GINZA通信アーカイブ

2011.08.26

三越とパルコ、女性と歩んだ歴史

 消費社会をリードする“都市の触覚”

  • (上)おしゃれな女性たちのシルエットが印象的な展示会場の入り口(下)1970年代の渋谷パルコ周辺を再現

 節電・省エネ、環境配慮、安心・安全、協力・連帯、社会貢献型消費……。最近の消費事情について考えると、そんなキーワードが思い浮かぶ。

 では、ひと昔前を振り返ってみると、どうだろうか。

 高度成長期の1960年代は、黙っていても消費者はモノを買ってくれる時代。70年代に入って、「人とはちょっと違う自分仕様の」プラスアルファの付加価値思考が登場。80年代のバブル期はマーケット自体が拡大し、百貨店を含む小売業界全体の売り上げがぐんと伸びた。と同時に、「横並び消費」から脱却し、高額品、ブランド品を買うことで地位を顕示するといった「ステータス消費」というのも話題になった。

 こうした大衆消費社会をリードしてきたのは、都市の触覚だった小売業である。店頭に並ぶ商品が流行を生み、広告が気分を醸成し、新しいライフスタイルや価値観が個々人の生活へと浸透していった。また、社会に進出し経済力をつけてきた女性たちが、買い手としても売り手としても市場をリードし、注目された「女性の時代の到来」でもあった。

 その象徴ともいえる「三越」と「パルコ」。両者の広告や文化活動などをクローズアップした特別企画展「WOMEN on the TOWN~三越とパルコ、花開く消費文化」が、東京・汐留のカレッタ汐留地下の「アド・ミュージアム東京」で開催されている(入場無料、10月10日まで)。

 1970~80年代は、空前絶後の広告の黄金期。この間に広告費は7倍にも急伸、気の利いた一行のフレーズで一世を風靡(ふうび)する、糸井重里氏、仲畑貴志氏、土屋耕一氏といったコピーライターがスターになった。商品訴求のない広告、企業のイメージキャンペーンが力を持った時代で、「消費文化」という言葉がしきりに使われたのも、このころだろう。

パルコ誕生「女は明日に燃えるのです」

  • (左)「女は明日に燃えるのです」(1973年のポスター)(右)「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」(1975年のポスター)

 ミュージアム会場でまず目に飛び込んでくるのは、1970年代の渋谷パルコと東京・渋谷公園通りの風景である。

 渋谷パルコがオープンしたのは、1973年。オープン告知のポスターのキャッチフレーズは、「女は明日に燃えるのです」。黒人モデルのアミーナ・ワースバの訴えかけるような強い眼差しが深く印象に残っている。

 続いて、1975年、国連の国際婦人年の年には「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」、翌76年には「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」……時代に挑戦し、切り拓いていこうとする女性たちの気概が、強いメーッセージで伝わってきた。アートディレクター、石岡瑛子さんが造るアグレッシブな個性が光っていた。ふと、元セゾングループ代表で作家の辻井喬さんが、「ポスト消費社会のゆくえ」(文春新書)で、「パルコが企業広告の大事さを広めてくれた。西武(百貨店)はそれに追随していけばよかった」と振り返っていたのを思い出した。

 77年には、渋谷公園通りの歩道に赤いおしゃれな公衆電話のボックスが設置された。パルコ正面の広場には、突然自由の女神像が立ったり、トレビの泉がわきあがったり、ウォールペインティングやパロディアートが展開されたり。「何か新しいことが起こる」というわくわく感が、多くの若者たちをひきつけた。

 その中に、もちろん、私もいた。

 当時大学生になった私は、ギリシャ語やラテン語を学び、神秘学や占星術の本などを読みあさる、不思議な学生でもあった。夏休み、ひょんなきっかけで、パルコでタロット占いのブースを期間限定で受け持ったことがある。黒いレースの怪しげなロングドレスに身を包んで臨んだのだが、「よく当たる」と、それなりに評判になった。パルコの担当スタッフも一緒に面白がって運営してくれたことが、うれしかった。

 パルコの広告ポスターといえば、もう一人、忘れられない人がいる。イラストレーターの山口はるみさんだ。

天才の”山口はるみさん

  • (左)山口はるみさんの1972年の作品、(右)妊婦の女性のフォークロアファッションが新鮮

 山口さんは、1969年にパルコ1号店が池袋にオープンした時から1997年まで担当し、数多くの作品を残している。エアブラシを使った繊細で流れるように美しい描写、透明感のある色彩、そして、描かれる女性たちは健康的でちょっぴりセクシー、いきいきと生活をエンジョイしている姿が魅力的だった。「はるみギャルズ」と呼ばれ、横尾忠則さんの監修で作品集もまとめられ、そのうちの何点かはニューヨークの近代美術館にも所蔵されている。

 ちょうど来館していらした山口さんに、幸運にも話を聞くことができた。

 「特に思い出深い作品は?」と水を向けると、まず、池袋パルコ時代の初期の作品、真紅のインテリアが強烈な「170の専門店が発信地PARCO感覚。」(1972年)と、妊婦を登場させて話題になった「パルコ感覚は遺伝するか、しないか。」(1973年)を挙げてくれた。

  • 1977年夏のシーズンポスターで、つかこうへいさんは山口さんの才能を認めた

 「自分できれいに切り抜いたファッション誌のページをたくさん束ねていて、その中からイメージをふくらませていくのです。一瞬一瞬のリアルな動きを表現するのに、自分でからだを動かして四苦八苦、なんてこともありました」

 そして、1977年夏のシーズンポスターは語り継がれる名ポスターになった。プールの水面に浮かべたマットで、またプールサイドで、まどろむ2人のビキニの女性たち。男の姿は見えない。「健康な倦怠感が夏のリッチな無為を表現」(広告ジャーナリストの岡田芳郎さん)しており、自由で奔放で、いかにも心地よさそうだ。

 「この作品を見て、つかこうへいさんが『山口はるみを認めた』と言ってくださったのが、うれしかった。芝居の後の打ち上げにもよく呼ばれて、冗談まじりで、『天才のはるみさん』なんて紹介してくださるの。劇団の若い人たちは、何だろうと思っていたでしょうけれどね」と、山口さんは語った。

富と消費が価値のバブル時代

  • (上)江戸日本橋・駿河町「越後屋」のにぎわいを表現(下)越後屋の引き札や錦絵は、今のチラシなど広告ツールにつながる

 さて、思い入れのあるパルコの部分で、行を割きすぎた。

 展示は、1673年(延宝元年)、三越の前身、越後屋が江戸本町1丁目(現在の日本橋)で創業したシーンから始まる。

 1905年(明治38年)には、三越(当時は三越呉服店)が初めて、「デパートメントストア宣言」を主要新聞に掲載する。「当店販売の商品は今後一層その種類を増加しおよそ衣服装飾に関する品目は一棟の下にてご用弁相成り候よう設備いたし、結局米国に行はるるデパートメント、ストーアの一部を実現致すべく候事」といったもので、以後、三越は、大衆消費社会において文化の本流をつくる役割を果たした。

  • (左)新聞に掲載された「デパートメントストア宣言」(1905年)(中)1909年の三越呉服店のポスター「むらさきしらべ」(右)杉浦非水が描いた「春の売出し(エンゼル)」

 1911年(明治44年)、懸賞金を付けて募集したポスター図案は、新しい感覚の婦人像が話題を呼んだ。1等賞金1000円というのは、当時の総理大臣の月給と同じだったそうな。

 「今日は帝劇 明日は三越」と、楽しい時間を過ごすショッピングの場としての百貨店が人々の生活に定着してきたのは、大正の初め。1915年(大正4年)に、グラフィックデザイナーの先駆者ともいえる杉浦非水が「春の大売出し」用に制作した「エンゼル」は、蝶の大胆なデザインが斬新なアールヌーボー調だった。

 その杉浦非水は、日本のPR誌の先駆けであった「花ごろも」など歴代雑誌の表紙を飾っている。

 最後のコーナーには、1950年(昭和25年)、百貨店初の三越オリジナル包装紙をデザインした、猪熊弦一郎画伯の原画があった。当時三越宣伝部員だった、漫画家のやなせたかしさんが、画伯のデザインに、「mitsukoshi」のロゴを書き入れている。

  • PR誌も文化のけん引役になった。展示右手にあるのが、猪熊画伯デザインの包装紙の原画

 展示会に寄せて、社会学者の上野千鶴子さんは、「だれもが同じものを求めたわかりやすい同調社会。富と消費とが価値であった物質主義の時代。バブル時代に一世を風靡したディスコ、トゥーリアのお立ち台で、めいっぱいお洒落した女たちが踊り狂ったように、大衆社会の神殿である百貨店が用意した舞台に、女たちはのせられ、また自らのった。そしてそれが、歴史上たぐいまれな商業広告の達成をもたらしたことも事実なのだ」(アド・スタディーズ2011年夏号)と、評している。

 「一億総中流の横並び社会」などと揶揄されてきたあの時代、どこに向かっていくのかわからないけれどエネルギーがみなぎっていたあの時代。振り返ると、ほっと温かい気持ちになるのは、私だけだろうか。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.08.19

名門バー14店のカクテル・コレクション

 バーテンダーの技が凝縮

 最近では、うち飲み需要が高まって、スーパーなどにも、ジンやウォッカ、テキーラなど、カクテルの材料が並ぶようになった。

 とはいえ、やはり、カクテルは特別なもの、との思いが私にはある。

  • (上)入り口の看板にひかれて中へ(下)銀座の名門バー14店が一堂に会するユニークなイベント

 マンハッタンのバーで、初めて一人でマティーニを注文した時には震えた。酒の面では一つハードルを越えて大人の世界の仲間入りをしたような、あの不思議な高揚感は忘れられない。

 クラシックなバーのカウンターに腰かけて、目の前に並ぶ酒瓶を眺めながら何を飲もうかと思案しつつ、バーテンダーの磨き抜かれた技と美しい所作に触れるのが楽しい……そんな感想を口にしてみたいが、まだまだゆとりのあるバーでの振る舞いというのが私にはわからない。

 先日、銀座の名門バー14店が集まってカクテルづくりを実演する、「銀座の名門バーフェスティバル~ギンザ・カクテル・コレクション」が、東京・銀座6丁目のコートヤード・マリオット銀座東武ホテルで開かれた。数多くの老舗バーが並ぶ銀座でも名門とされる、「MORI BAR」や「BAR保志」「LITTLE SMITH」などのバーテンダーが一堂に会するユニークなイベントだ。

ヘミングウェイが愛飲したモヒート

  • (左)フローズンモヒートは見た目も涼しげ(中)ゴーヤを使ったカクテルは、真夏の味わい(右)ゴーヤと相性のいい沖縄の泡盛

 最初に目がくぎ付けになったのは、「BAR ORCHARD GINZA」の大きなボウルに山盛りのフローズンモヒート。これを各自カクテルグラスに盛ってもらって、スプーンでいただく。ラムと砂糖、氷、そしてたっぷりのミントの味わいが口に広がり、しゃりしゃりというかき氷感覚の食感も楽しい。

  • 最後の苦味がおとなの味、ゴーヤカクテル

 キューバで暮らしたヘミングウェイは、その魅力にとりつかれ、このモヒートとダイキリばかり飲んでいたと、何かの本で読んだ。 ゴロンと丸いメロンと並んで、巨大なキュウリがテーブルの上に載っているのが気になって近づいてみると……ゴーヤだった。

 「洋酒博物館」のゴーヤカクテルは、ゴーヤジュースを泡盛の古酒で割ったもので、ほんのり後味に残る苦味がおとなの味。

 実は、プランタン銀座でも、8月1日に、今夏緑のカーテンで大人気のゴーヤづくし料理を提供する「ゴーヤ・ナイト」というイベントを行ったのだが、ゴーヤカクテルはドリンクメニューの中でも大人気だった。その時提供したのは、ゴーヤジュースをカルピスと泡盛で割ってアレンジしたちょっと女性向きのドリンクだったのだが。

 沖縄育ちの野菜は、やはり沖縄の強い酒と相性がよいのだろう。カクテルでこうした季節感が味わえるのは、実に楽しい。

「マティーニの神様」が生む味

  • 「ハバナマティーニ」を作ってくれた毛利さん

 「わあ、毛利師匠だ!」。一緒に参加したソムリエールの友人が思わず声を上げたのは、「MORI BAR」のオーナーバーテンダー、毛利隆雄さんを見つけたからだった。友人にいわせると、毛利さんは、「マティーニの神様」なのだそうだ。

  • 会場は大賑わいでした

 「マティーニ・イズム」の著作もある毛利さんが作る「毛利マティーニ」は、「マイナス20度で保存しているブードルスのジンの温度を徐々に上げつつ、少量のベルモットを加えて100回ステアする」のが特徴なのだとか。会場でいただいたのは、ハバナクラブ7年を使った「ハバナマティーニ」で、アルコール度数が高いわりには、マイルドな印象だった。

 マティーニといえば、大好きな007シリーズで、ボンドが恋人の名前を冠した「ヴェスパー・マティーニ」というのがあった。ジンとウォッカを3対1でブレンドしたベースに、フランス産のキナ・リレというベルモットを加える。あるとき、キナ・リレを入手したので、ヴェスパー・マティーニづくりに挑戦してみたのだが、どうもすっきりした味わいにならない。ベルモットの量が多かったのだろうか。

カクテルにも個性

  • (左)「アミュレット」を披露してくれた宮越さん(右)シェーカーを振る姿がりりしい保志さん(右)

 さて、その隣では、チェックのベストに身を包んだ、チャーミングな女性バーテンダーさんがシェーカーを振っていた。「MONDE BAR」の宮城波瑠奈さん。7月末に開催されたプロフェッショナル・バーテンダーズ機構主催のカクテルコンペでMVO(最優秀バーテンダー)に選ばれた。

  • (左上)銀座育ちのハチミツで作ったはちみつカイピリーニャ(右上)美しい!テキーラサンライズ(左下)テーブルの上にスイカがごろん(右下)左はスイカマティーニ、右はクールな印象のシシリアンブリーズ

 その時の受賞作アミュレット(お守りの意味)を実演。テキーラベースに、隠し味として、穂ジソ、ハチミツ、金平糖、ミントチェリー、レモンピールなどを使っているそうだ。「ヨーロッパのハーブのリースをイメージした」そうで、着眼点が女性らしい。

 銀座で採れたハチミツを使った「BAR 東京」のはちみつカイピリーニャ、王道をいく「GASLIGHT」のテキーラ・サンライズ、旬のフルーツを取り入れて女性の人気が高かった「STAR BAR」のフレッシュマンゴーカクテルなど、各店の特徴が生かされていたのは興味深い。

 最後にいただいたのは、「BAR 保志」のスイカマティーニ。国際バーテンダーズコンペでも優勝経験のある保志雄一さんが、ぴんと背筋を伸ばしてシェーカーを振る姿、これがまた素敵なのである。

 スイカマティーニの甘くせつない味わいに、結局2杯目をおかわりしてしまった。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.07.29

変化の年、学生が考えるクールビズのカタチ

 「秋までクールで、美しく」

  • 店頭でシーン別に節電ファッションを選ぶ跡見女子大の学生たち

 節電の夏、噴き出す汗の不快感を少しでも解消して涼しさを感じるようなスタイルをと、ひと工夫もふた工夫もあるクールビズ商材が今夏は花ざかりである。

 天気予報では、9月に入っての残暑は例年よりも厳しいとの見方もあるようだ。

 「秋までクールで、美しく」――。

 プランタン銀座では、環境問題を学んでいる女子大生とインテリアの専門学校生の協力を得て、「学生が考えるシーン別節電ファッション&節電ライフスタイル」を、8月2日から8日までの1週間、本館2階から5階までの各階で開催することになった。

 このイベントは、環境省と環境ビジネスに携わる専門家集団「環境ビジネスウィメン」(小池百合子顧問)が協働で推進する「SUPER COOLBIZ 2011」と、プランタン銀座が5月から女性の消費者を対象に展開している「Cool Beauty Style」のコラボレーション企画である。

ファッションと空間をトータルで

  • (左上)2階のオフシーンでは、透け感のあるトップスを(左下)3階のルームシーンでは、袖が広くて風通しがよいデザインのワンピース(右上)4階のビジ ネスシーンでは、凛としたパンツスタイルを提案(右下)5階のパーティーシーンではフレンチスリーブで上品なコーディネート

 協力してくれたのは、ファッションを担当したのが跡見学園女子大学・生活環境マネジメント学科の吉村英子教授のゼミの学生さん、空間演出を担当したのが町田ひろ子アカデミーのインテリアコーディネーター専門科の学生さん。事前に、どのような工夫が涼感につながるのか、クールビズ・スタイルの科学について専門家のレクチャーを受けた。

 そして、時間もスペースも制約された中ではあるが、忙しい授業の合間を縫って、皆、本当に頑張って、自分たちの提案を素敵なカタチにまとめてくれた。

 各フロアごとに異なったシーンやスタイルを想定、ファッションは、そのシーンに合った商品を店頭から選んで、マネキンを使って全身コーディネート。空間演出は、「エアコンを使わない」節電空間を念頭におき、ファッションチームが選んだ洋服をまといながらも涼やかで快適な過ごし方ができる工夫を、雑貨やグリーンなどを用いて表現する。

シーンで変えるコーディネート

  • 看板 「涼」のファッションテーマは「透け感トップスでCOOL」

 各階のテーマは以下の4パターン。

 2階=「涼」休日にカフェで過ごすカジュアルスタイル

 3階=「潤」自分の部屋でゆっくり過ごす大人かわいいルームスタイル

 4階=「凛」仕事が終わってもそのまま出掛けられる華やかさのあるオフィススタイル

 5階=「雅」夏の暑いガーデンパーティーなどでも上品に涼しげな印象のパーティースタイル

 たとえば、「凛」と題したビジネスシーンでは、ブラウスとパンツを組み合わせた街中マリンスタイルを提案。ブラウスは、袖がふんわり、丸い襟元もゆったりしていて、空気の出入り口をしっかり確保、ブルー系が基調で涼しげなイメージだ。パンツは、吸湿・速乾性にすぐれた機能的な素材で、伸縮性もあるので動きやすい。

 シンプルなコーティネートではあるが、赤いベルトで華やかにアクセント。黒エナメルで縁どりされた白のバッグでさわやかに。きちんとした印象を保てるヒール付きサンダルを合わせる。

涼を感じるデスクとは?

  • (上)空間演出のシミュレーションをする町田ひろ子アカデミーの学生たち(下)暑さが吹き飛びそうなオフィス空間。仕事がはかどりそうです

 一方の空間演出はといえば、パソコンが並ぶ無機質なオフィスで、蒸し暑さに悩んでいるシーンを想定。そうした中でも、涼しげな顔でおしゃれに過ごすにはどうすればよいのだろうか。

 全体的に寒色系ですっきりまとめたデスク周りは、それだけで涼感を感じさせる場所に変身。やはりポイントになるのは、小さいけれども威力を発揮してくれるデスク用ミニ扇風機。「扇風機で気流を作ることにより、からだから放出した熱を早めにからだ周辺から遠ざけてくれるので、気温が高くても涼しさを感じることができる」という。

 若者目線で考えた節電スタイル、力作ぞろいなので、ぜひ実際に店頭で見ていただければうれしい。

学生によるリメイクファッションショー

  • リメイクファッションショーの看板なども、学生たちがすべて手作り

 ところで、先日、跡見学園女子大学のオープンキャンパスに招かれて、学生たちが不要になった衣類を回収、それらを活用してリメイクファッションを制作し、さらに、自らモデルを務めてショーでお披露目するというファッションイベント「ATOMI GIRLS COLLECTION」を見る機会があった。こちらも、力作ぞろいだったので、ご紹介したい。

  • (左側)カントリー調の「アメリカン」(右側)赤とゴールドが決め色の「アジアン」

 中心になったのは、生活環境マネジメント学科の内村理奈助教授のファッションと環境マネジメントゼミナールの学生たち。被服系の学科ではないので、裁縫が得意な学生が集まっているわけではない。半年前、デザイン画を描いて自分のやりたいことを表現した段階では、「ショーはもとより、洋服が縫いあがるのだろうかと、はっきり言って心配だった」(アドバイスをしたデザイナーの大類尚さん)そうだ。

彼女たちにもたらされた変化

  • (左側)アニマル柄やファー素材をさりげなく使った「アフリカン」(右側)ロマンチックな雰囲気の「ヨーロピアン」

 それが、ショー当日、カントリー調の「アメリカン」、赤とゴールドをどこかに使っている「アジアン」、肉食女子のパワー全開の「アフリカン」、花と妖精がテーマの「ヨーロピアン」の4テーマで、17着が見事に完成。大類さんも、「完成度が高くて驚きました。ここまでできるとは、もう脱帽の一言」と話す。

 ショーの最後は、「被災地の復興を祈り、皆が元気になるような服を」と、ウェディングドレスを提案。医療用ガーゼを用い、長いベールには、やはりガーゼで作った多数のバラの花があしらわれた。

  • 被災地の復興に祈りを込めてつくったウェディングドレス

 自分たちで手作りすることで生まれてきた、ものを慈しむ気持ち、人々への思いやり……。「このドレス、一生捨てられないものになりそうです」と、学生たちは口々にいう。

 節電スタイルもリメイクファッションも。大震災の年は、若い彼女たちに、これまでとは違う変化をもたらしたようでもある。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.07.22

廃食油でエコ燃料を作る「TOKYO油田」

 街角に美しい沖縄の海

  • 銀座ソニービルのイベントスペースに登場した巨大水槽。色鮮やかな熱帯魚が泳ぎ回る
  • 「TOKYO油田 銀座ステーション」の看板はグリーン

 東京・銀座の数寄屋橋交差点。その一角にある銀座ソニービルの屋外イベントスペースに、沖縄の海を再現した巨大水槽が登場している(8月31日まで)。

 沖縄の「(ちゅ)(うみ)水族館」とのコラボレーション企画で、今年で44回目を数えるのだそうだ。

 水量14トンの水槽内を悠々と泳ぎ回るのは、沖縄からはるばるやって来た1メートルを超えるウツボのほか、ナポレオンフィッシュ、ハナミノカサゴ、アケボノチョウチョウウオ、キイロハギ、ユカタハタなど、色鮮やかな熱帯魚約40種類。

 都会の雑踏の中にありながら、サンゴ礁が広がるエメラルドグリーンの海や陽光のきらめきを容易に思い浮かべることができる“街角水族館”は、銀座の夏の風物詩としても定着、記念撮影をする外国人観光客の姿も少なくない。

 そして、節電の今夏、水槽に使用される電力にも一工夫がなされている。

 午前9時から午後8時までの間、水槽の循環ポンプやクーラーなどに使う電気は、使用済みのてんぷら油を再利用した燃料で発電機を動かす自家発電でまかなっているという。

 水槽の脇には、「TOKYO油田 銀座ステーション」の看板がかかっていた。

使用済み天ぷら油で発電

  • 天ぷら油発電の仕掛け人、染谷ゆみさん
  • 水槽の裏にある発電機で、日中は水槽の循環ポンプなどに使う電気をまかなう

 許可を得て裏に回ってみると、ありました! 意外に小ぶりの発電機である。その隣のブースには、ペットボトルなどに入れられた使用済みの天ぷら油がバケツの中に蓄えられていた。

 この天ぷら油発電の仕掛け人は、ユーズ(東京・墨田区)の染谷ゆみ社長だ。

 8月末までのイベント期間中、来場者から使用済みの天ぷら油を回収し、それを自社工場で資源循環型新燃料、バイオディーゼルVDF(Vegetable diesel fuel=植物油の軽油代替燃料)に精製したうえで、供給している。大気汚染の原因となる硫黄酸化物はゼロ、呼吸器官障害の一因といわれる黒煙は軽油の半分以下で、地球にやさしいクリーンエネルギーなのだ。

 1か月半の間に必要な油の量は約1000リットル。家庭からの持ち込みだけでは間に合いそうもないので、銀座地域の飲食店に呼びかけ、提供をお願いしている。「へえ、この油で水槽のポンプが動くなんて、面白いねえ」と、評判も上々で、協力店が続々と増えている。

 染谷さんは、父親が2代目を継いでいる、東京下町の産業廃棄物処理工場の娘。アラフォーのバブル世代は、大学に進学して有名企業に就職して……というあらかじめ敷かれたレールに乗って走る生き方に納得できず、高校を卒業すると、アジアに向けてバックパッカーの旅に出た。

旅先で環境問題への目覚め

  • ペットボトルに入れて持ち込まれる使用済みの天ぷら油

 チベットとネパールの国境近くでのこと。土砂災害の現場にいて、九死に一生を得た。「山を無理やり切り開いて新しい道路を造ったことが原因ではないか」という村人たちの声を聞き、多感な18歳は環境問題に目覚める。さらに、ネパール、インドなどを巡り、人間は大自然の中で生かされていることをからだで知っていく。

 帰国して、自立のためにと一時ベンチャーの旅行代理店に勤めて海外勤務も経験。ふと足元を見直せば、実家の工場は廃食油のリサイクルも手がけているではないか。父親に頭を下げて、新入社員にしてもらい、修行生活が始まった。当時20代の娘が町工場で働いていることが珍しく、油の回収に行くたびに随分とモテたようだ。

  • 大事なエコ資源はいったんバケツに入れて保管

 1993年、米国から興味深いニュースが届いた。ミズーリ州で、大豆油からディーゼル燃料をつくって使っているという。植物油の再利用だから、当然環境に負荷がかからない。それならば、廃油からだってできるはず……。父親との共同研究で、なんと半年後、ディーゼル燃料VDFを誕生させることに成功、大学の先生のお墨付きももらった。

 「開発は思いのほかスムーズにいったのですが、そのあと、いろいろなことが起こりました。ベンチャー企業と称する人たちが視察にと入れ替わり立ち代わり現れて、いつの間にかノウハウを勝手に使っている、とか」(染谷さん)

東京中の廃食油を集めたい

 VDFの普及に本腰で取り組もうと、独立して会社を起こしたのは、28歳のとき。父親も応援してくれた。「改めて振り返ると、私の環境問題へのこだわりの強さは、父の背中を見て育ってきたからかもしれません」

  • 銀座の飲食店街を、この油回収トラックが走り回って集めます

 いま、首都圏を中心に、使用済み天ぷら油を回収するステーションは130以上にも広がった。家庭では、それまで高価な凝固材を使って廃棄していたり、排水溝にそのまま流して水質汚濁の一因になってしまったりと、やっかいものだった廃食油だが、VDFに、肥料に、せっけんにと再生することで、各地域でのエネルギーの地産地消が実現しつつある。

 そして、今回は、銀座での新たな取り組みである。

 「一つの家庭で使う量は少なくても、東京のような大都市では、1千万人分の天ぷら油、つまりエコ資源が集まる。東京は、間違いなく、世界有数の規模をもったエコな油田なのです」と、染谷さんは強調する。

 創業20周年にあたる2017年には、東京中の廃食油を集めて東京をエコ油田に変えたい――染谷さんの決意は固い。

 ちなみに、「TOKYO油田 銀座ステーション」での使用済み天ぷら油の回収は、8月31日までの毎日午前11時~午後6時。詳細は「ソニーアクアリウム」のホームページで。

(プランタン銀座常務・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.07.08

食で日本を元気に、「アル・ケッチァーノ」奥田シェフの店

 「サンダンデロ」は庄内弁!?

  • 柳の青葉が揺れる銀座柳通りにある山形県のアンテナショップ2階が「ヤマガタ サンダンデロ」

 東京・銀座で予約の取れないレストランの一つとして知られる「YAMAGATA San-Dan-Delo(ヤマガタ サンダンデロ)」は、銀座1丁目、銀座柳通りに面した山形県アンテナショップの2階にある。

 作家の藤沢周平が愛してやまなかった山形県の鶴岡。庄内藩14万石のこの城下町に、1969年、オーナーシェフの奥田政行さんは生まれた。

 「サンダンデロ」って、イタリア語? いえいえ、奥田さんの故郷、庄内の言葉で、「~なんでしょ」という時に「~だんでろ」というところから名付けたそうで、「山形産なんでしょ」の意味だ。言葉の響きが、聖天使を意味するSaint Angeloに似ているところも気に入っているらしい。

 最上川と赤川が緩やかに日本海に注ぎ込む庄内の地は、豊かな土壌、漁場に恵まれている。夏と冬の温度差は40度近くにもなり、四季の移ろいが際立っていることもあって、多彩かつ味わい深い食材の宝庫と聞く。

2年前に銀座に出店

  • メニューカバーには、鶴岡シルクの「きびそ」を使って

 東京や地元鶴岡のレストランで修業したのち、奥田さんが鶴岡にイタリア料理店「アル・ケッチァーノ」をオープンしたのは10年ほど前。

  • ドリンクメニューには、月山ビールや奥田シェフがプロデュースした日本酒などが……

 旬の素材の味や香りを生かし、ソースはなるべく使わない。食材は一皿に3種類まで。食材をまとめる塩は世界中から集めた十数種類をできるだけ抑えて使う。水も料理によって、鳥海山の超軟水、月山系の軟水、飯豊山の中硬水などを使い分ける。

 イタリア料理の手法で、庄内の旬の食材に新しい光を当てた奥田さんの料理は県外のグルメが注目するところとなり、スローフード協会イタリア本部主催の「テッラ・マードレ2006」では世界の料理人1000人に選ばれ、欧米でも高い評価を得ている。銀座への出店は2年前のことである。

極上の味10皿

  • (上左)月山筍と炭塩(上右)スズキのセビーチェ(中左)イワナとヒラメのミルフィーユ(中右)フルーツトマトのカッペリーニと山羊のリコッタチーズ(下左)天然岩ガキのモロヘイヤソース(下右)つや姫のリゾットにカマスを添えて

 炭塩と山椒をきかせた月山筍、日本海の塩とセロリがアクセントのスズキのセビーチェ、燻製したイワナとヒラメのミルフィーユ、フルーツトマトのカッペリーニには山羊のリコッタチーズが添えられ、雪塩を少しずつ混ぜながら食べる。

  • (上左)キュウリのジェラート(上右)ナス田楽とアユ(下左)羊肉とだだちゃ豆(下右)山形の旬のフルーツから

 ミネラルたっぷりの鳥海山の伏流水で育った岩ガキは、ぷりぷり身が肥えた極上品。和辛子の風味に新鮮なモロヘイヤがよく合う。ほかにも、だだちゃ豆や民田ナス、外内島キュウリなど、収穫を迎えた在来の夏野菜が皿を飾る。

 魚介類が多いので、独特の香りがあるファランギーナ種の白ワインを選んだ。

 ワインリストを載せたメニューのカバーは、素朴な風合いの自然素材。鶴岡特産のシルク「きびそ」で、蚕がまゆを作る時、最初に吐き出す糸なのだそうだ。水溶性タンパク質が豊富で、保湿力にすぐれ、最近ではスキンケア商品でも注目されているらしい。

料理で庄内・鶴岡を元気に

  • ファランギーナ種を使ったイタリアワイン

 店長の中村政樹さんも、鶴岡出身者。上京して15年になるが、やはり銀座にある大分県のアンテナショップのレストランで働いていた時、同店のオープンの話を耳にして、手を挙げた。

  • 店長の中村政樹さんは鶴岡出身

 「自分の故郷・山形もアンテナショップに併設したレストランを開けばいいのに、とずっと思っていました。実際、奥田シェフの指導を受けつつ旬の食材を意識して味わうようになると、今まで気付かなかった美味しさにはっとさせられたことは幾度もあります。たとえば、だだちゃ豆の深い味わいは何ものにも代えられませんね」と中村さん。

 奥田さんは、自分が作る料理で、庄内・鶴岡を元気にしたいと考えて、24歳の時、帰郷した。だが、ことはすんなり進まなかった。

 東京で一緒に働いた料理人仲間には「都落ち」といわれ、孤独だった。下手に仕事をすると先輩ににらまれるといった息苦しい集団の中で、休憩時間は、毎日数多く出る牛乳パックをリサイクルするためにハサミで切り開き、向かいのスーパーに運ぶという作業をずっと続けた。

 やがて仲間の輪は広がり、調理場のスタッフにもやる気がわいて、新しい企画に参加、さらには調理場を任されるまでになった。

食べ物と農業に鍵はある

 著書「人と人をつなぐ料理 食で地方はよみがえる」(新潮社)で、変わらずにずっと抱き続けた志について、奥田さんはこう語っている。

 「食べ物は生きていく上での源だし、老若男女の心を動かす力がある。さらには、外国人にもとっつきやすい。食べ物と農業にこそ日本を楽しく元気にする鍵はある、と思ったのです。

 何よりも、美味しいものを食べると、心に灯火がともる。たとえば、本当にひとりぼっちになった状況でも、たったひとつのおにぎりが心を温めてくれたりする。みずみずしい野菜を(かじ)ったことで身体に生気が蘇る。一杯のスープが一日の疲れを癒し、明日への英気を養ってくれる。美味しいものには、人を元気にする力があるのです。そして、美味しいものは、人と人をつないでくれる。人の輪を広げていく力を持っているんです」

 「食で日本はよみがえる」――大震災の年、その視線は、故郷のある東日本へと改めて向けられている。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

 ◆ヤマガタ サンダンデロ

 http://www.alchecciano.com/san-dandelo.html

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.07.01

涼を感じる光と音のアートスポット

 松尾高弘さんが生み出す幻想的な空間

  • 松尾高弘さんの新作「White Rain」

 6月なのに、全国的に記録的な猛暑日が報告されている日本列島――。「節電」が叫ばれている今夏だが、視覚的にも聴覚的にも「涼」が感じられる、なんとも素敵なアートスポットを東京・銀座で見つけた。

 銀座1丁目、銀座中央通りに面したポーラ銀座ビル3階にある「ポーラ・ミュージアム・アネックス」で、7月10日まで開催されている松尾高弘さんのインタラクティブアート展「LIGHT EMOTION(ライト・エモーション)」(入場無料)。

 インタラクティブアートとは、作品と鑑賞者が対話性をもつアートをいう。たとえば、人が作品の中で動いたり触ったりすることで、知覚的で感覚的な変化を楽しめるのが特徴だ。

 1979年生まれの松尾さんは、この分野で国際的に活躍する若手アーティスト。光や造形、音の組み合わせによって、幻想的な空間を造り出すのを得意としている。作品のコンセプトワークから、ソフトウェアやヴィジュアル制作、空間構成、器具などの開発、システムのセットアップに至るまで、ほとんどを一人でこなす。

降りそそぐ光の雫

  • 光のシャワーの中を歩くと、強くきらめく光の雫が降ってくる

 会場を入って最初の部屋は、夜のとばりが降りたような真っ暗な空間。その一角に、滑らかに流れるように、白く輝く繊細な光の集合体があった。

 雨を題材にした新作「White Rain(ホワイト・レイン)」。天井から透明なアクリルバーが吊られていて、上部からLEDの光が雨粒のように落ちてくる。微妙に揺れるアクリルバーに光がランダムに反射して、みずみずしく躍動する光の質感が美しい。

 「どうぞ中に入って、歩いてみてください」という会場スタッフの声に促され、光のシャワーの中に身を置いてみた。

 すると、私の周りには、ひときわ強くきらめく光の雫が降ってくるではないか。思わず両手のひらで雫を受け止めたい衝動にかられた。しばらくすると、光の雫の連鎖に自ら溶け込んでいくような、そう、夢幻の空間に身をゆだねるような、心地よくも不思議な感覚に酔った。

 ピアノの単調な響きも、雨音が自然に刻むリズムを連想させて、足取りが軽くなる。

 「光という素材の原点に立ち返りました。純粋に光そのものと対峙してみようと決めたところからスタートしたんです。純粋な光に向かうということは色彩は必要ない。無彩色の空間の中で感覚を突き詰めたかった」と、松尾さんはいう。

それぞれの“EMOTION”を

  • イタリアの「ミラノサローネ」で話題になった作品「Aquatic Colors」

 松尾さんはテーマの一つだった白い光を美しく表現するために、雨の質感と雨粒が落ちる表現が最適だと考えた。「雨は日常の生活シーンの中で、だれでも体験記憶として刷り込まれていますよね。だから、その日常の風景を非日常の風景として表現すれば、コントラストが大きくて面白いのではないかと……」

 雨は重力によって不規則に降り注ぐ雨粒の集合体。その物理的な法則性を、コンピューターでシミュレーションし、動きと発光のシステムをプログラミング、視覚化した。

 さらに、「タイトルのEMOTIONという言葉には、楽しい感動も、逆に悲しさや寂しさなどの感情も、すべてが含まれています。作品に触れた人が、光を美しいものとしてとらえるだけでなく、光を通じて各人の感覚の根っこにあるものを本能的に想起するような体験をしてくれたらと思います」とも。

 確かに、光のシャワーから出て、人がいる空間を外から客観的に見つめ直すと、また違う印象をもった。物思いにふけっている人の横顔、雨の日のきらめきを見つけて楽しんでいる人の背中など、それぞれがライトアップされて、輝いていた。

出会いが新しい作品のきっかけ

  • オーガンジーの幕に近づくと、クラゲの群れが浮かび上がる

 2番目の部屋は、深海をイメージしたやや薄暗い空間だった。世界最大級のデザインの祭典、イタリアの「ミラノサローネ」で2009年に発表した「Aquatic Colors(アクアティック・カラーズ)」という作品である。

 部屋の中央には、軽量で強い光沢のある超極薄繊維、オーガンジーで幕が張られ、プロジェクターでクラゲが浮遊する映像が投影されていた。オーガンジーの曲面にからだを近づけると、クラゲの群れが連鎖的に発光し、暗闇から浮かび上がり、ゆっくりと明滅しながら私の後をついてくる。淡い青色の光が波打つように空間全体を覆い、広がっていく。

  • ポーラ銀座ビル1階のショーウィンドウを飾る「Aurora」

 クラゲたちの自然な明滅は、人間の心拍の感覚やろうそくの炎の揺れ方など、自然界でみられる1/fゆらぎ理論を応用して造られたという。クラゲたちと遊びながら、深海の神秘のささやきに耳を澄ましている私が、そこにいた。涼やかで穏やかな時間は楽しい。

 「場所と人との出会いが、新しい作品を造り続けるきっかけになる。これからも光と空間をさらに追求して、より大規模なインスタレーションや舞台芸術、商空間など、横断的に展開していきたいです」と、松尾さんは語る。

 ギャラリーの展示と合わせて、1階のショーウィンドウには、松尾さんがデザインしたディスプレイ「Aurora(オーロラ)」が展示されているので、こちらも要チェックだ。

 揺れるオーガンジーに、昼間は太陽光が、夜はLED照明の様々な色彩の光が不規則に反射し、オーロラのように美しい光景が展開されている。

 繊細な光の戯れを映し出しつつ、ふんわりと優雅に宙を舞う布の動きに、そよ吹く風を感じ、安らいだ。

(プランタン銀座常務・永峰好美)

 ◆ポーラ・ミュージアム・アネックス

 http://www.pola.co.jp/m-annex/

 ◆松尾高弘さんのオフィシャルサイト

 http://www.monoscape.jp/

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.05.27

新橋芸者の晴れ舞台「東をどり」

 「下を向いていてはいけない」

  • 今年の東をどりについて語る、「金田中」3代目、岡副真吾さん
  • 新橋芸者衆も、東をどりのPRに

 今年も東をどりの季節がやって来た。

 大正時代に始まる舞台は今年で通算87回目。5月27日から30日までの4日間、銀座6丁目の新橋演舞場で催される。

 東日本大震災のため、開催するかどうか議論を重ねたそうだが、「下を向いていてはいけない。衣食住の生活面で着々と復興の兆しが伝えられていく中、人々の心に潤いを与える日本文化の灯を絶やしてはならない。そして、やるならば明るく楽しくやろうということになりました」と、東京新橋組合頭取で、料亭「金田中」3代目主人の岡副真吾さんはいう。

 今回は、東北の同業者を支援するためのチャリティの趣向が会場の各所に散りばめられているそうだ。

矜持を傷つけられ…

 新橋芸者のはじまりは、安政4年(1857年)、銀座金春(こんぱる)新道に住む常磐津の女性師匠が時の老中に「酌取御免(しゃくとりごめん)」の申請をした逸話にさかのぼる。

 幕末には、桂小五郎ら薩長土肥の血気盛んな志士たちの息抜きの場に。当時隆盛を極めた柳橋では、田舎者と相手にされなかった彼らを温かくもてなしたのが、進取の気風に富み、ハイカラモダンの発信地でもあった新橋だった。明治維新で志士たちは権力側になり、彼らがご贔屓(ひいき)筋となった新橋は柳橋を逆転したともいわれている。

  • 老舗の金春湯が目印の金春通り
  • 金春通りに残るレンガ遺構の碑

 明治期は、目の肥えた財界茶人にも愛され、新橋の花街はどんどん洗練されていく。ところが、新橋芸者のプライドを傷つけるような事件が起こる。

 明治22年(1889年)に全線開通した東海道線。開通を祝し、明治の元老で、外務卿、農商務大臣、内務大臣などを歴任した長州藩出身の井上馨は汽車の1両を借り切り、新橋芸者を乗せて、新橋駅から名古屋駅までの間、踊りを披露させたのだ。

 当時の名古屋は、八代将軍吉宗の超緊縮財政の反動で芸能が大いに奨励され、商売も芸事もともに盛んだった。

 「残念ながら、この時の新橋芸者衆の踊りの評判は名古屋では散々でした。名古屋の芸妓に、『まるで岐阜提灯(遠目から見るときれいだが、近くで見ると穴が開いたり汚れたりしていて大したことがないという意味)』とののしられ、大変悔しい思いをして帰京したそうです」と、岡副さん。

新橋演舞場の創設

  • 銀座の街路樹の提灯が、東をどりの季節を告げる

 そこで、新橋の重鎮が一念発起、全国から宗家家元と呼ばれる一流の師匠を迎えて、徹底的に稽古に励むよう環境を整えた。京都や大阪にあるような立派な歌舞練場を東京にも作ろうと、大正14年(1925年)、新橋演舞場が創設される。

 当時の最先端のレンガ造りを採用、新橋芸者の鍛えられた技芸を広くお披露目するための晴れ舞台はこうして出来上がった。そのこけら落としが第1回東をどりだった。

  • 大正14年に創設された新橋演舞場

 営業停止になった戦時中の暗黒時代を経て、昭和30年代、まり千代、小くになど、スーパー芸妓を輩出、女子学生にもファン層は広がっていく。

 いっとき300人を超えた芸者衆も、いまは60人余。ただ最近、20代初めの若い志願者が増えているとも聞く。

「政財界の奥座敷」

  • 料亭「金田中」から演舞場を臨む

 新橋演舞場近くの東銀座から汐留寄りの銀座8丁目あたり一帯は、新橋花柳界発祥の地。政財界の奥座敷との別名もあり、現在も「金田中」「吉兆」「松山」など、高級料亭が軒を連ねる。山崎豊子の長編小説「華麗なる一族」で、阪神銀行頭取・万俵大介が密談を交わしていたのは、料亭「金田中」だった。

  • こちらは料亭「東京吉兆」の本店。背後に汐留の超高層ビル群が迫る

 伝統と格式ある料亭の門構えは、中をちらりとのぞくのもはばかられるほどどこか威圧的だ。そんな普段は「一見さんお断り」の料亭の世界を少しだけ垣間見ることができる貴重な機会が、年に一度の東をどりである。

 粋で艶やかな芸者さんたちの踊り、私も時間を見つけて見に行くつもりだ。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆第87回東をどり

 http://www2.odn.ne.jp/shinbashikumiai/

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.05.20

被災地訪問で見えた希望の光

 被災地の母子にハンカチをプレゼント

  • 助産師会は被災した母子の精神的支柱にもなっている(仙台市宮城野区で)

 東日本大震災の発生から2か月が過ぎた。大型連休が終わって最初の5月の週末、仙台市宮城野区にある宮城県助産師会を訪ねた。

 実は、プランタン銀座では、母の日フラワーギフトの売り上げの一部でハンカチ約1000枚を用意、被災された母子にプレゼントするというプロジェクトを行った。

 きっかけは、20代の若手社員たちから上がった声だった。4月28日付けの小欄でご紹介した、母と娘の着まわしファッションショーを企画した女性たちで、「今年の母の日は、自分たちの母親への感謝の気持ちを表すだけでなく、被災地のお母様たちにエールを届けるような特別な日にしたい」というのである。

 そこで、地域のお母さんたちの日常生活をきめ細かく把握し、精神的な支えにもなっている被災地の助産師会に相談、私たちの思いを伝えたところ、「それならば、厳しい環境で頑張っているお母さんたちの気持ちがぱあっと明るくなるような、たとえば、きれいなハンカチでいただくことはできないかしら」と提案された。

  • ボランティアのピエロのケンちゃんを交えて、支援物資の配布はなごやかな雰囲気で(写真左)、従業員食堂で被災地のお母さん宛てメッセージをつづる(プランタン銀座で)

 今回の仙台訪問は、そのハンカチに従業員から母親たちに宛てたメッセージカードを同封してお届けするためだった。

 仙台駅から車で15分。同会事務局前の空き地にテントを立てて、NPOなどから届いた支援物資と一緒に、ハンカチを配らせていただいた。

 集まったお母さんたちは皆笑顔で、「わあっ、きれい!」「いつ使おうかしら」「本当にありがとうございます」などと、こちらが恐縮してしまうくらい喜んでくれた。

 主催側の助産師さんの中には、家を流され、避難所暮らしを続けている人も少なくない。にもかかわらず、「東京から本当に御苦労さま。遠くまで来てくれて、うれしいわあ」とたくさんのねぎらいの言葉をかけられ、私の方が元気をもらった気がする。

取り壊しの市場ですし店が復活

  • 仙台市荒浜地区では、壊れた家屋の撤去も急ピッチで進んでいる(写真左)、海岸近くにある荒浜小学校
  • 教室の中、車が積み重なったままに(写真左)、観光客にも人気だった塩釜海岸中央鮮魚市場はひっそり

 事務局のある場所から海岸方面へ車で10分ほど走れば、多くの犠牲者を出した荒浜地区がある。

 がれきなど災害廃棄物の処理が着々と動き始めている一方で、海岸そばの荒浜小学校の校舎に入ると、1階の1年生の教室の中に、防風林の松の大木とともに流された車が積み重なり、手つかずのままだった。

 国道を北上して、塩釜市へ。大間、境港、気仙沼など、全国有数の漁港から集まってくるホンマグロの水揚げ日本一で、すし屋の密度も極めて高い街だ。

 新鮮な三陸の食材が安価で買えて観光客にも人気だった塩釜海岸中央鮮魚市場は取り壊しが決まって、ひっそりとしていたが、その一角にあるすしの名店「すし哲」が復活していたのは、うれしいニュースだった。

  • 4月29日に営業再開した「すし哲」
  • カウンターの向こうで、職人の威勢のいい声が飛び交う
  • 旬の味覚、カツオの酢の物(写真左)、「すし哲」一番人気の特上にぎり

「いらっしゃい!」 威勢のいい声が飛ぶ

  • 笑顔が戻った大将の白幡泰三さん

 カウンターに座って、特上にぎりを握ってもらった。大将自慢のマグロをはじめ、ウニ、イクラ、アワビ、子持ち昆布、甘エビ、ほっき貝、アナゴ……。いずれも、今まで何度か食べた味、そしてバランスのよい形に変わりない。私の大のお気に入り、こりこりした食感のアワビは三陸・青森から。

 「すしネタを仕入れていた水産業者も少しずつ営業を再開している」と、大将の白幡泰三さんはいう。

 旬の味覚、カツオの酢の物は、ミョウガやオオバ、ネギなどを加えたダイコンおろしでさっぱりと。カニ汁は、弾力のあるカニの身がたっぷりで、食べごたえがあった。「食べやすいように包丁入れましょう」と、何気ない気づかいもうれしい。

 まるで何事もなかったかのような、いつも通りの行き届いたサービス……。「でもね、ウチも、あの柱の上の時計のところまで水が来てね。みんな2階に逃げて無事だったけれど、魚をたくわえた大きな冷蔵庫はプカプカ浮くし、調理場のものは全部入れ替え。カウンターも削り直して、ようやく4月29日に再開できた」。大将はぽつりぽつりと話してくれた。

 地下街づくりで実績のある東京の設計事務所のすすめで、幅10センチ近くもある分厚い鉄の防潮板を入口4か所に設置していたこと、前の駐車場に鉄柵があったことで、押し寄せる車や自動販売機などが店内に流れ込むのを防げたという。

 大将と同級生の赤間善久さんがシェフを務めるすぐ近くのフレンチレストラン「シェ・ヌー」も、5月1日から営業を再開した。4月半ば、2人は共同でスペシャル牛丼を炊き出しし、早期の営業再開を誓って、地域の人々を勇気づけたと聞いた。

  • 分厚い防潮板が役に立った
  • 駐車場の鉄柵には、津波当日、車が何台も突き刺さったそうだ(写真上)、フレンチレストラン「シェ・ヌー」も営業再開
  • 石巻の駅舎に、「がんばろう!石巻」の横断幕(写真上)、ブルーシートで覆われた中で再開した洋品店

営業再開に復興のきざし

  • 日和山公園から石巻市内を見下ろす

 さらに北の石巻市。高台にある日和山公園に上ると、市内が一望できる。集落も漁港も、市場も倉庫群も、すべて水没した風景に、言葉を失うとはこういうことだろうか。

  • 石巻市役所前には仮面ライダーV3(写真左)、「マンガロード」にはサイボーグ009

 しかし、市内の商店街を歩いてみると、まだブルーシートで覆われた建物の一角で「90%OFFセール」を始めた洋品店、「ボランティアの皆様、ありがとうございます」「お陰様で、営業再開できました」と書かれた短冊を店先の桜の枝に結んでいる美容室など、復興のきざしをあちらこちらで見ることもできた。

 石巻は、漫画家、石ノ森章太郎氏のゆかりの地。市役所前の仮面ライダーV3をはじめ、駅前大通りから続く「マンガロード」には、サイボーグ009の像が設置され、街の復興をしっかり見守っているように見える。

心に残った「石巻市民憲章」

 日和山公園で見つけた手書きの「石巻市民憲章」が心に残る。

 いわく、

 

 まもりたいものがある

 それは生命(いのち)のいとなみ 豊かな自然

 つたえたいものがある

 それは先人の知恵 郷土の誇り

 たいせつにしたいものがある

 それは人の(きずな) 感謝のこころ

 わたしたちは 石巻で生きてゆく

 共につくろう 輝く未来

 震災を機に、人と人とのつながりの大切さを、誰もがかみしめているこのごろである。

  • 美容室の軒先には、ボランティアへの感謝の言葉が…
  • 公園で見つけた手書きの「市民憲章」

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.04.22

新緑の息吹、通りそれぞれに

 並木通りから並木が消えた

  • 銀座桜通りの桜はあでやかな八重桜

 前回、4月1日付けの小欄で、銀座で小料理店を開いていた歌人、鈴木真砂女の話を書いたところ、読者の方から、彼女の銀座についてのエッセイ集に関する問い合わせをいただいた。

 多くの著作をもつ真砂女だが、私の手元にあるものを何冊かご紹介すると、「銀座に生きる」(富士見書房)、「銀座・女将のグルメ歳時記」(文化出版局)、「銀座諸事折々」(角川書店)、「お稲荷さんの路地」(角川文庫)などが挙げられようか。

 改めてぱらぱらとページをめくってみると、真砂女が、店のあった銀座1丁目周辺の街路樹にひとかたならぬ思いを寄せているとわかる文章に幾度も出合った。

  • 花はおおぶりでピンクの色も濃い

 十数年前、角川書店の雑誌「俳句」に書かれた「並木通り」と題した一文には――

 「銀座並木通りの並木が、八丁目から一丁目までごっそり抜かれたのは最近のことである。銀座並木通りの名称は誰もが知るところで、並木の無い現在、何通りと呼ぶのだろうか」「銀座に店を持つということは一つの誇りでもあった。街路樹の無い並木通りを見渡すと何か物足りない。ただ一つの慰めは、一丁目と二丁目の両側の数寄屋橋通りから昭和通りまでの柳と、一丁目のどんづまりの高速道路に沿っての八重桜である。銀座(つう)の人も、並木の無い並木通りを歩いてさびしがるだろう」……。

真砂女が愛した八重桜

  • 銀座並木通りのシナノキ並木。緑がまぶしい

 並木通りの名誉のために申し上げておくと、真砂女が目撃した「並木が消えた並木通り」にはそれからまもなく新しいシナノキの苗木が植えられ、今は大木に成長し、勢いのある新緑が行きかう人々に元気を注入してくれている。並木通りの面目躍如である。6月になると、可憐な黄色い花を咲かせる。

 現在見ごろなのは、真砂女もいつも開花を楽しみにしていたという、銀座1丁目、首都高速道路に沿って走る銀座桜通りの八重桜。ソメイヨシノが散ったあと、大ぶりの濃いピンク色の花が目を楽しませてくれる。澄んだ青空の下で輝くあでやかな姿も美しいが、日暮れ時、街灯の薄明かりの中で浮かび上がる眺めに心がなごむ。

  • (左上)銀座柳通りではシダレヤナギが揺れる、(左下)外堀通りに復活した柳並木、(右)外堀通りの「銀座の恋の物語」碑の上でも柳がそよぐ

 真砂女がエッセイでも時々触れていたもう一つの街路樹は、柳である。

 柔らかい黄緑色の若葉が風に吹かれて、そよと揺れる。風まかせ、か。風になびくシダレヤナギはやはり銀座の春にふさわしく、肩の力がほっと緩まる。

 「昔恋しい銀座の柳」と、西条八十作詞の「東京行進曲」で歌われたのは、昭和の初め。幾度も絶えそうになりながら、柳は銀座に根付いてきた。銀座柳通り、銀座御門通り、そして5年ほど前、外堀通り(西銀座通り)にも、数十年ぶりに復活した。外堀通りの柳並木は、1丁目から8丁目までの約1キロに200本。8年がかりの事業が完成した。

新緑の息吹、通りそれぞれに

 受難続き

  • (左)メインストリートの銀座中央通りにはモミの木が整えられて、(中)昭和通りはイチョウ並木で、色づく秋は美しい、(右)松屋通りを特徴づけるのはハナミズキ

 時の移り変わりの中で、銀座の街路樹は受難続きだった。明治の初め、煉瓦街になった銀座では、西洋の街並みにならって、メインストリートの銀座中央通りに並木をつくる計画が進んだ。松や桜、カエデなどが選ばれたが、銀座はもともと埋め立て地で水分の多い土壌。植えられた木々は根腐れして枯れた。

  • (上)プランタン銀座の花売場に面したマロニエ通り、(下)マロニエのつぼみもふくらみつつあるとき

 代わって植えられたのが、水に強い柳である。ところが、大正時代には車道の拡張で、昭和に入ると東京大空襲での焼失などで、だんだんと姿を消していく。商店主らが補植を試みてきたが、1968年の銀座通り大改修事業で、ほとんどの柳が撤去されてしまった。いま、銀座通りにはモミの木とそれを囲むようにパンジーが植えられており、柳の姿はない。

 プランタン銀座のあるマロニエ通りには、通りの名前からもわかるように、マロニエの並木がある。日本名はトチノキというが、やはりマロニエの方がぴんとくる。新緑のいま、ピンクの花のつぼみが房状に並び、ふくらみ始めている。マロニエ通りも、交差する昭和通りを超えると、幹の色が緑色のアオギリ並木に変わる。ちなみに、昭和通りはイチョウの並木である。

 松屋通りはハナミズキで、清楚な白い花が満開だ。真ん中の大通り、晴海通りには、周囲のビル群にも負けないくらい、背が高く、堂々と立派なケヤキが育っている。

街路樹は通りの個性

  • 立派なケヤキ並木が続く晴海通り

 晴海通りを渡って新橋方面に向かうと、みゆき通りに。そこには、「モクセイ科のヒトツバタゴ」の標識を掲げた木々が植えられていた。別名ナンジャモンジャ。明治のころ、東京・青山の練兵場の道路沿いにあった木で、人々が「(この木は)何の木じゃ?」と言っていたのがいつの間にか「ナンジャモンジャ」と呼ばれるようになったとの逸話をもつ。5月には、プロペラ型の白い花が咲くという。

  • (左)みゆき通りにはナンジャモンジャが植えられている、(右)花椿通りのトウカエデの葉は先が3つに割れている

 さらに新橋寄りの交詢社通りには、中国原産のトウカエデ、また、資生堂の社屋がある花椿通りにはハナミズキの並木が続く。ただし、通りの先頭に数本のツバキの木が植えられていて、これは出雲から贈られたヤブツバキだそうだ。

 東京・中央区役所の水とみどりの課の担当者によると、道路や水道管のメンテナンス時とか古い建物の取り壊し・建て替えの際に、木々の移植が難しく、臨機応変に植え替えることがあるのだとか。ただし、「街路樹はそれぞれの通りの個性を印象付ける重要な要素なので、何を植えるかは、町内会と入念に相談して決める」という。

 通りから通りへ、新緑の息吹の訪れを感じながら、どんな街路樹があるかを見て歩くのが楽しい季節である。

(プランタン銀座取締役・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

2011.04.08

春のトレンドまとう、70年代風スカーフ

 パリから広がった民主化運動

  • (左)今春のファッションは、スカーフがポイントに。ベルトとトートバッグがおそろいで、おしゃれ、(右)スカーフを組み合わせたチェーンネックレスはどこか70年代風(いずれも「組曲」)

 往年の1970年代ファッションが今シーズンの注目トレンドとして急浮上しているそうだ。

 中でもスカーフは、春の軽快なおとなスタイルを装うのに欠かせないアイテムと聞いて、クロゼットの奥にしまい込んでいたスカーフをチェックしてみた。

 いや、出てくるわ、出てくるわ……。一枚一枚広げてみるたびに、買った時や場所の懐かしい思い出も一緒に蘇ってきた。

 1960年代後半、パリで起こった民主化運動は、日本をはじめとする世界各国に広まり、ファッションにも大きな影響を与えたといわれる。流行の主導権がオート・クチュール(高級仕立て服)から徐々にプレタポルテ(既製服)へと移っていったのである。

 1970年代に入って、ソニア・リキエルやカール・ラガーフェルト、ドロテビスのジャコブソン夫妻、ケンゾーやイッセイなどの日本人も含め、プレタポルテ・デザイナーたちの仕事が注目される。イヴ・サンローランやカルダン、クレージュ、ウンガロなどのオート・クチュールのデザイナーたちもプレタのコレクションに力を入れ始め、自由なムードが洋服全体にあふれてくるようになった。

ファッション誌の鮮烈な記憶

  • 80年代後半から買い集めた私のエルメススカーフコレクション

 同時に、グッチやエルメス、ルイ・ヴィトンなど、高級皮革製品を扱う老舗ブランドのファッション雑貨人気が高まっていった。

 1970年に平凡出版(当時)から出版されたファッション雑誌「アンアン」は、美しいヴィジュアルが衝撃的だった。当時中学生だった私は、友人のおしゃれなお姉さんから「アンアン」を見せられながらファッション講義を受けたことを覚えている。

 リセエンヌルックとか、フレンチシックとか、BCBG(ベーセーベーゼー=上品なトラッドスタイル)とか、ブリティッシュトラッドとか、その時はよくわからなかったけれど、おとなになると素敵なファッションが楽しめるのだと、期待に胸をふくらませた。確か、ルイ・ヴィトンのバッグやエルメスのスカーフ「カレ」を知ったのも、「アンアン」だった。

  • 今も大切にしているグッチの「フローラ」

 とはいえ、1970年代後半、大学生になった私は、大学がアメリカンな雰囲気であったせいか、普段のキャンパスでは、これも平凡出版から創刊されたばかりの「ポパイ」や「オリーブ」をお手本に、アメリカンカジュアルに流れていった。ベルボトムのジーンズ、UCLA、スニーカー、ヘビーデューティーウエア……。当時の西海岸風アメカジのキーワードだったと思う。

 そんな折、商社マンだった父が母へのプレゼントに、グッチのスカーフを買って来た。色とりどりの花があしらわれた美しいデザインで、モナコのグレース王妃のために特別にデザインされた「フローラ」プリント。そのエレガントさに、目がくぎ付けになった。とてもうらやましくて、私は母に、大事に使うから共有させてと、提案した。このイエローの「フローラ」は今も大切にしている。

今年風、スカーフの着こなし

  • (左上)肩にかけてふわっとたらした自然なアレンジがおすすめ、(左下)胸元で結ぶ定番の結び方も根強い人気、(右上)背中の面積はおおきめにとると美しい、(右下)スカーフリングを胸元で止めて(いずれもプランタン銀座本館1階)

 社会人になって、記者として海外取材の機会が増え、少しずつ買いためたのが、憧れだったエルメスのスカーフ。アフリカ、仮面舞踏会、サーカスなど、シーズンによって変わるテーマも楽しみで、店頭で選んでいると、時が経つのを忘れた。80年代後半から90年代の初めにかけてのことだ。

 クロゼットの奥から蘇ったスカーフたちは、当時と変わらず、発色が鮮やか。20年以上経っているのに、質感も変わらず、老舗メゾンの底力を感じさせてくれる。

  • バッグに結んでヴァリエーションを楽しむ

 90年代には、エルメススカーフのアレンジの仕方マニュアル本が出るなどして、凝った結び方に四苦八苦してチャレンジしたものだ。では、今シーズンのスカーフはどんな風に使うのがいいのだろう。

 プランタン銀座のファッション雑貨売場担当がおすすめするのは、肩にかけてふわっとたらした自然なアレンジ。ほかに、三角に折って、胸元でくるくると巻き込んだ結び方(確か、ガールスカウト結びといっていました)も定番。背中の面積を大きめにとるのが、華やかさを演出するポイントとか。ポリエステルが3千円台から、シルクが4千円台から。

 スカーフリングを使う時は、胸のあたりでゆるく止めると今年風に。バッグに結んでみるのも、変化があってよさそうだ。

ワンピースやブラウスにも

  • (上)ヘアバンドでさわやかな印象に、(下)右上から時計回りに、シュシュ、ヘアバンド、ブローチ、カチューシャ(すべて「組曲」)

 さらに、スカーフを使った雑貨類が充実しているのも、今シーズンの特徴。プランタン銀座本館3階の「組曲」で見つけたのは、カチューシャやシュシュ、ヘアバンドなどの髪飾りや、ブローチ、ネックレス、それにキャンバストートバッグにベルトなど。

  • (左)ヴィンテージスカーフを使ったワンピースが人気の「ソロ プリュス」、(右)私の春のワードローブに加わったちょっとレトロなブラウス

 私のイチオシは、本館4階の「ソロ プリュス」のヴィンテージスカーフを使ったワンピースやブラウス。フランスのデザイナー、サミー・シャロンが一点もので作っているもので、私は、春のワードローブに、鮮やかなピンク系のブラウスを加えた。

 昔からのお気に入りを使うのもよし、エキゾチック柄の新作を取り入れてみるのもよし。

 おとな世代だからこそ余裕でできる、スカーフのアレンジ、あなたも挑戦してみませんか?

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

この記事のURL | Trackback(0) | Comment(0)

永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)