GINZA通信アーカイブ

2010.04.16

破顔一笑、庶民に愛される「ゑびす大黒」

様々な願いを託された福の神

  • (左)あふれんばかりのほほ笑みがキュートなゑびす様、(右)とってもふくよかな大黒天(以下、このページの写真撮影はすべて小山主芳氏)

 銀座周辺で贔屓(ひいき)にしているギャラリーの一つに、京橋3丁目にある「INAXギャラリー」がある。身近にあるのだけれど、普段は見過ごしてしまっている素材や話題に光を当てて、「へえ、そうなんだ!」と新鮮な驚きを教えてくれるので、企画展をいつも楽しみにしている。

 今回のテーマは、「笑顔の神さま、ゑびす大黒」である(展示は5月22日まで)。

  • (左)大きな鯛を釣り上げて得意顔のゑびす様、(右)「走り大黒」の霊符は霊験あらたか?

 烏帽子(えぼし)をかぶり、釣りざおと鯛を手にほほ笑み顔のゑびす様、米俵に乗って、打ち出の小(づち)に大きな万宝袋を背負い、ふくよかな印象の大黒天。古来、農村や漁村、商家などを中心に、生業を守り福徳をもたらすものとして、広く庶民に信仰されてきた、日本の代表的な福の神である。

 会場には、聖徳太子が市を開いたことで知られる滋賀県八日市市の市神神社所有の約270体が並ぶ。江戸から明治期にかけて造られた木彫のご神像で、かつて家々の神棚に(まつ)られていたが、住まいの改築などで居場所がなくなり、神社に奉納されたという。小さなものは高さ2センチほどのミニチュアサイズで、お守りとして身に付けていたようだ。

 家内安全、金穀増収、寿福円満……。庶民から様々な願いを託された「ゑびす・大黒」は対をなして(あが)められ、七福神にも数えられている。

  • カラフルな「引札」でも、ソロバンをはじいて大活躍

 その七福神信仰が庶民の間で広まったのは、江戸時代。江戸後期文政年間の「享和雑記」には、「近頃正月初出に七福神参りといふ事始まりて遊人多く参詣する事となれり」とある。

 ユーモアあふれる仕草、愛嬌(あいきょう)いっぱいの表情は、ご神像それぞれに個性的で、作り手の思いが伝わってきて楽しい。

 たとえば、ぴちぴちはねる生きのいい鯛にまたがったゑびす様は、大物を仕留めて自慢げなポーズで決めている。また、鵜飼い装束の折り烏帽子と決まっているはずのかぶりものも、公家風の冠のものなどがあったりして、ディテールを観察すると興味が尽きない。

 片足を一歩踏み出した「走り大黒」もいた。そうそう、「走り大黒」の霊符を逆さまに張って足に針を刺すと、逃げたものが戻ってくる、なんていう俗説、聞いたことがありませんか?

 豊漁祈願の大漁旗、七福神が乗り合いの宝船の刷りもの、商店や商品の広告として配られた石版刷りの色鮮やかな「引札」など、両神は、あらゆるところで活躍してきたことがわかる。店の番頭役として、そろばんをはじき、帳簿を点検している姿は、とっても気さく。肩までたれた大きな福耳が強調され、商売繁盛間違いなし、であろう。

江戸の流行神は海外から

  • JR有楽町駅構内に鎮座する「有楽大黒」

 先日、同ギャラリーのセミナーで、民俗学者の神崎宣武さんの話を聞く機会があり、庶民の生活にこれだけ密着している両神が外来の神様であることを知った。

 大黒天はインドのヒンズー教の神、マハーカーラが原型。仏教と習合して天部に取り入れられ。食糧を守る神、台所の神となり、さらに日本では、大国主命(おおくにぬしのみこと)の因幡の白うさぎ伝説などと結びついて、福徳の神となったという。

 一方のゑびす様は、「夷」「戎」の表記もあるように、海の彼方から漂着したとされ、漁民の間で大漁祈願や海上安全を願う信仰として広まった。保存のきかない漁獲物を携え、各地に商いに出掛けた漁民たちの守り神は、都市部ではやがて商売繁盛や市の神として定着することになる。

 「当時、世界で最大規模を誇る新興都市だった江戸の町は、同じ日本人でも言葉やしきたりが違う人々が混在する場所でした。新しい規範のもとで争いごとを避けるためにと、江戸の町に合った形での神様のあり方が模索され、農山漁村の素朴な守り神は屋敷神、さらに商業神へと転じて融通無碍(むげ)に転じていきます。流行神の出現も習合も自在で、私はこれを信仰の遊戯化現象と呼んでいます。外来文化を土着文化と都合よくなじませるというのは、日本人の得意技でもあったわけですね」。神崎さんの解説である。

銀座におわす笑顔の神さま

  • 銀座コリドー街の「ヱビスバー」の柱にも

 さて、銀座周辺で大黒天といえば、JR有楽町駅銀座口の改札を入った駅構内に鎮座する「有楽大黒」。昭和初め、駅前の亀八寿司主人が秘蔵していたが、戦争末期に空襲を避けるため駅長に寄贈された。乗降客の安全をひっそりと見守ってくれている。

 お隣の日本橋地域には、七福神めぐりのコースもあるので、またの機会にご紹介したいと思う。

 では、ゑびす様は?

 「銀座でも見つけた!」という声を聞いて、早速出掛けた。

 銀座コリドー街に昨年末オープンした「YEBISU BAR(ヱビスバー)」。サッポロビールの看板商品「ヱビス」誕生120周年記念で作られた一号店である。

 店内に入ると、カウンターの向こう、中央の柱に、確かにゑびす様が刻まれていた。「夜になると、入り口にはスポットライトで、ゑびす様が浮かび上がる趣向も。踏まないで入ると運が開けるって、皆さん、験をかついでいらっしゃいますよ」と、同店のスタッフさん。ちなみに、八幡鯛のカルパッチョやフィッシュ&チップスなど、「ゑびす様メニュー」もあった。

 どんな困難なことに遭遇しても、破顔一笑――笑う門には福来たる!である。笑顔の神さまは、そんな心のゆとりを教えてくれる存在だった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.04.09

ちょっと通な路地裏の銀ブラ

微文化で構成された街

  • どら焼きが有名な和菓子屋「木挽町よしや」がある、静かな路地裏

 春うらら。足どりも軽く、銀ブラが楽しい季節になった。

 「銀座街づくり会議」のアドバイザーで、慶応義塾大学准教授の小林博人さんは、「銀座らしさ」「銀座独特の文化のあり方」を、「銀座の微文化」と呼んでいる。

 気象学に「マイクロクライメイト(微細気候)」という概念がある。モンスーン地帯、高山地帯、地中海性、それに、ヒートアイランド現象など特有の現象を示す大都市気候もその一つだろう。分別された小さな自然がモザイクのようにつながり、相互に関連し合って、地球全体の気象を構成しているという考え方である。

 銀座は通りごと地区ごとに少しずつ異なる文化性・歴史的背景をもっており、その一つ一つがつながりあって銀座という街全体の雰囲気を作り出している――これを、小林さんは「微文化」という言葉に託しているのだ。

路地裏散歩でリラックス

  • 銀座5丁目の東側には、レトロな袋小路がある

 十字に交差する銀座通りと晴海通りの2つの大通りを中心に、碁盤の目のように整然とした街並みが銀座の特徴だが、その間には、路地がいくつもまぎれ込んでいる。表通りのにぎわいから一転、路地裏には、ゆっくり流れる時間を慈しむような静けさが漂っていて心地よい。

 私は、この路地裏の銀ブラが好みである。

 お気に入りはいくつかあるのだが、例えば、歌舞伎座に近い銀座東3丁目交差点あたりの木挽町の路地。2009年6月19日付の小欄でもご紹介したことがあるが、どら焼きが有名な小さな和菓子屋さんや手ごろな食事処が固まっていて、とてもリラックスできる空間である。

 建築家で銀座の街歩きに詳しい岡本哲志さんのおすすめは、銀座5丁目の東側付近だそうだ。「裏通りと路地とが呼応しあっていて、独特の空間ができているのが面白い」。先日、ある会合でそんなお話を伺ったので、さっそく歩いてみることにした。

サラリーマンでにぎわう袋小路

  • 2階建ての長屋街はいまも健在

 銀座4丁目の交差点と歌舞伎座の中間あたりにある三原橋のそばに、銀座通りと並行して通る三原通りがある。

  • (上)三原小路の入り口には守護神のあづま稲荷が(下)最近おしゃれなレストランが増えている

 まず目に付くのが、昭和の歓楽街でよく見かけた、とてもレトロなゲート看板。ゲートをくぐると、かなり老朽化した2階建ての長屋形式の店舗が並んでいて、中華料理店、焼肉店、バー、居酒屋、雀荘などが入っている。夜になると、どの店もサラリーマン族で結構にぎわっているようだ。

 ここは行き止まりの路地空間。もとは質商「江島屋」の田村藤兵衛の土地だったそうだ。戦後土地を細分化された時、この不思議な袋小路が誕生したらしい。

 引き返して、再び三原通りに出る。もう一つ路地があって、三原小路という。この路地もまた戦前にはなかったそうで、戦後、小規模な土地を得た人たちが寄り集まって作り出した空間とか。

 一角にあるあづま稲荷は、いつも清潔に掃除されていて、小路をつくった人たちの愛情が伝わってくる。近年改修されて、大分モダンな雰囲気に変わり、おしゃれなレストランなどが増えている。店の前にアレンジされた桜の花に、春の空気を感じた。

人情が生きる呉服通り

  • 呉服関係の店が多いのがあづま通りの特徴

 三原小路を抜けると、あづま通りに出る。この通りには、呉服を扱う店がとても多い。歌舞伎座が近いという地の利を生かして「呉服の殿堂」にしようと、先代の店主たちの思いが込められており、今に引き継がれている。

  • (左)ビルの中の路地「ギンザ・アレイ」(右)「ギンザ・アレイ」を抜けると、にぎやかな銀座通りに出る

 あづま通りには、「GINZA ALLEY(ギンザ・アレイ)」というビルの中の路地があり、間口の狭い店舗が集まっている。和装・洋装雑貨を扱う店のほか、あんみつで有名な「銀座若松」もある。新しくビルを建てる計画が持ち上がった時も、路地の両脇で商いをしていた人たちが協力して生き残らせたのだと聞いた。

 明治27年創業の「銀座若松」は、タカラジェンヌの卵たちの要望で、2代目主人が元祖あんみつを考案したことで知られる。小ぶりでちょっとしょっぱめの豆が私は好きだ。

 ビルの中の路地を抜けると、視界が開けて、そこはにぎやかな銀座通り。銀座のシンボル、和光の時計台が見える。

 ちょっと通な路地裏の銀ブラ、あなたも楽しんでみませんか?

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.04.02

銀座四百年を語る、92歳の生き字引

シンボルロードに柳並木が復活

  • 著者の柳澤氏は、ショッピングセンターの先駆け、西銀座デパートの会長

 今年92歳になる西銀座デパート会長の柳澤政一さんが、「私の銀座物語」(中央公論事業出版)という本を上梓した。

 証券マンを振り出しに、銀座にかかわって半世紀以上。副題に「柳澤政一が語る 銀座四〇〇年」とある。江戸時代から文明開化、大正モダン、関東大震災からの復興と戦争の時代、さらに高度成長期から海外ブランドが進出する新しい銀座へと、「銀座の生き字引」とも呼ばれる著者が、文献にあたり、かつ自らの体験を思い起こしながらつづった「銀座の文化・風俗通史」に仕上がっている。

 柳澤さんに初めてお目にかかったのは、4年前の春だった。久々に復活した「銀座柳まつり」の立役者として話を聞かせていただいた。

 「昔恋しい銀座の柳」と、西条八十作詞の「東京行進曲」で歌われたのは、昭和の初め。2006年の春、西銀座通りに数十年ぶりに柳並木が復活した。1丁目から8丁目までの約1キロに約200本の柳を植える8年がかりの事業が完成、「銀座柳まつり」もよみがえったのであった。

 時の移り変わりの中で、銀座の柳は受難続きだった。

  • 今年92歳になる柳澤氏は、現役の銀座人

 明治初期、煉瓦街になった銀座では、水分の多い土壌ゆえ、松や桜、カエデの街路樹が根腐れで枯れた。代わって植えられたのが、水に強い柳。ところが、車道の拡張や東京大空襲での焼失などで、だんだんと姿を消す。

 商店主らが補植を試みてきたが、1968年の銀座通り大改修事業で、ほとんどの柳が撤去されてしまった。

 「子ども心に歌で聞いて育った銀座の柳がどこにもなかったのは寂しい。大学が神田で、柳の下の銀ブラ・デートとしゃれこんだ楽しい思い出もあるしね」。西銀座通会会長として、通り沿いの商店経営者らを束ねた柳澤さんは、柳並木の復活を心から喜んでいた。そして、「柳は、狭い場所にあるとうっとうしいけれど、広々として昔の風情が残る銀座だから、いいんだねえ。銀座ほど柳が似合うところって、ないんじゃないかい」とも。

 お話をうかがいながら、この人は心底銀座を愛しているのだなあ、と感じたものだ。

 さて、「私の銀座物語」には、柳澤さんが「銀座のために」と尽力したいくつかのエピソードがつづられている。

タウン誌「銀座百点」の始まり

  • 柳澤氏の銀座人脈を形成した銀座並木通りの三笠会館

 証券会社の銀座支店長を命じられた1954年夏のこと。「銀座で商売をしている人に実際に仕事を依頼することから始めよう」と、店のオープニングレセプションでは、決まっていた大手ホテルをわざわざキャンセルして、当時「街のレストラン」に過ぎなかった三笠会館に仕切りをお願いした。

 以来、同社の谷善之丞社長は「銀座における戦友のような存在」だそうで、その縁から、コックドールの伊藤佐太郎氏、天一の矢吹勇雄氏ら、銀座に対する一方ならぬ情熱をもった人々との交流を深めていった。

  • 「銀座百点」はいまも豪華な執筆陣が筆をとる

 「地域社会への貢献を」と、当時4丁目にあった支店の会議室を銀座の商店主の情報交換の場として開放したところ、12人のメンバーを核に親睦団体ができた。会員を募集すると、予想以上の反応があって、すぐに70店舗が応募。「それなら百店にしようか」となったら、これもすぐに集まった。名称を「銀座百店会」とし、思い切って銀座のためのPR誌を作ることへと発展していく。

  • 日々変化する銀座。ビルの建て替え工事があちらこちらで

 知り合いを頼って銀座5丁目にあった文藝春秋を訪ねると、専務だった車谷弘氏が編集を担当してくれることに。1955年1月の創刊号から、久保田万太郎、源氏鶏太、吉屋信子らの一流の執筆陣が集まり、「さすがは銀座」とだれもがうなるようなタウン誌「銀座百点」が完成したのだった。

 その後も谷崎潤一郎や三島由紀夫ら日本を代表する作家や文化人が執筆、その伝統は受け継がれ、この4月号でも、赤川次郎、池部良、村松友視らが健筆を振るう。

 ちなみに、表紙の写真を担当したことのある秋山庄太郎氏は、柳澤さんの写真の師でもあり、「先生の指導で、3冊の花の写真集を出版することができました」。

 「百店会創設メンバーの12人のうち、私を除くほかの11人の方々はすでに鬼籍に入っておられる。高度成長期を突っ走った創業者の心意気を若い方々に伝えるのも私の役目。変化する銀座の中にあって、できるだけ頑張っていきたいものです」。思い出の三笠会館で開かれた出版記念会で、柳澤さんは力強く語った。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◇銀座百点

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2010.03.26

真っ暗闇のエンターテイメント

視覚障害者と健常者の交流プログラム

  • 常設されている「ダイアログ・イン・ザ・ダークTOKYO」の入り口

 幼いころ、電気を消してお風呂に入ることが好きだった。ちゃぽんちゃぽんとはねる水面の音、浴槽の木の香り、冷えていたからだが徐々に心から温まってゆく心地よさ……。

 「明るくして、ちゃんとせっけんで洗うのよ」とさとす母の声がするまで、私は、暗闇の中での豊かなぬくもりの時間を子どもながらに楽しんだ。

 そうした闇の中での感覚は、大人になるとともに忘れ去られ、いまはすっかり目や耳に頼る日々である。

 銀座のデパートで働き出して、閉店後明かりが消え、人の気配もない(それでいて、洋服を着た物言わぬマネキンだけがあちらこちらに立っている)真っ暗な空間に身を置くと、暗闇パニックとでもいうのだろうか、楽しみどころか恐怖心だけがわき上がってきた。

 赴任したばかりのころ、残業を終えて、職場から従業員用の夜間通用出口に至るまでの時間がなんと長く感じたことか。いや、あれから5年ほどたついまも、閉店後の暗闇が苦手なことに変わりはない。

 先日、知人の紹介で、「みえない。が、みえる!~まっくらやみのエンターテイメント」というのを体験した。

 東京・渋谷区神宮前に常設スペースを構えて1年になる「ダイアログ・イン・ザ・ダークTOKYO」。

  • 会場は地下にある

 日常生活の様々な環境を織り込んだ真っ暗な空間を、視覚以外の感覚を使って体験する話題のソーシャルエンターテイメントである。参加者は、8人程度のグループになって、暗闇のエキスパートでもある視覚障害者の「アテンド」のサポートのもと、完全に光を遮断した会場に入り、約1時間、暗闇の世界を探検する。

 1989年、ドイツの哲学者アンドレアス・ハイネッケ博士が考案した視覚障害者と健常者の交流プログラムで、20年間にヨーロッパを中心に25か国120都市で開催、600万人以上が体験しているという。

 商品開発のマーケティングやコンサルタントをしていた金井真介さんは、15年ほど前、新聞の囲み記事でこのイベントを知り、実際にイタリアで体験した。言葉がわからない金井さんは、途中で一人、グループからはぐれてしまったのだが、忍者のごとく人が現れ、グループに連れ戻してくれた。あまりの的確さと素早さに驚き、てっきり暗視ゴーグルをした健常者だと思っていたら、外に出てその人が全盲と知り、衝撃を覚えたという。

 日本でもこの試みをぜひ広めたいと熱い思いを手紙にしたため、博士に送ったところ、快諾を得た。

 日本には10年ほど前に上陸、金井さんが代表を務めるNPO法人(特定非営利活動法人)が運営にあたっている。不定期で短期開催していたが、好評なので、1年前から常設スペースでの展開が始まっている。

闇の中で新しい自分に出会う

  • 探検が終わったあと、皆で感想を話し合うのも楽しい

 さて、大きな荷物や落としたら困る携帯電話や時計を預けて、探検に出発だ まず、自分の目の代わりになる白杖の使い方を教わり、ランプ一つがともる薄暗い小さな部屋に参加者8人が集まって、アテンドの「ナポリさん」を囲み、自己紹介を行う。当日初対面の人がほとんどである。

 「これから少しずつ暗くしていって、最後は光が一筋も入らない真っ暗な中に入ります」。「ナポリさん」の説明に、胸がどきどきした。

 「まっすぐに進みましょう。何か触れてわかるもの、ありますか?」

 会場内には、公園や秘密基地、高台の展望台、カフェなどがあって、様々なシーンを体験できるように工夫されているらしい。「ナポリさん」の声に導かれながら、視覚以外の感覚に集中していく。

 これは、木の幹だろうか。

 鳥のさえずり、草や土の香り、枯れ葉や芝生を踏みしめる足元の柔らかな感触。からだの奥深くに眠っていた感覚が徐々に呼び覚まされていくような気がした。

 自分でいろいろ試してみることも重要だが、特にカギになるのは、一緒に探検する仲間たちである。

 「その声はシマさん? 背中触っちゃってもいい?」

 「いえ、ヤマですけど、どうぞ」

  • 参加者からは、いろいろなメッセージが届いている

 最初は心細さも手伝ってぎごちなく呼び合っていたが、しばらくすると、8人の声やたたずまいが何となく区別できるようになっていくのだから、不思議だ。

 「ゴメン、足踏んだ?」

 「大丈夫ですよ。ここにも段差あります。気をつけて」……。

 最近、こんな風に人と手を携え、声を掛け合ったことって、あっただろうか。

 実は、私は、真っ暗闇に慣れるためにと光を遮断した最初の部屋で5分ぐらい静止していたとき、少々パニックに陥った。

 闇の底に突き落とされたような不安感が広がり、ここから一刻も早く飛び出したいという衝動にかられたりもした。声を出していないと不安なので、「探検、楽しみです!」「体調万全です!」など、無意味なことを口走っていた。

 動き出して少しずつ冷静さを取り戻したが、恐怖心がほぼ完全に払拭(ふっしょく)されたのは、仲間たちの声とぬくもりだったように思う。こうしたチームのコミュニケーション能力の醸成効果に目をつけて、多くの企業が新入社員研修に活用し始めているとも聞いた。

 探検の最後、カフェに立ち寄るころには、すっかりリラックス。それにしても、暗闇の中でグラスに入れたワインやジュースを正確にサービスするスタッフには、ただただ脱帽だ。

 主催のNPO法人では、視覚障害者が持つ鋭敏で繊細な感性を生かした商品開発にも取り組んでおり、第一号として、より柔らかな風合いと肌触りを大切にした「ダイアログ・イン・ザ・ダーク・タオル」が誕生している。

 今後は、ピクニックや婚活パーティーなど、楽しい企画も目白押しだとか。

 暗闇の中の対話――今まで気づかずにいた新しい自分に出会う機会でもあった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆ダイアログ・イン・ザ・ダーク

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2010.03.19

端末お供に「IT銀ブラ」

東京ユビキタス計画に参加

  • ユビキタス・コミュニケータという端末をお供に、銀ブラへGO!
  • 端末の貸し出しは、地下鉄の銀座駅の広場で

 「未来の街で遊んでみませんか?」

 そんな誘い文句につられて「東京ユビキタス計画・銀座」なる実験に初めて参加したのは、3年前のことだった。

 「ユビキタス」とは、ラテン語で、「どこにでも存在する」という意味。どこでもだれでも好きな時に欲しい情報が得られる「ユビキタス社会」を実現しようというのが国土交通省の構想で、ちょうど銀座でも実験が始まったばかりだった。

 銀座4丁目を中心とする実験エリアでは、地下街の天井や銀座通りの街灯などにICタグ(電子荷札)や無線マーカーが設置され、手のひら大の専用端末をかざすと、現在位置や周辺情報が画面上に次々と送られてくる。音声ガイドもある――。

 街歩きのお供として、何やら便利そうな道具に思えたが、実際に使ってみると、当時はトラブル続きだった。

 ある実験協力店の店頭で、ICタグに端末を何度かざしても、情報が送られてこない。携帯電話で事務局を呼ぶと、「最近貸し出しが増えて、読み取り装置の不具合が出ている」といわれ、端末を代えてもらったものの、他店でも同様のトラブルに見舞われた。

 無線で情報を飛ばす数寄屋橋交差点周辺では、いくら歩き回っても、情報をキャッチできなかった。

 「うーん、銀座は多様な電波が飛び交っていますからねえ」と、事務局の弁。

 「IT銀ブラ」はまだまだ発展途上だなあというのが、当時の印象だった。

 あれから3年。

 「IT銀ブラ」は、確実に進化していた。

ほしい情報がすぐわかる

  • 銀座4丁目角では、和光の紹介が音声ガイドで流れる

 まだ風が冷たい3月の初め、地下鉄の銀座駅の広場で端末を借りて、銀座の街を2時間ほど歩き回った。実験エリアは、銀座4丁目交差点を中心に銀座通りと晴海通りの地上と地下。

 「銀座の顔」ともいえる4丁目角に立つと、和光の建物の歴史や店舗情報が音声でさっそく流れてきた。周辺の見どころ情報も自動的に表示されるし、行きたい店や施設を検索して目的地に設定すれば、音声と写真で道案内してくれるので、銀座に不慣れな人でも安心だ。

 端末と一緒に渡される銀座マップは、銀座らしい見どころのツボを押さえていて、音声ガイトとともに楽しめる。「銀ブラ」の由来になった喫茶店「カフェーパウリスタ銀座本店」やポークカツレツ発祥の店「煉瓦亭」など、「銀座はじめて物語」にしばし耳を傾けるのもいい。

未来のツールで過去へタイムスリップ

  • 銀座ガス灯通りでは、明治のガス灯が一部復元されている

 銀座煉瓦街にガス灯がともされたのは、1874年(明治7年)のこと。芝金杉橋と京橋の間に85基のガス灯が建てられ、銀座を照らした。

 当時のガス灯は黄色の炎が燃えているだけで、周辺を「照らし出す」ほどの明るさの威力はなかったようだが、行灯やろうそくの明りが頼りだった人々にとってはハイカラで珍しく、多くの見物人が集まったらしい。

 銀座通りの和光の1本裏手には、銀座ガス灯通りが残っていて、3丁目には、明治のガス灯を復元したものも設置されている。

  • 2丁目のカルティエの壁には、アーク灯建設のプレート

 ちなみに、銀座2丁目のカルティエ前は、電気を使った街灯が初めて建てられた場所。カルティエの店舗の壁面下に、「東京銀座通電気燈建設之図」というプレートが残る。そこには、「明治15年11月、始めてアーク灯をつけ不夜城を現出した」と刻まれている。

 アメリカ製発電機を用いて二千燭光のアーク灯が点灯されたそうで、こちらはガス灯よりもはるかに明るく、「まるで昼間のようだ」と人々を驚かせた。

 21世紀の先端ツールを使いながら、文明開化に沸く当時の銀座にタイムスリップするのは、わくわくする体験だった。

 体験期間は3月31日まで(要予約)。情報提供は、日本語のほか、英語、中国語(簡体字、繁体字)、ハングルの4言語5種類から選べる。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.02.19

今、輝く~シャンソンに魅せられた女たち

一人ひとりのドラマを歌う

  • 「シャンソンを始めるきっかけには、一人ひとりドラマがある」と語る長坂玲さん

 以前小欄で取り上げたことのあるシャンソン歌手の長坂玲さんは、銀座8丁目で「銀座シャンソニエ マダムREI窓」を経営するかたわら、シャンソン教室を開いて200人以上の生徒を指導している。

 20代から70代と生徒の年齢層は幅広く、新幹線や飛行機で銀座の教室通いを楽しみにしている人も少なくない。最初は一人で参加した人が、親子で、夫婦で、きょうだいで、仲良しの友達同士でと誘い合い、シャンソンに魅せられた仲間たちの輪は自在に広がっている。

 教室に集う生徒たちの交流会が先日帝国ホテルで開かれたので、ちょっとお邪魔した。「シャンソンを始めるきっかけには一人ひとりドラマがあって、面白いのよ」と聞いていたからだ。

 人生半世紀を過ぎたと思しき女性たちが、それぞれに語ってくれた。

 Hさんは、3年前の正月に突然間質性肺炎に襲われ、3か月間意識不明に陥った。意識が戻ってのどに穴を開ける手術を施し、9か月間声を失い、酸素ボンベを手放せない生活を送っていた。

  • 「銀座シャンソンイエ マダムREI窓」には、素敵なワインのコレクションも

 そんな時、インターネットで偶然教室と出会い、長坂さんが中学・高校の先輩であることを知った。「しゃべることができるのなら、絶対に歌える。シャンソンは語りだから、あなたのペースでできるわよ」と励まされ、昨年3月から恐る恐るレッスンを受け始めた。最初は一つのパートを歌うごとに咳き込んでいたのだが、今では一曲歌い終えることができるまでになった。

 「生の音楽に触れて本当に元気をいただきました。命がつながり、この幸運に心から感謝。一日でも長く歌っていたいと思います」という。

人生を楽しみ、幸せな今に感謝

 シャンソン歴10年のベテランMさんは、高校時代の友人の誘いで、長坂さんが当時自宅で開いていた個人レッスンを受けるようになった。夫を亡くし、2人の子どもを育て上げ、何かやりがいのあることを始めたいと迷っていた時だった。コーラスが好きだったが、子育てで中断。また歌ってみようか、と昔の夢を追った。

 「シャンソンには、ポエムの文学性、フランス語の音の美しさ、人間の声の楽器としての美しさ、そして人間性の表現力の美学など、凝縮された魅力があるのよ」。長坂さんのそんな言葉にひかれ、フランス語を学び始めた。唇の形から丁寧に矯正する厳しい発音指導に、「ついていけない自分が情けなくて、やめたいと思ったこともありました」と振り返る。

  • 交流会には、シャンソン教室の生徒たちが全国から駆けつけた。長坂さんはこの日は和装で

 6年前、長坂さんのコンサートの前座として、初めて舞台に立たされた時は、さすがに声が震えた。それが今では、「年に何度か出演の機会をいただけることが楽しくて仕方ありません。持ち歌をもっと増やしたいな」と語る。

 シャンソン好きな母親の影響で、昨春から本格的に習い始めたのというBさんは、昨年長坂さんに連れられ、本場パリの有名シャンソニエでも歌った。「たった2曲しか歌えないのに、あの場に立ってしまった自分がいまだに信じられず、時々頬をつねっています」と笑う。「あれだけほめられ、おだてられれば、だれでもその気になっちゃいますよ」とも。

 敬虔なクリスチャンで、カッチーニの「アヴェ・マリア」が得意だ。「元気に人生を楽しみ、『今日はよい日』だと、毎朝脳にインプットするんです。すると、本当にそうなるから不思議ですね。先生からは歌そのもの以上に人生の楽しみ方を教わりました」。そ ういうBさんも、肝臓を患ったことがある。

 Wさんは、多忙を極めた仕事を退職した後、シャンソンに出会った。「長い人生、様々なことがあったけれども、シャンソンは、私の今を輝かしく燃え上がらせてくれています。この幸せが与えられたことに感謝です」と、楽しそうに話してくれた。

 それぞれの人生、それぞれの思い・・・。シャンソンはそのすべてを包み込み、だれもを幸せな気分にしてくれるのだろう。

 さびついたフランス語を磨きなおそうか。そんな気持ちにさせられた。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆長坂玲さんの東京シャンソンアカデミー

 http://academy.chanson-tokyo.jp/

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2010.01.29

1粒のチョコで幸せになる、銀座ショコラハーツ

女性同士で交換する“ガールズチョコ”

  • 「1粒のチョコで幸せになる」と提唱している「マザーレンカ」の池田貴子社長

 毎年この季節になると、美味しいチョコレートとの出合いが楽しみな「バレンタイン・フェア」なのだが、新しいチョコレートを仕掛ける元気な女性たちとの出会いも、私にとってはもう一つの楽しみといえる。

 2年ほど前、東京・銀座1丁目に会社を設立した「マザーレンカ」の池田貴子社長もその1人である。

 今年プランタン銀座に初登場のブランド「銀座ショコラハーツ」の仕掛け人。ベルギーから直輸入した材料で作ったカラフルなタブレット型チョコレートに、小物が入るスパンコール地のミニトートを組み合わせた黒のオリジナルポーチも付いて、なかなかおしゃれだ。

 「最近、バレンタインデーに女性同士でチョコレートを交換しているシーンを幾度か目撃していまして、女子向けを意識したガールズチョコを作ってみたのです」と、池田さん。確かに、プランタン銀座が行った「バレンタインデーに関する女性の意識調査」でも、女性同士でチョコレートを贈り合うことに65%が積極的だった。

華道家からベンチャーへ転身

  • カラフルなチョコレートとキラキラした雑貨の組み合わせが女性好み(3780円/税込み)

 花が大好きだった池田さんは、中学時代から華道にのめり込み、都内の女子高を卒業後、いけばな講師を目指して、迷わず専門学校の池坊中央研修学院に進学。21歳で講師の免状を取り、百貨店のカルチャースクールなどで教え始め、たくさんの生徒に囲まれていた。

 ところが、運送会社を経営していた父親ががんで亡くなり、「今まで社会のことを何も知らないまま好きな世界で生きてきたけれど、これからは自分で何かしなければいけないという気持ちに初めて駆られました」。サラリーウーマンとして再スタートする決意をしたのは、まもなく30歳になるころだった。

 まずは、転職情報誌で見つけた不動産投資のベンチャー企業の秘書募集に応募した。「代表も私と1歳違いだったし、ベンチャーの秘書なら会社経営のイロハが学べると思ったから」という。会社の株式上場にも立ち合い、また、同社がM&Aで取得した沖縄のホテルの経営では、全室の覆面調査を実行し、大胆なコストカットを実践した。その仕事ぶりに目を付けた大手のホテルから声がかかり、1000室以上もあるホテルの総支配人を任されたこともある。

 2007年に経営コンサルタントとして独立。「基本的に仕事が好きで、与えられたことは何でも楽しんでやってしまうタイプなんです。でも、目指すのは会社経営。きれい事では済まされない生々しい現場での処理に忙殺される毎日から解放されて、『起業したい病』がむくむくと頭をもたげてきました」

母から学んだ幸せ上手

  • 1月半ばのプランタン銀座のバレンタイン試食会は、女性同士でのグループ参加が条件

 そんな時、10年近く働いたベンチャー企業の代表の言葉が胸をついた。

 「自分にこれしかないと思えるものが見つからないうちは起業しても成功しないぞ」

 それからだ。自分を再度見つめ直した。「食いしん坊で、人との出会いや重要なシーンは食べ物の記憶とともにあり、絶対に忘れない。これって、特技ですよね」。ならば、食にかかわる仕事、それも一歩先というより半歩先を行くくらいのトレンドを意識したビジネスを手がけようと決めた。

 たどり着いたのが、多くの有名ショコラティエが使用する高級チョコレートの原材料ブランドとのライセンスビジネス。そして、日本のマーケット向きに、「世界に誇れる銀座メイドを」と考えて誕生したのが、オリジナルブランドの「銀座ショコラハーツ」だった。

  • プランタン銀座本館1階にオープンした「ショコラ・マルシェ」は、様々な年齢層のお客様でにぎわっている

 「1粒のチョコで幸せになる!」と、池田さんは提唱している。

 その発想は、75歳になる母親の小さな幸せ探しがヒントになっている。「美味しいものを食べても、面白い人に出会っても、母はどんな小さなことにでも感動して伝えてくれます。ほんと、『幸せ上手』なんですよね」

 ストレスを感じた時、たった1粒のチョコレートを口にすることで、脳内で幸福を感じさせる成分が分泌されて、小さな喜びを感じることができたら素敵だという。

 「機嫌のいい女性が増えれば男性も元気になって、経済も上向きになるんじゃないかなあ」。アラフォー女性社長の挑戦はまだまだ続く。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.01.22

心静かな時を過す~「山荘無量塔」

由布岳山麓の清寧な宿

  • 由布院「山荘無量塔」の本館玄関は障子の墨文字が印象的

 年に一度、大分県別府市の立命館アジア太平洋大学(APU)でメディアに関する講義を行っている。約6千人の学生の半数近くをアジア中心に80か国・地域からの留学生が占めており、国際色豊かで教える側としても楽しい。講座には企業から人材を積極的に招き、学生のキャリア形成支援に力を入れているという。

 そして私にとってはもう一つ……。週末の午後の授業なので、その日は温泉宿に泊まってゆっくり、というのも楽しみなのだ。

 今回は別府からちょっと足を延ばして、由布院まで出掛けてみた。

 由布院の旅館御三家といえば、玉の湯、亀の井別荘、そして山荘無量塔。

 前回の小欄でご紹介した「ヒガシヤギンザ」の亭主、クリエイティブ・ディレクターの緒方慎一郎さんが、この山荘無量塔に最近増築された新館の離れ2棟をデザインしたと聞き、ぜひ内装を見たいと思った。

 「無量塔」は「むらた」と読む。

 感慨深いことを「感無量」というが、この「無量」は、仏教の経典の一つ、「無量寿経」に由来する。この世の中、私たちが想像できる範囲からは計り知れないくらいたくさんのご縁で結ばれ、素晴らしい感動をいただいているといった意味が込められているようだ。

 おしゃれな雑貨屋や食事処が並ぶ由布院の中心街からは少々離れた由布岳の麓にあり、木立に囲まれた静寂な空間に心が清められる。本館の玄関の障子に書かれた墨文字が、幽玄の場所へと誘ってくれるのだ。

  • 山荘に増築された新館に続く道
  • 古民家を移築した客室はレトロな雰囲気

心憎い仕掛けが生む、癒やしとなごみ

  • 緒方慎一郎さんデザインの客室には、サプライズな仕掛けが……

 客室はすべて離れ形式で、ほとんどが100平米以上ある。昭和初期の別府の古民家を始め、新潟や岐阜から移築された本館の客室は、落ち着いた木のぬくもり、さりげなく置かれたアンティーク家具の優しいレトロ感、純白のベッドカバーや天然毛の歯ブラシなどこだわりのアメニティーにも癒される。雪見障子もあって、そこから広がる白銀の風景はロマンティックな気分を盛り上げてくれる。

 さて、緒方さんがデザインした新館の部屋はというと、高い天井に、モダンな北欧家具と和のテイストとが何ともうまく融合したなごみの空間だった。

  • 銀座2丁目の「方寸MURATA」は無量塔のプロデュース

 居間の琉球畳の一部がせり上がってきて、掘りごたつになるといった心憎い仕掛けに、緒方さんが「ヒガシヤギンザ」で展開している食のサプライズな演出が重なった。

 実は、この山荘無量塔がプロデュースするレストランが銀座2丁目の銀座ベルビア館にあることを知った。

 「呑惣和洋 方寸MURATA」という。インテリアには、無量塔と同じく古民家の古材が生かされ、懐かしくも温かい雰囲気が漂う。BGMも凝っていて、その昔豊後の人々が聴いたであろう楽曲を選んでいる。

  • 強い粘りのヤマノイモのランチで元気になりそう

 ランチでは、大分名物の鶏天丼やゴマだれうどん、人気の豊後牛ハンバーグなどがあるが、私は、この時期おすすめの、山かけご飯をいただいた。

 「山うなぎ」ともいわれるげんこつのようなヤマノイモは、北秋田の特産だそうだ。長イモよりも粘りが強いのが特徴で、うなぎにたとえられるほど栄養価が高く、滋養強壮に優れているという。大分にかかわらず、日本各地から季節に応じて素材を厳選しているらしい。

 由布院のぬくもりに思いをはせながら、しばし銀座でのランチタイムを楽しんだ。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◇呑惣和洋 方寸MURATA

 http://www.hosun.jp/

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2010.01.15

変化を楽しみ伝統を味わう~「ヒガシヤギンザ」

玉露一滴の悦楽

  • 「しずく茶」を体験。飲んでも食べても美味しいことを発見

 大のコーヒー党の私だが、「しずく茶」を味わえると聞いて、銀座1丁目のビルの2階にオープンした「ヒガシヤギンザ」に出掛けた。

 「しずく茶」は、玉露を1煎目から4煎目まで、味わいの変化を楽しむ作法である。何となく堅苦しいイメージがあったが、この店では、モダンな椅子席で、若いイケメン店員さんが専用の道具を使ってきびきびと入れてくれるので、すっかりリラックスして臨めた。

 まず、1煎目。湯の温度は体温程度だろうか。2分ほど醸したのち、ふたをしたまま左手で茶碗を持ち、ふたを少しずらして右手の指で軽く押さえながら水滴のしずくをいただく。一滴一滴に旨みが凝縮した高級な出汁といった感じだ。

 2煎目では、お茶の苦味がほどよく感じられ、3煎目になると、香りが華やかに開き、4煎目は、湯の温度も上がるので、煎茶のような渋みが広がる。

 そして、4煎目を飲み干した後の茶葉もしっかりいただいた。歯ごたえもあって、なかなか美味である。

 「ポン酢を少々かければ、立派なお酒のつまみにもなりますよ」と教えてくれたのは、同店の亭主、クリエイティブ・ディレクターの緒方慎一郎さんだった。

 商業施設のデザインに携わった後、海外などでの経験も踏まえ、「日本人として、日本文化をいまの時代に沿ったカタチで創造しよう」と、10年ほど前、「シンプリシティ」という会社を設立した。日本文化の中でも、生活に密着している食の分野に注目、東京・中目黒で和食レストランを開業した。また、6年ほど前から「モノとしての食の提案」として和菓子に取り組み始めた。

 現在、西麻布に和菓子のギフトショップ、青山にまんじゅう屋を展開している。今回、世界にも発信できる場所として銀座に茶房を構えることを決めたという。

  • (上)和菓子の販売コーナーは白の世界に包まれて(下)ギフトのパッケージも凝っている
  • 新感覚の日本茶茶房「ヒガシヤギンザ」の亭主、緒方慎一郎さん

五感で表現する和の心

  • そば粉のガレットは日本茶の引き立て役

 「しずく茶」体験も素晴らしかったが、さらなるサプライズは、その後に供されたハーブブレンドのほうじ茶と一緒にいただいた甘味である。

 京都のそば粉を使ったガレットに、あんこ、わさび醤油、レーズンバター、甘味噌を好みで包んで食べる。

 甘さ控えめで淡い藤色の美しいあんこも、レーズンがたっぷり入った芳醇なバターも、それ自体が主役になれる美味しさなのに、同時に、日本茶を引き立てる脇役としても抜群の存在感を示しているのだ。

  • 名物の葛きりもこだわりの味

 一見とがったメニューだが、その素材と職人を日本全国から探し出す嗅覚とエネルギーには、ミシュランガイド日本版の取りまとめ役も務めた藤原浩さんも一目置いている。同店名物の葛きりにも、そのこだわりが凝縮されていた。

 「世界を、グローバルな感覚を意識すればするほど、足元の日本文化に立ち戻る。日本の伝統文化を受け継ぎ、守ることは、常にその時代に合わせた革新を試みることでもあると考えます。ただし、無手勝流ではだめで、押さえなければならない基本ははずしてはならないんです」と、緒方さんはいう。

  • 茶房の一角には茶室のしつらえも

 茶房の一角に、外国人客にも楽しんでもらえるようにと椅子式の茶室が用意されていたが、基本的な伝統の茶事のしつらえはまったく崩されていない。「和の感性とは、そこに存在する空気感や奥ゆかしさ、そのものが秘めている五感の表現そのもの」と語る緒方さんの世界観がよく表されている。

 改めて、和菓子の販売コーナーで目を留めてみると、一つ一つの小さな菓子がそれぞれの物語を語りかけてくるようで楽しい。生い立ち、名前の由来、造り手(職人)の思い……。

 海外の友人が訪ねてきた時には、ぜひ茶室に案内することにしよう。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆ヒガシヤギンザ

 http://www.higashiya.com/shop/ginza/

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2010.01.08

銀座100年後の未来予想図

伝説の名店主集合

  • 銀座の名店主4人が語った「日本と銀座、次の100年」。右から、松崎社長、泉二社長、渡部社長、山本社長

 「影のCIA」と評される企業「ストラトフォー」の創設者、ジョージ・フリードマンが書いた「100年予測」(早川書房)という本が売れているらしい。

 人口爆発の終焉、宇宙太陽光発電による好景気の到来、米国とイスラム世界の戦争が終結、資源輸出国として生まれ変わったロシアと米国は再び冷戦状態になるが、ロシアの自壊で幕を閉じる。その後、一連の新興強国(日本・トルコ・ポーランド)が台頭、今世紀半ばに新たな世界大戦が起こり、世紀末になると、経済大国の1つに浮上してくるメキシコが米国と覇権を争う……などと分析している。あくまでも米国の世界戦略を中心に書かれたシナリオのようだが、「100年後の覇者は宇宙空間を征する国家」ということらしい。

 それにヒントを得たというわけでもないのだろうが、「日本と銀座、次の100年」という興味深いテーマで、銀座の伝説の名店主4人から話を聞く機会があった。

  • 銀座4丁目の「松崎煎餅」は創業200年を超える

 伝説の名店主とは、創業210年の「松崎煎餅」(銀座4丁目)松崎宗仁社長、男の着物で呉服再生に挑んだ「銀座もとじ」(銀座3丁目)泉二(もとじ)弘明社長、メソジスト教会宣教師の伝道活動から始まった老舗書店の「銀座教文館」(銀座4丁目)渡部満社長、岡本太郎を生んだ「東京画廊」(銀座8丁目)山本豊津社長の4人である。

 「100年後の銀座での商いはどうなっているのだろうか?」という主催者の問いかけに、4人は、「明日生き延びるためにどうしようかと頭を悩ませている時に、100年後の予測はとてもとても……」などと前置きしながらも、それぞれ示唆に富むコメントをしてくれた。

「場力」を信じて挑戦

  • 「松崎煎餅」伝統の江戸瓦煎餅

 「幼い時から商売を継ぐのが当たり前と半ば洗脳されてきた」と冗談めかして語ったのは、「松崎煎餅」の松崎社長。「細く長く商いすることが大切」との先代からの教えを守り、「鉄の鋳型で一枚一枚心を込めて焼くことが原点」「商品を売らせていただいているという気持ちを忘れない」という。

 伝統は継承しながらも、100年後、時代の変化とともに、甘さや食感、添加物などへの配慮等、煎餅のカタチも少しずつ変わっていくだろう。湿気に弱いといった弱点もあるが、「乾燥地域ならば通用する」と、国際商材としての可能性をみる。

 21歳で鹿児島から上京し、「人生一度しかないのだから銀座で勝負をしてみたい」と考えた「銀座もとじ」の泉二社長。「銀座では新参者」と謙遜するが、今年創業30周年を迎える。2002年には、呉服業界では未開拓の市場だった男のきものに着目した店を開いた。「人生を変えてくれた着物にいつも感謝」しつつ、「ナンバー1」「オンリー1」「日本初」に挑み、競い合えるのも、銀座の「場力」だと信じている。「おもてなしの職人づくり」を掲げ、養蚕農家や着物づくりの現場の職人たちにも、年一度は銀座の空気を吸ってもらうようにしている。

 顧客の家族構成からいつ何を求められたかまで、全てを記録している着物カルテが何よりの財産だ。「先日、孫の成人式の振袖をつくりに来られたお客様に、お宮参りや七五三など成長の記録をお見せすると、涙を流して喜ばれた。カルテは、おもてなしのカタチです」。100年後も、カルテがしっかり残っている店でありたいという。さらに、「海外に出掛ける時にもっと着物を着て行ってほしい。着物の文化を知ることは、必ず男磨き、女磨きにつながるはずです」。

アジアのアート発信基地に

  • 銀座3丁目の「銀座もとじ」は、男のきもので注目されている

 銀座で110年以上の歴史を誇る「教文館」。確かに本は、銀座で買っても新宿で買っても同じである。だが、渡部社長は、「銀座という街が求める質に応じた品ぞろえ」に配慮しているという。年間7万タイトルが出版され、書店の大型化も進む。活字離れ、不況で単価の張る本が売れない、デジタル化の進展など、新しい波は来ている。だが、本の歴史をさかのぼれば、布から紙へ、大きく変化した時代だってあったのだ。

 オンデマンド出版も本格化し、また、100年後は、自動販売機のようにお金を入れると本が出てくるマシーンも登場しているかもしれない。とはいえ、あふれる情報の中から価値ある良書を見つけるのは、ますます困難を極める。コンピューターの検索機能だけでは判断できないからだ。「これからは『知の案内人』としての本屋の存在が大事になる。良い本を並べて、いかに人間が丁寧に相談にのることができるかが勝負でしょう」。

  • 銀座4丁目の「教文館」は、にぎやかな銀座中央通りに面している

 「美術品は世界の文化遺産。世界中を回り、物語を伝えるコミュニケーションの役目を果たしてきた」と語るのは、「東京画廊」の山本社長。そして、近代美術を商品化し、店頭に並べるという画廊のシステムは銀座からスタートしたそうだ。トマトケチャップやハンバーグまでポップアートにして、消費文化の物語を紡いだ米国のアートは、世界中の家庭に浸透した。日本では、浮世絵とともに発達した富士山アートが、日本人のナショナルアイデンティティにもなって、企業は縁起物として正月に飾ったものだ。ところが、若い世代の関心は、富士山よりもアニメーションや漫画に移り、それがまた、海外でも人気になっている。

  • 銀座8丁目の「東京画廊」は、ビルの7階に。この通りには画廊が多い

 さて、次の物語はどんなものが語られていくのだろうか。「今までの100年は西洋文化に憧れ、それを学び吸収し、輸入する側でいたけれど、これからは日本から飛び出して、日本独自の物語を世界に売る時代。日本を世界にもっともっと知ってもらうことだ。アジアのアートの発信基地になることが100年後の日本の姿です」。

 堅実かつぶれない本業の「芯」を保ちながらも、時代をにらみ、海外をしっかり視野に入れた行動を考えている店主たち。銀座はいま、経営者の世代交代が進みつつある時だが、こうした発想は、次世代にも受け継がれ、21世紀の銀座の新しいカタチがつくられていくに違いない。

 さて、今年も、東京・銀座を中心に様々な情報を発信していきますので、ご愛読ください。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)