GINZA通信アーカイブ

2010.07.30

知る人ぞ知る路地裏の文具店

日本語のもと「五十音」を店名に

  • (左)「天賞堂」のキューピッドもヴァカンススタイル?(右)「五十音」は、ボールペンの手づくり看板が目印

 銀座には、文房具探しのための散策ルートというのがある。

 明治創業の老舗の「伊東屋」、与謝野鉄幹・晶子夫妻が名付け親の「月光荘画材店」、新規参入の「東急ハンズ銀座店」、こだわりの文具をそろえたプランタン銀座の「スコス」……そして、銀座4丁目の路地裏にある小さな店「五十音(ごじゅうおん)」である。

  • 路地裏へと進むと、赤い鳥居の前にお店のサインが……

 並木通りの宝飾店「天賞堂」のシンボル、キューピッド像にうながされるようして、路地裏へと進んでいくと、宝童稲荷の赤い鳥居の真ん前に、「五十音」の看板がちらりと見える。

 6年ほど前にオープンしたこの店の若き女性オーナー、宇井野京子さんが注目したのは、ボールペンと鉛筆。

 「書き言葉で五十音は、基本ですよね。言葉もきれいですし、面白いかなと思って名付けました。ときどき『いそねって読むのですか?』なんて、質問も受けますけれど」と、店名の由来を教えてくれた。

直感的に使える道具の面白さ

  • 宇井野さんを文具フェチにしたフィックスペン(著書「ボールペンとえんぴつのこと」より)

 文房具愛好家というよりも道具フェチになったのは、子どものころ、黒いメタリックのカランダッシュのフィックスペンを両親からプレゼントされたのがきっかけ。

 ボディには万年カレンダーが刻まれていて、ユニークな7面体だった。子どもには不似合いなクールな外観が気に入り、何か大切なことを書くときしか使わなかった。それでも、芯は丸くなる。けれども、芯の削り方がわからない。

 ある日のこと、だれに教わるともなく、突然ピンとひらめいた。「ノック部をはずした内部に芯を削る部分を発見して、実に美しく削ることができまして。その瞬間、もう道具って、スゴイ、スゴイ、道具ラブ! と叫びそうになりましたっけ」

宝童稲荷のご利益?

  • (左)「五十音」の店内には、ゆったりとした時間が流れる、(右)宝童稲荷は、明治から起業家の守り神

 デジタルの時代――とはいえ、「私が生きている間は、文字を書く人たちがまだまだ残っているはず。時代に逆行するアイテムや流行の中で生き残れなかったモノたちの安息の地があってもいいのでは……」との心意気から、店を開くことに。

  • (左上)アメリカ人デザイナーから贈られた「ペンの神様」(著書「ボールペンとえんぴつのこと」より)、 (右上)「自分が気に入ったものだけを置いています」と、オーナーの宇井野京子さん、(左下)純銀のボールペン筒(手前)はお宝のひとつ、(右下)A5サ イズの特製ノートカバーはペンホルダー付き

 学校の前にある文房具屋さんのように、何かのついでに自然と立ち寄ってもらえる感じにしたいと、駅やデパートに近いといった条件で物件を探した。

 銀座以外の繁華街でも随分探して、かなり難航していたのだが、ある夜、銀座の路地裏の物件がパソコンでヒット。翌日内見し、個人の大家さんだったことも幸いして、すんなり契約ができてしまった。

 「内見した帰り、店の向かいの宝童稲荷に、ここでオープンできますようにって願をかけたら、本当に思い通りになっちゃった。キツネにつままれたような気持ちでした」

 「五十音」があるあたりは、その昔、弥左衛門町と呼ばれていた。明治35年ごろの地図をみると、現在の電通、味の素をはじめ、第一徴兵保険(のちの東邦生命)、黒沢タイプライター、諸星インキなどの創業の地として印されている。「成功を収めた起業家の登竜門」の場にお稲荷さんが鎮座されているというのは、意味のあることなのだろう。

不思議な「ペンの神様」

  • (左)書きやすそうな鉛筆がいっぱい、(右)鉛筆削りも、こんなにかわいい

 不思議なことはほかにもあった。

 まだ店舗という基地がなかったころ、多くの業者が剣もほろろだった中で、単身ニューヨークに乗り込んで行った宇井野さんの話にしっかり耳を傾けてくれたアメリカ人のペンデザイナーがいた。その彼は、商品を卸してくれただけでなく、6本の手を持つ不思議なペンホルダーを贈ってくれた。

 「それを持って帰国した直後に、銀座の物件は決まるわ、吸い寄せられるようにして商品は集まってくるわで……。私は『ペンの神様』だと思っています」

 オープン当初はとにかくできるだけの種類をそろえなければと焦りに似た衝動にかられたこともあったが、結局、「自分が気に入ったものだけを置く」というコンセプトに落ち着いた。

 「専門店というよりも、ボールペンや鉛筆を偏愛している偏売店、ですね」

鉛筆文化を支えたい

  • 宝探しをしているような楽しい気分にしてくれる

 3坪の店には、65円の鉛筆から65万円のエナメル細工のペンまで、様々な文房具がおもちゃ箱を引っくり返したかのようにところ狭しと並ぶ。革の鉛筆キャップや木の補助軸、セルロイドの筆箱など、なんとも懐かしい商品もある。

 日本人ならば、だれもが手にしたことのある鉛筆……。これほど自分の感情を上手に、しかも手軽に表現できる道具はほかにないだろう。

 「鉛筆製造は東京の地場産業の一つ。でも、下町の鉛筆工場が次々と姿を消していくことは、時代の流れとはいえ、ちょっと寂しい気がします」

 ご近所の老舗の主たちが、まるで娘の面倒をみるかのように、飛んで来て様々な相談にのってくれるのも、「街を愛し、人を愛し、そして義理人情に厚い銀座ならでは」と強調する。

 鉛筆文化を微力ながら支えつつ、小さな店だからこそできる銀座への恩返しは何だろう……宇井野さんはそう考えながら、日々仕事をしているという。

(プランタン銀座取締役・永峰好美)

ボールペンとえんぴつの店「五十音」

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.07.23

名店の味と季節の器使いを学ぶ

自宅サロンで料理教室

  • 「和食器のコーディネートは自由な発想で」と、「東哉」の松村晴代さん

 昨年11月27日付の小欄に書いた、銀座8丁目、金春通りにある「東哉(とうさい)」の松村晴代さんから、なんだか楽しそうな自宅での料理教室のお誘いをいただいた。「東哉」は、小津安二郎が愛した京焼の老舗として知られる店である。

 単に料理の作り方を学ぶだけでなく、季節に合わせた和食器の取り揃え方が学べると聞いて、お邪魔することにした。

  • ベランダからブドウ棚越しに東京タワーが望める

 靖国神社にほど近い、11階建てのマンションの最上階には、住民共有のパーティースペースがあって、ソファやダイニングテーブルなどがそろっている。それとは別に、本格的な調理実習ができる部屋まである。

 ベランダに出れば、ブドウ棚の緑がまぶしく、夏の日差しの向こうには東京タワーが望める。夕涼みをしながらの生ビールがさぞおいしいだろうな、などとあれこれ空想させる場所であった。

和食器の色合わせは自由に、軽やかに

  • 和食器を使った夏の涼やかな食卓コーディネート

 パーティースペースには、すでに松村さんが選んだ和食器による、夏の涼やかな食卓コーディネートが披露されていた。

 一茶の句が書かれた掛け軸には、ボタンとオトギリソウを生けた竹かごが寄り添う。お香立てはシルバーの金魚型で、それに合わせて香皿も大きな目玉のキュートな金魚柄。

  • (左上)青のイメージでまとめた様々な酒器、(左中央上)朝顔型の小器がアクセントに、(左中央下)簾のテーブルマットが涼しげだ、(左下)箸置きにも波型を配して、(右上)お香立ても香皿も金魚をデザイン、(右下)徳利の首に波のデザイン

 (すだれ)のテーブルマットをはじめ、4種類の酒器は、ブドウの葉の文様、「渦潮」といわれる渦巻き柄、青のグラデーション……。目を凝らすと、一つひとつに工夫がいっぱいだ。徳利の首の部分や笹舟型の箸置きには、「青海波(せいかいは)」と呼ばれる波のデザインが施されている。深く美しく輝きのある青の器は、朝顔を連想させる。

 そのどれもこれもが、すっきり涼やかな演出のアクセントになっている。

 「色合わせは自由な発想で、軽やかに。素材も陶器、磁器やガラスを取り混ぜて選ぶのがいい。洋食器のようにセットでずらり並べてしまうと、野暮ったくなります」と、松村さんはアドバイスしてくれた。

ミシュランの味を実習!

  • (上)料理の指導をしてくれた銀座「うち山」の内山英仁さん、(左下)プロの包丁さばきにうっとり、(右下)魚素麺が湯の中を美しく泳ぐ

 別室に移動して、いよいよ調理実習である。料理の指導は、銀座2丁目にあるミシュラン星付きの日本料理店「うち山」店主の内山英仁さん。

 本日のメニューは、加茂ナス田楽、スズキのかまの酒蒸し、イチジクと稚アユの煮おろしあんかけ、フルーツトマトゼリーかけ・魚素麺(そうめん)添えの4品。

 小欄は料理コラムではないけれど、実習で印象に残ったことだけでもぜひお伝えしたいと思う。

 密度が高くてずっしり果肉が詰まった賀茂ナスは、みずみずしくいかにも美味しそうだった。皮をむくときには、包丁を固定してナスをゆっくり回していくと、包丁の目が美しく入ると教わった。プロの包丁の技に、しばしほれぼれと見入ってしまった。

  • (左上)加茂ナス田楽、(右上)スズキのかまの酒蒸し、(左下)イチジクと稚アユの煮おろしあんかけ、(右下)フルーツトマトゼリーかけ・魚素麺添え

 田楽用みそは、白みそ1キロに対して、卵黄1個、砂糖100グラム、酒1合を合わせて、密封して30分蒸す。卵を使うので「玉みそ」という。保存できるので多めに作り、ゴマを足して田楽みそに、木の芽を入れて木の芽みそにと、応用がきく。

 魚素麺を自分で作ったのは、初めてだった。トコロテンの突き棒をさらに武骨にしたような専用道具に魚のすりみを入れて、煮立ったなべの中に絞り出してゆで上げる。ぎゅっと絞り出すのに意外に力が必要だった。乳白色の毛糸がなべの底に渦を巻きながら溜まっていく様は美しかった。

 4つのメニューの中で、自宅で試してもとても美味しくいただけたのが、イチジクと稚アユの煮おろしあんかけである。

 稚アユはもちろんだが、イチジクも小麦粉をまぶして丸ごと揚げるところが面白い。170度でイチジクを半生状態にからりと揚げてから、少々温度を上げて、今度は稚アユをしっかり揚げることがポイントだ。

 だし汁360ccに、みりん30cc、薄口しょうゆ40ccを温め、ダイコンおろしを加えて、煮立ったら水溶き片栗粉でとろみをつける。刻んだ九条ネギはたっぷりと。

 本格的な料亭の味(?)に、ちょっとだけでも近づいた気がして、私としてはかなり満足のいく仕上がりだった。

個性とセンスで季節を演出

  • ガラスのモダンなテーブルに和のお敷を合わせる

 さて、パーティースペースに戻り、料理を供する。ガラスのモダンなテーブルに、塗りのお敷が違和感なく溶け込んでいた。

  • (上)愛らしい「波千鳥」のデザイン、(下)湯のみもご飯茶碗も夏の季節が盛り込まれて

 ここにも、涼感を誘うアイデアがあちこちにあった。扇型の箸置きは、浜辺を飛び交う愛らしい千鳥柄。湯のみにアジサイの花が咲き、平たいご飯茶碗には、すがすがしい空を思わせるスカイブルーのブドウ柄が映える。

 「和食器のテーブルコーディネートは、どうにでもなるから楽しいのよ。その人の個性とセンスで決まるのですから」と、松村さん。

 センス……、かあ。

 箸置き一つでも、お香立て一つでも、季節感を演出できる和食器の醍醐味を堪能したひとときだった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆巧芸陶舗 東哉

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.07.02

ろうそくが点された、夜のギャラリーを巡る

カナダ発祥の「キャンドルナイト」

  • 「K’s Gallery」の壁際をたどっていくと……

 ろうそくの灯りがこんなにも温かいものなのか――再発見させてくれるイベントが、週末の東京・銀座で行われた。

 「トウキョウミルキーウェイ」という団体が主催する「銀座☆夜のギャラリー巡り」である。銀座界隈に点在するギャラリーを、アーティストの案内人と一緒にいくつかはしごするという内容だ。この日に限って、照明を落としたギャラリー内にはろうそくが置かれていて、薄暗い中でその灯りを頼りにアートを鑑賞する。

  • 増山麗奈さんの即興アート

 照明を消してろうそくの灯の下で過ごしてみようという「キャンドルナイト」の企画の一環。

 もとをたどれば、カナダで原子力発電所の建設反対を訴える自主停電運動がきっかけだった。「原発反対を100万回叫ぶよりも、一人ひとりが日常生活で電気を点けない時間を体感していく方が本当に平和な暮らしにつながる」との考え方から、日本では、2003年の夏至日(6月22日)に「100万人のキャンドルナイト」がスタート。毎年、夏至と冬至の夜を中心に開催されている。

 また、その前後の期間には、今回ご紹介するギャラリー巡りのような様々なイベントが全国各地で行われており、年々参加者も増えている。今年は、もう1つの浅草橋でのギャラリーツアーと合わせると、100名近くが参加した。

薄明かりの中、感覚を研ぎ澄ませて

  • (上)LEDを使った桐村茜さんのボックスアート、(下)パフォーマンスをする黒田オサムさんに目が釘付けに

 6月の最終土曜日の午後7時。私が選んだツアーのメンバーは、銀座1丁目の「K’s Gallery」に集合した。

 壁際の床に並ぶろうそくの灯りをたどっていくと、スペースの奥に、インパクトのあるアートを発見。反戦活動家としても知られる増山麗奈さんの即興アートだった。

 広島の原爆被爆者である丸木位里、俊夫妻作の「原爆の図」にインスピレーションを受けて描いたという。日本人が決して忘れてはならない戦争の悲惨な記憶だが、フロアに置かれた家族の絵にはどこか安らぎが感じられ、静かな祈りの気持ちへと導いてくれた。それは、周囲に灯る高野山から取り寄せたろうそくの灯りに守られているせいだろうか。

 LEDを使った壁際のボックスアートは、桐村茜さんの作品。薄暗い空間の中で、黒田オサムさんの即興パフォーマンスが演じられた。パリ・コミューンで活躍したルイーズ・ミシェルや、日本のダダイズムの中心的思想家の一人だった辻潤をモデルにした、硬派のテーマ。ぴーんと張りつめた空気の中で、「パリ・コミューン」も「ダダイズム」もあまり縁がないといった風に見受けられた若者たちも、しばし歴史をさかのぼり、時の流れを楽しんだようだった。

 では、二番目のギャラリーに出発だ。ろうそくの灯りが頼りだったギャラリーから銀座の街に出ると、普段見慣れているはずのネオンが痛いくらいにまぶしい。

移動中の灯りも「行灯」で

  • 行灯を携えた案内人とともにギャラリーツアーがスタート
  • (上)「アートスペース銀座ワン」の写真アート、(下)「純画廊」は、海と宇宙の神秘がいっぱい

 行灯(あんどん)を持った案内人に促されて、銀座1丁目の銀座アパートメント(現・奥野ビルディング)に向かった。

  • 小さなギャラリーが集まる奥野ビル

 ここは、2009年1月23日の小欄の最後の方で紹介したことがあるが、私のお気に入りのスポットでもある。

 昭和初期、作詞家の西条八十が住まいにしていたアパートで、いまは20近くの小さなギャラリーが入居している。

 訪ねたのは、2階にある2つの画廊。

 「アートスペース銀座ワン」では、「鼓動」というタイトルの興味深い写真アートに出会った。ここでは背後からスポットライトが当てられ、床に置かれたろうそくの灯りにもシンクロして、不思議な躍動感を醸し出していた。

 純画廊の「夏が来る!」では、海と宇宙の神秘や謎の魅力に一瞬にして引き込まれた。蒸し暑い東京の夏を吹き飛ばすような、清涼感も感じさせる若手作家の作品だった。

目に映るもの全てがアートに

  • (上)昭和初期に建てられたヨネイビルの隣りにある「ギャラリーG2」、(下)「ギャラリーG2」の入口

 お次は、2丁目の「ギャラリーG2」へ。機械類の輸出入を専門にしていた米井商店が本社ビルとして昭和初めに完成させたヨネイビル(東京都選定歴史的建造物)隣りの建物にある。

 ここでは、キャンドル作家のmeggyさんが、真っ赤なバラをあしらったり、パステル調のやさしい色を集めたり、雰囲気の違うさまざまなろうそくアートを披露していた。見上げると、真紅のゴージャスなシャンデリアが展示されている。それもろうそくだと聞いて、王宮にいるごとくロマンチックな気分が倍増した。絵画担当の33STRIKEさんとのコラボレーションもポップな感じで楽しい。「まったく打ち合わせなし」と聞いて、これまた驚いた。

 最後は、15分ほど銀ブラしながら8丁目の「ギャラリーナミキ」へ。美大の通信講座で学んだという鷺たまみさんの、陶による造形作品の個展。銀座並木通り沿い、ガラス張りの奥に広がるスペースで、何かがうごめいているような“生命の叫び”的なるものを感じたのは、私だけだっただろうか。

 会場に入り、ろうそくの灯りの中にたたずむ参加者たちの談笑風景を背景にして作品を見直すと、それ自体が薄暗闇のアートになっていることに気づく。

 銀座の片隅で、静かな時間が過ぎていった。

  • (左)ポップな絵画と相まって不思議な効果が、(右)パステル調でやさしい灯り
  • (左)ろうそく自体がアートに、(右)キャンドル作家meggyさんのシャンデリア
  • (左)「ギャラリーナミキ」の鷲たまみさんのアート(立ち姿がご本人)、(右)参加者も立派なアート作品に

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆トウキョウミルキーウェイ

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.06.18

骨董に恋した“数寄者”に、その心得を聞く

東洋古美術の店「桃青」

 前回の小欄では、西洋のアンティークの話題をつづったが、今回は古い茶道具や仏教美術を中心とする東洋古美術を扱う店のことをご紹介したい。

 銀座7丁目にある「古美術 桃青」である。

 店主、冨永民雄さんは、最近「恋する骨董」(日本経済新聞出版社)という著作で、自らの古美術遍歴や、恋してやまない骨董との不思議なめぐり合いについて、たくさんの楽しいエピソードを披露している。

 入門者として覚えておきたいツボはもちろん、おじいちゃんが遺したコレクションを巡って展開する様々な事件を題材にしたミニ小説などもあって、実に面白い。

 ぜひ一度お目にかかりたいなと思っていたところ、銀座歩きの達人で、「おさんぽマイスター」を名乗る岩田理栄子さんの案内で、冨永さんの話を聞く機会があった。

夢かなえ、編集者から古美術商へ

  • 骨董をめぐるミニ小説もなかなか面白い

 大学卒業後、大手出版社の編集者として活躍していた冨永さんは、学生時代からこつこつと収集した古美術で店を開くのが夢だった。

 深夜に及ぶハードな編集者生活にそろそろ区切りをつけなければと迷っていた時、「さっさと辞めなさい。私が手伝うから!」という妻のひと言が背中を押した。17年ほど前、まもなく50歳のときだった。

 かつて暮らしたことのある鎌倉で開店。屋号の「桃青」は、松尾芭蕉の雅号に由来する。下級武士の立場を捨てて数寄(すき)の道に突き進んだ芭蕉に、サラリーマンから旅立つ己の姿を重ね合わせたのだという。

 そして、古美術商の憧れの地、銀座に移ったのは2003年。

 「商売歴は短くても、プロの先輩たちに負けない仕事をしようと思いました。いくら口がうまくても、結局は品物次第。売った後は知らぬ振りではなく、最後まで責任をもつのが私の信条です」

 歯切れのよい語り口。店内のお宝一つひとつを手にとって、子煩悩の親が我が子を自慢するかのように目を細めながら説明する姿を拝見していると、本当にこの人は骨董にほれ込んでいるのだなあと、こちらも温かい気持ちになってきた。

男女の神像を縁結び

 たくさんのお宝の中で、私は1対の男女の神像に目が留まった。全体的に彩色が残っていて麗しい。気品に満ちて、それでいて気取りすぎていない柔らかな表情に癒される。鎌倉時代の作だそうだ。

 この神像には素敵なストーリーがあった。

 「ある人から女神像を購入したら、すぐに同業者から引き合いがありました。でも、なんだか売る気になれなかった。すると、1か月後、まったく別のルートから男神像の情報が……。もちろん、即購入です。裏側の釘の残骸からもこの2つが対を成す神像であることは明らかでした」

 冨永さんは、長い間離れ離れだった男女を再会させた“縁結びの神様”になった、というわけだ。再会の記念にと、手作りの台座をプレゼントし、「もうばらばらには売らないぞ」と、心に誓った。

 茶道具は茶室の中で見てもらおうと、店内には「二畳中板」の茶室も造った。縁のない琉球畳に、シンプルな土壁。床の間には、蔵元から出てきたばかりというたいそうな花入れが飾ってあったが、その価値をうんぬんすることなど、私にはもちろんできない。とはいえ、通りの喧騒をしばし忘れさせてくれるような静寂な空間は、非常に心地よかった。

骨董の縁は恋に似て……

 冨永さんから教わったことの一つに、「昔は見向きもなされなかったものが、数百年後に極めて高額で売買されるケースは少なくない」というのがある。

 江戸時代の「嵯峨(なつめ)」が典型例という。これは、庶民用で品質が高くなく、金粉がはげたり、その下の赤絵が出てきたりして、粗雑なものと片付けられていたのだが、あるとき、その欠点がかえって「雑味がある」と評価され、今では数百万円の値がつくものもあるらしい。

 わからないものである。時代を経ると、「あばたもえくぼ」ということか。いや、過去のロマンに思いを馳せ、未来のロマンにまた夢を託す――骨董の世界には、そんな楽しみ方もあるということだろう。

 店の一角に、美しい古代(きれ)のコレクションがあった。これは、妻の眞喜江さんがお茶入れの仕覆(しふく)づくり教室を開いていて、その材料として使っている。とても気に入った柄があったのだが、裂だけ買うことができないと聞いて、ちょっと残念。とっても不器用な私だけど、仕覆づくりに挑戦してみようかなあ。

 冨永さんは、著書の中でこうも語っている。

 「古美術・骨董品は恋人によく似ているのです。出会い、心奪われ、ときめいて、告白して交際、愛を遂げるか『思い違い』に気が付くか……(中略)それ故に、運命の出会いっていうこともあるのです」

 「運命の出会い」、か。「値段はお尋ねください」という表示にしり込みしていた私だが、そうした目で骨董品を見つめ直すと、なんだかわくわく感が高まってきた。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆古美術桃青

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.06.11

気軽に楽しむアンティークのススメ

可憐で美しい色のグラスに一目ぼれ

  • 私が購入したバカラのアンティークグラス
  • 「アンティークTEI」の明るい店内

 あまり高価なものは買えないが、アンティークを見るのが好きだ。

 最近手に入れたのが、このバカラのアンティークグラス。カットが美しく、重厚さのある現代のバカラのグラスもいいけれど、アンティークの繊細で可憐な造り、それに美しい赤と緑の色調に一目ぼれしてしまった。きめ細かな泡立ちのシャンパーニュを注いで、休日の昼下がりを楽しんでいる。

 銀座には骨董や、西洋のアンティークジュエリーなどを手がける店が数多い。間口が狭くて中の様子がわかりづらいため、入るのを躊躇してしまう店も少なくないが、銀座6丁目、泰明小学校のすぐ近くにある「アンティークTEI(鼎)」は、明るくて開放的な雰囲気が心地よい。

 バカラのグラスを買ったのは、この店がプランタン銀座で年数回開かれる「アンティークバザール」に出店していた時だった。

 改めて店に伺うと、社長の中山弘子さんと、息子で副社長の中山弘一さんが、にこやかに迎えてくれた。

 店内には、日本のものと西洋のものが半々ぐらい。「息子が本格的に買い付けに加わるようになってから、洋ものが増えていますかね」と、弘子社長は話す。

本物を見て目を肥やそう

  • 1700年代のインド製ダイヤモンドのブローチ(上)、シャープなイメージのアールデコ時代のブローチ(左下)、アメジストのカメオは珍しい
  • 副社長の中山弘一さん。窓ガラスの向こうに泰明小学校の緑が広がる

 私にもわかりやすいアンティークジュエリーなどを、いくつか見せてもらった。

 1700年代後半に造られたというダイヤモンドのブローチはインドから。1700年代といえば、ムガール王朝。インドが経済的にも文化的にも繁栄した時代である。どんな王侯貴族がこのブローチを身に付けていたのだろうか。

 18金の縁飾りに大粒パールが散りばめられたカメオのブローチは、シックな紫色のアメジスト製。1860~1880年代のフランスのもの。直線的でシャープなイメージのダイヤモンドのブローチは、アールデコ時代のフランス製。黄みがかった色合いがなんともエレガントだ。

 ドームとガレのアンティーク・ランプは、この光の下で、グラスを傾けながら音楽を聴いたら、さぞ優雅な気分になるだろうと空想をかきたててくれる。

 値札をみると、数百万円。私が購入したバカラのグラスよりもゼロの数が2つほど多い。

 「なかなか庶民には手が届きませんねえ」とため息をついていると、弘子社長は、こう言った。

 「本物を見ていないと、目が肥えませんよ。本物を知れば、(のみ)の市に行っても価値あるものは3メートル先で光ります。買わなくても、まずは本物を手に取ることから始めてください」

留学先のアメリカで骨董の道に目覚めた2代目

  • 日本にもファンが多いドーム(左)とガレのランプ

 2代目社長の弘子さんは、興味深いエピソードの持ち主だ。

 戦後、実家は東京・目黒で骨董の店を開いていた。高校時代は、掛け軸を巻いて小遣い稼ぎ。骨董の作法は自然に身につけていたが、家業を継ぐ気はなかった。

 学生時代、交換留学生として米西海岸のサクラメントに滞在。帰国前、憧れのニューヨークに立ち寄り、骨董店でほこりをかぶったままになっている刀の(つば)を3枚購入。それがなんと室町時代のもので、日本の市場に出したら購入価格の何十倍もの値がついた。

 先代である父親の信用を取り付け、父娘でニューヨーク通いを続け、(かぶと)(よろい)、屏風や箪笥などを次々に買い付けた。

 もちろん、順風満帆なことばかりではなかった。

 「かなりの儲けをなくしたこともありました。それで、ニューヨークに店を出す夢は破れ、こうして働き続けなくてはならなくなっちゃったのよ」と、冗談交じりに笑う。

歴史を知り、母の仕事に惹かれ

  • 69回目になるプランタン銀座の「アンティークバザール」

 目黒から銀座に店を移して、約8年。先代からの常連客に加え、「銀座に出掛けたついでにと寄ってくれる新しいお客様が増えて、幅広い層の方々に出会える。この仕事、とても楽しいんです」。

 柔らかな物腰でそう語るのは、副社長の弘一さん。音楽大学でフランス歌曲を学び、背景にある歴史を知るうちに、身近に接していた母の仕事に惹かれていったという。宝石鑑定の資格も取った。

 フランス語が堪能で、年4回、フランスの国営オークションをはじめとする海外買い付けに出掛ける。

 「アンティークをご縁に、お客様から、ミュージカルやオペラを披露する機会をいただくこともありまして……」

 一つひとつに物語のあるアンティーク。その物語が、人の輪も広げていくようだ。

 ちなみに、69回目を迎えるプランタン銀座の「アンティークバザール」は、6月21日まで、本館7階催事会場で。「アンティークTEI」も出店している。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.05.28

平安朝の日本人の知恵“扇子”

京都の老舗扇子店「宮脇賣扇庵」

  • 創業180年を超える「宮脇賣扇庵」は、銀座8丁目の三井ガーデンホテルのすぐ近く
  • 見ているだけで涼風を感じる店内のディスプレイ

 祖母が観世流の能楽を趣味にしていたこともあって、幼いときから、色鮮やかな舞扇に囲まれて育った。だから、扇は大好きだ。

 13歳の誕生日のことは忘れられない。それまでの小ぶりの童用と違って、大人と同じ大きさの扇子を祖母から贈られた。「そうか、大人の仲間入りかあ」と、ちょっと胸を張りたい気分になったものである。

 銀座8丁目にある「宮脇(みやわき)賣扇庵(ばいせんあん)」は、文政6年(1823年)創業の老舗である。昭和34年、当時の皇太子殿下のご成婚の際には祝の扇を献納したことでも知られる名店だ。

 美濃国出身の初代が、当地で扇子の商いをしていた近江屋新兵衛から扇子屋の株を譲り受けて、京都で創業した。現在の屋号は、明治20年から。書画をたしなみ、文人墨客とも交流があった3代目新兵衛の時に、画家の富岡鉄斎が「賣扇桜」という京の銘木にちなんで名付けたのだそうだ。

 東京に進出したのは戦後だが、現在の銀座8丁目に路面店を構えるようになったのは7年ほど前という。

元はメモ帳代わり

 冷泉(れいぜい)為紀(ためもと)の筆による「美也古扇(みやこせん)(=美しきなりいにしえの扇の意)」と書かれたのれんをくぐって店内に入ると、見た目も涼やかな扇子がずらりとディスプレイされていた。

 左手には、投扇興向けの扇子があった。扇子を投げて、台の上に立てられた的(蝶と呼ぶ)を落とし、点数を競う江戸時代の遊びだが、いや、なんて優雅な古典遊戯なのだろうか。当時の人々は、好みの色の扇子を買い求めて、ゲームに興じたことだろう。

 店長の増渕義明さんに、まず、実物を見ながら扇子の歴史をうかがった。起源は平安初期にさかのぼる。

  • 投扇興の関連商品は入り口入って左手に
  • 扇を投げて点数を競い合う優雅な遊び「投扇興」(同店のパンフレットから)
  • 最初の扇といわれる「檜扇」。増渕店長が歴史を語ってくれた

 最初の扇子は、「檜扇(ひおうぎ)」と呼ばれ、木簡という長さ30センチくらいの細長く薄い木の板を綴り合せたものだった。紙が貴重品であった時代である。宮中行事の作法や会議の場での議事録を記すなど、メモ帳代わりに使われていたそうだ。

 その後、扇面は上絵で飾られ、形状も洗練されて、宮中女子の間に広まった。女性たちにとっては、顔を隠し、恥じらいのポーズを取るとき、欠かせない小道具でもあったに違いない。

世界に広まった平安の知恵

  • 紙扇の原型「かわほり」

 紙扇の原型は、「かわほり」という。漢字を当てると、「蝙蝠扇」。扇を広げると、その形が蝙蝠(こうもり)の羽に似ていたために付けられた。片面にだけ紙を貼ったタイプで、それが鎌倉時代に禅僧などによって中国に渡り、紙が両面に貼られるスタイルに変化。室町時代、「唐扇」として日本にも逆輸入されるようになったという。その後、紙の貼りあわせ方などが改良されて、江戸期には庶民の間にも普及し、インドやルイ王朝のヨーロッパへと伝わっていく。

 風を送る道具として、それまでウチワのようなものは中国や東南アジアに存在したが、折りたたみ、常に携帯できる扇子を生み出したのは、平安の日本人の知恵だった。

 扇子の骨は、基本的には15本から45本。扇骨・扇面作りから、扇骨と扇面を組み合わせる作業まで、その工程は25ステージほどに分かれ、職人の手を87回通るといわれている。手間を惜しまぬ大変な作業だ。

 最近では職人の確保がなかなか難しく、同店の白檀扇を造れる人はいま、日本にたった一人しかいないという。そう聞くと、白檀扇に12万円から30万円くらいまでの価格が付いているのも仕方のないことなのかもしれない。

 45本の骨を使うタイプの誕生は昭和初期と比較的新しい。開くと180度まで広がって、大ぶりだ。一応男性用として作っているらしい。実際に仰いでみると、たっぷりの風を包み込むようにして運んでくれて、女性にとっても使い勝手がいい。仰ぐ動作も自然とゆっくりになり、それだけで気持ちがゆったりしてくる。

  • 扇子作りの工程は扇骨作りに始まり、25ステージにも分かれている
  • 同店の白檀扇を作れる職人は日本で1人だけ

洒脱なアイテムがずらり

 銀座限定の商品としては、柳をモチーフにしたシリーズが素敵だった。裏面に、銀座界隈の地図がさりげなく書かれていたりして、手土産によさそう。地方の友人・知人には、扇状のハガキに一筆書いて送るのもしゃれている。

 変わり種として、利休百首が書かれた扇子を発見。「三得扇」と呼ばれている。茶人たる者の心得百首が書かれているのだが、親骨には尺の物差し(扇子の世界ではいまだに尺寸を使っています)の目盛り、また、親骨の先端からは掛軸を掛けるための棒状の道具、矢筈(やはず)が飛び出す仕掛けがあって、まさに「三得」というわけだ。

  • 柳をアレンジした銀座限定商品「銀の風」
  • 裏側に銀座マップが描かれたタイプ。こちらも銀座限定

 「習ひつつ見てこそ習へ習わずに 善し悪し言ふは愚なりけり」など、茶人でなくても肝に銘じたい言葉であふれている。

 さて、いろいろ見て回って迷いに迷ったあげく、私が自分用に購入したのは、子羊の皮製の扇子。7980円。

 もともと紳士用シャツの胸ポケットに収まるようにと作られたものだが、ストラップも付いていて、男性に独占させておくのがもったいないほどかわいい。さすが皮製で、小ぶりながら送風パワーも十分。黒、茶、白、ピンク、オレンジの5色から、私はエネルギッシュなイメージのオレンジを選んだ。

  • 扇子ハガキで暑中見舞い、なかなか粋です
  • 利休百首が書かれた変わり種扇子
  • 子羊皮製の小ぶりの扇子。私が購入したのは一番上のオレンジ

 ちなみに、有名なグランドメゾンでも、似たタイプの扇子を見つけた。日本だけでなく、世界の市場でもこのおしゃれな扇子は人気らしい。

 暑い季節を元気に乗り切るため、この夏は平安朝の日本人の知恵を改めて見直してみてはいかがだろうか。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆宮脇賣扇庵

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.05.21

築地本願寺に“ちょっと前の日本の朝市”が出現

「安穏朝市」は毎月16日に

  • 毎月16日、築地本願寺で開かれる「安穏朝市」
  • 竹の支柱を組み立ててつくるエコなテントが使われている
  • 築地本願寺の宗祖・親鸞聖人像

 東京・銀座にある、日本の自然素材に徹底的にこだわったオーガニック旅館「お宿・吉水」のことは、2009年3月27日付の小欄で紹介したことがある。

 その女将の中川誼美さんから、耳寄りな情報が寄せられた。

 「かねてから実現を願っておりました“ちょっと前の日本の朝市”の開催を、築地本願寺様のご協力を得まして『安穏(あんのん)朝市』と名付け、始めさせていただきます。宗祖・親鸞聖人の御命日にちなみ毎月16日の開催となります」

 中川さんによれば、宿の名前「吉水」は、親鸞聖人の師である法然聖人の開山の場所にちなんでいるそうだ。「来年2011年は、法然聖人800年忌、親鸞聖人750年忌にあたり、このような時期に朝市の開催が実現できたことを大変意義深く感じています」

 「安穏」とは、「親鸞聖人御消息」の中に記され、「御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ」と、平安の世を願った言葉である。

 「安穏」とは、なんてやさしい響きなのだろう。殺伐とした事件に心痛むことの多い昨今、この言葉の重みはさらに増しているのではなかろうか

 中川さんが「安穏朝市」と名付けたのは、都市の生活者と農村の生産者とが顔の見える交流を繰り返し、安全な食材や生活用品を安心して買えるような、信頼できる関係性を築いていきたい――そんな願いが込められているのだな、と私は思った。

 第1回目は4月16日だったがこの日は立ち寄ることができなかったので、2回目の5月16日は絶対に行こうと、スケジュール帳に太字で書き込んでおいた。

東北で採れる珍しい野菜も

 澄んだ青空が広がる日曜の朝。午前9時前に、築地に到着。本堂前には支柱部分はすべて竹を使ったエコなテントが並んでいた。

 まずは、正門を入って左手にある親鸞聖人の像にお参り。境内にはほかに、九条武子の歌碑や赤穂浪士・間新六の供養塔などがある。

 一通りお店をまわって、いくつか気になる食材を買うことにした。

  • 「ボウナ」を勧めてくれた岩手県軽米町の人たち
  • とっても甘い新タマネギは千葉県産

 一つは、青森県境に近い岩手県軽米町のブースで見つけた山菜いろいろ。東北は、5、6月が山菜シーズンだ。ウルイと山ウド、それに、珍しい「ボウナ」という青菜に注目。

 「茎がまっすぐに伸びるから、ボウナ。東京では手に入らないだろうけど、ほんと、うまいよ」

 その日の夕食では、お店の人に勧められたように、葉は天ぷらに。中が空洞な茎はお浸しにしたら、しゃきしゃきと歯ごたえが残って美味しかった。

  • 沖縄野菜は移動販売車で
  • フェアトレードの雑貨類も充実

 千葉県産の新タマネギは、1個33円。「水にさらさなくても、スライスしてそのままサラダでどうぞ」と説明を受け、試食してみると、確かに甘い。3個買ってみた。

 八ヶ岳山麓産の日本ミツバチのハチミツはコクがあって、濃厚な黒糖のような味わいが印象的だった。その隣に沖縄の野菜を売る移動販売車があったので、大好きな島ラッキョウを迷わず2束ゲット。

 ほかにも、フェアトレードの雑貨類などが充実しているブースもあって、ちょっとした縁日気分だ。

 午前9時半から、親鸞聖人の御命日法要があると聞いたので、本堂に向かった。

二度の再建を経て

 ここでちょっと築地本願寺の歴史に触れておこう。

 同寺の発祥は、1617年(元和3年)、京都の西本願寺別院として建立された。当初浅草・横山町にあったことから「浅草御坊」と呼ばれていたが、1657年、明暦の大火で焼失。その替え地として、江戸幕府から八丁堀の海上が指定され、そこで佃島の門徒が中心になって海を埋め立てた場所を築き、再建した。大火から約20年後のことだった。

  • 築地本願寺の本堂は美しい古代インド様式
  • 本堂に続く階段脇を守る獅子は翼をもっている
  • 本堂正面入り口にあるステンドグラス

 その後も、暴風や高潮など幾度もの災害に見舞われ、1923年の関東大震災で本堂が焼失。1934年(昭和9年)、東京帝国大学の伊藤忠太博士の設計で、古代インド様式の美しい石造建築物が完成した。本堂へと続く階段の脇を守る獅子像は前脚を立て、翼を翻し、勇ましい。

 本堂に入ると、まず目につくのが、ステンドグラス、そして繊細な装飾が施されたシャンデリア。デザインがおしゃれで、インテリアの細部を見ているととても楽しめる。

荘厳な御命日法要に参列

  • 心静かに法要が始まるのを待つ

 親鸞聖人御命日法要は、(しょう)篳篥(ひちりき)、太鼓など、雅楽の演奏で始まった。雅楽というと、神前結婚式などで触れる神社の音楽というイメージがあるが、実は、仏教伝来とともに日本に伝わり、平安朝の宮廷で育まれた「お浄土の音楽」なのだそうだ。

 これは、「築地本願寺新報」で知った。本堂に響き渡る声明は、大地の底からわきあがって来るかのような迫力があり、親鸞聖人がおられた時代へとタイムスリップさせてくれる。

 本堂には、ドイツ製のパイプオルガンもあり、毎月ランチタイムコンサートが開かれているという。そういえば、5月初め、X JAPANのギタリスト、hideさんの13回忌法要が行われたのも、この場所だった。

 法要を終えて本堂を出ると、午前10時半。朝市もにぎわいを増していた。

  • 築地場外市場はすぐお隣り。帰りに寿司をつまむのがおすすめ

 築地本願寺をあとに、お隣りの築地場外市場に足を延ばして、握り寿司をつまんだ。日曜なので開いている店はごくわずかだったが、それでも、私が手に提げていた山ウドを見つけて、「あれえ、山菜、どこで買ったの」などと、市場の人たちは気さくに声をかけてくる。

 私は「安穏朝市」を大いに宣伝してしまった。

 「へえ、面白いね。絶対行くよ。山菜、まだ残っているかなあ」と、皆が口々に言う。

 中川さんが目指す、「ちょっと前の日本にあった、素朴でにぎやかな生活のにおいが感じられる朝市」は、温かな思い出をたくさん残してくれた。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.05.14

歌と旅で触れる七夕伝説

女性の心を歌い続けて30年

  • 日本の女性の心を歌い続けて30年の吉岡しげ美さん

 万葉集の歌や、日本女性の生き方に影響を与えた与謝野晶子、金子みすゞ、岡本かの子らの詩歌500編あまりに曲をつけ、女性たちの心を30年以上歌い続けている、シンガー・ソングライターの吉岡しげ美さん。

 私は古くからお付き合いをさせていただいているのだが、その吉岡さんが6月、「七夕」をテーマに、プランタン銀座のカルチャースクール「エコールプランタン」で素敵な講座を開いてくれることになった。

“男は仕事、女は家庭”から自由に

  • 昨年夏に開かれた中国での日中七夕友好コンサート(上)、七夕伝説ゆかりの鎮江市でのイベント

 吉岡さんは音大卒業後の20代半ば、東北に住む女性詩人、新開ゆり子の作品に出合って以来、女性ならではの豊かな生命感にあふれる言葉にこだわってきた。

 低音のアルトで、静かに情感たっぷりに、ピアノを弾き、歌い上げる。1970年代のウーマンリブ運動の洗礼を受けた「アラ還(アラウンド還暦)」世代で、「“男は仕事、女は家庭”といった伝統的な男女の性別役割分業にとらわれず、もっと自由に生きようよ」というメッセージは、同世代の女性たちを中心に共感を呼んだ。

 私自身はそのちょっと下の世代だが、金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」や与謝野晶子の「君、死にたまふことなかれ」は、何度聴いても心が震える。

思いは時代や国境を超えて

  • コンサートで地元の人々と親交を深める吉岡さん(中央)

 活動の場は国内にとどまらない。欧米はもちろん、近年は韓国、フィリピン、中国などのアジアを中心に、現地の語り部の朗読を交えつつ、コンサートを開いている。「君、死にたまふことなかれ」は、中国でも歌った。時代、そして国境を超えて連綿と流れる反戦・平和への想いを伝えたい――活動の軸足はぶれることはない。

 とはいえ、どこか乙女チックな面影の残る吉岡さんが続けている毎年恒例のイベントに、7月の東京都内での「七夕コンサート」がある。今年で13回目。中国からイケメンの二胡奏者や京劇スターを迎え、吉岡さんの音楽詩とのコラボレーションが楽しめる企画になるそうだ。

あなたも作詞、作曲に挑戦!

  • マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも登場する鎮江は、長江沿いの風光明媚な街(左)、女性には見逃せない、美肌をつくる黒酢の産地としても有名

 さらに、七夕コンサートは広がりをみせている。

 「織姫と彦星の出会いをはじめ、ロマンチックな世界に誘ってくれる七夕って、幼いころから大好きでした。七夕についていろいろ調べているうちに、中国の鎮江市が七夕伝説発祥の地であることを知り、市の関係者に、『七夕祭りを盛り上げてはいかがでしょう』と提案したところ、驚いたことに即採用。その翌年、鎮江市主催の第一回・日中七夕友好コンサートが開かれ、今年で4回目になります。私も毎年出掛けて、七夕伝説にちなんだオリジナルの新曲を捧げているんですよ」と、吉岡さん。

 さて、今回6月にエコールプランタンで開催する3回シリーズ(6月5日、12日、19日)の講座のタイトルは、「吉岡しげ美の七夕に願いをこめて~世界にひとつだけの、あなたのオリジナルソングを作ろう」である。

 「七夕」にそれぞれの想いを託し、作詞と作曲に挑戦。音譜が苦手でも、「こんな感じに」と鼻歌を歌えば、それを吉岡さんがアレンジしてくれるというからすごい! 出来上がった曲は譜面にして渡してもらえるので、記念になる。

 いつの間にか、あなたも立派なシンガー・ソングライターになっているというわけだ。

七夕のロマンを求め、中国の古都・鎮江へ

  • 近年は観光都市としても発展。ライトアップも見事に

 さらに希望者は、旧暦の七夕にあたる8月15日から3泊4日の鎮江ツアーに参加して、吉岡さんのコンサートの舞台に一緒に立てる。

 中国の鎮江市は、上海市の北東230キロほどに位置する。ちょっと調べてみると、美肌づくりに欠かせないといわれる高級黒酢「香酢」の産地だったり、雪舟が「唐土勝景図巻」で描いた禅寺・金山寺(味噌でも有名ですね)があったり、「大地」を書いたパール・バックが18年間暮らした旧居が残っていたり、見所はいろいろ。ツアーでは、七夕伝説ゆかりの地を巡ったり、地元の人々と交流を深めたり、なんだか楽しそうだ。

 この夏、あなたも、七夕のロマンを歌うシンガー・ソングライターを目指してみてはいかがだろうか。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

◆吉岡しげ美さんのホームページはこちら

 http://shigemin.com/

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.05.07

東京の真ん中にひっそり佇む、日本橋七福神

コースマップを手に七福神めぐり

  • 稲荷大神のお使い、キツネの大軍団が鎮座する(笠間稲荷神社東京別社にて)

 4月16日付の小欄で、庶民に愛される笑顔の神様、ゑびす・大黒の話題をご紹介したが、その取材以来気になっていたのが「七福神めぐり」である。

 街歩きに繰り出したくなるような晴天が続いた5月初め、銀座のお隣、日本橋の七福神めぐりに挑戦することにした。

 まずは、東京中央ビジネスナビの「日本橋七福神」のWEBサイトをチェック。お社マップをプリントアウトして、いざ、出発だ。また、途中立ち寄った神社でもらった日本橋七福会作成のマップは、裏側に神社の由緒が書かれていて大いに役立った。

 七福神めぐりというと、正月の風物詩。新年のみ七福神の鎮座所を公開しているところも少なくないと聞いたので、今回は、本殿・本堂の巡拝を基本に歩くことにした。

 日本橋七福神はすべて神社で占められているのが特徴だ。「七福神」といいながら、巡る神社はなぜか8社あり、いくつかの神様はダブっているという。まあ、神様にたくさんお会いできるのだから、これはありがたいことではありませんか!

 お参りする順番は特に決め事があるわけではないようだ。私は、今回のきっかけになったゑびす様に敬意を表し、地下鉄の三越前を起点に、寶田恵比寿神社から巡ることにした。

ビルの狭間の恵比寿さま

  • 寶田恵比寿神社は駐車場に挟まれた狭い空間

 首都高速1号線の高架下を抜けて、広い道をしばらくテクテク。曲がり角を間違えて行ったり来たりしてしまい、最初の神社を探すのにちょっと手間取ってしまった。近くに、縁起のいい名前の「富久ビル」があるので、この建物が目安になる。

 寶田恵比寿神社は江戸城外宝田村の鎮守で、もとは皇居前にあった。祭壇中央に安置された恵比寿神像は、運慶作とも左甚五郎作とも。1月20日の初恵比寿のほか、10月19日と20日には商売繁盛を祈る“恵比寿講”が開かれる。

 そんな由緒ある神社なのに、両側から駐車場に挟まれ、敷地は思いのほか狭く、狛犬もいない。なんだか居心地が悪そうで、恵比寿様が気の毒だった。

 問屋街を抜けて、椙森(すぎのもり)神社へ。ここも恵比寿神が(あが)められているのだが、鳥居も大きく、境内はきれいに整備されていた。創建は1000年余前にさかのぼり、「江戸名所図会」にも掲載されているという。戦国時代初めには、太田道灌が雨乞いを祈願した。

 境内の片隅に、富塚を見つけた。ここは江戸商人発祥の地としても栄えた場所で、数多くの富くじが興行されたとの記録が残る。それを記念して富塚が造られたが、関東大震災で崩壊、氏子有志で戦後の昭和28年(1953年)に再建された。いまは、宝くじ当選祈願で訪れる人々でにぎわっている。

 人形町通りを歩き、甘味喫茶の店頭のお品書きをチェックしつつ、あんみつを食べた気になって、次の神社へと急ぐ。

  • 1000年の歴史がある椙森神社
  • 境内にはユニークな富塚も
  • 寿老神がいらっしゃる笠間稲荷神社東京別社

 お次は、日本三大稲荷の一つ、笠間稲荷神社の東京別社。江戸末期、笠間藩主牧野貞直公が常陸の国(茨城県)にある本社の御分霊を奉斎したことに始まる。長寿の神様、寿老神がいらっしゃる。

 本殿に向かって左手に、稲荷大神のお使い、キツネの大軍団が鎮座しており、なかなか迫力があった。

 ランチタイムで、どこからか焼き鳥のいいにおいが漂ってくる。老舗の鳥専門店の手作り弁当は、近くのOLさんに大人気で、飛ぶように売れていた。先を急ごう。

近くのビジネスマンも気軽に参拝

  • 日本橋人形町にある末廣神社

 末廣神社の守り神は、勝運を授ける毘沙門天。両側からビルに迫られた狭い敷地ではあったが、勢いのある大木に守られ、すがすがしい風を感じた。17世紀に社殿を修復した際、縁起のいい中啓(末廣扇)が見つかったことから、「末廣神社」の名が付いた。

 甘酒横丁を通り過ぎ、赤い鳥居が目立つ松島神社(大鳥神社)へ。ビルの1階にあり、付近のビジネスマンがふらりと立ち寄る姿に出会った。

 鎌倉時代、このあたりは入り海で小島があり、毎夜掲げる灯火で舟人たちの安全が守られた。江戸になり、武家屋敷造営のために埋め立てが始まり、日本各地から技をもつ人々が集められ、それぞれの故郷の神々が合祀された。歓楽街としてにぎわい、人形細工の職人や呉服商人、歌舞伎役者、葭原(吉原)の芸妓(げいぎ)傾城(けいせい)など、商売や芸能に携わる人々の参拝が盛んだったという。ここには、大黒天がいらっしゃる。

 さて、新大橋通りの交番を曲がれば、水天宮だ。安産祈願で有名だが、守り神は、芸事や学業貨殖の神様として信仰されている弁財天。久留米藩主、有馬頼徳公が加賀藩主、前田斉広公と宝生流能学の技を競われることになり、弁財天に願をかけ、満願の日にめでたく勝つことができたとの逸話があり、宝生弁財天とも呼ばれている。そういえば、情け深いことに敬意を表した江戸のはやり言葉に「なさけ有馬の水天宮」というのがあった。

  • ビルの1階にある松島神社
  • 安産祈願で有名な水天宮

約2時間の下町散策

 細い路地を入って、昭和レトロな雰囲気の水天宮駄菓子バーを横目に、茶の木神社へ。

 「お茶の木さま」と庶民に親しまれている神社で、丸く刈り込まれた茶の木の緑が見事だったことからこの名前が付けられたそうだ。守り神は、袋の中にいっぱいの宝物を入れて福運大願を成就させるといわれる布袋尊。ビルの谷間ながら、いまも緑に囲まれた静かな環境は守られている。

  • 緑に囲まれた静かな環境の茶の木神社

 御影石の列柱が荘厳さをかもし出す東京穀物商品取引所を通り過ぎ、いよいよ最後の小網神社へ。こちらもいっぱいの緑に囲まれ、心地よい空間であった。福徳金運長寿の神、福禄寿とともに、弁財天もいらっしゃる。11月に行われるどぶろく祭りは奇祭として知られる。ぜひ一度行かなければ……。

 ここまで8社を巡って、約2時間。最初の神社を見つけるのに少々迷ったものの、その後は狭いエリアに神社が点在しているので、非常に歩きやすかった。

ゴール後のお楽しみは人形町で

 一休みしようと立ち寄ったのは、甘酒横丁の交差点近くにある喫茶の「快生軒」。看板に、「創業大正八年」とあった。東野圭吾氏のベストセラーで、テレビの日曜劇場で放映中のドラマ「新参者」にも登場する店である。ステンドグラスの窓、クラシックなランプ飾り、赤い革張りの椅子……。マーマレードがのったバタートーストをつまみながら、じっくり煎ったブレンドコーヒーをいただく。

  • 東京銭洗い弁天でも知られる小網神社
  • 「新参者」にも登場する老舗喫茶店「快生軒」
  • マーマレードをのせたバタートーストがおいしい

 神社の巡り方はいろいろあるのだろうが、私は、最後は人形町で足を休めることを考えて、小網神社で締めくくるコースをおすすめしたい。

 江戸下町情緒が残る街の中に、ひっそり(たたず)む神社群。銀座とはまたひと味違う楽しみがあった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2010.04.23

今だから新鮮な銀座レトロ・スポット

三原橋地下街を探訪

  • 長屋風に軒を連ねる昭和レトロな商店群
  • 晴海通りをはさんで対を成す建物は、その昔三原橋の欄干だった

 前々回、4月9日付の小欄で、銀座4丁目の交差点と歌舞伎座の中間あたりにある三原橋のそば、昭和レトロな雰囲気が残る銀座の路地裏をご紹介したが、近くに、もう一つ、レトロなスポットがある。建物の老朽化を理由に再開発が進む銀座の中で、貴重な空間ではないかと私は思っている。

 それは、三原橋地下街である。造られたのは昭和27年(1952年)という。

 地上部分の建物は2階建てで、晴海通りに面した銀座4丁目側に、薬局、カメラ屋、レコード屋、衣料品店などが、長屋風に軒を連ねる。2階はいまは飲食店だが、戦後しばらくは、闇市の露店を整理した三原橋観光館があった。

 晴海通りをはさんだ反対側には、この建物と対を成すように、同じ形状の2階建ての建物がある。カジュアルな寿司屋の店舗で、大型バスで乗り付ける観光客でいっぱいだ。それぞれの建物の裏側の階段から地下をくぐり抜けて、晴海通りを行き来することができるようになっているところが面白い。そう、こここそが三原橋地下街である。

 銀座はもともと水の都。かつては、ここに江戸時代に開削された三十間堀川が流れていて、商船や屋形船でにぎわっていた。しかし戦災で銀座の街が壊滅すると、その瓦礫を処分するために堀を埋め立てた。埋立地の一部を利用したのがこの地下商店街なのである。

名画専門館でジュリーの笑顔にうっとり

  • (左)急勾配の階段を降りると、三原橋地下街、(右)地下街の天井に、アーチ形の橋の面影が残る

 さて、地下街に降りてみよう。かなり急勾配な階段を降りると、両側に小さな映画館がある。気を付けて地下街の天井を見ると、緩やかな勾配を描いている鉄骨があったりして、アーチ形の橋の面影を残している。地上部分の対を成す建物は欄干部分で、地下街通路は川筋というわけだ。

 映画館「日比谷シネパトス」は、いまや少なくなった邦画の名画専門館。昭和27年の開業時にはニュース映画を流していたらしいが、私が学生時代の70年代は、成人映画館だったように記憶している。今のような名画専門館になったのは80年代後半で、いや、なかなか泣かせる特集が組まれることが少なくなく、目が離せない。

 今回注目したのは、21時からの特集レイトショー「奇想天外シネマテーク8 SF・ファンタジー編」。

 ジュリー(沢田研二)ファンの私は、「タイガースの世界はボクらを待っている」(1968年、東宝)が映画館で見られる、しかもSF作品の一つとして紹介されることに、とっても興奮した。この映画、アンドロメダ星のシルビー王女が乗った宇宙船が、タイガース(グループサウンズです。念のため)の演奏でコンピューター制御ができなくなり、地球に不時着したとの設定。描かれているのは王女との純愛ロマンス・ストーリーだが、私は、アイドル時代のジュリーの美しい笑顔にひたすら見とれてしまった。

30年前の和製スペースオペラを堪能

  • 映画の情報が所狭しと張り出された「シネパトス」の掲示板

 深作欣二監督の「宇宙からのメッセージ」も、何とも懐かしい作品だった。1978年、「スター・ウォーズ」のブームに乗って、東映が10億円を投じて製作した和製スペースオペラ。ロードショー以来約30年ぶりに観たら、なかなか新鮮だった。ポンコツ寸前の旧式ロボット、ベバ君は、ご主人にどこまでも忠実で愛らしい。宇宙の侵略者ガバナンス皇帝を演じる顔面銀塗りの成田三樹夫も、その生母で電動椅子にうずくまったまま睨みをきかせる太公母役の天本英世も、迫力があって、やっぱり怖かった。

 地下街の直下には地下鉄日比谷線が通っているので、電車が通るたびにがたんごとんと電車の音が響き、シートが若干揺れる。しかし、こういうSFものを観ていると、雑音も効果音のような気がしてくるから不思議なものだ。

  • 30年前の東映作品「宇宙からのメッセージ」のパンフレットをゲット!

 たまたま同映画のプロデューサー、平山亨氏のトークショーがあって、「ロケットを器用にピアノ線で吊るなんてこと、今できる人がいなくなっちゃった。ロケットが炎と煙をたなびかせ、地面をかすめて砂ぼこりを舞い上げるといった特撮の手法に、ハリウッドから随分と視察に来た」などと、当時を振り返った。

 それにしても、81歳を迎えた平山氏はますます意気軒昂。「いつまで生きるの?と女房に言われるが、次は何をやりたいかを書いたアイデアのメモ帳がどんどん埋まっていく。魔女の話もやりたいね。いまの映画を観ていると、俺だったらこう作るのにって思うことがいっぱいある」と語った。

  • 季節料理の「三原」は、地下街の中での一番の老舗

 この特集は4月23日で終わるが、24日からは「DVDでは観られない! 秋吉久美子映画祭」が始まる。昼の部で注目しているのは、生誕100年を記念した「シナリオ作家・水木洋子と巨匠たち」(5月3日から)。ミヤコ蝶々が主演した「喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん」をぜひ観たいと思っている。

 地下街には、映画館のほかに理容室や飲食店が並ぶ。60年代に創業した「季節料理・食事処 三原」がいまも健在だ。

 引き戸を開けて暖簾をくぐる。カウンターとちゃぶ台2つの小ぢんまりとした店だ。ランチに、アジのたたき定食をいただいた。注文してから、女将さんが丁寧に魚をさばき、たっぷりのショウガとネギを添えてくれた。ご飯もおいしい。

 店内には、マリリン・モンローや昭和の映画スターのミニポスターが貼られ、ブラウン管テレビやピンクの公衆電話が置かれている。そこには、静かな昭和の時間が流れていた。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)