遅い平日のランチタイムにお邪魔したら、お目当てのペルー料理は売り切れ。マダムに事情を話したところ、特別にペルー名物を作っていただけることになった。

 それがこの「ロモ・サルタード」。細切りの牛肉をタマネギやトマト、かりっと揚げたジャガイモなどと一緒に炒めた一品。ニンニクを効かせたしょうゆ味で、ライスも添えられていてとっても食べやすい。黄色味が強いアヒと呼ばれるトウガラシも辛すぎず、良いアクセントになっている。

 「ペルーは素晴らしいですよ。食文化のフュージョンを楽しんできてください。それから、日本では手に入らない食材もあるから、挑戦してね」と、マダムは言った。

  • 日本人の口にも合う「ロモ・サルタード」(荒井商店で)
  • インカ帝国の首都だったクスコの街の中央、アルマス広場

移民がもたらした多彩な味

  • クスコには、インカ時代の美しい石積みが残る

 マダムが示唆していた「食文化のフュージョン」は、ペルー最初の訪問地、インカ帝国の首都があったクスコでまもなくわかった。

 地元のたいていのレストランには、野菜が山盛りになったサラダバーがあった。

 クスコのある中央アンデスは、いま私たちが日常的に食べている多くの作物の原産地。ジャガイモやトマト、トウモロコシ、ピーナッツなど、サラダバーに並ぶ野菜や穀物は、インカ時代から栽培されているものが少なくない。

  • 野菜がいっぱいのサラダバー(クスコのレストランで)

 ジャガイモの種類は1000以上あるともいわれるが、マチュピチュ遺跡などで見られる急斜面と標高差を利用した段々畑(アンデネス)で、約500年前のインカ時代から作られている。

  • マチュピチュの段々畑は水はけや保水が良く計算されていた

 段々畑は太陽の昇る東向きに造られており、日中に太陽の熱で石が温まり、夜間も熱がこもって温室のような機能を果たしたらしい。インカの人々は、標高の高い寒冷地でジャガイモや雑穀のキヌアを、標高の低い温暖な場所では野菜や果物を、中くらいのところではトウモロコシや豆類を栽培していたという。

 サラダバーでは、こうしたインカ時代からの伝統野菜に混じって、ボウルに刻みネギが入っているのが気になった。まるで盛りそばを食べるときのような、長ネギの輪切りである。これにドレッシングやヨーグルトなどをかけてサラダとして食べるのだそうだ。

  • (上左)日系移民の影響が大きいサラダバーの太巻き(クスコで)、(上右)タジャリン・サルタード(リマ近郊で)、(下左)セビッチェ(マチュピチュで)、(下右)チュッペ・デ・カマロネス(リマ近郊で)

 「Makis」と呼ばれる野菜を具にした太巻きもよく見かけたが、これなどは明らかに日系人の影響だろう。先に紹介した「ロモ・サルタード」や、しょうゆ風味の焼きそば「タジャリン・サルタード」は、中国系がもたらしたといわれている。

 また、ペルーの名物料理、白身魚やイカ、タコなど魚介類と紫タマネギをレモン汁と香辛料で和えた「セビッチェ」や、川エビをトマトソースで煮込んだ「チュッペ・デ・カマロネス」も、土着のインディオと植民者となったスペイン、それに中国や日本などアジア移民のスタイルが少しずつ混じりあった料理と説明されている

 500年という時が作り出したフュージョン料理の文化は、変化に富んでいて、大自然とともに旅人を十分に魅惑して止まない。

 次回は、ペルーで挑戦した食材や飲み物についてお伝えしよう。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 荒井商店

 東京都港区新橋5-32-4 江成ビル1階

 電話03-3432-0368

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2009.08.28

永遠の6歳……お菓子が好きな女の子

ペコポコとふれあうミュージアム

  • 歴代ペコちゃんが並ぶ会場は、「懐かしい!」という声であふれる

 8階でエレベーターを降りると、会場は、携帯電話で写メを撮る人たちであふれていた。それも、40代以上の女性の姿が目立つ。

 「うーん、懐かしいわあ」

 「沖縄から来たかいがあったわねえ」

  • ペコちゃんのボーイフレンド、ポコちゃんも一緒に陳列

 子ども時代に戻ってはしゃぐ声が、あちらこちらから聞こえてくる。

 8月24日、東京・銀座6丁目の不二家銀座ビルに期間限定でオープンした「銀座ペコちゃんミュージアム」(9月6日まで、入場無料)。

 来年2010年に創業100周年を迎える同社の記念イベントで、人気キャラクター「ペコちゃん」のカワイイ世界が展開されているのだ。

歴代ペコちゃん勢ぞろい

  • 写メを撮って、「さっそく友達に知らせます」と、ペコちゃんファンの女性たち

 銀座の地は、同社にとって縁のある場所である。旧本社ビルが置かれていたというだけではない。

 横浜・元町で洋菓子店をスタートさせた創業者、藤井林右衛門氏が、シュークリームやショートケーキで評判になった伊勢佐木町店に続いて、1923年(大正12年)に開店したのが銀座6丁目店。関東大震災で焼失したものの、翌24年にはバラック建てで再開した。

 戦後の1953年(昭和28年)、銀座の数寄屋橋交差点角に数寄屋橋店がオープン。ネオンきらめく広告大看板は、銀座名物にもなった。

  • ネット販売限定の珍しいビスクドール

 「ペコちゃん」が店頭人形としてデビューしたのは、その少し前の1950年(昭和25年)。第1号は、日劇の舞台を手がけた大道具さんによって作られた紙製の「張子のペコちゃん」だったそうだ。

 となると、「ペコちゃん」は来年還暦を迎えるわけか……と感慨深く一人つぶやいていたところ、たまたま隣りにいた上品そうなご婦人が「あらやだ、永遠の6歳ですわよ」と教えてくれた。

 「ペコちゃん」のプロフィールを改めて読んでみると、なるほど、「お菓子が好きな女の子、永遠の6歳」とあった。

 1958年12月に行われた、車が当たる懸賞公募キャンペーン「ペコちゃんはいくつ?」に寄せられた回答から決定した。

  • ペコちゃんとの記念撮影に、子どもたちも大喜び

 身長100センチ、体重15キロ、明るく元気で、チャームポイントはほっぺに出している舌。名前の由来は、子牛の愛称「べこ」を西洋風にアレンジしたものだ。

 ちなみに、ペコちゃんが困っている時にはいつも力になってくれるボーイフレンドの「ポコちゃん」は、永遠の7歳。幼児を表す古語の「ぼこ」をやはり西洋風にアレンジしたという。

 会場には、ポコちゃんとペアでそろう電動人形のほか、ネット販売限定の手づくりのビスクドールなど、1960年代から現在に至るまでの貴重な歴代ペコちゃんが百点以上並んでいる。

 私が子ども時代に活躍していたのは、オレンジ色のサロペットパンツのポケットに両手を突っ込んで、ちょっとボーイッシュに振る舞っていたペコちゃんだ。

懐かしい思い出の味よみがえる

  • メッセージボードには、応援メッセージがいっぱい

 トリコロールカラーのパッケージが海外への憧れを誘った「フランスキャラメル」、バレンタインデーに赤いリボンを結んで渡した甘酸っぱい記憶の残る「ハートチョコレート」、練乳のおいしさを教えてくれた「ミルキー」、遠足のお供にはずせなかった「パラソルチョコ」や「ペンシルチョコ」、チョコレートのほろ苦さを初めて知った「青箱のメロディ」……。

  • 生ミルキーや大玉ミルキーなど、新製品もいろいろ

 思い出の商品を挙げてみると、もうキリがない。

 バニラとストロベリーの2色ソフトクリームをコーンカップで初めて食べたのも、銀座の不二家の店頭だった。

クリスマスになると、丸の内に勤める商社マンの父親が銀座に寄って、砂糖細工のサンタクロースが載った、バタークリームたっぷりのデコレーションケーキを買って来てくれた。

 会場に展示された年表をチェックしてみたら、日本にクリスマスのデコレーションケーキを広めたのも同社だった。

  • 数寄屋橋店に立つデコストーンで飾られたペコちゃん

 創業した明治時代から作っていて、当初は、プラムケーキに、砂糖と水アメを混ぜた粘土性のホンダンクリームを塗り、銀球で飾ったシンプルなものだったようだ。大正時代にバタークリームをはさんだスポンジケーキが登場し、戦後の1950年代、急速に日本の家庭の人気者になった。

 来場者には子ども連れも少なくなかったが、「ペコちゃん」に夢中になっているのは、どちらかといえばお母さんの方?

 7階の会場には、メッセージボードも設けられ、「ペコちゃん、かわいい!」「これからも応援しているよ!」など、熱い言葉が書き込まれていた。

 消費期限切れの原料の使用が発覚、管理のずさんさが浮き彫りになって、店頭から商品撤去の動きが広まったあの事件から、約2年半。一時は商品とともに姿を消したペコちゃんも、最近は復活し、そして、相変わらずの人気ぶりだ。

 「いやあ、こんなに励ましのメッセージがいただけるなんて、ほんと感激です。背筋がぴんと伸びます」と、同社のスタッフがぽつりと言った。

 銀座・数寄屋橋店ではいま、デコ師(デコレーションアートの専門家)が衣装デザインしたキラキラペコちゃんが微笑んでいる。

 永遠の6歳の活躍の場は、ますます広がるのかもしれない。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2009.08.22

猫天国で猫めぐり

恋の招き猫コイコリン

  • 銀座の恋の招き猫(左)オスの「ごろべえ」、(右)メスの「のんき」

 リチャード・ギア主演の映画で再び注目されている「忠犬ハチ公」。東京・渋谷のシンボルが「ハチ」だとしたら、銀座には「コイコリン」なる猫の石像がある。

 オスの「ごろべえ」とメスの「のんき」の2匹の猫。抽象彫刻で有名な流政之氏がノルウエー産の御影石から彫り出した。

 1963年、銀座4丁目交差点角に円柱の三愛ドリームセンターが誕生して以来、建物の一角で銀座の街を静かに見守っている。

  • 銀座のへそともいえる4丁目交差点

 「銀座の恋の招き猫」ともいわれ、女性は館に向かって右にいる「ごろべえ」を、男性は左の「のんき」をなでると、ご利益があるらしい。

 説明書きには、素敵な出会いを夢見る人は頭を、好きな人と結ばれたいと願う人は顔を、壊れた恋を修復したい人は背中を、ダイエットして出直したい人はお腹を、また、パートナーの浮気癖をやめさせたい人はお尻をなでるように、とある。

 「2回以上なでるとご利益が薄れる」そうだが、猫たちの顔を改めて拝見すると、数十年にわたって相当なでまわされたようで、いささかお疲れ気味な感じがするけれど。

”邸宅”を構える老舗の看板猫

  • 「ポンちゃん」のいる「ニューキャッスル」

 銀座の路地裏を歩くと、まち猫の多さに驚く。ランチタイムが終わるころ、老舗料理店の勝手口には、その周辺を縄張りにしているとおぼしき猫がのそりのそりとやって来る。毛並みはつやつや、人を警戒する風もない。

  • 「クロティー」の邸宅は「そば所よし田」の正面入り口脇

 店の看板娘ならぬ看板猫も街中で元気に生息している。

 焼け野原同然だった終戦直後にオープンし、近くの読売新聞記者たちも贔屓にした銀座2丁目のコーヒー店「ニューキャッスル」には「ポンちゃん」がいる。7丁目の「そば所よし田」には、店の入り口脇に“邸宅”を構える野良出身の「クロティー」がいる。

 たいてい店の周囲を徘徊しているところに出会うのだが、撮影した日は気温33度の炎天下。どこかに避難していたらしく、お姿をキャッチすることができなかった。

 「銀座は猫にとってとても暮らしやすい場所だと思いますよ」。7丁目で猫専門のギャラリー「ボザール・ミュー」を経営する宮地延江さんは実感を込めていう。

猫の国“イタリニャ”の美術展

  • メラノ美術館収蔵のニャファエロ・サンツィオ作「今夜のおかずは何かな?」

 そんな猫天国の銀座で、ちょっと面白い催しが開かれている。

 作家の小池真理子さんらの愛猫肖像画で知られる猫絵師の目羅(めら)健嗣さんが、プランタン銀座本館6階のアートギャラリーで開催中の「メラノ美術館収蔵作品展」(8月24日まで)。

 「メラノ美術館」は、猫好きが集まって独立した小国イタリニャの美術館で、猫を主題に描かれた海外収集では世界一なのだとか。今回は36点が出品されている。

 そう、猫好きな目羅さんが「とにかく猫を描きたいがためにゴッホやフェルメール、ルノアールなどの名画を借景にした」パロディー画である。立体的で油絵風だが、すべて色鉛筆での手描きなのだそうだ。

 天使好きな私は、ニャファエロ・サンツィオ作「今夜のおかずは何かな?」が気に入った。天使たちもお茶目だが、その間からひょっこり顔をのぞかせている猫のいたずらっぽい目は一度見たら忘れられない。

  • こちらもメラノ美術館収蔵のウニャン・ニコライェービッチ・クロムスコイ作「見切れたにゃんこ」

 同美術館長ケンジーノ・メラーノ氏の解説によれば、「神の御使い、天使は結構忙しい。働けば当然お腹も空く。今夜は何を食べようかな?と思ったりもして、雲の形が食べ物に見えくる。それが魚に見えたりしたら、もう頭の中は魚でいっぱいに」……。

 そうこうしているうちに、ああ、私の頭の中でもおかずになりそうな魚たちが泳ぎ出したりして。

 公立図書館の司書だった目羅さんは、プランタン銀座恒例の「ねこ展」で猫専門のギャラリー「ボザール・ミュー」の存在を知って作品を持ち込み、絵師に転進。猫専門に描いたり教えたりして十数年になる。

  • 久下貴史さんの猫絵暦の一こま

 「猫のもつ神秘性にどんどん惹かれて、創作意欲がかきたてられますね」

 さて、こちらは残念ながら終わってしまったが、銀座2丁目の伊東屋ギャラリーでは、ニューヨークでの猫たちとの暮らしを画題にする久下貴史さんの個展が19日まで開かれていた。私は、久下さんが描く、翼をつけて風のように飛んでいく天使猫が好きだ。

 今回の個展は趣が変わっていて、いつものポップな猫絵暦のほかに、猫に姿を借りた源氏の君や紫の上が、平安の源氏絵巻をつづっていた。雅な、そして凛とした猫たちの表情が見逃せない。

 ちなみに、久下さんの作品集や猫絵暦のカレンダーなどは公式サイト「マンハッタナーズ」から購入できる。

 猫って、ぐうたらで、わがままで、空気も読まずに周りをきりきり舞いさせるくせに、なぜかちゃっかりかわいがられる存在ではありませんか? しかも、それが当然って素振りが、また小憎らしくもある。

 いかなる場所でも自由に気ままに振る舞っている風は、心底うらやましく思うときが少なくない。

 「ああ、私も猫になれたらなあ!」

 「コイコリン」のごろべえの頭をなでつつ、銀座猫めぐりを終えた愛猫家の私は、はかなき願いを託すのであった。

(プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2009.08.01

おらが街の「銀座」を訪ねて

高級店が並ぶ「発祥の地」

  • 銀座2丁目の「銀座発祥の地の碑」
  • 昭和の映画セットのような「仙台銀座」

 江戸城の改築を終えた徳川家康は、1612年(慶長17年)、最初伏見と駿府に置かれていた幕府直轄の銀貨の鋳造所「銀座」をこの地に移した。現在の東京・銀座2丁目、中央通りの宝石店「ティファニー本店」のあたり。歩道の植え込みには、「銀座発祥の地の碑」が立っている。

 幕府の貨幣改鋳政策に支えられて、銀貨づくりを請け負った御用商人の懐は随分と潤ったらしい。

 明治初めの造幣局の設置で「銀座」は廃止されたけれども、地名としては残り、その後、高級店が並ぶ日本有数の繁華街として発展する。

 「花の銀座」は、昔も今も、多くの人々にとって、文化の香るおしゃれな街……。そんなことから、おらが街の商店街を「銀座」と呼び、全国各地に「○○銀座」が続々と誕生した。

 中でも、全国「○○銀座」の元祖といわれるのは、東京・品川区の「戸越銀座」。

 「戸越」という地名は、江戸を越えた土地を意味する「江戸越え」に由来するらしい。1923年(大正12年)の関東大震災で被災した本家の銀座から、当時ガス灯用に使われていた耐火レンガの白レンガを譲り受け、水はけの悪かった戸越の大通り等に再利用したのだとか。

 その縁で、日本で初めて本家以外で「銀座」を名乗る街として知られるようになったという。

仙台で一番古くて、あったかい通り

 現在日本には数多くの「銀座」が誕生しており、「地名コレクション」なるWEBサイトには、「銀座」が既に300か所以上登録されていた。

 というわけで、仙台に出掛けた7月の週末、さっそく探してみました、「仙台銀座」。

  • 路地の一角にミニ石庭を発見。癒されます!
  • (上)仙台銀座では新顔の「鮨 仙一」、(下)旬の魚介でおまかせランチ

 仙台駅前から南町通りを西に歩いて5~6分。ビルが立ち並ぶ表通りの裏道を一歩入ると、昭和の映画セットを思い起こさせるような路地があった。天空に交差する電線の向こうに、「仙台銀座」のレトロな赤文字が浮かぶ。20数店の飲食店が軒を連ねる懐かしい横丁である。

 焼鳥、ホルモン、立ち飲みバー、おばんざい、もんじゃ焼き、おでん、中華にフレンチ、洋菓子も。雀荘、散髪屋、名札専門店など何でもあって、縁日の屋台のようだ。

 聞けば、この一角は、1945年(昭和20年)の空襲で焼け野原になり、戦後まもなく木造モルタルの市場が速成され、洋裁店や模型店などが入り、たいそうにぎわったそうな。しかし、昭和27年の大火で全焼し、以後、今のような飲食店中心の通りになった。

 地元には根強いファンが多く、朝市で魚を売るおばちゃんが、「仙台で一番古くて、あったかい通り」と教えてくれた。

 昼間はシャッターを下ろしている店が多い中、仙台銀座のはずれに、鮨屋を見つけた。「鮨 仙一」である。

 旬のアワビにウニ、ホッキ貝・・・。口の中でとろけるふわふわのアナゴは、塩とタレの両方が味わえて、大満足だった。

 もとは仙台駅の反対側にあった名店で、仙台銀座では比較的新顔らしい。「いやあ、ここは歴史を知っているお客さんもいて、楽しいですよ」と、カウンターの向こうで若い職人さんの声も弾んでいた。

「食べログ」和食の全国一位店

 その日は松島に泊まり、翌日のランチは塩釜へ。目指すは、「食べログ」という飲食店の口コミ評価サイトで、和食部門の全国一位にランクされたこともある「千松しま」という店。小さな店で、ご主人が一人で厨房を切り盛りしているので、1日数組の完全予約制なのだ。

 高台にある住宅街にあって、店構えも地味。探すのにとっても苦労したのです。でも、その甲斐あって、実に丁寧につくられた料理を堪能した。

 その内容をご紹介すると――ハスイモにカボチャの汁のジュレ添え、養殖ができないといわれる旬のアカニシ貝の焼き物、小ハゼのヌタ・ホヤ鮨・タイのちまき、揚げ加茂ナスとアワもち団子とタイのお吸い物、ムラサキウニ・タコ・カレイを梅干入りの煎り酒醤油で、山菜づくし、豆乳の滝川豆腐、ハゼの揚げ物とカニの甲羅詰め、青梅・ソラマメ・ジュンサイ・米こうじ団子の甘いお汁、ウナギ山椒のお茶漬け、そしてデザートは、生麩の白あん笹包み。

 ホヤが苦手な私でも、新鮮なせいか独特のえぐみが気にならない。ムラサキウニは、ふっくら大きい。四等分に割いたイグサで美しく巻かれたちまきの技に、こちらも背筋がぴんと伸びた。

 「主人は手先が器用ではないので、人一倍努力の人なんですよ」と、女将さんの評。

 ここでは、予算は1人1万円はみたい。

 さて、次はどちらの「銀座」を目指そうか。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2009.07.10

21世紀の吟遊詩人たち

銀座の街角で人生を歌う

  • 「シャンソンは魂のルネサンス」という長坂玲さん

 運転手と花売り娘の恋の哀歓を描いたルネ・クレール監督の映画「巴里祭」が日本で公開されたのは、1933年(昭和8年)。原題は、フランス革命記念日の「QUATORZE JUILLET(キャトルズ・ジュイエ)=7月14日」。

 なんとなく華やいだイメージの日本語タイトル効果もあって、観客は大入り。以来、日本ではこの日を「パリ祭」と呼んで楽しむようになった。

 ただし、「フランス人に『パリ祭』といっても通じませんよ」と、パリの友人から指摘されたことがある。

 フランスで7月14日というとすぐに思い浮かぶのが、1789年のフランス革命の発端となったバスティーユ監獄襲撃の日。1年後の1790年7月14日が建国記念日である。今でこそシャンゼリゼ通りのパレードや夜空の花火など、お祭り騒ぎになっているが、ルーツをたどれば、国民の間に多くの犠牲者を出した暗い過去を持つ祝日なのだ。

 外国の革命記念日を祝うこと自体あまり例のないことかもしれないが、それだけ日本人のフランスへのあこがれが強かったのだろう。そして現在も、7月14日が近づくと、日本のあちらこちらで、大小様々な規模のシャンソンコンサートが開かれている。

 東京・銀座では、7月12日からの3日間、「銀座シャンソンうた祭」が開催される。日仏交流150周年を記念した昨年に続いて今年で2回目。

  • 昨年の第1回「銀座シャンソンうた祭」。歌っているのが長坂さん

 初日の12日午後1時からは、プランタン銀座正面口の特設ステージで、プロ・アマにかかわらずテープ審査を通った歌い手10人が自慢ののどを披露する。

 シャンソンは、13世紀ごろ、街角で民衆の心や思想を語る吟遊詩人に始まるといわれる。21世紀の吟遊詩人たちもまた、銀座の街角のこのオープンスペースで、一人ひとりの人生の喜怒哀楽を、歌詞にそしてメロディーにと重ねていくのだ。希望、哀しみ、人間愛、情熱。聴く側もそれぞれに、しばし自分の人生を振り返り、拍手で感動を伝える。

 「愛の讃歌」「オー・シャンゼリゼ」「人生は過ぎゆく」……。どこかで耳にしたことのあるメロディーが、7月14日には銀座の街角に流れることだろう。

シャンソンは魂のルネサンス

  • 「銀座シャンソニエ マダムREI窓」の店内からカウンターを臨んで

 「銀座シャンソンうた祭」を企画したのは、銀座8丁目で「銀座シャンソニエ マダムREI窓」を経営する長坂玲さん。東京藝術大学でクラシックを学び、ベルギー王立音楽院オペラ科を首席で卒業。欧州で8年間歌手活動をしたが、銀座で飲食業を営む父親の急逝で帰国、生活を考え、シャンソン歌手に転向した。

 フランス語でシャンソンを歌い、フランス語で生徒を教えることができる貴重な日本人のプロ歌手だ。

 「がむしゃらに突き進んだ若い時と違って、人生の泣き笑いを知り、今日も楽しく前向きに生きていることに素直にありがとうっていえるようになった。年を重ねると、シャンソンにはまる人、多いんですよ」という。「シャンソンは魂のルネサンス」が、長坂さんの持論である。

 ちなみに、「銀座シャンソンうた祭」の後半2日間、13日と14日の午後は、「銀座シャンソニエ マダムREI窓」が舞台になる。

本場フランスにシャンソンを再発信

  • 「銀座からシャンソンの伝統を再発信したい」と語る伊藤雅治さん

 そもそも銀座には、シャンソンの伝統があった。中心になったのは、銀座7丁目、日本のシャンソン歌手の登竜門として知られ、美輪明宏や岸洋子、金子由香里らが活躍したシャンソン喫茶「銀巴里」。

 1954年の開店以来、フランスの文化の香りを伝える粋な場所だった。閉店して20年近くになるが、入り口のあった階段近くには「元銀巴里跡」の小さな石碑が建ち、シャンソンファンにとっての“聖地”になっている。最近は、中高年に限らず、若い層の間でもシャンソンへの関心が少しずつ広まっているとも聞く。

 長坂さんのシャンソン教室の生徒で、うた祭実行委員会委員長を務める伊藤雅治さんは、こんな抱負を語ってくれた。

  • 銀座並木通りを見下ろす

 「フランスの本場でも、シャンソンの伝統をどのように継承していくかが大きな課題と聞きます。フランスの文化的背景を理解しようと努めながら、フランスの言葉でシャンソンを学ぼうとする日本人が老若を問わずこんなにたくさんいるのって、すごくありませんか? 伝統文化と最新の流行とが交錯する街、銀座から、シャンソンの素晴らしさを改めて見直し、本場の若者たちに向けて再発信していきたいのです」

 ところで、この秋、「シネスイッチ銀座」などで公開されるフランス映画「幸せはシャンソニア劇場から」は、採算が取れずに閉館したパリ郊外のシャンソニア劇場に思いを寄せる人々が集まり、数々の苦難を乗り越えて歌声を復活させる物語。フランスで大ヒットした。

 舞台は1936年、ナチス・ドイツの軍靴の響きが日々高まり、暗い空気に包まれた時代である。そうした中でも、芸人魂に民衆は惜しみなく拍手を送り、素晴らしい職人芸に驚嘆する。映画は、シャンソンの旋律がこんなにも人々を輝かせるものなのかと、改めて教えてくれる。

 さて、大人の街、銀座では、シャンソンがどんなムーブメントを起こしてくれるだろうか。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆銀座シャンソニエ マダムREI窓

 http://chansonnier.chanson-tokyo.jp/

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2009.07.03

銀ブラしながら旅行気分

ひと味違う「ふるさと」巡り

  • シーサーも歓迎してくれる「銀座わしたショップ」

 店内に一歩入ると、そこには南国の市場が広がっていた。

 パイナップル、パッションフルーツ、マンゴー、完熟ライチにシークワーサー。種類豊富なスパム缶をはじめ、黒糖ココアベースのパパイヤ入り沖縄限定黒カレーの包みにも、食指が動く。

 沖縄県物産公社が銀座1丁目で展開する赤い門構えの「銀座わしたショップ」。「わした」とは、沖縄の言葉で「わたしたち」の意味という。東京の空はどんより曇っているけれど、一足はやく梅雨明けした沖縄の青い海が目の前に広がっているようで、うきうきした気分になってくる。

 3丁目にある職場から近いということもあって、ときどきお邪魔して、私は南国の雰囲気を楽しんでいる。販売員さんも沖縄出身の方が多く、とっても陽気なのだ。

 必ず買うのは、二日酔い予防のお守りにしている「醗酵ウコン粒」。それに、「ちゅらら」シリーズのウォータータイプの洗顔料もお気に入り。石けんいらずのさらりとしたタイプで、沖縄の海洋深層水ミネラルに、月桃エッセンス、アロエベラエキスがブレンドされていると聞くと、もう美肌が約束されているような気がするではありませんか?

 このように、銀座・有楽町界隈には、全国の「ふるさと」が集まっている。地方自治体が、地元特産品の販売をはじめ、観光やUターン・Iターン情報の提供などを目的に出店しているアンテナショップ群である。

  • (上)宮古島ドラゴンフルーツやわらかキャラメル、(下)石垣島産紅芋グラッセ

 それに目をつけたJTB有楽町支店の橋本治男支店長(当時)が音頭を取り、各店の連絡組織をつくって「ふるさとアンテナショップガイド」の第一弾を送り出したのは、5年ほど前になる。そのつながりは現在の高井晴彦支店長に受け継がれ、いまは、沖縄をはじめ、北海道、秋田、長野、富山、和歌山、鳥取、大分、鹿児島など、18道府県のショップが掲載されている。

 銀座4丁目の交差点を中心にした約1キロ四方の地図が、これだけ豊かな地方色で彩られているとは……。「地方にとって世界の銀座の魅力は大きい。最先端の流行に触れつつ、ローカルな情報を直接発信していけるのですから」と、高井さんはいう。

 背景には、食の安全・安心や地産地消への関心の広がり、海外でも大人気のニッポンの味の再発見、また、東国原英夫・宮崎県知事のメディアを使ったご当地グルメPRへの注目度の高さなどもあるだろう。

夏スイーツで沖縄を満喫……

  • (左)東村パイナップルコンフィチュール、(右)沖縄ラム酒ケーキ

 そんなアンテナショップとプランタン銀座のコラボレーションも、6月の「Nipponの夏スイーツ」企画からスタートしている。第一弾として参加していただいたのは、沖縄県。沖縄の食材を用いた15種類のスイーツが勢揃いした。

 スイーツに注目してみると、私にとってこれまた新たなおいしい発見があった。

 「沖縄宮古島ドラゴンフルーツやわらかキャラメル」は、ドラゴンフルーツの甘酸っぱさに、種のプチプチッと弾ける食感がアクセント。「石垣島産紅芋グラッセ」は、まったり紅芋に自然なやさしい風味の黒糖がベストマッチ。パイナップル好きの私にとっては、「東村パイナップルコンフィチュール」もはずせない。休日の朝、バゲットに塗って、スパークリングワインといただいていたら、あっという間に……でした。

  • 「おいしい山形プラザ」では、地元野菜に注目

 そして、私の一押しは、「沖縄ラム酒ケーキ」。生地はふんわり、しっとり、真っ白なもち肌のような仕上がりが何とも驚きである。南大東島のサトウキビで造るグレイスラム社のラム酒を使用した芳醇な味わいは、大人だけのぜいたくといえそうだ。

 グレイスラム社の金城祐子社長は、小池百合子元環境相時代に発足した「環境ビジネスウィメン」でお仲間だった。産業廃棄物扱いにされていたサトウキビの絞り汁を主原料に、環境に配慮した食品開発に力を入れる島の女性社長である。ケーキは冷蔵庫でしばらく寝かせたら、味わいがマイルドになり、さらにおいしくなった。

 現在プランタン銀座で第2弾として展開中なのは、和歌山県とのコラボレーション。大正15年創業、梅に携わって百年という会社が、代表品種の南高梅を使って造り出した梅スイーツが並ぶ。オリジナルの梅ジャムを生地に練り込んだもっちり食感のマシュマロを、銀座にいらしたら一度お試しを。

おいしい地方を食べつくす

  • (上)月山のタケノコ、(下)山形のなっともづ

 さて、アンテナショップガイドには掲載されていないけれど、最近オープンして評判の銀座一丁目にある山形県のアンテナショップ「おいしい山形プラザ」にもぜひ足を運んでみたい。

 2階に併設するのは、地産地消レストランとして知られる鶴岡市の「アル・ケッチァーノ」の奥田政行シェフがプロデュースした店。1階の地元野菜コーナーには、ゴボウアザミやアオミズ、アカミズなど、東京人には珍しい野菜がズラリ。庄内産の月山タケノコをゲットして、さっと炙っていただいた。期待した以上においしかったのが、尾花沢産のひめもちに南蛮納豆を包んだ「山形のなっともづ」。納豆のピリから具合がちょうどいい。

  • 「ぴょんぴょん舎」ではじゃあじゃあ麺に挑戦しよう

 アンテナショップめぐりの話題を書きながら、やはり食べ物中心になってしまうのは、私がやはり食いしん坊だからです。

 というわけで、締めは、銀座4丁目の路地裏にある、盛岡冷麺の専門店「ぴょんぴょん舎銀座百番」で。

 午後3時を過ぎていたら、じゃあじゃあ麺がおすすめだ。うどんをゆでるのに時間がかかるのだろう。ランチタイムの繁忙時間帯には出してくれない。ルーツは中国大陸の炸醤麺というが、熱々のうどんに黒ゴマ風味の肉味噌がのっており、私は、コショウを3振り、おろしニンニク少々とラー油多めでいただくことにしている。食べ終わったら、「チータンタンお願いします」と言うと、和風だしのおいしいスープを器に注いでくれる。

 銀ブラしながらこんな小旅行が楽しめるなんて、ちょっとお得な気分になりませんか? 

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2009.06.19

達人がお勧め、銀座の手みやげ

選ぶ基準は「私が好き!」

  • 手みやげ達人の甲斐みのりさん(エコールプランタンで)

 家族に、知人に、お世話になった方々に、お礼や感謝の気持ちをこめて、ちょっと気の利いた手みやげを選ぶとき――自分のセンスや心配りが試されているようで、結構緊張することって、ありませんか?

 「これ、銀座で買って来ました!」と言って渡すと喜ばれることが多いのだけれど、銀座には名店が多過ぎて、選ぶのには本当に難儀する。

 文筆家で、「女性の永遠の憧れ」をテーマに雑貨の企画なども手がける甲斐みのりさんは、手みやげの達人。プランタン銀座のカルチャーセンター「エコールプランタン」で、お話を聞く機会があった。

  • 甲斐さんが選んだ銀座手みやげ。添え書きの便箋もポイントです

 アラサー世代の甲斐さんは、子どものころから大のお菓子好き。

 「中身よりも、お菓子の入った袋や箱、紙やリボンを欲しがり、鳩サブレーの缶に入れて大切に集めては、時々取り出して眺めたり、包み紙で封筒を作ったり。お菓子の図鑑が一番の愛読書でした」

 静岡から大阪の大学へ進学。そのコレクター癖は、京都暮らしで老舗巡りが日課になり、さらにエスカレートする。

 「甘くておいしいから好き。形や色がかわいいから好き。素材や名前の由来を知ったらなおいとおしくって。お菓子探しをしているとどんどん興味が広がり、楽しくて、自分だけで独占しているのがもったいない気持ちになってくるんです」

 この喜びを、もっと多くの人と分かち合いたいとの思いから、手みやげへの関心も強まっていった。

  • 静かな路地裏にある「木挽町よしや」

 手みやげは、自分の気持ちを紹介するもの。だから選ぶ基準は、「私が好き!」でいいのだという。「短い手紙を添えれば、もっとステキになりますよね」

 銀座には、「デパ地下も含めると、数え切れないほど手みやげ向きの店がある」(甲斐さん)けれど、あえて6品を選んでもらったところ……。

 1)千疋屋総本店の「くり抜きゼリー」

 2)プランタン銀座本館地下2階にあるアールハートのハート型ケーキ「ロイヤルハート」

 3)洋菓子舗ウエスト銀座本店のクッキー「ヴィクトリア」

 4)資生堂パーラーの「チーズケーキ」

 5)銀座三越2階にあるラデュレの「マカロン」

 6)木挽町よしやの細工菓子「ねりきり製ミニチュア果物」

 その一つ、木挽町よしやを久しぶりに訪ねてみた。

焼き印入りオリジナルどら焼き

  • いつも笑顔を絶やさない「よしや」の主人、中村良章さん

 歌舞伎座に近い、銀座東3丁目交差点あたり。江戸開府当時は海辺で、船から木材を運び出すポイントだった。江戸城修築の時、木挽き職人を住まわせていたことから「木挽町」という町名が生まれた。戦後改称されたが、付近には、いまもこの江戸地名を冠する老舗が少なくない。

 手入れの行き届いた鉢植えの緑に誘われて、ふらりと路地に入ると、「どら焼き」の黄色ののぼり旗が目印だ。

 同店の主人、中村良章さん(60)が、変わらぬ笑顔で迎えてくれた。

 大学で機械工学を学んだ中村さんだが、卒業後、家業の和菓子工房を手伝った。金沢出身の父親は14歳で家出し、上京して一旗揚げようと、銀座に工房を開いた。随分と繁盛したが、バブル崩壊後は商売も先細り。中村さんは、老舗和菓子店でアルバイトをしたり、きこりをしたりで食いつないだ時期もあった。

  • 店で預かっている焼き印が壁にずらり

 「銀座で開いた親父の夢を消すまい」と頑張って、工房跡に「よしや」をオープンしたのが10年前。

 「当時たまたまテレビで東大寺の瓦の葺き替え作業を見て、瓦の裏に『よしや』と屋号が入っていたのを発見。店の名前はこれだ!って思ったのね。僕の名前も良章(よしあき)だし、ちょうどいい」

 団子や細工菓子などで人気店になり、特に食品サンプル好きな外国人客にもうけて、ニューヨークタイムズ紙でも大きく紹介された。

 「それがね、今はどら焼き屋のおやじになっちゃってね」と笑う。

  • ほどよい甘さのどら焼きが大人気

 客が自らデザインした焼き印を注文し、それを使って名前入りのオリジナルどら焼きを作ってくれるのである。1個110円。ほどよい甘さのこしあんをふんわり包むクリーミーな皮の風味がやさしい。

 結婚や出産のお祝いにという個人客から、営業マンが社印を入れて取引先に配る企業まで。また、歌舞伎役者に演歌歌手、人気の男性ダンスユニットなど、芸能界にもファンが多い。現在店で預かっている焼き印は千本以上にもなる。

 一日千個焼くことも、たびたび。先日、二千二百個の注文を受けた時には、さすがに腱鞘炎になった。

「今のところ、他の和菓子に手が回らないんだよ」

 そう話しながらも、「先日、十二単をテーマにしたお茶席の菓子の注文が入ってさ。道具づくりから始めるから、出来上がりをあれこれ想像していくと、楽しくて仕方ないねえ」と、頬を緩ませた。

 やはり中村さんの中にある、和菓子職人のDNAがうずくのだろう。

 ご主人にちょっと余裕ができたら、母の誕生日用に、愛らしい細工菓子を注文したいと思う。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

◆甲斐みのりさんのホームページ

 http://www.loule.net/index.html

◆木挽町よしや

 東京都中央区銀座3-12-9 電話03-3541-9405

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2009.06.12

若女将、呉服の世界に新風

銀座の魅力を再発見し、改めて愛着

  • 「OLが自分で買える着物を」と、老舗の実家から独立して新しい店を開いた千谷美恵さん

 銀座8丁目の金春通りにある「伊勢由」は、創業明治元年(1868年)、百数十年の歴史をもつ老舗の呉服・和装小物店。

 5代目の若女将、千谷美恵さんに初めてお会いしたのは、3年ほど前になる。銀座の若手経営者が街の未来を語るといった会で、しっとりとした着物姿の紅一点の快活な語り口がひときわ輝いていたのを覚えている。

 立教大学在学中に米国の大学に交換留学の経験もある国際派。帰国して24歳の時、シティバンクに就職した。当時はバブル景気の真っ只中、男女雇用機会均等法の施行から数年が過ぎていたとはいえ、日本企業は“男並み”の仕事を任された総合職の女性たちを使いこなせずにいるのが実情だった。

 「『結婚しても辞めません!』って、ごく自然に言える職場環境を望んでいました。当時女性がばりばり自由に働けるのは外資系企業しかなかったんです。それに、なるべく大きな組織に入って、いろいろなことを経験したいという思いもありました」

 3姉妹の末っ子。家業を継ぐことは考えていなかったという。

 だが、転機はシティバンクに入社して約5年後にやって来る。銀座支店を立ち上げる仕事に関わることになり、それが実家の伊勢由の裏手にあたる場所だったのである。

 「支店で銀座のお客様に接していると、本当に様々な趣味を持ち、人生経験豊富な方がいらっしゃるなと実感しました。出身地も国籍もいろいろで、それがまた銀座全体の魅力にもつながっている。そう思うと、幼い時から親しんできた銀座に改めて愛着がわいてきた。そして、この銀座で商いを続けてきた店を父の代で終わらせてしまっていいものかとも考えるようになりました」

国際派キャリアウーマンからの転身

  • 好評のオリジナル「大福バッグ」

 31歳で銀座支店長に抜擢されたが、2年後、家業を継ぐ決心を固める。

 こうして飛び込んだ呉服の世界。当初は和装には親しんではいたが、自分で着ようと思うと、帯選びも着付けもお手上げだった。

 「ちょっと言い訳をさせていただければ、身の回りに着物のプロがいっぱいで。私が棒立ちのお人形さん状態でいると、ささっと上手にしかも心地よく着付けしてくれるわけでして……」

 それから、呉服の猛勉強を始めた。業界は予想していた以上に男社会。作る人も仕立てる人も男性が中心で、「ボクつくる人、ワタシ着る人」の性別役割分業が色濃く残っていた。着物の反物はずしりと重く、力仕事も少なくない。

 ベテラン図案師にも男性が多く、女性の目から「こんなデザインが欲しい」と提案しても、「そんな面倒なことを言うならできない!」と、ぴしゃりと断られたこともたびたび。それで引き下がってはいられない。職人の、また男性のプライドを傷つけないように配慮しながらも粘って粘ってようやく熱意が通じ、納得の一枚が出来上がった時のことは忘れられない。

 そしていま、若女将10年目を迎えた千谷さんの新たな挑戦が始まった。4月初め、独立して、銀座6丁目のビルに新店舗を設けたのである。

 「OLが自分のお金で買える着物を」というコンセプトで、3万円台から反物が揃う。中心価格は10万円前後。着物を初めて着る人から、いつも愛用しているけれどカジュアルで気楽に着られるタイプを探しているという人まで、幅広い層を対象にしている。

 この思い切った独立には銀座の若旦那衆も注目しているらしい。

お客様とともに和装を楽しむ

  • 夏らしい籐バッグと涼しげな白の楊柳バッグ。カジュアルな和装に似合いそう

 「洋服感覚で着たり、レンタルや中古を利用したりと、着物普及のためにいろいろな試みがあるけれど、寸法をきちんと測ってオーダーする着物がリーズナブルな価格で買えるのであれば、若い人たちも見方が変わってくるのではないでしょうか」

 価格を抑えるために帯の図柄など様々な工夫もした。「本物の呉服を広めるために」と独り立ちした千谷さんの気持ちを汲んで、父親の代から付き合いのある職人たちも、そこまで決心したのであればと、協力を惜しまない。

 千谷さんが編み出す和装は、大ぶりのハートやダイヤなどポップで斬新なデザインや、パープルにイエロー、ブルーにピンクなど、大胆な組み合わせも楽しい。オリジナルの小物デザインも得意で、レーヨンチリメンを使った「大福バッグ」が好評だ。

 「お客様を思い浮かべて、あの方ならこんなのがお似合いだなって、イメージを職人に伝えます。実際に店頭に並べた時、お客様にすっと手に取っていただければ、これ以上の呉服屋冥利はありません」

 もう一つ、力を注いでいるのが、骨董、長唄三味線、能、香道など、その道の達人を招いて話を聞く日本の伝統文化を学ぶ講座。

 「国際金融の職場に身を置いてきて、逆に自分が日本人であること、日本文化の奥の深さを強く意識するようになりました。たとえば、お茶席の主人の客人への細かな気遣いなど着物をお勧めする時にも役に立ちます」

 それに、「着物を着ると、ラッキーなこともありますよ。ビアホールで行列に並んでいると裏口からそっと入れてくれたり、ファストフード店ではコーヒーを席まで運んでくれたり。皆やさしくしてくれます。うふふ」

 着物を通して、一人でも多くの人の人生を輝かせたい――そんな思いを抱きながら、銀座に新風を吹き込み続ける。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆銀座いせよし

 東京都中央区銀座6-4-8 曽根ビル3階 電話03-6228-5875

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)