GINZA通信アーカイブ

2010.11.05

日本の暮らしに新風、外国人居留地

出土品は舶来の生活用品

  • 明石町遺跡のフランス人住宅跡から出土した生活用品(展示をまとめたパンフレットより)

 東京・銀座からちょっと足を延ばした中央区明石町界隈には、明治の文明開化のころ、「築地外国人居留地」があった。

 明治元年(1868年)に開設され、同32年(1899年)に廃止されるまで、そこは世界に開かれた窓であり、外国公館や商社、ホテル、さらには教会、学校、病院などが作られて、西洋の新風吹き込む活気にあふれる街となった。

 中央区立郷土天文館ではいま、10年前の2000年(平成12年)に発掘調査を実施した明石町遺跡の出土品などが公開されている(11月21日まで)。

 中でも興味深かったのが、フランス人ア・ハーブル氏の住宅跡からの出土品。国産の湯飲みセットや土瓶、徳利(とっくり)のほか、洋食器の大皿、ティーカップ、ジャム瓶、ワインボトルやジンボトル、ソーダ瓶などがあって、氏は結構お酒が好きだったのだなあなどと、当時の豊かな暮らしぶりを想像してしまった。ハマグリやシジミの貝殻に混じって、切断痕のある牛の骨も30点以上出土している。さすがフランス人、まだわが国には普及していなかった牛肉を食べ、骨髄もスープなどにして食べたのだろうか。

日本の7か所に設置

  • 明石町で最初に灯ったガス灯

 米国をはじめ、蘭、露、英、仏の5か国と江戸幕府の間に修好通商条約が結ばれ、日本の7か所に外国人居留地を設置することが決まったのは、安政5年(1858年)のこと。

 NPO法人築地居留地研究会代表の清水正雄さん(88)によると、築地居留地は、函館、新潟、横浜、大坂、神戸、長崎といった他の居留地と違って、「特殊な経緯によってできた特殊な居留地」という。

 そもそも幕府は、江戸には外国人の街を作らせたくなかったので、外国人居留地は横浜に作るから十分と主張していた。だが、初代駐日領事のタウンゼント・ハリスは、「江戸に住む大名こそが外国製品を買う顧客であり、交易場を開けば莫大な関税を取ることができる。横浜は近いようでいて遠いのだ」と説得。結局、幕府は話をのんだ。

 しかし、明治維新の動乱をはさみ、設置延期申請が繰り返され、築地居留地の開設は、横浜や長崎に10年ほど遅れることになる。

 今も歴史の痕跡が残る、明石町界隈を歩いてみた。

優秀な宣教師が集まった築地

  • 白亜がまぶしいカトリック築地教会

 地下鉄の新富町の駅からほどなく、まず目に付くのが、明石町で最初に灯ったというモダンなガス灯。老人福祉施設のこんもりした植え込みの中にすっと建っている。

 ここから築地市場方面にちょっと歩くと、白亜の教会に出会う。東京で最古のカトリック教会といわれる、カトリック築地教会。

 明治4年(1871年)、パリ外国宣教会のマラン神父が、隅田川に近い鉄砲洲稲荷橋近くの商家を借りて開いた稲荷橋教会がその前身といわれる。明治7年(1874年)にこの地に移り、司祭館と聖堂を建立した。関東大震災で焼失し、昭和2年(1927年)に再建。石造りにみえるが、実は木造モルタルだそうで、現在は幼稚園が併設されている。背後には、聖路加タワーが臨める。

  • (左上)暁星学園発祥の地の碑、(右上)ステンドグラスが美しい聖路加病院旧館のチャペル、(左下)病院敷地内にあるトイスラーハウス、(右下)米公使館跡の石標

 教会の入口の前で注目したいのは、ページを開いた形の本を載せた記念碑である。明治21年(1888年)創立の暁星学園発祥の地の碑だった。

 築地居留地には、多くの優秀な宣教師が集まり、13教派の伝道本部が設置され、それらは、競うようにして教会や学校、病院などを数多く作ったのだった。

 通りを渡ると、そこは聖路加国際病院。居留地の住人になった、米国聖公会宣教医師トイスラー博士が、明治35年(1902年)に創立した。旧館のチャペルは保存されており、祭壇を囲むステンドグラスが美しい。

 三角屋根が特徴的なトイスラーハウスを囲むようにして緑の敷地が広がり、敷地内には、米公使館跡の石標をはじめ、立教学院や女子学院などミッションスクールの発祥の碑が建っている。また、すぐ近くに、安政5年(1858年)、福沢諭吉が開いた蘭学塾跡もあり、明治維新前後の歴史散歩を満喫できる。

水辺の国際都市

  • (上)こちらは、立教学院の碑、(左下)同じく、女子学院の碑、(右下)福沢諭吉の蘭学塾跡

 10月初め、同地で「外国人居留地研究会全国大会」が開かれたが、そこで登壇した法政大学教授(イタリア建築・都市史)で中央区立郷土天文館長の陣内秀信さんの話が面白かった。

 陣内教授は、地域の豊かな資産を掘り起こして再評価し、現代日本の知恵として生かしていこうという動きが最近活発だが、水辺の街にあった外国人居留地の経験にはまさにたくさんのヒントがある、とみる。

 世界の歴史を振り返ると、水辺に形成された国際都市は多い。近代でいえばニューヨーク、さかのぼれば、ヴェネツィアをはじめとする中世のイタリア海洋都市などもそうだ。

 「幕末から世界と交流を結び、開港場(築地は開市場)となって外国人居留地を形成した日本の諸都市もすべて海に面した港町であり、水辺の国際都市の仲間といえます。日本の港町は、ヨーロッパでいえば、北欧よりも地中海の港町とよく似ている。背後に丘や山が控え、港の景観が実にダイナミック。丘から港を見下ろす風景も共通しています。外国人居留地が海際や港周辺の低地に計画的につくられ、交易・商業を担うと同時に、背後の丘の上にも山の手地区を新たに形成し、高級住宅ゾーンが広がるという特徴も共通していますね」と指摘する。

元祖はイタリア・アマルフィ

  • 「外国人居留地の元祖」ともいわれる南イタリアのアマルフィ

 陣内教授が「外国人居留地の元祖」として挙げるのが、イタリア南部の街、映画で一躍有名になったアマルフィである。

 ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝が崩御した4世紀初頭、船でコンスタンティノープルを目指したローマ貴族が嵐にあって漂流、アマルフィにたどり着いて移動を断念、定住した。優れた航海・造船技術や商才を武器に発展、839年には共和国として独立し、ピサやヴェネツィア、ジェノヴァにも先駆けて海洋都市国家を築いた。切り立った山の傾斜面にはりつくようにして白い壁の街並みが広がり、交易があったビザンチンやイスラムから影響を受けた建築物がそびえる。遥かなる異国の新風を取り入れた時代が偲ばれる。

 10月、アマルフィを訪れる機会があった。次回はそのリポートをお届けしたい。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.10.29

あらゆる悩みに応える“洋服の総合職人”

リメイク、仕立て、スタイリング……

  • エレベーターを降りると、そこが店の入り口
  • ブティック? 工房? 初めて訪れると、迷います

 東京・銀座1丁目のビル9階の部屋の扉を開けると、カウンターの向こうには、縫製台やらアイロン台やら、そして、窓から差し込む柔らかな明かりを背に色とりどりの糸のかたまりが……。

 「Artisan salon de giso(アルテザン・サロン・ド・ギソ)」のオーナー、庄司博美さんは、「フィッティング・コンシェルジュ」というあまり聞き慣れない肩書きを持つ。

 大のお気に入りで長年愛用しているのだけれども肩のあたりのデザインがちょっと古くなったというような服をリメイクして蘇らせたり、じっくりカウンセリングして細部までその人の体型にぴったり合う着心地の良いオーダーメイドのスーツを仕立てたり、洋服選びや着こなしなどの手ほどきをする「パーソナルスタイリング」を手がけたり……。

 洋服に関するあらゆる悩みに応える、いわば「洋服の総合職人」である。

 工房の仕事机には、縫い合わせがほどかれた状態の洋服のパーツがところ狭しと並べられている。

 「これは、ある有名ブランドのスカートなのですが、目立つところにしみを付けられたそうで、ひだの取り方を変えるために分解して作り直しているんです」

「フィッティング・コンシェルジュ」の道へ

 大阪の大学で服飾系の勉強を終えて、文化服装学院で実技を学び、服飾デザイナーとして東京・六本木の小さなアトリエから出発した。たまたま展示会に出品したオリジナルデザインに興味を示してくれる人が何人かいて、26歳で独立した。

  • 「フィッティング・コンシェルジュ」の肩書きをもつ庄司博美さん
  • 洋服をパーツに分解したり、また作り直したり。職人技がさえる

 「会社を作ったものの、来月仕事はあるかしらって、もうハラハラどきどきの毎日でした」と振り返る。

 既製品が合わないからオーダーするしかないと、切羽詰まって訪れる悩み深い顧客を一人ひとり大切にすることから始めたという。婦人服専門だった庄司さんが、プロになって再び紳士服を学んだのも、こうしたお客様からのリクエストがあったからだった。

 「なじみのテーラーが閉店しちゃって困っているんだ。君のセンスを信じるから、とにかく試しに作ってみてよ」。10年ほど前のことだった。

 飛び込みで、紳士服のオーダーメイドを手がける店の門をたたき、自分が作った型紙を修正してもらう作業を何度も繰り返した。もちろん、はなから相手にされなかったことも数えきれない。

 そうしているうちに、知人を通じて、銀座6丁目のギンザコマツストアーのファッションバイヤーを紹介された。当時同ストアーは、斬新でちょっぴり奇抜さも秘めた日本初上陸のクリエーターの作品などを発信するセレクトショップとして、ファッション好きの間ではよく知られた存在だった。面白いデザインを上手に着こなすために、各人のバランスに合わせてラインなどを手直しする――「フィッティング・コンシェルジュ」としてのスタートだった。

銀座には職人を育てる土壌がある

  • ボタンで洋服の表情はがらりと変わる
  • 紳士ワイシャツの縫製のプロが縫い上げる女性向けシャツは、独特の粋な感じが人気
  • シャツの生地見本もいろいろ

 洋服を見ていると、「この人にはこんな風に着てほしい」というデザイナーの声が聞こえてくるのだそうだ。「そう、私の仕事は、デザイナーの意をくんで、お客様との橋渡しをすること。きちんとフィッティングすると、洋服もいい表情をしてくれるんです」

 コマツストアーの閉店と同時に、現在のサロンを設けることになり、2年が経つ。

 場所はやはり銀座に。迷いはなかった。

 関西出身の庄司さんにとって、銀座は、コンサバ系マダムたちが闊歩(かっぽ)する街というイメージが強かったそうだ。「でも、コマツで出会ったお客様は皆ファッション感度が高くて個性的。そんな素敵な方々と時間と空間を共有しつつ、店も一緒に育っていく――それが銀座なんだろうって思います。それに、『できるかどうかやってみてよ』って言葉をお客様から何度もいただきました。新しいものづくりの機会を与えながら職人を育てようとする懐の深さがあるようにも感じています」

 今までに最もチャレンジングだったことの一つは、ウェディングドレスのリメイク。白の総レースをスカートとコートにしたのだが、使いやすいようにと黒に染めることになった。黒染めのプロを求めて京都に飛び、「着物の幅に解体してくれたら、色落ちしない素晴らしい黒に染める自信がある」といわれ、やってみた。出来は上々で、「なかなか楽しい仕事だったよ」と染色の職人から言われたのがうれしかった。

 「ファッションの世界で今までできないと片付けられてきたことも、一つひとつカタチになってくる。私の依頼することはほとんど断りたいことばかりなのだろうけれど、チャレンジ精神に満ちた職人たちに救われています」

女性向けセミオーダーシャツ

  • 店の片隅に置かれたフレグランスで、気持ちもリラックス

 9月からスタートした新しいプロジェクトは、女性向けのセミオーダーシャツ。立体的なボディラインや襟元の開き、カフスの表情などはあくまでもフェミニンに、しかし、パリッとしたシャツのシャープな醍醐味を味わえるように、縫製は紳士用ワイシャツのプロにお願いする。

 「洋服って不思議です。お気に入りを見つければ、それを着ているだけで気持ちもポジティブになって、その日一日楽しく過ごせる。洋服は、自分をプロデュースする強力な武器なんですよね」と、庄司さんは熱く語る。 最近は「楽チン」を決め込んで、チュニックにレギンスといったゆるいファッションに逃げている私。このあたりで、ぱりっとしたシャツをオーダーして、スーツで気持ちを引き締めてみようかな。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.10.22

銀座でドイツワインの新しい魅力を

留学先での出会いが運命を決めた

  • (左上)銀座6丁目、松坂屋の裏手にある「銀座ワイナックス」、(左下)和夫さんがドイツで出版した写真集は江戸西音のペンネームで、(右)ドイツの「ソムリエ」誌の表紙を飾った星野和夫社長

 東京・銀座で、ドイツワインのみを取り扱っているユニークな名物店がある。

 創業27年目を迎える「銀座ワイナックス」。主人の星野和夫社長のまたの名は「ドイツワイン大使」。ドイツ国家功労十字勲章を受章するなど、ドイツで最も有名な日本人の一人だ。

 学生時代の1970年代初め、ドイツ語習得のために行ったベルリンで、ベルリンフィルの演奏に心底魅せられて、結局8年間も滞在してしまったというドイツ好き。そのとき知人宅で出会った黄金色の飲み物が、和夫さんのその後の人生を決めることになる。

 「ハチミツどころではなく深く甘い味わい、ブドウからとは思えない魅惑的な香り。神々の飲み物『ネクター』とはまさにこれに違いないと思えた」と、あるエッセイで振り返っている。

 それが、トロッケンベーレンアウスレーゼ、つまり貴腐ワインだったのだ。

 生産地を回り、ドイツワインの多様性にますますとりつかれていくが、帰国した日本には、ドイツワインの本がほとんどなかった。「こんなに素晴らしいものは、何とかして皆に知らせなければならない」と、「ドイツワイン全書」(柴田書店)を翻訳して出版する。さらに、「能書きばかり吹聴してもワインは広まらない」と、使命感に燃えて、ドイツワイン専門の輸入会社を設立する。

 これが、現在の「銀座ワイナックス」の始まりである。

夫婦二人三脚で苦境を乗り越え

  • 綾瀬で開いた3坪の第1号店、販売スタッフは育子さんだけだった

 江戸西音(えど・さいおん=エドワード・ウェストーン)のペンネームを持ち、ドイツで写真集を出版するなど、芸術家肌の和夫さんを、営業面から支え、二人三脚でドイツワインの普及に努めてきたのが、専務取締役で妻の育子さんだ。

 育子さんは、10歳の誕生日に姉からプレゼントされたジュリアス・ベーカーのコンサートでフルートの音色に魅せられ、フェリス女学院でフルートを専攻。仲良しの幼なじみの兄だった和夫さんとは、音楽好きという共通項で結ばれた。

 「最初は、東京・綾瀬の自宅近くに、3坪程度の小さな店を開いたんです。ところが、開店してまもなく、オーストリアワインに有害なジエチレングリコールが混入されたというワイン・スキャンダルが起こり、また、チェルノブイリの大惨事が続きました。ドイツワインの販売の環境は最悪で、苦労しました」と、育子さん。

  • いつも笑顔の星野育子専務。「ワインはもちろん、毎日飲みます」

 あるデパートでは、一週間毎日、自らテイスティングしているところを見せて、安全で安心なワインであることを訴えたという。

 「世界の人が集う銀座に店を」と打って出たのは、それからほどなくのことである。

生産者を訪問して選定

 「ワインはすべて、夫と私で生産者を訪問し、保存料のソルビン酸を使っていない優良なものを厳選しています。低温コンテナの船底を指定して運び、自社の低温倉庫で貯蔵・熟成させて、常に飲み頃を提供できるようにしているんですよ。倉庫には10万本近くあるかしらねえ。だから、ほんと、おいしいでしょう」

 育子さんは、愛嬌のある丸い目でこちらをじっと見つめながら、情熱的に語り続けた。

 とはいえ、フランスやイタリアのワインと比べると、日本では、ドイツワインの人気はいまひとつ。「大量に生産される甘口の安ワインのイメージが強いんですね。残念なことです」

「すしとワインの新しいカタチ」

  • ヒラメの握りとバーデン産のヴァイスブルグンダー
  • ウニの軍艦巻きとバーデン産のゲヴェルツトラミネール
  • 脂ののった大トロとアール産のシュペートブルグンダー(ピノノワール)

 力を入れているのが、「楽飲会」と称するワイン会。特に、「すしにはワインの中でもドイツワインが一番合う」という和夫さんの持論のもとに10年間続いている、「すしとワインの新しいカタチ」という催しは、毎回盛況だ。

 ちょっとのぞかせていただいた。

 子持ち昆布にはすっきり辛口のゼクト(スパークリング)、ヒラメにはバーデン産のヴァイスブルグンダー(ピノ・ブラン)、ウニにはよく熟したやはりバーデン産の香り高いゲヴェルツトラミネール、脂ののった大トロには樽香が強くない赤を、といった具合である。特に、ウニとゲヴェルツは、「なるほどねえ」と感心させられた。

 「ヒラメと組み合わせるワインは、ヘンズブレヒ伯爵家のミヒェルフェルダー・ヒンメルベルクがこのところの定番。これ、メルケル首相も愛飲しているものです。甘過ぎず辛過ぎず、実にエレガントで、いいねえ」と、和夫さんは目を細めた。

 この試みは、ドイツでも、「すしセレモニー」として好評だったそうだ。

 「自分の存在を主張しすぎず、ハーモニーを保って、いつでも素晴らしいパートナーになれる。それが、ドイツワインです」。音楽を愛するドイツワインの伝道師、星野夫妻はそう口をそろえた。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆銀座ワイナックス

 http://www.winax.co.jp/

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2010.10.08

龍馬が歩いた銀座

剣術修行のため江戸へ

  • 土佐藩上屋敷があったとされる東京国際フォーラム周辺
  • 龍馬が通った「小千葉道場」は東京駅近くの鍛冶橋あたり

 前回の小欄で、坂本龍馬ブームで人気沸騰の高知県のアンテナショップ「まるごと高知」(銀座1丁目)をご紹介したが、アンテナショップの周辺、銀座・有楽町界隈には、龍馬とゆかりのある場所がいくつかあることを最近知った。

 今回は、当時の龍馬の生活範囲をたどってみることにした。

 龍馬と江戸の関係は深い。2回にわたる剣術修行や、土佐藩脱藩後に勝海舟に弟子入りした時を含めると、人生のターニングポイントともいえる時期に、少なからずこの地で暮らしている。

 下級武士の家に生まれた龍馬は、14歳の時から、地元の道場で小栗流剣術を学んだ。1853年(嘉永6年)、さらに剣の腕を磨くため江戸に向かい、北辰一刀流・千葉定吉道場(小千葉道場)に入門する。19歳の時だった。

土佐藩上屋敷の跡地は東京国際フォーラムに

 最初に滞在したのが、土佐藩上屋敷で、アンテナショップの目と鼻の先にある「東京国際フォーラム」のあたりといわれる。東京の代表的国際コンベンションセンターの一つで、日本初の国際公開コンペが行われたことで注目された。船を題材にした吹き抜けホールのガラス棟がユニークな巨大な建物である。かつては上屋敷跡の碑があったらしいが、今は見つからない。

 千葉定吉は、北辰一刀流の開祖・千葉周作の弟。高齢だった周作に代わって、龍馬に稽古をつけた。定吉の道場「小千葉道場」は、アンテナショップから外堀通りを東京駅方面に歩いてまもなく、鍛冶橋交差点付近といわれている。鍛冶橋は、江戸城の外堀、鍛冶橋御門にかかっていた橋であり、交差点の名称としてその名をとどめている。なるほど、土佐藩上屋敷からは非常に近い。このあたり、龍馬は毎日闊歩していたのだろうか。

 ちなみに、周作の道場「玄武館」は、千代田区神田東松下町にあった。上屋敷からは歩いて20分程度。龍馬も、出稽古などで訪れたことだろう。

 この年の6月、ペリー来航事件が起こり、龍馬は、江戸湾の品川海岸警備に借り出されている。

  • 区役所近くの案内板にあった「江戸復元図」に土佐藩下屋敷が記されている
  • 土佐藩築地邸跡は、現在の東京都中央区役所周辺

盟友・武市半平太と

  • 盟友・武市半平太が修行した「士学館」跡は公園に

 2度目の剣術修行は、1856年(安政3年)、22歳の時だった。盟友・武市半平太とともに滞在したのが、土佐藩中屋敷ないしは下屋敷で、土佐藩築地邸とも呼ばれている。上屋敷から銀座を通って徒歩10分ほど。現在は中央区役所のあるあたりだ。

 区役所の警備ブースのそばに、案内板があって、「坂本龍馬は、安政3年から同5年ころ、この地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲2丁目、京橋2丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです」と記されていた。

 盟友・武市半平太は、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げる。一時は、龍馬も同党に血盟するが、意見が合わず、半平太とは別れ、土佐藩からも脱藩する。

 その半平太が剣術を学んだのが、築地邸からほど近い、桃井春蔵の「士学館」。現在は、京橋プラザ前の小さな公園になっている。徳川家康が開削した三十間堀が屈折して、白魚橋で京橋川に注ぐ位置に当たる。京橋プラザを新築するにあたって、地中から護岸の石が掘り出され、いまは公園の植え込みの囲いに使われている。

多くの契機を得た銀座界隈での生活

  • 佐久間象山邸があった銀座東5丁目付近

 もう一か所、龍馬は小千葉道場での剣術修行のかたわら、佐久間象山に入門し、西洋砲術を学んでいる。銀座東5丁目付近、いまは電源開発のビルが建つあたりに、象山邸があったという。

 土佐脱藩後、九州などを放浪した龍馬は、再び江戸に向かい、小千葉道場に身を寄せていたようだ。そして、赤坂にあった勝海舟邸を訪問し、弟子入りするのである。

 龍馬の人生に大きな影響を与えた出会いや事件が起こった、銀座界隈のゆかりの地散歩――ゆっくり歩いても、1時間余で十分巡れる。高層のビルの間を吹き抜ける風に乗って革命の足音が響いてくるような不思議な気配、あなたも感じてみませんか?

(プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.10.01

話題の高知、銀座で“まるごと”堪能

銀ブラ「ふるさと」探訪

  • 8月、銀座1丁目にオープンした高知県のアンテナショップ「まるごと高知」。隣には、沖縄のアンテナショップが軒を連ねる

 銀座・有楽町界隈は、北海道から沖縄まで、全国20近くの「ふるさと」が集まる都道府県のアンテナショップ激戦区。今夏、銀座1丁目に、高知県のアンテナショップ「まるごと高知」が新たに加わった。龍馬ブームの追い風もあって、連日店内はにぎわっている。

 1階は、清流・四万十川の青さのりをはじめ、特産のユズやショウガを使った調味料などが並ぶ食品市場風。地下1階は観光情報発信のフロアで、酒のコーナーも充実している。2階は、和洋にとらわれない新土佐料理を提供するレストランである。

  • (上)週に3日も食べた、はちきん地鶏のフォー、(下)「土佐はちきん地鶏のチキンカレー」は土佐限定の商品とか

 お隣は、沖縄県の「銀座わしたショップ」、さらに足をのばせば、地産地消レストランとして知られる鶴岡の「アル・ケッチァーノ」の奥田政行シェフがプロデュースするレストランが評判の、「おいしい山形プラザ」がある。天気のいい日には、銀ブラを楽しみながら、これらのアンテナショップをはしごする人たちも少なくないようだ。

 プランタン銀座でも、9月後半、「まるごと高知」とコラボレーションした高知フェア「龍馬のふるさと高知を食す」を開催した。特産品を使ったメニューの中で、こんがり焼いたはちきん地鶏のゆず風味を載せたベトナム麺のフォーが絶品で、私は、1週間の会期中に3回もランチに通ってしまった(フェアは残念ながら9月27日で終了)。

 はちきん地鶏のほどよい甘みと歯ごたえが忘れられず、おいしいもの探しに、「まるごと高知」を訪ねた。

 すると、ありました!

 「龍馬が好きやった軍鶏(シャモ)の血を引いちゅう」とのうたい文句にひかれて手に取ったのは、「土佐はちきん地鶏のチキンカレー」。ニンニクとショウガを効かせた高知限定の商品という。

 「はちきん」とは、高知の方言で、元気で明るく男気のある高知の女性のこと。そこから名前をとった「はちきん地鶏」は、昔からいた軍鶏を改良して育てたヘルシーな地鶏なのだとか。農場では、きっと活発に飛び回っているのでしょうね。

龍馬ファン垂涎の品々

  • 龍馬人気にあやかって、家紋入りティシュまで登場

 同じ棚に並べられていた「きびなごサーディン」は、上品な白の紙パッケージ入り。宿毛(すくも)湾産のきびなごをオリーブオイルに漬けたもので、こちらは早速夕食の食卓へ。やさしい天日塩とセロリの風味が穏やかで、トマトとモツァレラチーズのサラダにのせると、アクセントになった。私は、市販のイワシのサーディンよりお気に入りである。

  • 宿毛湾産のきびなごサーディンはサラダのアクセントに

 次に、地下の龍馬コーナーをひやかしに。龍馬ファンの聖地といわれる県立坂本龍馬記念館が編集した「龍馬書簡集」をはじめ、便せんやらキーホルダーやら、ファンにはたまらないであろうミュージアムグッズがいろいろある。

 ミュージアムグッズではないけれど、裏に龍馬年表が印刷されているのが目に留まり、「RYOMAふところティシュ」を買った。なんと、坂本家の家紋入りである。パッケージにある龍馬本人の写真に見入りながら、彼が懐に携えているのは、ピストルではなく、実は家紋入りティシュだったりして、などと想像したら、思わずくすりと笑ってしまった。

 「龍馬の水ぜよ」というネーミングの、室戸の海洋深層水を100%使ったミネラルウォーターも見逃せない。

室戸の水を愛した植村氏

  • (上)室戸の海洋深層水を用いた「ウトコディープシーテラピーセンター&ホテル」の海洋療法施設、(下)「ウトコ」の宿泊施設からは、太平洋が見渡せた

 室戸といえば、3年ほど前に亡くなられた、化粧品ブランド「シュウウエムラ」の創業者で、メーキャップアーティストの植村秀さんのことを思い出す。

 1950年代に渡米、ハリウッドでメーキャップアーティストとして活躍。パレットから飛び出したような豊富な色遣いは、シャーリー・マクレーンなど多くのスターを魅惑した。60年代、米国で愛用されていたクレンジングオイル洗顔を日本に紹介、現在のシュウウエムラ化粧品の前身会社を設立し、海外へも積極的に進出して世界的なブランドに育てた。

 2005年の夏、たまたまパリのフォーブルサントノーレ近くのホテルでお会いしたのが最後になった。当時記者からビジネス界に入ったばかりの私を、「新しい挑戦はいくつになっても楽しいよ」と激励してくださったのがうれしかった。

 シャンソンが流れる青山葬儀所での「お別れ会」に出席した翌日、私は、水へのこだわりを持つ氏が室戸につくった海洋療法施設「ウトコディープシーテラピーセンター&ホテル」に出かけた。

 室戸岬で取水されるミネラル豊富な深層水を満たしたプールでリラックスし、冬の太平洋をのんびり眺めながら、ライブラリーで著書に目を通した。「水なしに肌の美しさは語れない」「伝統は革新の連続である」……氏の哲学が透けるような言葉の数々を、私は手帳に書き留めたものである。

心に残る「15か条」

  • 県立牧野植物園のオリジナルノートがお気に入り

 龍馬コーナーの隣で、素敵なノートを見つけた。県立牧野植物園のオリジナルノート「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」だ。

 「私は植物の愛人としてこの世に生まれてきたように感じています」と語ったという高知出身の牧野富太郎博士は、日本植物分類学の基礎をつくった学者として知られている。植物園は、その博士を記念して造られた。

 「赭鞭一撻」は、博士が学生時代、勉強の心得をつづったもので、「忍耐を要す=我慢することが必要である」「精密を要す=正確であることが必要である」から始まって、15か条がノートの裏表紙に記されている。

 「跋渉(ばっしょう)の労を(いと)うなかれ=方々の山野を歩きまわる努力を嫌がるな」「書を家とせずして、友とすべし=本に書かれていると安心せずに、本を対等の立場の友と思いなさい」など、現場を歩くことの大切さを説く言葉には説得力があった。

 はちきん地鶏も海洋深層水も、龍馬、そして牧野博士も……。高知の魅力は尽きることがなさそうだ。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆高知県アンテナショップ「まるごと高知」

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2010.09.24

手ぬぐい生みの親、山東京伝

サイズは三尺、粋なデザインに

  • 観光用の人力車が風景に溶け込む、浅草伝法院通り近くの手ぬぐいの老舗「ふじ屋」周辺

 前回に続いて、江戸のメディアを席巻した銀座商人、山東京伝(さんとうきょうでん)について、もう少し書きたい。

 いまや日本文化を代表する伝統商品の一つとして取り上げられる「手ぬぐい」も、実は京伝が生みの親であること、ご存知でしたか?

 江戸の初めのころ、町人たちはさまざまな大きさの反物の余り布を手拭きやほっかぶりなどにして使っていた。それを京伝が、「利用しやすいサイズ」に統一し「斬新なデザインを施して」流行させることを思いついたのだという。

 まず、手ぬぐい普及のために京伝が仕掛けたのは、手ぬぐいデザインの展覧会だった。1784年(天明4年)6月、不忍池の某寺院で開かれた「手拭合(てぬぐいあわせ)」である。京伝24歳のときで、京伝の妹、黒鳶(くろとび)式部の名で主催。出品者には、当代きっての浮世絵師や画家が勢ぞろいしたので、江戸の生活に退屈していた多くの大名がスポンサーになったらしい。

 その斬新なデザインに、江戸っ子は驚き、たいへんな評判に。これを機に、手ぬぐいは、実用性とデザイン性をあわせもつ小粋な商品として生まれ変わったといえそうだ。

後世に残すため図録を出版

  • 川上桂司さんが一番好きだという、京伝手ぬぐい復刻版第一号の艶次郎

 京伝のすごいところは、広く普及し後世にも文化として残すために、会に集まった手ぬぐい79点のデザインに短文を添えて、出品図録「たなぐひあはせ」を出版したことだ。

 染絵手ぬぐいの第一人者、東京・浅草の老舗「ふじ屋」の川上桂司さんは、30数年前にこの図録と運命的に出会い、資料を元に30枚を復元した。

 中でも、川上さんが最も好きなのは、復刻第一号として手がけた、艶次郎(えんじろう)の自画像だと、著書「染絵手ぬぐいに生きる」(明治書院)で語っている。

 切り落としの幕の間からのぞかせている愛嬌のある顔は、百万両分限(ぶげん)者の若旦那、艶次郎。京伝の黄表紙の中でも大ヒットした「江戸生(えどうまれ)浮気(うわきの)蒲焼(かばやき)」の主人公である。

 艶次郎は、イケメンでもないのにたいそうなうぬぼれ者。傾城浮名との評判が広まることを望んで、ついに狂言心中を試みる。ところが、追いはぎに襲われて身ぐるみはがれてしまう。実は親が仕掛けた狂言で、ようやく目がさめ、浮名と結婚する――といった筋書きだ。

 目尻がやや下がり、大きな獅子鼻、くったくのない笑みを浮かべるお坊ちゃま風の容貌は、江戸町人の典型的なデフォルメなのだろう。京伝のお気に入りでもあり、自己のシンボルとしても使っていた(本物の京伝は、鼻筋の通った色男だったらしいが)。

 出品作者として、「鴨鞭蔭(かものむちかげ)」と記されているが、川上さんは、染色に通じた京伝の作と信じている。

そのデザインは洒落の宝庫

  • (左)「めくじらは立てない」としゃれた熊野染、(右)「いとし藤」はよく知られた和柄

 「『手拭合』は単なるデザイン展ではない。三尺におさめた本邦初の手ぬぐい展であり、いわば木綿染めの浮世絵ともいえる斬新な企画展でもあった」と、川上さんは書いている。

 京伝は、出品図録に続いて、1700年代後半、天明、寛政の時代、自らデザインしたものも含め、滑稽図案集の出版を手がける。「小紋裁」、「小紋新法」、「小紋雅話」など。ちょうど江戸の通人の間で、個性的な小紋を着こなすことがはやっていて、おしゃれをしながらくすりと笑える楽しさを演出するのが、京伝の目指すところだった。

  • (上)鶴のデザインも角度を変えてみると……、(下)キスシーンなんて、おしゃれ

 たとえば、どんな小紋柄があったかといえば――。

 黒地に鯨の目を白く染め抜いた「熊野染」。添え書きには、「古来より鯨帯といえることは聞けどくじらてぬぐいなきおば目くじら立て」とある。鯨帯とは、昼夜帯ともいい、鯨の黒い背と白い腹に似ていることから、片側が黒繻子、もう片側が白布の帯をいう。「めくじらは(横に飾って)立てない」としゃれて作ったもので、鯨漁で知られる熊野灘の名を付けている。

 「いとし藤」は、ひらがなの「い」を縦に10()個並べて、その真ん中をひらがなの「し」で貫いた藤の花のデザイン。

 「本田つる」は、鶴のデザインだが、角度を変えて上から見たつもりになると、あれれ、ちょんまげ姿のお侍さんが歩いている?

 「口々小紋」は、いまの洋服デザインにもすぐに通用するような、おしゃれなキスシーンを想像させる。

 これらのデザインは、川上さんが復元した「小紋雅話」手ぬぐいでみることができる。

浅草寺境内に机塚の碑

  • 観光客でにぎわう浅草・浅草寺

 アートとデザイン、文学を上手に融合させた京伝にとっては、日常目にするもの、たとえば、犬の足跡も、足袋のこはぜも、また、鼻毛だってシラミだって、すべてがデザインの対象になった。

 「見立ての妙といいましょうか。横から見る、斜めから見る、左から見て右から見る、さらには高さを変えて見る……。その発想の豊かさにはただ脱帽ですね」と、「京伝ラブ銀座研究会」の岩田理栄子さんはいう。

  • 京伝の机塚は、浅草神社の裏手の駐車場にひっそりと

 浅草・伝法院通りに近い「ふじ屋」さんを訪ねた帰途、浅草寺境内にある京伝の机塚(つくえづか)の碑に寄ってみた。

 56歳で亡くなった翌年の1817年(文化14年)、弟の京山が建てたもので、碑には「書案之紀」と刻まれていた。書案とは机のことで、9歳のときに寺小屋に入った際、父に買ってもらった天神机を生涯愛用したそうだ。

 「耳もそこねあし(足)もくじけてもろともに 世にふる机なれも老いたり」と、歌に詠んでいる。

 吉原を遊びまわったとされる洒落男の京伝の、意外と堅実な一面をみた思いがした。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.09.17

銀座の天才マルチ商人、山東京伝

江戸のメディアを席巻

  • いつも着物姿の岩田理栄子さん。主催する銀座のおさんぽでは、呉服店で自らの着物も説明する

 その昔、江戸のメディアを席巻した山東(さんとう)京伝(きょうでん)(1761-1816)という銀座商人がいた。

 もともとは浮世絵師、最先端をゆく「黄表紙(きびょうし)」「洒落(しゃれ)本」の超売れっ子ベストセラー作家、脚本家、アートディレクター、歌舞伎衣装のデザイナー、イラストレーター、投資家、実業家……。肩書を数え上げると33もあったという、まさに天才マルチ商人だったそうな。

 その京伝に恋してやまない女性がいる。

 小欄の2009年4月3日付でご紹介した「銀桜まつり」の仕掛け人で、「銀座おさんぽマイスター」なる肩書をもつ岩田理栄子さんだ。

 岩田さんは、政府系の財団で十数年、女性を対象にした相談事業や編集企画に携わり、その経験を生かして、コミュニケーションスキルを磨くビジネスコーチとして独立した。もともと大の銀座好き。交流ができた経営者たちを銀座の街に案内し、銀ブラしながらコーチングしたところ、とても喜ばれた。

 「資生堂の福原会長がおっしゃっていることですが、銀座は、ご縁という『えん(円)』が流通して機能している、とてもユニークな商業の街。銀座を支えている人たちを掘り起こして、この街の魅力を多くの人たちに伝えたい、銀座の街を盛り上げるのに少しでもお役に立ちたいと思って、銀座のおさんぽイベントを定期的に開くようになりました」

銀座を歩いてご縁をつなぐ

  • 山東京伝に惚れこみ、「京伝ラブ銀座研究会」までつくってしまった岩田さん

 街歩きをしながら、老舗をはじめとするさまざまな店舗の主人と、銀座を楽しみたいと思ってやって来る人々の橋渡しをする。苦労話を聞いたり、実際にものづくりを体験してみたり。「私自身ご縁に助けられながら、またひとつ新しいご縁をつないでいくといった仕事をしています」(岩田さん)。

 銀座の歴史を調べる中で、京伝に出会った。そして、京伝に対するひたむきな思いは、周囲にいる銀座の経営者らをも巻き込んで、昨年、「京伝ラブ銀座研究会」という極めて私的な勉強会まで立ち上げてしまった。

 京伝といえば、私はまだ学生時代だったと思うが、井上ひさしさんの「手鎖心中」でその名を知った。

 京伝は、銀座中央通りに面した銀座1丁目のいまは外車の展示場になっているあたりで、「煙草入れ屋」を開業している。33歳のころだった。

 井上さんの小説では、「今流行の丁子(ちょうじ)入りや伽羅(きゃら)入りの刻煙草の調合もやって」いて、「うちとそとに人と活気が(あふ)れ、かなりの大店(おおだな)振り」とあり、人気店であったことが容易に推測できる。

商品に遊び心を加えて大ヒット

  • 京伝の「煙草入れ屋」があったとされる銀座1丁目付近

 作家として原稿料というものを受け取るようになったのは、世の中で京伝が最初らしい。とはいえ、収入は少なく、創作だけでは生活ができない。しかも、1791年(寛政3年)、洒落本3作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、見せしめに手鎖50日の処分を受ける。その謹慎生活のころから、商人京屋伝蔵の色彩が濃くなっていったようで、そのあたりのことは、京伝の研究家、小池藤五郎氏の「人物叢書 山東京伝」(吉川弘文館)に詳しい。

 それまで描きためた浮世絵を売って資金を作り、開業した。愛煙家で洒落者、赤や黄色の派手な羅宇(らう)を好んだ京伝のこと、商品デザインを自ら手がけ、店頭には、値の張る布製や皮製の煙草入れ、京伝張りの煙管(きせる)をはじめ、鼻紙袋、財布、楊枝入れ、短冊入れなど、豊富な種類が並んだ。通人、粋士のファンを増やし、京都や大阪などからも引き合いがあったという。

 注目すべきは、その売り方だ。

 「新形煙草入新店」という(すり)紙の広告チラシ(当時は引札という)を作り、芝愛宕神社の縁日でまいた。チラシには、謎絵入りの文章が書かれていて、これを解読するのに人々は夢中になった。謎絵というのは、たとえば、ちょうちんの絵を逆さにして「珍重(ちんちょう)」、老僧の絵を逆さにして「(そうろう)」と読ますなど、京伝流のしゃれ言葉が随所に散りばめられたものだった。

 店頭では、煙草入れをこの摺紙に包んで売ったので、摺紙見たさに、煙草もよく売れた。また、よく当たると評判の愛宕神社のおみくじをおまけで付けたりもした。

現代に通じる偉大なマーケッター

  • 「煙草入れ屋」跡地の隣には、銀座に珍しく煙草屋さんが……。なにかのご縁?

 「煙草入れ屋」跡地の隣には、銀座に珍しく煙草屋さんが……。なにかのご縁?

 さらに、友人の浮世絵師・歌麿や戯作者の曲亭(きょくてい)馬琴(ばきん)に店を取材させ、彼らの作品の中にそれとなく登場させるなどして宣伝に努めた。こうした仕掛けで、京伝の店は「行列のできる店」として知られるようになったのだ。

 このころ、恋女房のお菊を病で失う不幸に見舞われるが、商売は大成功。相当の資力ができたようで、近くの土蔵付きの医者の売家を買い取った。家の前には竹を植え、垣をめぐらし、門には「山東庵」の額をかけ、隠者めかした構えだったという。

 「草双紙の作は、世を渡る家業ありて、かたはらに、なぐさみにすべきものなり」を地でいく一生だった。

 「人が何かをほしいと思っているとき、無意識の欲求に訴えかける物語を作れる人でした。京伝は今でいえば、立派なマーケッター。その輝く生き方は、21世紀の私たちに楽しい啓示を与えてくれます」と、岩田さんは強調する。

 将来、銀座を舞台にした映画を製作するのが、岩田さんにとって夢なのだとか。そこには、乙粋な羽織を肩に引っ掛けた色男の京伝が、ヒッチコック映画のように、ちらりと横顔をみせるのかもしれない。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.09.10

歴史薫るチェコ雑貨

捨てられない手紙

 中身の大半は、新聞記者時代の取材メモと資料。ネットで検索して即プリントアウトできる時代ではなかったので、いつか必要になることがあるかもしれないと、複写した書類をどっさり蓄えてきたのである。

 文書管理のプロの間では、仕事で使う文書のうち捨てられるものが5割で、いつも手元に置いておいた方がいいものは2割に過ぎないとの経験則があるそうだ。

 先日、心を鬼にして、「書類ダイエット」に挑んだ。それでも、最後に絶対に捨てられないものが残った。

 記事を読んで感想を送ってくださった読者からの手紙だ。

 「感動した。こういう話をどんどん紹介して」という励ましの手紙もあれば、「あなたの考え方に異議申す」との厳しいご指摘の封書もある。

 「記事に勇気づけられました」とつづっていたDV(ドメスティックバイオレンス)被害者のA子さんは、シェルターから自立して元気で暮らしているだろうか?

雑貨ハンティング

  • 衝動買いしてしまったブリキの置物

 私にとっては、まさに「お宝」の手紙。何にしまっておこうかと迷ったあげく、プランタン銀座にあるこだわりの輸入文房具をそろえた「スコス」で手ごろなものを見つけた。

 7月30日付の小欄で、ボールペンと鉛筆の専門店「五十音」の話題を書いたが、その際、銀座には一般的に文房具探しのための散策ルートがあって、その一つが「スコス」であるとご紹介した。

 コーヒー色に白の水玉柄の愛らしいトランク型収納ボックスはチェコ製で、1680円。丈夫な紙でしっかり作られている実用性も気に入った。

 前回プラハの旅についてつづったが、実は、プラハは、愛らしい雑貨ハンティングにはうってつけの街だった。

  • (上)プラハの路地裏の雑貨ショップは、キュートな動物たちでいっぱい、(下)色とりどりの鉛筆が美しくディスプレイされている

 路地裏の小ぢんまりしたショップをひやかしてまわるのは楽しい。扉を開ければ、タイムマシンに乗って子ども時代にひとっ飛び。木製の動物のミニチュアやら、色とりどりの筆記具やら、ちょっと古ぼけた絵本やポスターやら……。ほっと懐かしい気分に浸らせてくれる。ブリキで作った女の子ミツバチの置物があまりにキュートで、即購入した。

権力に屈しないチェコ人の誇り

  • (左上)マリオネットには、チェコ人の魂が宿る、(右上)旧市街広場にたたずむフス像は、チェコ人の誇りとか、(左下)「プラハの春」の舞台になった新市街のヴァツーラフ広場、(右下)ほのぼのとした空気を運んでくれる魔女人形

 ハプスブルク家の統治下でチェコ語が禁止されていた時代でも使用が許可されたマリオネットには、チェコ人の魂が宿っている。不気味なもの、ユーモラスなもの、いろいろあるが、フェルトを使った素朴なつくりの魔女人形は、ほのぼのとした空気を運んでくれた。

 15世紀、カトリック教会の堕落を批判して火あぶりの刑に処せられた当時のカレル大学総長、ヤン・フスはチェコ人の誇りだという。フス像が静かにたたずむ旧市街広場から新市街のヴァーツラフ広場へ。ここは、「プラハの春」と呼ばれた市民運動の舞台である。権力に屈しないチェコの人たちの気概は、1989年のビロード革命へとつながる。

100年間変わらず愛されるカフェ

  • 左上)共産主義博物館の入口は、マクドナルドのテラス席から通じる、(右上)博物館に並ぶ社会主義リアリズムの絵画群、(下)社会主義時代のチェコの小学校の教室を再現

 旧市街との境をなすナ・プシーコピェ通りから一歩入ると、マトリョーシカ人形の看板が目に付いた。よく見ると、歯をむき出し、目をつり上げている。

 標識に促されていくと、そこは、共産主義博物館。社会主義時代のチェコの小学校の教室が再現されていたり、社会主義リアリズムの絵画や彫刻が展示されていたり。

  • (左)百年変わらないカフェ「カヴァールナ・ルツェルナ」(右)カフェのメニューもやはりレトロ

 「どんな歴史もすべてありのままに残す」といった思いが伝わってくる。それにしても、博物館の入口が、資本主義の象徴ともいえるマクドナルドのテラス席から続いているのは、計算された皮肉なのだろうか。

 博物館のスタッフに、「近くに100年変わらないカフェがあるから行ってみたら」と勧められた。

 ハヴェル元大統領の祖父が設計した「カヴァールナ・ルツェルナ」。その優雅な佇まいは100年前の当時とまったく変わらないと聞いた。

 ゆったり流れる時間の中で、私は、この街の懐の深さに感じ入った。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.09.03

「魔法の都」プラハにて

ビールで蘇る旅の記憶

  • 日本でも人気のある「ピルスナー・ウルケル」(「銀座 ガス灯」で)

 これだけ猛暑が続くと、普段はワイン派の私も、ぎんぎんに冷えたビールをぐびっと飲みたくなる。

 銀座3丁目、ガス灯通りにある「銀座 ガス灯」というバーには、世界各国のこだわりビールがそろっている。チェコのビールを求めて出掛けてみた。

 ありました!

 今ではビールの主流になっているピルスナースタイルのオリジナル、「ピルスナー・ウルケル」。

 黄金色に輝く外観、口に含むと、はじけるような炭酸の刺激に加えて、ホップのさわやかな苦味が広がる。その余韻を楽しみながら、いっとき、この夏のチェコ旅行に思いをはせた。

 8月のプラハ行きを思い立ったのは、プラハを舞台にした小池真理子さんの小説「存在の美しい哀しみ」(文芸春秋)を読んでからだ。

 プラハを描く「第一章 プラハ逍遥」には、たとえば、こんな文章がある。

 「プラハには、中世がそっくりそのまま息づいている。さかのぼった時間の中の風景が、街のいたるところに変わらず生きている。彫刻、尖塔、三角屋根、ドーム型の屋根、赤い屋根、青い屋根……それらすべてがちまちまと、愛らしく小さく、渾然一体となって立ち並んでいる」

パリ経由、プラハへ

  • プラハの「王の道」の起点になる火薬塔
  • (上)プラハの心臓部ともいえる旧市街広場、(下)様々な様式の建物が秩序を保ちつつ混在している

 パリ経由でプラハに到着すると、もう夜9時を過ぎていた。旧市街にあるホテルにチェックインして、すぐ街に飛び出した。そして、5分も歩かないうちに、小池さんの描いた「プラハ」を感じることができた。

 プラハの街は、ヴルタヴァ川をはさんで右岸と左岸に分かれ、右岸に旧市街と新市街、左岸に小高い丘に建つ美しいプラハ城とマラー・ストラナ地区(小地区)がある。シンプルな街の地図は、すぐに頭に入った。

 私のホテルは「火薬塔」のすぐそばにあった。「王の道」と呼ばれる約2500メートルに及ぶ歴史的な道の起点でもあり、14世紀ごろから数世紀にわたり、歴代の王の戴冠パレードが行われてきたところである。

 かつては城壁の門として活躍した黒い塔は、17世紀に火薬倉庫として利用されるようになり、現在も「火薬塔」の名で親しまれている。

 古くから商人たちの交易ルートとして栄え、今はみやげ物店でにぎわうツェレトゥーナ通りを抜けると、プラハの心臓部ともいえる旧市街広場に出る。「王の道」は、この先、カレル橋を渡って対岸のプラハ城まで続く。

 広場を印象深くしているのは、天空を刺すようにそびえる2本の尖塔が特徴的なティーン教会をはじめとして、ゴシック、ルネサンス、バロックなど、この街の歴史をつくってきたあらゆる様式の建物群だ。異なる時代、デザインが混在しているにもかかわらず、すべてが整然と、秩序を保って存在している。

 「愛らしく小さく、渾然一体となって立ち並んでいる」――まさに、そんな表現がぴったりだと思った。

ビール消費量世界一の国

 私の驚きは、路地裏にあった。人の波から逃れるように、ティーン教会の裏の路地に入る。赤茶けた壁に無造作に張られたレトロなポスター、薄暗いショーウィンドーに並ぶ哀愁を帯びたマリオネットたち……。

 石畳の道は、折れ曲がり、カーブを描き、迷路のようにどこまでも続き、カフカの小説にでもあるような不可思議な世界に引き込まれる。シンプルさと複雑さ、秩序と混沌。ヨーロッパの「魔法の都」とは、この街の印象を実によく表している言葉である。

 再び広場に出ると、カフェのテラスで、ビアホールで、夜遅くまでビールのジョッキを傾ける陽気な人々の光景があった。

 国民1人当たりのビール消費量世界一のチェコ。チェコ人は日本人の3倍も飲んでいる。どんな田舎に行ってもその土地の地ビールがあり、チェコ人にとっては、生活必需品ともいえるだろう。

  • 迷路のように続く石畳の路地を散策
  • 夜遅くまでビールジョッキを傾ける人々でにぎわうカフェ

チェコを代表する2つのビール

  • 旧市街のビアレストラン「ウ・メドヴィドクー」は昼間から客足が絶えない
  • (左上)チェコは列車の旅が楽しい、(右上)米国の「バドワイザー」の名前の由来になったブドヴァイザー・ブドヴァル、(左下)駅で缶ビールを買って、車内に、ブドヴァイザー・ブドヴァルのお膝元、(右下)チェスケー・ブデェヨヴィツェ駅
  • 「世界で最も美しい街」と形容されるチェスキー・クロムロフ

 冒頭でご紹介した「ピルスナー・ウルケル」を置いている店はとても多い。19世紀なかば、プラハの南西にあるピルゼン(プルゼニュ)で誕生したので、現地では「プルゼニュスキー・プラズドロイ」ともいう。

 この土地で育つ大麦とホップの質が高く、また、ヨーロッパでは珍しくアルカリ度の低い軟水で酵母との相性がよかったため、それまでの濃褐色のビールとは異なる、黄金色のピルスナービールが生まれたのだという。

 翌日は、チェコでもう1つ有名なビール、ブデェヨヴィツキー・ブドヴァル(またはブドヴァイザー・ブドヴァル)を飲ませる旧市街のビアレストラン「ウ・メドヴィドクー」に行った。

 米国の有名ブランド「バドワイザー」の名前の由来になったといわれるビールである。ビール通ではないけれど、芳醇なホップの味わいが強調され、深いコクがあることはわかった。私の知っている「バドワイザー」とは、まったく異なる美味しさだった。つまみに豚肉のローストを注文したところ、ビールがどんどん進んだ。

 さてその翌日、「世界で最も美しい街」と形容されるチェスキー・クルムロフを目指し、プラハ駅から列車に乗って移動した。約3時間半の列車の旅で、途中チェスケー・ブデェヨヴィツェで乗り換えたのだが、ここが13世紀半ばに創業したブデェヨヴィツキー・ブドヴァルのお膝元だと聞いた。さっそく駅で缶ビールを購入。きりりと引き締まったホップの苦味が忘れられない。

 石畳の迷路の記憶が懐かしくなったら、また、チェコビールを飲みに繰り出すことにしたい。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.08.20

フィリピンから届いたエコ小物

被災者遺児のため、単身フィリピンへ

  • ポップでキュートなエコ雑貨「ecomismo」

 フィリピンのストリートチルドレンを支援する日本のNPO法人アクション(東京都武蔵野市)の横田(はじめ)さん(33)と知り合ったのは、今年の6月初めだった。

 国際協力関係のNPOやNGOを束ねているある団体の知人から、「フェアトレードの進化系のような形で、現地の女性たちの起業支援を始めた若者がいる。国際協力のNPOでは、ニューウェーブの注目人物」と紹介された。

 横田さんは、1991年のフィリピン・ピナツボ火山噴火で被災したルソン島西部で、家族を失った子どもたちの支援を続けて16年になる。当時高校生だった横田少年は、被災地にある児童養護施設の様子を耳にして、いても立ってもいられず、単身フィリピンへ乗り込んだ。「何かさせてほしい」と身振り手振りで訴え、住み込みで40日間、壊れた壁の再建などを手伝った。

 社会人になって正式にNPO法人を設立、日本から大学生らを募集して、施設の子どもたちと一緒に農作業や建物の改修に励んだり勉強の相手をしたり、ボランティアを体験してもらうワークキャンプを毎年実施している。今までに2000人以上が参加した。

手作りエコグッズを商品に

 1年の半分はフィリピンで生活し、バイタリティーあふれる横田さんが、「今度こんな商品を日本で売りたいなって思っているのですけれど、どうでしょうか?」と、取り出したのが、ポップなデザインのポーチや財布など。作りもしっかりしていて、「なかなか、かわいい雑貨じゃないの」というのが、私の第一印象だった。

 聞けば、フィリピンで、菓子の包装紙をリサイクルして手作りしたエコ商品という。

 英語のecology(エコロジー)のecoと、スペイン語のmismo(まさしくそのもの)とを組み合わせた「ecomismo(エコミスモ)」なるオリジナルのブランド名もしゃれている。

 「作り手も売り手も、そして買う人も、商品にかかわる人たち皆が、『まさしくこれこそ、エコ!』と自信をもっていえるような仕組みを作りたいと思うのです」と、横田さんは話した。

 路上の子どもたちを支援していく中で、「この子どもたちを学校に通えるようにするには、親たちに仕事がなければ始まらない」ことに気づく。そんな時、菓子の包装紙を利用して、実に器用に小物入れを作っているお母さんに出会い、アイデアが広がったという。

環境教育と雇用創出のために

  • プランタン銀座本館1階のファッション雑貨売り場で

 道路の排水溝が整備されていないフィリピンでは、路上に捨てられた菓子袋などの廃棄ごみが詰まって、少しの雨でも洪水に見舞われることが多かった。洪水対策と街の美化、身近な環境教育、そして母親たちの雇用創出を目指し、日本のデザイン会社の協力を得て商品化にこぎつけた。

 フィリピンではまず、路上や学校、家庭などで、菓子袋を回収。それらをしっかり洗浄、乾燥させ、しわが多いものにはアイロンがけ。決められたサイズに裁断してから、色分けをしてデザインを考え、1つ1つ丁寧に折り畳みながらナイロン糸で編んで強度をつけ、ファスナーなどを付けて完成だ。

 小さなポーチを完成させるまでに、1000回以上の折り込み作業が必要で、工程ごとに担当を分け、多くの人の手によって一つずつ手作りされている。

 子育て中のお母さんたちに配慮して、研修後は自宅作業を基本として、50人以上の女性が参加している。この内職で彼女たちは、月にフィリピンの一般男性が稼ぐ3分の2ほどの報酬を得ているそうだ。

 「エコミスモを作ることで、社会とのかかわりを持てたことがうれしい」「頑張って、子どもたちの教育費を貯めたい」など、いきいきと働いているという。

モノが持つストーリー

  • 商品の背景には、フィリピンのお母さんたちの物語が……

 「エコミスモ」は、プランタン銀座の若手女性バイヤーたちの間でも、「文句なしにかわいい!」と好評だったので、8月初めから銀座の店頭に置くようになった。

 小型のポーチやキーケース、ペンケースから、大きめの財布まで。価格は800円台からとお手ごろだ。

 「デザインがキュートで、ポップな色合いがいい」「触った感じが面白い」「手ごろな値段なので、プレゼントに最適」など、幅広い年齢層のお客様から支持されている。

 また、これらの商品の背景には、フィリピンのお母さんたちの素敵なストーリーがあることを知ると、なおさら関心を持っていただいているようだ。

 地球の裏側で作っている女性たちに思いを馳せながら、このキュートな商品を手元に置いていただければうれしい。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆NPO法人アクション

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)