GINZA通信アーカイブ

2011.04.01

波乱の俳人・鈴木真砂女

 命をつないだ「幸稲荷神社」

  • 命をつないだ伝説のお稲荷さん、銀座1丁目の「幸稲荷神社」

 東京・銀座1丁目の並木通りに、赤い鳥居がひときわ目立つ「幸稲荷神社」がある。江戸時代から続く歴史ある神社で、京都伏見稲荷大社から勧請(かんじょう)したもの。銀座の商売の守り神として、街の人々から親しまれている。

 3年ほど前、周辺の再開発の話が持ち上がり、住民の反対にもかかわらず、移転余儀なしの声が上がっていた。ところが、リーマンショックの影響で開発業者が撤退。鳥居の後ろにそそり立ついちょうの「御神木」ともども命をつないだ伝説のお稲荷さんなのである。

 神社の裏手の路地に、歌人、鈴木真砂女の小料理店「卯波」があった。店は、取り壊しの難を免れることができなかったのだが、ちょうど1年ほど前、神社の隣りに建ったビルの地下で再オープン、真砂女の孫に当たる今田宗男さんが継いでいる。

 真砂女は、著書「銀座に生きる」の中で、幸稲荷についてこう記している。

 「角の幸稲荷は江戸時代からあり、昔太刀の市がたったとかで太刀売り稲荷と呼ばれていたそうだ。銀座にはたくさんのお稲荷さんがあるが、ここは札所一番で、銀座まつりのときは、ひっきりなしにお詣り人達がスタンプを押して貰っている。お客さんに場所を教えるにも、並木通りのお稲荷さんの路地、魚屋のとなり、というとすぐわかるようだ。(中略)私は至って無信心だが、このお稲荷さんには毎晩10円あげて拝んでいる。もう30年続いている……」

 お稲荷さんの蘇り伝説は、店の再興をも可能にした格好だ。

姉の遺稿に誘われ

  • 再オープンした「卯波」の目印は、しゃれたのれんと小さな灯篭

 俳句に不案内な私が真砂女について詳しく知ったのは、彼女をモデルにした瀬戸内寂聴さんの小説「いよよ華やぐ」だった。

 明治39年、千葉県鴨川市の老舗旅館に生まれた真砂女は、22歳の時、東京・日本橋の問屋の息子と恋愛結婚、女児をもうけた。だが、夫は博打に入れ込んだあげくに失踪。波乱の人生が始まる。

 実家に戻って家業の旅館を手伝っていたところ、ほどなく女将を継いでいた姉が急死する。家業の存続を望む両親のたっての願いで、義兄と再婚、30歳を前に旅館の女将になった。しかし、夫とはどうしても心が重ならない。著作の中で、真砂女は、「夫は良い人だ。だがどうしても好きにはなれない」と告白している。

 俳句をたしなんでいた姉は、たくさんの遺稿を残していて、その整理をしていくうちに、俳句の世界にひかれていった。のちに久保田万太郎に師事、俳句結社「春燈」に所属。句集「都鳥」で読売文学賞、「紫木蓮」で蛇笏賞などを受賞した。

一人になり、開いた「卯波」

  • 句集の表紙に使われた真砂女の写真から

 旅館に泊まった7歳下の家庭のある海軍士官と恋に陥ったのは、30歳の時。日中戦争まっただ中のころである。やがて出征のため長崎に配転された彼を追って家出する。その後、再び家に戻るが、昭和32年(1957年)、50歳でついに離婚を決意した。

 そして始めたのが、お稲荷さんそばの小料理店であった。店を借りる際は、親交があった作家の丹羽文雄が保証人になってくれたそうだ。俳句仲間や文壇の作家たちに支えられながら、店は小さいながらも銀座の名店の一つに数えられるまでに成長していった。

 店名の「卯波」は、真砂女の代表句「あるときは舟より高き卯波かな」に由来する。

 2003年、96歳で亡くなるが、90歳を過ぎてもずっと店に出ていたという。

 今も店に集まるのは、真砂女の時代から通う常連客が少なくない。お品書きにも、昔からの名物を残している。甘辛たれの効いた新ジャガ揚げ煮、カキ醤油の旨みを生かした自家製揚げ豆腐、豚バラ肉の串焼き、具だくさんのポテトサラダ、シジミのニンニク醤油漬け……。

 今田さんは、句集の表紙に使われた写真を見せながら、「このまんまの人でした」と、振り返る。上品な笑顔、凛とした容姿が本当に美しく、こんな風に年を重ねられたら素敵だなと思わせる。

カウンターに「波郷の席」

  • 左上)「卯波」の名物料理から、一番人気の新ジャガ揚げ煮、(左中)自家製揚げ豆腐、(左下)豚バラ肉の串焼き、(右上)具だくさんのポテトサラダ、(右中)タラの芽のてんぷら、(右下)シジミのニンニク醤油漬け、シジミの粒がぷりぷりで大きいです

 ほろ苦い春の味覚のタラの芽のてんぷらをつまみながら、「真砂女の入門歳時記」で、桜の季節の俳句をいくつか拾ってみた。

 夕桜あの家この家に琴鳴りて (中村草田男)

 ゆで玉子むけばかがやく花曇 (中村汀女)

 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ (杉田久女)

 釣り上げし魚が光り風光り (鈴木真砂女)

 壷焼やいの一番の隅の客 (石田波郷)

 「壷焼や」で始まる句について若干補足しておこう。当時、数寄屋橋にあった朝日新聞社で俳壇の選句をすませた波郷は、十分とかからない「卯波」に立ち寄るのが習わしで、サザエの壷焼きを好んで注文していたそうだ。入ってすぐカウンターの左の隅が定席で、いまもこの席は、俳人たちの間で「波郷の席」と呼ばれている。

 ちなみに、店名の由来になった句「あるときは舟より高き卯波かな」について、ご本人は著書の中でこう解説している。

 「人生も浪の頂上に()つときもあれば奈落に落ちることもある。そして又浮かび上がる……」

 真砂女の、そして人間の強さを感じさせる一句を、いま一度かみしめたい。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2011.03.18

在日難民の心つむぐ、伝統レース編み

「国を持たない世界最大の少数民族」

  • 「国を持たない最大の少数民族」と呼ばれるクルド民族は、トルコなど中東地域に暮らす

 本来のビジネスカードとともに、私はもう1枚、名刺を持ち歩いている。レモンイエローの下地に朱色で「人」の一文字がデザインされていて、お会いした方からは「おしゃれですね」となかなか好評だ。

 私のもう一つの肩書、NPO法人難民支援協会理事の名刺である。

 「難民」とは、遠い国の難民キャンプにいる人たちだけではない。毎年300人以上、これまでに実に1万人近い人々が、政治的・宗教的な理由などによって保護を求めて日本にたどり着いている事実をご存知だろうか?

 そんな在日難民を支援しているNPOだ。新聞記者時代からのお付き合いで、数年前から理事を引き受けている。

  • 日本在住のクルド難民のお母さんたちが手作りした伝統レース編み

 在日難民(申請中も含む)のうちでも多くの割合を占めるのがクルド民族。トルコ、イラン、イラク、シリアなどの国境地帯に暮らす人々で、「国を持たない世界最大の少数民族」と呼ばれることもある。

 だが、彼らが日本で正式に難民としてのステイタスを認められることは難しく、難民申請をしてから結果が出るまでに、平均して2年ほどの時間が費やされているのが現状だ。

 その間、彼らの多くは仕事に就くことも認められず、国民健康保険も適用されず、経済的にも肉体・精神的にも非常に厳しい生活を強いられている。

母から娘へ、伝統のレース編み

  • 繊細なレース編みの技法は母から娘へと代々伝えられている

 協会では、2年ほど前から、クルド難民女性の自立支援プロジェクトを立ち上げ、彼女たちのもつ伝統的なレース編み「オヤ(Oya)」の技術に注目。「Azadi(アザディ=クルド語で平和・自由の意味)」というオリジナルブランドをつくった。

 ネックレスやピアス、ストラップ、ヘアピンなどアクセサリーや雑貨約50種類ができ上がり、3月22日から1週間、プランタン銀座本館1階の服飾雑貨売場で、初めて商品展開することになった。

  • 「オヤ」プロジェクトに集まったクルド女性たち

 レース編み「オヤ」は、道具や技法によって様々な呼び方があるそうで、レース針を使用する「トゥーオヤ」、ビーズを編み込む「ボンジュクオヤ」など。今回の商品は、主に「トゥーオヤ」の技法で作られている。繊細で緻密なレースの風合いや多様な彩りに、私は一目で魅了されてしまった。

 フェミニンな今年のファッショントレンドにも似合いそう!

 こうした高度なハンドメイドの技法をはじめ、花や果実などの大自然からインスピレーションを得てつくられる絵柄、色糸の組み合わせなどすべて、母から娘へと受け継がれたものという。

 クルド女性が髪を覆い隠すのに使うスカーフの縁に飾られるオヤには、家族に対する感謝や女性の恋心などが表されているそうで、オヤは、クルド女性にとって自分の気持ちを素直に表現する大切な手段でもあるのだ。

日本との交わり、自信に

  • 豊富な色使いも「オヤ」の特徴

 日本での厳しく孤立した生活を余儀なくされている彼女たちだが、協会が音頭を取って、仲間と一緒にオヤを製作する機会を設けることで、積極性が増し、互いに助け合えることを知り、コミュニケーション力もどんどん高まっているという。

 以前、昨年8月20付の小欄で、フィリピンのスラム街のお母さんたちが、リサイクルした菓子の包装紙を使ってポーチや財布などを製作、プランタン銀座で販売した話題を紹介したことがある。

  • お母さんたちのオリジナルブランド名は「Azadi」。平和・自由を意味する

 その活動を現地で支援しているNPO法人アクションの横田宗さんが帰国して、こんな話を聞かせてくれた。

 東京・銀座の百貨店の売場に商品が置かれている場面を実際に映像で見せたところ、「今まで自分が生活する小さな地域のことしか知らなかった。でも、私の作ったものが役立っている、外の世界の人たちとつながっているのだと初めて実感できた」と、涙を流して喜ぶお母さんたちがいたそうだ。

 オヤを作るお母さんたちも、同じように、自信をつけ、日本社会との交わりを深めるきっかけを見つけてくれるに違いない。

 そして、私たちも、身近にある難民問題に少しでも関心をもち、日本にいる私たちだからこそできる支援は何だろう? と、考える機会にできれば素敵だ。

 ストラップは840円から、ピアスは1260円から、ネックレスは2835円から。オヤ商品の収益は、在日クルド難民の生活向上のために使われる。

(プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆NPO法人難民支援協会

 http://www.refugee.or.jp/

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2011.03.04

銀座「花×菓子」さんぽ

ビルのふもとに「菜の花のじゅうたん」

  • 銀座8丁目、千代橋付近で見つけたカワヅザクラ

 春の訪れが待ち遠しいこの季節、東京・銀座8丁目にある銀座中学校そば、今は高速道路に変身した築地川跡にかかる千代橋を通りかかったら、桜の開花を発見!

 といっても、伊豆半島の石廊崎あたりでみられる寒桜の園芸品種「カワヅザクラ」。地元のロータリークラブが寄贈した1本だった。淡い紅紫の華麗な花びらで、その周辺だけ、ひときわ華やいだ雰囲気である。

 今年の桜の開花予想によれば、東京都心では3月27日あたりとか。桜のシーズンより 一足早く、菜の花が満開の場所があると聞いて、足を延ばしてみた。

 千代橋から歩いて5分ほどの、旧浜離宮庭園名物の菜の花畑である。

 同庭園は、江戸時代初期は徳川将軍家の鷹狩り場だった場所。6代将軍家宣の時代に「浜御殿」と称される将軍家別邸になり、鴨場や茶屋を整備・拡充、明治維新後は皇室の離宮になって、「浜離宮」と名前を変えた。

  • (上)江戸時代、荷物を積んだ小舟が行き交った、(下)平成20年に大規模修復を行った石積みの護岸

 東京湾からの海水を引き入れ、潮の干満によって池の趣を変える様式の「潮入(しおいり)の池」は、江戸時代の大名庭園の特色を物語る、都内の江戸庭園では唯一現存する海水の池だ。

 また、舟で運ばれてきたさまざまな物資は、内堀で陸揚げされたそうで、今も残る石積みの護岸は、江戸時代の水運の遺構として貴重な史料とされている。

 庭園の周囲には現在、ホテルやオフィスビルなど高層ビルが立ち並ぶが、その足元には野鳥が生息し、四季の花々が咲き誇るなど、まさに「都心のオアシス」の風情があふれている。一角にある「お花畑」は、春は菜の花、秋はコスモスで埋め尽くされる。

 30万本もの菜の花が香る黄色のじゅうたんに包まれると、ああ、春の足音が近づいているのが実感できますね!

  • 旧浜離宮庭園・塩入の池から汐留の高層ビル街を臨む
  • 30万本の菜の花で埋まったお花畑
  • 菜の花が春の訪れを告げてくれる

向島で生まれた桜餅

  • 明治40年創業の清月堂本店

 公園をあとに、新橋演舞場方面に戻ると、明治40年創業の和菓子の老舗、清月堂本店ののれんが気になった。

 風味たっぷりの十勝産の小豆を使った(あん)を味わう「あずま銀座」は、気軽な手土産によく利用させていただいているのだが、やはり、今回は、春の気配を意識して、桜餅を購入することにした。

  • 桜葉に徹底的にこだわった清月堂の桜餅

 桜餅の歴史をひもとけば、ルーツは、享保2年、1717年にさかのぼる。

 隅田川東岸の向島を訪れた8代将軍徳川吉宗は、景色が寂しいからと、川の堤に桜の木を植えるように命じ、その結果、浅草から向島界隈の隅田川堤は桜の名所になった。

 あるとき、向島・長命寺の門番をしていた男が、土手の桜の葉を拾って樽で塩漬けにし、餡入りの餅をはさんでみたところ、なかなかうまい。これが桜餅の始まりといわれている。その後、長命寺門前で売られた桜餅は江戸を代表する名物となり、年間40万個近くが作られたという。その味は、今なお向島名物として親しまれている。

「長命寺」と「道明寺」

 ところで、桜餅には大きく分けて、小麦粉などを水で溶かしてクレープ風に焼いた皮を用いる関東風と、道明寺粉(米を蒸して乾燥させた道明寺ほしいいを荒く砕いたもの)を蒸して作る関西風の二通りがある。

 清月堂のは、関東風の焼いた薄皮で包んだ上品な一品。桜の葉にはたいそうなこだわりがあって、海風を浴びて育った西伊豆・松崎町のものを手摘み、傷や変色などを厳しくチェックした後、木樽に並べて丁寧に漬け込むそうだ。

 一方、昭和通りを越えた側の同じく銀座8丁目、萬年堂本店は、関西風の道明寺系。京都寺町三条で、御所や寺社に菓子を納めていた店がルーツだと聞いて、納得だ。何ともきれいな俵型。この季節、きんとんを使った「菜の花」の生菓子も見逃せない。

  • 京都にルーツをもつ萬年堂本店は道明寺タイプ
  • この季節限定の「菜の花」の生菓子も萬年堂で見逃せない

銀座の桜餅いろいろ

  • (左上)「一文字」と呼ばれる銀座菊廼舎本店の桜餅、(左下)銀座あけぼのの店頭には、桜餅がいっぱい!、(右上)四角い形が独特の銀座あけぼの、(右下)色粉を加えないもっちりした白い皮が空也の特徴

 ほかに、銀座に本店を置く和菓子店の、私のおすすめ桜餅をご紹介すると……。

 5丁目の銀座コアビル地下にある銀座・菊廼舎(きくのや)本店では、関東風に焼いた皮で包んだ桜餅を、道明寺と区別して、「一文字」と呼ぶ。紅白あって、紅い皮がこし餡、白い皮が粒餡。もっちりした食感が楽しい。

 今の季節、銀座限定のイチゴ大福が人気の銀座5丁目、銀座あけぼの自慢の桜餅は、餡を茶巾寿司のように包んだ独特の四角い形。白玉粉をたっぷり用いた皮はふんわりしっとり。桜花の塩味もアクセントになっている。銀座4丁目の交差点に近いせいか、外国人観光客の姿も多い。

  • 静かなたたずまいの銀座6丁目の空也

 銀座6丁目の空也は、最中で有名だが、桜餅もおすすめ。上野池之端で創業し、戦後に銀座の並木通りに移った同店は、茶室のように静寂なたたずまいだが、気取った感じはない。だが、すべて予約制。玄関には、「本日のもなかはすべて売り切れ」の案内が常にかかっている。最近は、ハングルでの案内文も加わった。韓国からの観光客も訪れるのだろう。

 桜餅は関東風の焼き皮で、色粉は加えず、白いままの素材が美しい。こし餡は淡い色合いで、甘さを抑えた繊細な味わいが私の好みでもある。

 ところで、桜餅を包んでいる桜の葉は、食べるのか? それとも、除くのだろうか?

 私は、あの豊かな香りが好きなので、断然、「食べる」派である。元祖「長命寺桜もち」の店主は、「食べ物はやはりそれぞれのお好みで」としながらも、葉をはずして食べることを勧めていた。

 春はすぐそこ……。口の中には、春の悦びがじんわりと広がっている。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2011.02.18

銀座でB級ご当地グルメの旅

コシと旨み、吉田のうどん

  • ビニールシートで覆われた屋台風の「B級グルメ村 ギン酒場」

 焼きそば、おでん、カレーに餃子……。いまや全国各地にB級ご当地グルメがあふれている。

 「安くて旨い」はもちろんだけれど、どの皿にも、「幼いころから親しんできた味」をいとおしく誇りに思い、大切にしている土地っ子の「地元愛」がたっぷり詰まっているのが特徴だろうか。

 その人気のほどを競い合うイベントが、年1回開催される「B級ご当地グルメ!B-1グランプリ」だ。年々盛り上がり、昨年は2日間で40万人を超えるファンが集まった。地域活性化の救世主としても注目されている。

  • ひときわ目立つ赤い幟が目印に

 来場者が使った割り箸の総重量で順位を決めるのだが、昨年は、甲府鶏もつ煮が1位のゴールドグランプリを獲得したのは記憶に新しい。

 私が最近現地で味わって感激したのは、同じ山梨県富士吉田市の「吉田のうどん」。

 発祥といわれる店ののれんをくぐると、土間を囲むようにして座敷があって、田舎の親戚を訪ねた時のような温かな雰囲気だ。お品書きはない。かけうどんとつけうどんの2種類のみで、「あったかいの」などと言って注文する。

 聞けば、江戸時代、富士山詣での人々に昼間だけ居間を開放してうどんを供していたのが始まりで、いまも看板のない民家風の店舗が多いそうだ。

 太くてコシの強い手打ち麺で、かめばかむほど旨みが広がる。トッピングのゆでキャベツの甘みがしょうゆベースの濃い目の汁とマッチして、シンプルだけれども味わい深い。

金沢名物「ハントンライス」

  • 懐かしくもやさしい味の金沢名物「ハントンライス」

 ご当地グルメは、もちろん、現地を旅してその土地のいわれや伝説などを教わりながら食するのが一番だが、なかなか訪ねる機会がない場所もある。

 そんな折、改築中の歌舞伎座近くの東京・銀座3丁目に、「B級グルメ村 ギン酒場」がオープンしたのを知った。「築地銀だこ」など全国に300店以上のチェーン店を展開する会社の経営で、そのネットワークを生かし、各地のスタッフから寄せられる情報でメニューを決定しているという。

 ランチタイムにのぞいてみた。「ご当地グルメ」の赤い(のぼり)に誘われて、祭り提灯が揺れる中、ビニールシートで覆われた店内に入ると、サラリーマン風の男性が多い。

 ランチメニューは月替わりで、今月は、金沢市の「ハントンライス」、帯広市の「帯広豚丼」、岡山市の「デミカツ丼」の3種類。どれも780円。隣りの男性が食べているのを見て、迷わず「ハントンライス」を選んだ。

 ケチャップで味付けしたバターライスの上に、とろり半熟の薄焼き卵をのせた、オープンオムライスのよう。卵の上からもケチャップをかけ、タルタルソースを添えた海老フライが2本。ケチャップの甘みとタルタルソースの酸味とが微妙にからみ合って、美味しい。現地では、オヒョウなどの白身魚のフライをのせているのが基本だそうだ。

まかない料理にヒント

  • 店内にあったB級グルメマップ

 元祖の店は、金沢にはもうない。1960年代、当時東京にもあった「ジャーマンベーカリー」が金沢に出店する際、洋食のシェフが考案したのが始まりといわれる。パプリカとバターで味付けしたご飯に、残り物のマグロのフライなどをのせた、まかない料理からヒントを得た。金沢店の人気メニューになり、市内の洋食店にも広まっていったようだ。

 「ジャーマンベーカリー」といえば、プラネタリウムのある渋谷の東急文化会館(2003年に閉館)にあった。メレンゲたっぷりの甘酸っぱいレモンパイ、酸味がさわやかなライブレッド、肉汁がじゅわっとしみ出るハンバーガーも大好きなメニューだった。懐かしい味が思い出される。

 ちなみに、「ハントン」とは、料理にパプリカを多用するハンガリーの「ハン」に、フランス語でマグロを意味する「トン」を合わせた造語という説が有力だ。

 夜は居酒屋メニューで、銚子のさばカレーや飛騨高山の漬物ステーキ、岡山のホルモン焼きうどんなどが食べられる。

そばつゆ×シャンパンの意外なマリアージュ

  • 居酒屋メニューも充実。欲を言えば、もう少し珍しいものも紹介してほしいけれど

 ところで、B級グルメ好きなワインライター、葉山孝太郎さんから教わったシャンパンとB級グルメの意外な組み合わせを一つご紹介したい。

 市販の濃縮そばつゆを好みの量の水で薄めて、天カスと刻みネギを散らす。このそばつゆをちびりちびりなめながら、休日の昼下がり、シャンパンを飲むぜいたくな時間に、最近私ははまっている。そばつゆのような発酵系の液体はシャンパンと相性がよいのだ。

 名人になると、カップ入り天ぷらそばの粉末スープを水に溶き、同封の天ぷらを割り入れて肴にするという。

 私はまだ名人の域には達していない。ご興味あれば、ぜひ試してみてください。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2011.02.10

日常と幻想が交錯するイラストレーター、小林系

下描き・修正なしの「落書き」

  • 「Note Book」の表紙は、自身のイメージなのだとか
  • 「088」ボールペン・水彩

 「まだ知名度はないかもしれないけれど、デッサン力があって、私は紹介されて、一目ぼれしてしまいました……」

 プランタン銀座のギャラリーを担当するスタッフが、ちょっと興奮した声で教えてくれた。

 今回は、小林系さんという若手イラストレーターについてご紹介したい。

 昨年5月に初めて出版した画集「Note Book」(飛鳥新社)が好評で、先般、平成22年度の文化庁メディア芸術祭で「マンガ部門」の審査委員会推薦作品に選ばれた。

 この作品集、小林さんが日々描きためたスケッチブックをそのまま本にしたもの。ボールペンと少しの筆ペンを使い、下描きも修正もまったくせずに、描き切った「落書き」というが、これが迫力があってすごい。

 鳥とともに空を飛ぶ少女、回遊する無数の魚たち、風に歪む街並み、喫茶店でくつろぐ女性、自動販売機、幾何学模様のような星のまたたき、世界を埋め尽くす矢羽……。日常の空間と幻想の世界が縦横無尽に交錯して、どこか浮遊しているような不思議な感覚を覚えるのだ。

画が持つ、巧さを超えたなにか

  • 「無題」 クレヨン・カラーインク

 ページをめくるごとに、新しいイメージが現れ、突然物語が始まったり、日常のたわいない風景がはさまれたり。自由に筆を走らせているのだろうが、幾重にも連なる繊細な線の流れは濃密で、心地よい緊張感さえ与えてくれる。

 画集の監修者、イラストレーターの綿貫透さんによれば、「手の訓練というよりは全体的に思考している感じ。落書き一枚が完成されている」との評。

 画集の紹介文には、来日したフランスの人気漫画家メビウスが、何度も「傑作!」と叫び、「画は巧さを超えたなにかを表すことがある。この画にはそれがある」と感嘆した、とあった。

 小林さんは、専門学校でデザイン・イラストを学んだあと、スカウトされたゲーム会社で3年ほど働き、今はフリーランスで活動している。

 「幼いころから絵本の模写をしたりして、何がしか描いていましたね。特技は?と聞かれたら、絵くらいしかない。専門学校に進んだのは自然の成り行きです。漫画の『スラムダンク』が好きでバスケットボール部に入ったり、結構ミーハーなところもありました」

ほとんどは喫茶店で

  • ジャングルジムの繊細な描写

 仕事の合間に思いついたものを描き続けたスケッチブックは7冊ほど。今回はそのうちの3冊をまとめた。ほとんどは、チェーン展開している喫茶店で描いた。画集の最初の方のページに、ジャングルジムを描いた印象的な作品がある。写生でもしたのだろうと思わせる線の組み立てなのだが、これも喫茶店で描いたのだという。

 「綿貫さんと一緒に、話をしながら描いたり。結局8時間くらい長居してしまうこともありました」

 喫茶店はぼーっと人間観察をするには絶好の場所。世間に発表するつもりで描いたわけではないので、「意識して格好つけている画ではないんです」。

 ジャングルジムの中心にいるのは、スーツにソフト帽の大人の男性。子どものころの楽しい思い出でも巡らせているのだろうか。

 そんなイメージを伝えると、「うれしいです」とにっこり。

 「確かに、子どものころ、ジャングルジムに上るのが好きでした。作品を見た人にイメージを語ってもらうと、ああ、その通りだなあと思うし、そこからまたイマジネーションがわくんです」

「ミカンを人にたとえると」

  • ボールペンを取り出して、私の似顔絵を数分でささっと描いてくれました

 小林さんの絵には、必ず人が描かれている。「人が好きですね。相手と話すことで気づかせられることがたくさんあるので、おしゃべりするのが好きです。描いているのが動物であっても、その動物との対話は人間の言葉で聞こえてくる。ミカンを描くときも、まず『人にたとえると』って考えます」

 尊敬するのは、ゲームソフト「ファイナルファンタジー」のビジュアルコンセプトデザインを担当した天野喜孝さん。小学生の時に雑誌のポスターで見て、『何だろう、これは!』と衝撃を受けたそうだ。

 そんな小林さんが、2月16日から28日まで、プランタン銀座本館6階の「ギャルリィ・ドゥ・プランタン」で、初の個展を開く。原画、版画を中心に、線画の美しさを活かしたトートバックやTシャツ、ポストカードなどのグッズも販売する。

 ちょっと不思議な「系ワールド」を体験してみませんか?

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2011.02.04

幕末の探検家・松浦武四郎と「一畳敷」

 松浦武四郎という幕末の探検家の名前を知ったのは、学生時代のことだった。

 東京・三鷹にある私の母校、国際基督教大学(ICU)は、アメリカの大学のキャンパスを小ぶりにしたような雰囲気があるのだが、構内の雑木林の中にひっそりと、ひなびた感じの茶室風建物がある。「泰山荘」と呼ばれていた。

 北海道の名付け親、松浦武四郎が、人生最期を過ごすのに選んだ場所だと聞いた。学生時代は、演劇部にいた友人がここで発声練習をするのに付き合って、私は傍らで本を読む静かな時間を楽しんだりした。

 のちに、ICUに在籍されたコロンビア大学教授のヘンリー・スミスさんの著書「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」(1993年)で、その全貌と、武四郎の興味尽きない人生を知ることになるのだが……。

一畳敷の小宇宙

  • 「東西蝦夷山川地理取調図」の十勝平野周辺図

 東京・京橋のINAXギャラリーで、「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷展」が開かれていると知り、出掛けてみた(2月19日まで)。

 会場には、武四郎が造り上げた「一畳敷」が写真パネルを使って立体的に再現されており、その中に身を置くことができる。「一畳」という広さが、私たち人間にとってちょうど身の丈が収まる心地よい空間であることを改めて教えられた。

 武四郎は「草の()」と名付けたが、明治の評論家、内田魯庵は「好事の絶頂」と呼び、人々は、部屋として最小限の広さであることから、「一畳敷」といって親しんだ。

 松浦武四郎は型破りな才人といわれ、生涯をかけて日本全国を旅し、山に登り、海峡を渡り、240を超える著作を残している。生家は、現在の松阪市、伊勢街道沿いにあり、幼いころから、お伊勢参りの旅人を目にしていたことが旅への憧れと好奇心を育んだといわれている。

 17歳より諸国を遍歴、27歳までに東北~九州間を制覇。その後、日本の国防を憂いて、領土を正確に把握するために蝦夷地調査へと、フットワーク軽く向かう。

 和歌や篆刻(てんこく)にも優れ、各地の文物を蒐集した趣味人でもあった。吉田松陰は武四郎を盟友とし、「奇人で強烈な個性の持ち主」と評している。明治政府より開拓判官に任じられたが、政府のアイヌ政策を批判して辞任するなど、反骨の人でもあった。

北海道の名付け親

  • 北海道の動植物を詳細に記した「久摺日誌」 ここではイトウが描かれている

 歩幅による距離の把握に長け、文字を持たなかったアイヌ民族の生活や風習、土地で出合った珍しい動植物なども「野帳(のちょう)」と呼ばれる小さなフィールドノートに克明に記録した。6度の探検の成果は、この莫大なる記録をもとに、「久摺(くすり)日誌」「北蝦夷余誌」などの紀行本や蝦夷地図にまとめられ、広く世間に紹介した。明治に入って蝦夷地に変わる地名を提案、「北海道」と名付けたのも彼だった。

 特に地図に関しては、伊能忠敬と間宮林蔵によって輪郭線は測量されていたが、その内部は未開拓で、彼はアイヌ民族と協力して入り組んだ川の流れや地形の詳細を明らかにした。会場に展示された「東西(とうざい)蝦夷(えぞ)山川(さんせん)地理(ちり)取調図(とりしらべず)」は貴重な実物。経緯度1度で1枚という大判で、26枚組み。9600字にも上るアイヌ語で地名を書き入れた緻密さは目を見張る。

 武四郎の目線はいつも温かく、アイヌの人々に対する敬意の念を忘れていない。たとえば、漁業においては短い網を用いるなどして乱獲に配慮する、熊など神と崇められる生き物については、捕獲後は神の世界へ送り戻す儀礼を執り行うなど、その自然に対する姿勢を尊重している。また、魚についても詳細な記述が目立ち、「味よろし」など、ちょっとお茶目な感想も記している。

 アイヌの人々と同じ食べ物を食べ、アイヌ文化への敬いの心で接した武四郎に、アイヌの人々も随分と信頼を寄せたようだった。

古材の由来「木片勧進」に

  • 「一畳敷」の書斎に使われた古材の由来をまとめた「木片勧進」

 ところで、「一畳敷」がなぜICUキャンパス内に残るのか、少々解説を加えておこう。

 武四郎は旅に生きた人生を締めくくるかのように、東京・神田五軒町の住まいをついのすみ家として選び、その東側に、8年の歳月をかけて書斎を設けた。一畳だけで完結した空間はかつてなく、「自らの創作である」と自負していたそうだ。

 古稀を迎える一大事業として取り組み、完成したのは明治20年(1887年)。旅をきっかけに知り合った人々から情報を収集し、由緒ある木片を部材として集めた。古材の出所は、北は宮城県から南は宮崎県まで、その数91に上るという。奈良の吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居や伊勢神宮の遷宮で取り替えられた木材なども含まれていた。友人たちから「銘木の一片が出る」との文が届けば、これを取り寄せ、時には、その地に出掛けて探すこともあった。

 古材の由来とどこに用いたかは図面とともにまとめ、「木片勧進」として出版している。人付き合いを好む武四郎は、時折この一畳敷に人を招き入れ、「木片勧進」を開きつつ、来歴について語り聞かせたりもしたそうだ。武四郎の経験は、幕末の志士たちにも大きな影響を与えたといわれている。

ICU祭では「泰山荘」一般公開

  • 「北蝦夷余誌」では、北方民族の生活を紹介

 一畳敷の完成から1年余の明治21年、武四郎は71歳で生涯を終える。「木片勧進」には、死後はこれを壊し、その古材で亡骸(なきがら)を焼いて、遺骨は大台々原に埋めてほしいと記してあったが、遺族は取り壊さずに自邸とともに残した。

 一時、徳川家が営む図書館「南葵(なんき)文庫」に移築されたが、昭和の初めに日産財閥の実業家、山田敬亮に譲渡。跡地は中島飛行機の工場を経て、戦後ICUとなり、キャンパス内に保存されることになったのである。

 ヘンリー・スミス教授は、今回の展示インタビューの中で、「武四郎の人生は、一点から出発してだんだん広がり、長崎や蝦夷地にまで延び、そして最後は縮んでいく。人生の締めくくりとして、原点を見つめようとしたのだろう。私も古稀を迎える年齢になり、その気持ちがわかるようになった」と語っている。

 さて、毎年秋のICU祭では、「泰山荘」も一般公開されている。一畳敷の小宇宙に、久しぶりに身を置いてみたくなった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2011.01.14

帝国ホテル120年の味

 東京・日比谷にある帝国ホテルは、1890年(明治23年)に開業、「東洋一の迎賓館」とも呼ばれ、昨年11月3日、120周年を迎えた。

 120周年を記念して、今年の元旦、第13代総料理長・田中健一郎さんが「懐かしい帝国ホテルの味めぐり」という素敵な企画を催した。

 「フォンテーヌブロー」や「グリル」「プルニエ」など、一時代を画したレストランの名物料理がデザートも入れて11品、デギュスタション(テイスティング)・スタイルで供されたのである。

懐かしい味11選

 ご興味がある方もいらっしゃると思うので、1品ずつご紹介したい。

 1品目、「レインボールーム」からは、スモークサーモンとカリフラワーのバヴァロワとオマール海老の取り合わせ。スモークサーモンの塩加減がやさしい。

 2品目、世界のレストラン・ベスト10にも選ばれたことがある「レ・セゾン」からは、たらば蟹のスフレ・キャビア添え、ソーテルヌワインのソースで。

 3品目、フランスのアルザス地方のビアホールをイメージして造った「ラ ブラスリー」からは、シャラン産鴨のテリーヌ、りんごのサラダと金柑のチャツネを添えて。

  • スモークサーモンとカリフラワーのバヴァロワ
  • たらば蟹のスフレ
  • 鴨のテリーヌ

 4品目、ホテル・ハスラーのシェフを招いてオープンしたイタリア料理の「チチェローネ」からは、スパゲッティ、魚介のソースと共に。ムール貝やホタテ貝などの魚介がトマトソースと絡まって、ミートソースのシーフード版といった趣に。

 5品目、1958年にオープン、定額料金で食べ放題のスタイルが話題になった「ヴァイキング」から、珍しい(きじ)のコンソメスープ・シェリー風味。1960年の冬メニューだそうで、繊細でふわっとした柔らかな味わいが特徴だ。

 6品目、魚介の専門レストラン「プルニエ」から、旬の魚介のすり身をはさんだ寒平目のデュグレレ風。デュグレレ風とは、19世紀のフランスの料理人、アドルフ・デュクレレの名前から由来しているそうだ。当時のフランス料理には珍しく、ソースにトマトの酸味が生きている。

  • スパゲッティ
  • 雉のコンソメスープ
  • 寒平目のデュグレレ風

 7品目はお口直しで、ドンペリニヨンのグラニテにフルーツのジュレを浮かべて。

 8品目、本格フランス料理店として1970年に登場した「フォンテーヌブロー」から、仔牛の喉頭肉、牛舌とフォワグラのプレゼ・ヴォロヴァン仕立て、アルフォンス13世風。パイの中にじっくり煮込んだ肉が詰められていて、濃厚ソースは絶品だ。

 グルメブームのはしりで、文化人や経営者のお客に愛された同店は、食材はほぼフランスで使うのと同じものをそろえ、高級ワインもチーズも野菜も、日本になければ空輸で取り寄せていた。田中総料理長にとっては、一番思い出深い店でもあるという。

 9品目、「グリル」から、えぞ鹿のステーキ・トリュフソース、料理長風。ちょうどいい具合に熟成させたえぞ鹿は、とってもジューシー。

  • グラニテとフルーツのジュレ
  • 仔牛の喉頭肉と牛舌など
  • えぞ鹿のステーキ

 10品目、小さな器のなめらかチーズプリン・フルーツ飾り。

 11品目、イチゴのパイ・サバイヨンソース添え。「ムッシュ」といえばこの人、名料理長の誉れ高い第11代総料理長、村上信夫さんのスペシャリティ。1979年から250回を超える人気催事「村上信夫とフランス料理の夕べ」で供されたという。

 読者の皆さんの中にも、「ああ、懐かしい」と思われる一品を見つけた方もおられるのではないだろうか。

  • チーズプリン
  • イチゴのパイ

「料理の世界も温故知新」

  • 開業約1か月後のメニュー
  • 「フォンテーヌブロー」で使われた食器など

 私の思い出はといえば……まだ幼いころ、新しもの好きの祖父に連れられて、バイキングに行き、調子に乗って食べ過ぎて翌日おなかの具合が悪くなったこと、また、洋服を新調して出掛けた「フォンテーヌブロー」では、初めてジビエを経験、燕尾服を着たカッコいいギャルソンと記念写真を撮ったことなど、いくつかのエピソードを思い返すと、楽しく、また、ちょっぴりせつない。

 「料理の世界も温故知新。伝統の味を大切に継承しながら、未来に向けてさらなる美味の追求に努めたいと思います」と、田中総料理長の言葉は力強かった。

 その話を聞きながら、私は、2005年に亡くなられた村上信夫さんのことを思い出していた。

“ムッシュ村上”とビーフカレー

  • 村上信夫さん(右)と田中総料理長
  • 料理を作ったシェフたちが一列に並んでゲストを見送る

 読売新聞本紙でいまも続いている連載記事「時代の証言者」で、私は、亡くなられる1年ほど前、インタビューした。忘れられない話題はたくさんあるのだが、田中総料理長と同じく、「料理の基本は温故知新」と言われていたのが印象的だった。

 古い知識を知ることで新しい料理も生まれる、というのであって、その例として、帝国ホテルのメニューにある「伝統のビーフカレー」を挙げながら、実に楽しそうに説明してくれた。

 《尊敬する師であった第8代の石渡文治郎総料理長が昭和の初め、フランスの名料理人、オーギュスト・エスコフィエから教わった作り方が基本になっています。タマネギ、ニンニク、ショウガ、ニンジンをバターで炒めてカレー粉を混ぜ、肉と刻んだトマトを加えてスープで煮る。最後に米の粉でとろみをつけます。このカレーは、1936年の二・二六事件の際、帝国ホテル近くで警備にあたった兵隊さん向けに炊き出しをしたところ、とても喜ばれたと聞きます》

 《石渡のオヤジさんは、エスコフィエ直伝のカレーに自分なりの味付けを工夫しました。野菜をじっくり炒めて甘みを引き出し、ソースは裏ごしせずにつぶつぶ感を残したのです。その後、代々の料理長は石渡流カレーソースを受け継ぎ、時代ごとの新しいアレンジを加えていきました。伝統の料理はこうして、さらなる輝きを増していくのだと思います》

 帝国ホテルの懐かしい味は、ムッシュ村上のにこやかな笑顔とともに、私の記憶にいつまでも留まることだろう。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2011.01.07

悩める男女を励ます、原宿の母

自らを鼓舞する助けに

  • ズバズバ言うけれど、励ましのアドバイスも忘れないところが人気の「原宿の母」こと菅野鈴子さん

 先が見えない時代だからか、カリスマにすがりたいからか……。相変わらずの占いブームが続いている。

 初詣ではおみくじ、赤ちゃんの命名では字画、部屋の模様替えでは風水、というふうに、日本人の占い好きはとどまるところを知らない。

 雇用も老後も自然環境も、世の中は不安なことだらけ。瞑想、ヨガ、占い、パワースポット巡り……。神秘的なるものに触れることで内面を見つめ直して自分を鼓舞したいという気持ちは、年々強まる傾向にあるようだ。

 「私って何をやってもダメなんです。仕事も長続きしないし、彼氏もずっとできないし。どうすれば、いいんでしょうか?」

  • 原宿のマンションの1室には、手作りのこんな案内板が……

 正月早々、「原宿の母」のもとには、そんな悩める女性たちの来訪が絶えない。

 「原宿の母」とは、「プランタン銀座」のホームページで「占いコーナー」を担当する人気の占い師、菅野鈴子さんのことだ。

 菅野さんは占い師歴約30年のベテラン。吉本ばななさんのエッセイ集「パイナツプリン」(角川文庫)の「プランタンと私(?)」の章には、「言葉がばしっばしっと断定的で、ものすごい勢いで励ます」「とてもよく当たる」占い師として登場している。

運命の不思議を感じて

  • タロットカードも自分でデザイン。ポップなカラーが気持ちを弾ませます

 実は、20数年前、東京・原宿の路地裏で店を張っていた彼女を取材して新聞記事にしたことがある。

 「あんた、家庭運ないね」「来春は恋人と別れるよ」と。ズバズバおっしゃる。でも、切り捨てるだけではなくて、励ましのアドバイスがひと言加わり、相手の心を和ませていたのが印象的だった。

  • デザイン学校に通っただけあって、こんなプチTシャツ作りはお手のもの

 広島の高校を卒業後、上京。専門学校でファッションデザインを学んだものの、「絵が下手過ぎて、先生から完全に無視」された。人なつこい性格を生かして観光バスガイドになったら、人気爆発。ところが、会社の重役に、ギンギンに派手な通勤スタイルを目撃されて、即刻クビに。

 その後、パントマイムの振り付け師、結婚式場の巫女、風呂屋の番台、田植えのアルバイトなどを転々。やっと見つけたOLの仕事も、1年も経たないうちに会社が倒産……。

 悪いことは重なる。失意のどん底、力なく原宿の横断歩道を歩いていると、いきなり自転車が全力疾走で体当たり。ところが、かすり傷ひとつ負わなかった。

 「こんな経験、小学生の時もあったっけ。げに運命とは不思議なもの」と思い直し、みかん箱を占い机代わりに、この道に首を突っ込んだというわけだ。

3人に1人が男性に

  • 占い部屋のインテリア。オレンジは幸運、赤は情熱、白はリセット、緑は再出発を表すカラーだそう

 最初は見よう見まね。1回300円の安さにひかれて、原宿通いの10代の少女たちが群がった。彼氏や学校の悩みを打ち明けられる姉貴のような存在になり、「原宿の母」と慕われた。

 「当たらなければ笑ってごまかせばいい」と軽く考えていたものの、占いの世界は奥が深い。のめり込む性格で、500人以上の友人・知人の手相を徹底分析、気学やタロットカードも猛勉強するまでに。努力実って、「信頼できる占い師」との口コミでうわさが広がり、今では大手企業のイベントやテレビなどにも引っ張りだこなのである。

 いま、原宿のマンションにある占い部屋を訪ねて来るのは、1日15人ほど。最近では、訪問者の3人に1人が男性になってきた。

 定職を見つけようと走り回っているのに、仕事が決まらないと嘆く20代のフリーター、借金が返せず、「今度借りるにはどちらの方向がいいか」と尋ねてきた脳天気な30代の会社員、「会社にたんかを切って辞めたけれど、後悔している」と肩を落とす40代男性……。

 「リスクを背負ってこの仕事を続けるのが怖い」と、か細い声で相談してきたのは、産婦人科の男性医師。ちょうど妊婦が病院をたらい回しされたというニュースの直後だったので、驚いたという。一方で、「赤ちゃん誕生という素晴らしい瞬間に出会える仕事なので、やりがいがあって、とても幸せ!」と目を輝かせる若手助産師の話には心温まった。

「いつでも遊びにおいでよ」

  • 昨年プランタン銀座で開いた「女子会」イベントでは、手相占いをやって大好評

 恋愛・結婚に関しては、男女の悩みに差がなくなった。

 「友人の結婚が相次いで、あせるんです」「いつ結婚できますか?」……母親に付き添われて来た30代の男性は、最後までずっとうつむいたままだった。

 一番多い質問は、「私の天職は何ですか?」だという。

 そこで、「何かやりたいことはあるの?」と聞くと、「ない」との答え。「趣味は何?」と聞いても、「特にない」、「習いたいこと、学びたいことはあるの?」と尋ねれば、「わからない」。

 「それじゃあ、とりあえず、私と一緒に占いでも勉強してみる?」と水を向けると、「はい」と素直な返事が返ってくる。

 「寂しい人が多いんだ。結局、真剣に自分の話に耳を傾けてくれる人を、みんな、求めているのではないかなあ。だから、いつでも気軽に遊びにおいでよって言っている」

 社交辞令ではない。実際、昨年のクリスマスには、2DKの部屋に80人もが詰めかけた。ただ一度、占ってもらったというだけの縁なのに……。

 ところで、「原宿の母」によると、今年は「激動の年」になるのだとか。ファッションでは、明るく元気の出るような原色が流行するそうです。

 さて、あなたなら、占いに何を期待しますか?

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◇「原宿の母」オフィシャルサイト

 ◇「原宿の母」鑑定ホロスコープタロット

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2010.12.17

日本銀行へ“学べる街歩き”

内部見学ツアー

  • 日銀本店見学のしおり

 東京・銀座の中央通りを京橋方向に歩くと、「江戸は日本橋」と五街道の起点とされた日本橋に至る。その昔、日本橋川のたもとには、江戸庶民の台所をまかなう魚河岸があって、街道筋には若旦那たちの社交場や花街が生まれ、江戸の経済の中心地でもあった。

 さらに、日本橋から中央通りを神田方向に向かう北側は、金銀通貨の往来する一大商業地として大いに賑わった地域である。

 日本橋三越本店と昭和初期のデザインが残る三井本館の間の道を進めば、右に日本銀行本館、左に貨幣博物館。テレビの情報番組などでよく目にする日銀の地下金庫を含め、一度ぜひ訪れてみたい場所だった。

 先日、東京・中央区観光協会特派員が案内する街歩きツアーに参加して、内部を見学する機会があった。

  • 明治29年に建てられた日本銀行本館

 ここで、ちょっと歴史のおさらいをしておこう。

 明治維新後の新政府は急速に近代化を推進したが、財政基盤が固まっておらず、政府紙幣や国立銀行券などの不換紙幣を発行して急場をしのいでいた。だが、明治10年(1877年)の西南戦争で戦費調達のために不換紙幣を大量に発行、大インフレが発生した。大蔵卿に就任した松方正義は緊急財政措置の発動でこの混乱を収束するとともに、通貨価値の安定を図る中央銀行の設立を提言する。

 そして、明治15年(1882年)公布の日本銀行条例を受け、永代橋のたもと(現在の日本橋箱崎町)に日本銀行が誕生。ところが、施設は手狭で交通の便も悪かったため、ほどなく建物を移転することになった。それが現在の日本銀行本店本館で、明治29年(1896年)、辰野金吾の設計で竣工した。

重厚なネオ・バロック建築

  • 中庭には馬の水飲み場跡が残っている

 建物は、石積みレンガ造りによる地上3階、地下1階建て。柱やドームにみられるバロック様式に、窓を規則正しく並べるなどしたルネサンス様式を取り入れた「ネオ・バロック建築」と呼ばれるスタイルで、ベルギーの中央銀行をモデルにしたといわれる。関東大震災で館内の約半分を焼失したが、その3年後に修復、昭和初期にも増築されて、現在は国の重要文化財にも指定されている。

 本館正面入り口に広がる中庭には、当時の馬の水飲み場跡が残っている。

 江戸時代、銀貨の鋳造・取締りを司ったのが「銀座役所」で、慶長17年(1612年)、それまで駿府にあった銀座役所が江戸の新両替町(現在の銀座2丁目)に移設され、そこで銀貨鋳造を行うようになった。それが「銀座」という地名の由来である。一方、金を扱っていたのが金座で、金座鋳造所跡地に日本銀行は建てられた。

 2階の史料展示室で興味深かったのは、非常灯として使われていた提灯や、昭和44年まで始業終業を知らせるチャイム代わりに使用された拍子木など。

「金庫の扉を確かめて」

  • おみやげの屑紙幣

 地下では、設立時からつい数年前まで、実に100年以上も使われていた金庫をみることができる。金庫扉の厚さは90センチ、重さは25トンもある。

 この扉を製作したのはアメリカ・ヨーク社。同社の社長のこんなエピソードが伝えられている。太平洋戦争に息子が出征する際に、「お前はいずれ日本に上陸するだろう。そうしたら金庫の扉が円滑に動いているかを確かめてきてほしい。故障していたら面目ない」と言い、息子は戦後、扉が正確に動いていることを確認して報告したという。

 また、金庫室を囲む回廊には、建設当初お札を運ぶために使われたトロッコ用のレール跡が残っており、当時をしのばせる。

 お札の寿命は、千円札と5千円札が1~2年、1万円札が4~5年といわれるが、見学記念にもらったのは、寿命を終えて裁断されたお札の屑。金種はさまざまだそうで、ジグソーパズルのように貼り合わせても、元のお札に復元することはできないそうだ。

世界でも珍しい日本の貨幣史

  • (上)貨幣博物館見学のパンフレット(下)これが本物だったら……と誰もが思う「1億円の重さ体験コーナー」

 貨幣博物館に向かう。

 1982年、日本銀行の創業百周年を記念して日銀金融研究所内に設けられたもので、貨幣収集の第一人者といわれた田中啓文氏の「銭幣館(せんべいかん)コレクション」をはじめ、東洋貨幣を中心に約20万点が所蔵されている。

 古代、物品貨幣として使用された石製の矢じりや稲に始まり、708年、中国の唐銭(開元通宝)をモデルにしたわが国最初の貨幣、和同開珎(わどうかいちん)もある。

  • 貨幣博物館には記念品の自動販売機も

 その中で「へえ」と思ったことを一つだけ挙げておこう。

 最初は銀銭と銅銭があった和同開珎も、朝廷の権力が弱まり、銅の産出不足などで、改鋳のたびに材質が悪化し、通貨価値も低下する。民衆の間に銭離れ現象が起き、10世紀後半、政府が発行する銭貨の鋳造が停止される事態に。再び稲などの物品貨幣に逆戻りするなど、日本の貨幣史は世界の中でも珍しい歴史をもっていることを知った。

 平安の12世紀ごろからは、中国から渡来銭が盛んに流通したが、それだけでは量的に足りない。そこで、渡来銭を見よう見まねで作った私鋳貨幣が出回ったが、質が悪く、悪銭(鐚銭(びたせん))と呼ばれた。「びた一文出さない」の言葉の由来はこの史実に基づくものという。鐚銭は江戸初期まで造られていたようだ。

  • (左)日本橋に新しく誕生した「コレド室町」、(右)金箔がまぶしい「箔座日本橋」

 ここの見学みやげには、金運小判や金塊チョコレートなどが自動販売機で買える。

さて帰り道、「日本をにぎわす、日本橋」をコンセプトに誕生した複合商業ビル「コレド室町」に立ち寄った。

 そこで見つけたのが、「箔座日本橋」というお店。箔どころ金沢が本店で、純金箔をぜいたくに使った工芸品やアクセサリー、化粧品などが店頭に並ぶ。

 「こちらへどうぞ」と促され、茶室のにじり口のような小さな入り口から中に入ると、そこには黄金の天空が広がっていた。金座にちなんだ史跡めぐりを終えたあと、一見の価値あり、です。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆日本銀行金融研究所貨幣博物館

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2010.11.12

美しい海岸を持つ海洋都市・アマルフィ

切り立つ崖に築かれた街

  • 世界で最も美しい海岸線の一つといわれるアマルフィ海岸
  • (左)夕焼けを背景に帆船が行き交う、(右)曲がりくねった路地に光と闇とが交錯する

 南イタリアのナポリから車で2時間あまり。ソレントからサレルノまでの約40キロの海岸線は「コスティエラ・アマルフィターナ」と呼ばれ、世界で最も美しい海岸線の一つといわれている。

 築地外国人居留地を取り上げた前回の小欄で、アマルフィについて触れた。今回は、機会あって10月に訪れた同地の旅リポートを写真中心でお届けする

 ジグザグに入り組んだ断崖絶壁をなぞるようにして、バスは急カーブを突っ走る。透き通る(あお)い海の広がりと、谷間の段々畑でそよ風に揺れるレモンやオリーブの枝の動き……。車窓に流れる風景は、旅人をまったく飽きさせない。

 背後に険しい崖が迫る小さな渓谷の斜面に、家々がぎっしり高密度で、奥へ奥へと重なるようにして築き上げられているのが、アマルフィの街の特徴だ。

 ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアという北イタリアの海洋都市よりもいち早く、地中海を舞台にオリエント、北アフリカのイスラム世界との交易に活躍、10世紀には海洋都市国家として繁栄を極めた。

  • ベテランのコーヒー職人が入れるエスプレッソは美味

 最盛期のアマルフィは、地中海世界の国々から多くの商人や船乗りらが集った。その華麗なる歴史の足跡、アラブ・イスラム世界とのつながりの深さは、今でも街のいたるところで散見できる。

砂漠の民の理想郷

 ベテランのコーヒー職人がおいしいエスプレッソを入れてくれる店をあとに、港に開いた「海の門」を入ると、にぎやかな中心広場に出る。

  • (左上)地下礼拝堂には、アマルフィの守護聖人が眠る、(左下)「天国の回廊」は砂漠の民にとってのオアシスを連想させる、(右)アマルフィの象徴、ドゥオモ

 その正面奥にそびえるドゥオモ(聖堂)は、アラブ独特のアート的要素を盛り込んだ美しいファサードで知られ、この街の景観を象徴する存在になっている。創建は10世紀だが、現在のものはオリジナルではなく、19世紀後半の再改築で実現したという。とはいえ、アラブ風の外観が実にわかりやすく理想化して造形されている。

 入口中央にあるブロンズの扉は、11世紀にコンスタティノープルで鋳造(ちゅうぞう)されたもの。地下礼拝堂階段の下あたりには、13世紀、アラブ式の公衆浴場もあったそうだ。また、地下礼拝堂には、やはり13世紀に、コンスタンティノープルから運ばれた、アマルフィの守護聖人・聖アンドレアが眠る。

 聖堂の左手奥の「天国の回廊」には、ただただ圧倒された。もともと13世紀、上流階層の人々の墓地として建設されたもので、2本の円柱が対になった尖塔型アーチが交差しながら続き、中庭の中央にはトロピカルな植物群が植えられている。砂漠の民の理想郷、ヤシの生い茂るオアシスのような静寂で不思議な空間が広がっている。

イスラム文化の色濃く

  • (左上)「天国の回廊」からのぞむ鐘楼、(左中)目抜き通りのマヨルカ焼きの店先、(左下)和紙のようなやさしい手触り、(右上)手すきの紙もアマルフィの特産、(右下)路地の片隅には祈りのほこらも
  • (左上)魚介類のパスタ、(左中)アリーチのマリネ、(左下)イカとジャガイモの煮込み、(右上)エビのレモングラスソース、(右中)市場ではさまざまなレモンチェッロが売られている、(右下)レモンチェッロは食後に

 アーチの間から鐘楼(しょうろう)をのぞむと、緑や黄色のマヨルカ焼きのタイルで飾られた鐘室やアーチの造形にも、イスラム文化の影響が感じられる。 ドゥオモは当時、異国からはるばるやって来た人々にとっても精神的な支柱であったのだろう。キリスト教会であると同時に、イスラムのモスク的な役割も務めていたといわれている。

 目抜き通りには小さな土産物屋が軒を連ね、イスラム都市のスーク(市場)のように活気にあふれている。マヨルカ焼きの店やら、手すきの紙を売る店など、そぞろ歩きするのも楽しい。

 今回の旅のコーディネーター、フォトジャーナリストの篠利幸さんの案内で、ドゥオモの下にある古いレストランに出かけた。ムール貝がたっぷりのった魚介類のパスタ、小型イワシ、アリーチ(イワシの一種)のマリネ、イカとジャガイモの煮込み、エビのレモングラスソース……。どれも地中海の味覚でいっぱい。特産のレモンチェッロで締めくくった。

リゾート向き「ポジターノ・スタイル」

  • (左上)絵画のようなポジターノの街、(左中上)ポジターノ・スタイルはリゾート地では健在、(左中下)フローレのコスタ・ダマルフィ、アマルフィ沿岸ではワ イン造りも盛ん、(左下)フローレの静かな入り江、(右上)ジェラートはやはりレモン味で、(右中)あちこちでトンネルが頭上を覆う、(右下)10月といえど、のんびり海水浴する人も

 翌日は海岸線を西に、ポジターノに向かう。海へと続く急斜面に色とりどりの家々が連なる、絵画のように美しいリゾート地だ。

 歴史はローマのティベリウス帝の時代にさかのぼる。海賊の襲撃によって住みにくくなった近隣の土地からの避難民によって建設された街という。9~11世紀にはアマルフィ共和国の一部になって経済発展し、16世紀には中東に絹や香辛料を輸出、街は豊かになった。1960年代、レースと刺繍をほどこしたリネンのファッションが注目され、リゾート向きの「ポジターノ・スタイル」は今でも健在だった。

 曲がりくねった白く細い路地が複雑に入り組み、あちこちに頭上を覆うトンネルがあって、光と闇とが交錯している。そんなところは、アマルフィとも共通しているようだ。

 アマルフィ沿岸では、土地と気候の特性を活かして、ワイン造りも盛んである。「コスタ・ダマルフィ」という名の原産地呼称表示を認められている土地の一つが、フローレという地域である。ポジターノからの帰りにちょっと立ち寄った。

 「フローレ(furore)とは、激情、猛烈など、気性や気候が激しい様子を指す言葉。フィヨルドの入り江に響く嵐の波音に由来するというが、その海岸は、美しく穏やかであった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)