GINZA通信アーカイブ

2015.03.20

進化し続ける銀座に残る「柳」と「バー・ルパン」

  • 「銀座復興祭」を伝える読売新聞1946年4月21日朝刊
    「銀座復興祭」を伝える読売新聞1946年4月21日朝刊

 東京・銀座にとって4月は、桜の季節というより、柳の季節である。

 柔らかい黄緑色の若葉が風に吹かれて、そよと揺れる。風まかせ、か。春のしだれ柳を見ていると、なんだかやさしい気持ちになってくるのは、私だけだろうか。

 「昔恋しい銀座の柳」と、西條八十(さいじょうやそ)作詞の「東京行進曲」が歌われたのは、昭和の初めであった。

 明治初期、煉瓦(れんが)街になった銀座では、水分の多い土壌ゆえ、松や桜、カエデの街路樹が根腐れで枯れた。代わって植えられたのが、水に強い柳だった。しかし、1945年1月の大空襲で、当時208本を数えた柳は、7丁目、8丁目の40本を残して焼失。柳は引き抜かれ、その跡には作物が植えられたという(勝又康雄著「銀座の柳物語」)。

 銀座の人々の「柳」に対する思いは強かった。終戦の翌年、46年4月の「銀座復興祭」で、銀座4丁目に柳が復活する。復興祭にあわせて「花咲く銀座」という歌謡曲も作られたようで、「春の東京はどこから開く 芽ふく柳の銀座から」とうたわれた。

戦後の柳並木の復興

 柳は、戦後の銀座において、復興の象徴でもあった。銀座8丁目の高速道路の高架下近くには、54年建立の「銀座柳の碑」が残る。そこには、西條八十がやはり昭和初めに作った「銀座の柳」の詞が刻まれている。

 だが、その後も銀座の柳の受難は続く。55年、街路樹として、イチョウやスズカケなどとともに柳も植えられたのだが、生育が思わしくなく、68年の銀座通り大改修事業で、共同溝を建設するに伴い、ほとんどの柳が撤去されてしまった。

 再び柳並木が復活するのは2006年春、西銀座通りだった。1丁目から8丁目までの約1キロに約200本の柳を植える8年がかりの事業が完成したのである。その年、「銀座柳まつり」も復活し、今年で9回目になる。

 柳並木の復興に尽力した1人、西銀座デパート社長だった柳沢政一さんに話を聞いたことがある。

 「子ども心に歌で聞いて育った銀座の柳がどこにもないのは寂しい。大学が神田で、柳の下の銀ブラ・デートとしゃれこんだ楽しい思い出もあった。広々として昔の風情が残る銀座には、柳がやっぱり似合うんだ」。当時87歳の柳沢さんが目を輝かせて語ってくれたのを思い出す。

  • (上)「銀座の柳」の詞が刻まれた石碑 (下)石碑を守るかのように、銀座帰りを果たした「銀座の柳2世」も植えられている
    (上)「銀座の柳」の詞が刻まれた石碑 (下)石碑を守るかのように、銀座帰りを果たした「銀座の柳2世」も植えられている
  • 西銀座通りに復活した柳並木。若葉の季節が待ち遠しい
    西銀座通りに復活した柳並木。若葉の季節が待ち遠しい

銀座に「怪盗ルパン」出没

  • 銀座5丁目の路地裏にある「バー・ルパン」
    銀座5丁目の路地裏にある「バー・ルパン」

 読売新聞の記事で銀座の戦後を調べていたら、46年4月の復興祭後、段々と店先に物資が出回る中、銀座を騒然とさせる興味深い事件が発生している。

 「怪盗ルパン」の出没である。1947年8月22日の朝刊記事によれば、犯人と思われる男性は、銀座2丁目の美術店を襲い、陳列してあった象牙の彫り物(時価10万円)のほか、下駄箱から靴7足、また、物干しにあったタオルと靴下を取って逃げた。そして、応接間の窓ガラスの格子に、鉛筆で「黒ルパン、ルルパン」の落書きを残していた。

 続報で、「近日中にまたお伺い致します、留・留凡より」という脅迫状が同店に舞い込み、警戒のために店を閉じたという。当時、「怪盗ルパン」だけでなく、この手の事件が頻発しており、「美術・宝石類の売買が盛んになったのに目をつけた犯罪が増えている。犯人検挙に大々的に力を入れる」と、京橋署はコメントしている。

 怪盗ルパンといえば、夜会服をまとい、シルクハットに片眼鏡のイメージが強い。そのイメージ通りの看板を掲げるのが、1928年(昭和3年)に開店し、戦災をくぐり抜け、今も続く銀座5丁目の「バー・ルパン」だ。

 開店に際して、泉鏡花(いずみきょうか)、菊池寛、久米正雄といった名だたる文豪が支援し、多くの文豪に愛された店として知られている。

 太宰治もその1人で、「ルパン」で、写真家の林忠彦が撮影した写真をたいそう気に入っていたらしい。

 48年6月13日、太宰は、玉川上水で、愛人の山崎富栄と心中に及ぶが、その前に、山崎宅に仏壇を作り、自分と富栄の写真を飾った。48年6月16日の読売新聞朝刊には、その仏壇周りの写真が掲載されていて、「ルパン」ですっかりくつろいでいる太宰の笑顔が印象的である。

  • 「怪盗ルパン」の出没を報道した読売新聞1947年8月22日朝刊
    「怪盗ルパン」の出没を報道した読売新聞1947年8月22日朝刊
  • ルパンでくつろぐ太宰治(左)が偲ばれる読売新聞の記事(1948年6月16日)
    ルパンでくつろぐ太宰治(左)が偲ばれる読売新聞の記事(1948年6月16日)

 「ルパン」がある銀座5丁目界隈(かいわい)は、ビルの裏側に迷宮のようにつながる路地があって、私のお気に入り。観光客でにぎわう表通りの喧噪から離れ、ちょっとレトロな思いに浸れるからでもある。

  • 「GINZA通信」の1回目は、2005年9月1日の読売新聞夕刊から始まった
    「GINZA通信」の1回目は、2005年9月1日の読売新聞夕刊から始まった

 さて、10年近く連載してきた「GINZA通信」は、今回で終了します。

 2005年9月から読売新聞夕刊で始めたコラムを、2009年4月にヨミウリオンラインに移し、両者を合わせると約400回。それだけ銀座には、魅力的な話題が尽きないということでしょうか。伝統と品格を保ち、日々変化を受け入れながら進化を続ける銀座の街で、たくさんのすてきな人々との出会いがありました。

 銀座を愛する1人として、これからも進化する銀座をしっかりウォッチしていきたいと思います。銀座ファンのあなたとは、きっとまたどこかでお会いすることになるのでは……。

 本当に長い間、ご愛読いただきまして、ありがとうございました。

 (読売新聞編集委員 永峰好美)

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2015.03.06

頭皮をきれいに…ヘッドスパで極楽マッサージ

  • (左)東京駅に直結しているJPタワー商業施設「KITTE」 (右)1階の明るいアトリウムが開放的な雰囲気
    (左)東京駅に直結しているJPタワー商業施設「KITTE」 (右)1階の明るいアトリウムが開放的な雰囲気

 三寒四温。満開の桜が待ち遠しい季節ではあるが、気温の変化についていけず、体調を崩している方も少なくないのでは? 

 リフレッシュしようと向かったのは、ヘッドスパである。疲れがたまって、何となくだるさが抜けない時には、頭のマッサージに限ると思っている。

 銀座のお隣、東京駅構内からアクセス抜群のJPタワー商業施設「KITTE」3階にある「uka丸の内KITTE店」に出かけてみた。

個室で、ゆったり

 美容室に併設された個室で、ゆったりと施術が受けられる。担当してくれたのは、ヘッド・セラピストの塩沢直子さん。まずは、マイクロスコープで、頭皮と髪の健康診断からスタートした。

 「頭皮が各所で赤く、うっ血していますね。頭全体が硬く、肩こり、睡眠不足、ストレスなどの症状があらわれていますね。毛根の汚れも気になります。皮脂が詰まって臭いの原因になりますから、シャンプーのすすぎ残しには注意してください」と、塩沢さん。

 芳香療法や植物療法などを組み合わせたフランスの頭皮ケアブランド「ジョジアンヌ・ロール」を使った70分のコース(11000円)を受けることになった。

  • 白を基調にした「uka丸の内KITTE店」のレセプション
    白を基調にした「uka丸の内KITTE店」のレセプション

 ブラッシングで頭皮と髪をほぐした上で、頭皮の毛穴の詰まりを取り除くヘアエッセンスを頭頂部中心に塗布していく。ラベンダーのほどよい甘い香りが眠気を誘う。頭皮全体になじませ、その後、保湿効果のあるヘアパックをつけて、入念にマッサージ。この血行を促す頭皮マッサージが本当に気持ちいい。

 次に、シャンプーが続く。海のミネラルをたっぷり含んだフランス・ブルターニュ産の海藻エキスが主成分というシャンプーを使う。髪全体を優しく包み込むような極楽マッサージは、もう、からだ全体がとろけてしまいそう。というか、いつの間にか、しっかり眠りに入ってしまっていた。

 その後、頭皮を健康な素肌と同じ弱酸性に整える効果があるローションをなじませて、潤い成分ケラチンタンパクと12種類の植物エキスが配合されたトリートメントで仕上げる。トリートメントは、日本人の髪質を調査して、日本人向けに特別に開発されたものだそうだ。

  • 当日使った「ジョジアンヌ・ロール」のヘアケア製品
    当日使った「ジョジアンヌ・ロール」のヘアケア製品
  • 海藻エキスが入ったシャンプーを使ってマッサージ
    海藻エキスが入ったシャンプーを使ってマッサージ

 最後に、首や肩のまわりをマッサージ。気分的にもだいぶリラックスできた。

 さて、頭皮に変化はあっただろうか?

頭皮をきれいにして、からだ全体の疲れを和らげる

  • ビジネスマンに人気の「男磨き」コースもある
    ビジネスマンに人気の「男磨き」コースもある
  • ネイルオイルを使ったハンドマッサージも気持ちがいい
    ネイルオイルを使ったハンドマッサージも気持ちがいい

 マイクロスコープで見てみると、毛穴をふさいでいた皮脂が除かれ、頭皮のうっ血が消えて、健全な状態の青みが戻っている。最初の頭皮の健康診断の時と比べると、まるで別人の頭皮を見ているかのようである。

 「頭皮は肌の延長で、肌は28日周期で生まれ変わります。1か月または1か月半に一度、ヘッドスパを実践して、頭皮をきれいにしておくと、目の疲れや肩のこりをはじめ、からだ全体の疲れが和らぎます」と、塩沢さんはアドバイスする。

 髪をセットしながら、ネイルオイルを使ったハンドマッサージも選ぶことができる。

 同店では、男性用に「男磨き」コースも用意されていて、ヘッドスパと爪のケアが同時にできるので、忙しいビジネスマンに人気だそうだ。

 頭皮のお手入れで、疲れ気味のからだをリフレッシュ。季節の変わり目には、特に必要な時間なのかもしれないと思った。

 なお、3月15日まで、「スパ&ウエルネスウィーク2015」が、全国約90の施設で開かれている。期間中、5000円から1万5000円までの特別料金で、施術体験ができる。ヘッドスパから温浴スパ、リゾートスパなど、スパを体験するにはいい機会である。

 詳細は、スパウィークの公式ウェブサイトで。

 http://spaweek.jp/

 

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2015.02.20

米国式中華料理の謎…銀座と戦後70年(2)

  • 1945年9月14日の読売新聞朝刊から
    1945年9月14日の読売新聞朝刊から

 GHQ(連合国軍総司令部)の意向もあって、東京の繁華街でいち早く復興した銀座。焼け跡に残ったビルに明かりがともり、進駐軍のジープが銀座通りを走り抜けた。この頃の銀座は、進駐軍兵士の「ショッピング&エンターテインメント」の場所であった。

 1945年9月14日の読売新聞朝刊は、米兵たちの買い物風景を伝えている。

 「崩れた舗道ながら銀座は銀座。昨日今日の銀座はネオンの光芒(こうぼう)を放っていた頃にも増した人の波である。下げ(かばん)やモンペに混じってカーキー、白、薄鼠(うすねずみ)各種の軍服をまとう進駐軍将兵が忙しく行く。店といっても百貨店のほかは十指に足らぬほど。顧客たる銀座の進駐軍の人たちはお土産探しに血眼になる」。

 百貨店での人気商品は、人形が第一位。「在庫品を出しても出しても朝のうちに売り切れ」となり、ほかに、ぼんぼり、錦絵、煙草(たばこ)セット、半襟、日本画、掛け軸、花瓶などもよく売れた。「アメリカ兵は気前がよくて堅い。一度買うと約束した品は、絶対に戻ってきて買う」と、店員がコメントしている。同時に、「米兵の買い物に鈴なりとなっていつまでもまつわりついている者が多いのは、日本人として寂しい風景。あまりにも襟度(きんど)がなさ過ぎます」と苦言も呈している。

 「銀座4丁目のビヤホールの開業は午後3時なのに、午後1時には米兵の長い行列」ができ(1945年9月14日朝刊)、「米軍酒保店が、銀座の服部時計店の1、2階に開店。アメリカ製の各種日用品雑貨、菓子、缶詰、食料品、外務省が斡旋(あっせん)して集めた日本の着物や美術工芸品類が並んだ」(1945年11月5日朝刊)。

 また、銀座西3丁目の碌々館(ろくろくかん)内には、進駐軍将校向けの高級社交場「キモノ・ボール・ルーム」が開設(1945年11月9日朝刊)。「毎夕5時半から10時半まで、約100名の接待嬢が美しい和服姿で酒、ビールの接待からダンスのお相手もする」システムだった。皮肉なことに、その記事の上には、「戦争犠牲者、上野浮浪者収容所で、夜の宿を求めて餓死戦場にさまよう」というニュースが掲載されている。

 1946年、銀座4丁目の和光とともに米軍に接収されて、銀座松屋は、PX(米軍兵士のための売店)になった。同年8月19日の朝刊には、その松屋で、久しぶりのチョコレートの山を前にして、満面の笑みを浮かべる子どもたちの明るい写真が載っている。売り場の壁には、「進駐軍への感謝を忘れないで」と貼ってあった。

 そうした中で、1946年10月2日朝刊で、「米国式中華料理 銀座アスター復興開店 倍旧(ばいきゅう)の御引立を」という広告が目にとまった。広告にただ1品書かれている「アメリカンチャプスイ」なるメニューも気になった。

  • 1946年8月19日の読売新聞朝刊から
    1946年8月19日の読売新聞朝刊から
  • 1946年10月2日の読売新聞朝刊に掲載された銀座アスターの広告
    1946年10月2日の読売新聞朝刊に掲載された銀座アスターの広告

 「米国式中華料理」とは、進駐軍向けに作られた料理なのだろうか? 「チャプスイ」って、どんなもの? 

 銀座アスター食品に聞いてみた。

「米国式中華料理」とは

  • 人気のあんかけ焼きそばには、チャプスイの歴史がしのばれる
    人気のあんかけ焼きそばには、チャプスイの歴史がしのばれる

 チャプスイは、米国でアレンジされた中華料理の一つ。豚肉や鶏肉、あるいはハムなどの肉類とタマネギ、シイタケ、モヤシ、白菜などの野菜類を(いた)め、スープを加えて煮た後に片栗粉でとろみをつける。八宝菜に似ている。そのままシチューのように食べることもあるが、麺やご飯にかけたりするのが一般的なようだ。

 起源には諸説あって、初期の中国系米国移民の出身地、山東省泰山で作られていた料理が原型とする説、19世紀に大陸横断鉄道工事に携わった中国人労働者のコックが発明したとする説などがある。

 広く伝えられているのは、清朝末期の政治家、李鴻章(りこうしょう)が、1886年に特命全権大使としてニューヨークを訪れ、同行した専属コックが発明したとの説である。滞在中、米大統領主催の豪華なフランス料理の晩餐(ばんさん)の返礼宴として、李は、山海の珍味を贅沢(ぜいたく)に使った中国料理でもてなした。コース料理が終わって、米国人客がまだ食べられそうだったので、追加の料理を命じた。準備した材料はすべて使ってしまったので、コックは仕方なく、残っていた魚介類などを炒め合わせて出したところ、大好評だったという。

  • 1階で給仕するのは、白いベストに水兵帽(?)をかぶった男性たち
    1階で給仕するのは、白いベストに水兵帽(?)をかぶった男性たち

 評判は、ニューヨークから西海岸にも広まり、チャプスイ専門のレストランが流行。チャプスイは米国一の中国名菜になった。

 料理名を大統領から尋ねられて、李は、「雑砕(チャプ・スイ)」と答えたが、実は「ザー・ホイ」が正しい、とも。安徽省(あんきしょう)なまりの強い李が発音を間違えたまま定着したという説もあるが、定かではない。

 さて、銀座アスターの「米国式中華料理」の謎に戻る。

 創業者の矢谷彦七は、20歳の頃、事務長として、横浜―ハワイ・サンフランシスコ航路の貨物船に乗って米国を見聞していた。その経験を生かし、バター会社を興し、さらに、1926年(昭和元年)、38歳の時に、銀座1丁目に、高級中国料理店「銀座アスター」をオープンさせた。インテリアもサービスも、斬新なアメリカン・スタイルを掲げ、チャプスイを看板メニューにしたのだった。サンフランシスコで食べたチャプスイこそが、銀座にふさわしいハイカラな料理と考えたわけだ。 

 表看板は「アスター」「ASTER」とカタカナとアルファベットで、袖看板は「亜寿多」と漢字で表記されている。1階はアメリカンムードの内装、2階は座敷にして宴会用コース料理を出した。開店告知のチラシは、矢谷自身がデザイン。中国服を着た給仕人がお茶を運ぶイラストの下に、「チャップスイー(料理)、ヌードルス(そば料理)、チャウメン(焼麺料理)」と記されている。「米国其儘(そのまま)を日本で 初めての試み 米国式中華料理 十一月一日開店」、「料理人は特に米国より中華人揚阿財一行を招きました」、「階下給仕人は可憐の少女が接待! チップ厳禁」、「シャンゼリゼ―の夢 ピカディリーの酔 ブロードウェーの月」など、異国情緒を誘ううたい文句が並ぶ。

 開店当時のメニューを見ると、フカヒレ、(つばめ)の巣から、シューマイまで、実に多種多彩。チャプスイだけでも、鶏肉クルミ入り、伊勢エビ入りなど17種類もあるのには驚く。1929年発行の『東京名物食べ歩き』(時事新報家庭部編)には、「豚のチャプスイ等中々易くてうまい」とあり、銀座っ子にも好評だったようだ。

  • 創業当時のメニューは多種多彩
    創業当時のメニューは多種多彩
  • 1926年、銀座アスター創業時のチラシ
    1926年、銀座アスター創業時のチラシ

 つまり、「米国式中華料理」は、昭和初めに導入されたもので、進駐軍向けに作られたものではなかった。

戦後、復興開店…本物のコーヒーの味を求めにぎわう

 1945年3月の東京大空襲で、銀座アスター周辺はすべて焼け野原になった。

 2002年に創業75周年記念プロジェクトでまとめられた『銀座アスター物語』によると、創業者の矢谷彦七は、跡地に「銀座アスターの土地」と書いた看板を立てていたものの、敗戦から1か月たった頃、娘の喜久子が現地を訪れると、雑草が伸び放題。粗末ながらもバラックを建て、商売を再開している店が多い状況を見て、彦七に再建した方がいいと迫った。家族会議を重ねて、彦七が銀行から再建資金30万円を引き出したのは、預金封鎖が行われるなんと1日前。1946年2月16日のことだった。

 半年後の9月、跡地に平屋38坪の店舗が完成。まもなく、読売新聞に先の「復興開店 米国式中華料理」の広告を出している。

  • (左)創業当時の銀座1丁目、「銀座アスター」の店舗 (右)現在の「銀座アスター本店」
    (左)創業当時の銀座1丁目、「銀座アスター」の店舗 (右)現在の「銀座アスター本店」

 だが、物資統制で、主食や肉類の販売ができなかったため、実際に並べていたのは、かき氷やアイスクリーム、コーヒーなどだった。ガスは1日1-2時間しか使えず、砂糖も代用のサッカリンやズルチン。品質を落とすのを嫌った彦七は、コーヒーカップをデミタスにして5円で提供。さすが銀座で、本物のコーヒーの味を求める人がたくさんいて、店は結構にぎわったという。

 「料理は出せなくても、広告を出して、復興開店したことを広く知らしめようとしたのでしょう。創業者の心意気が伝わってくる」と、同社では話している。

 1949年6月1日、飲食店の営業が解禁になり、銀座アスターは、復興景気の宴会でますます繁盛した。1952年には日本橋に2軒目を開店、また、日本橋白木屋のれん街で、名物の焼売(シューマイ)を売るようになり、アスターブランドが確立されていく。チャプスイそのものは、今では同店のメニューからは消えている。

 (銀座アスターの資料写真は、銀座アスター食品提供)

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2015.02.06

焼け野原からの復興…銀座と戦後70年(1)

 戦後70年。様々なメディアで、この70年の日本の軌跡を検証する企画が始まっている。では、東京・銀座は、敗戦直後の焼け野原からいかに立ち直り、発展を遂げていったのか。

 日本最大の繁華街、銀座という場所にこだわって考えてみたいと思った。「読売新聞」の記事をたどりながら、その歩みを振り返ってみることにしよう。 

焼失した街…猛スピードの復興工事

  • 1945年9月27日付け読売新聞朝刊から

 第1回は、「帝都の復興は銀座から」と、「銀座復活」の見出しが躍った1945年9月27日付けの紙面を紹介する。

 「1943年4月以降、カフェやバーの営業が禁止され」、銀座では、多くの店舗が閉店に追い込まれた。銀座のシンボルだった「街路灯も、金属類の供出に伴って明かりを奪われ」、銀座を暗い闇が覆っていた。1945年になると、「度重なる空襲で表通りから裏通りまで、銀座はほとんどすべてを失い、さびれていった。銀座の柳もその大半が焼失した」のだった。

 ところが、この光景は、終戦と同時に一転する。敗戦から1か月余の銀座の風景を、記事はこう記している。「街にどっとあふれ出た人たちは、まず銀座へ、銀座へと向かった。進駐したアメリカ兵らも流れ込み、その雑踏は昔の銀座と寸分の違いもないくらい」であったというから、驚く。人々が、自由な暮らしをいかに求めていたかが想像できる。

 銀座の商店関係者の間で、「銀座再興」の話が急速に持ち上がった。そして、銀座通連合会が提示したのが、記事のイラストにある商店街の設計図だった。「11月いっぱいに完成して、12月1日には華々しく全店開業」と、猛スピードの復興工事だった。

 空爆による銀座の被害は甚大で、「1丁目から8丁目までの商店街の東西合わせて970間のうち、半数以上の500間が焼失し、内外部とも損傷が少ないと思われる建物はわずかに190間」にとどまっていた。GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指導もあったのだろう。「5、6店舗を一棟にしたアメリカ型の最新の商店街形式を取り入れる」「建物の手前にショーウィンドウを設け、奥を住居にあてる」「外壁はモルタル塗りにして外観を統一する」など、銀座通連合会は結束し、共同で新しい街づくりに取り組むことになったのだった。

 計画によれば、表通り(銀座通り)の銀座4丁目の服部時計店からキリスト教関係の本を扱う教文館の間の焼け跡から工事に着手。カフェや露店はすべて裏通りに移転させる。柳はいったん切り倒して、来春改めて植樹する。1丁に3個の割合で、通りの東側だけに点灯していた街路灯は、西側にも同様に設置し、通り全体を明るいイメージにする。「当面は5か年計画だが、将来的には、名実共に本格的な商店街として『新生日本の銀座』をデビューさせる」と、同連合会の意気込みを伝えている。

復興の青写真

  • 1945年10月4日付け読売新聞朝刊から

 「銀座通りの大御所」とされる服部時計店の土方支配人のコメントは、銀座の復興の青写真を明確に示していた。

 「今の銀座は露天商人が幅をきかせて『公然闇市場の状態』である。古びた五月人形がどこからか持ち出され、進駐軍の将兵が競って買っている。こんなことでは(よくない)影響も考えられるので、1日も早い復興が求められる。将来の銀座は、大手の土地開発会社により最新のビルディングが建ち並ぶことになるだろう。ビルの1階が商店、2階以上が事務所で、一流の専門店が軒を連ねなければならない。観光客が銀座へ行けば、あらゆる支度ができる場所にしていきたい。表通りには家族連れが行く高級レストランを作る。まずは商品が出そろうまでは、進駐軍の土産物を主体とした店でやっていくのが、銀座復興の第一歩である」

 この記事の隣には、新宿に登場した日用品マーケットの話題が掲載されており、その対比が興味深い。新宿では、復員した兵隊ら素人が50人ほど集まって、セルロイドの洗面器からフライパンまで日用品を正札付きの価格で売り出し、闇市に対抗していた。

 1945年10月4日付けの紙面では、「銀座復興~まず発掘から」の見出しで大きな写真が掲載された。5月の大空襲以降、がれきのまま放置され、雑草が伸び放題だったところを発掘してみると、戦災前のタイル張りの床が現れてきたというのだ。写真は、銀座通り沿いの御木本真珠店(2014年12月5日の本欄で紹介)や十字屋楽器店の発掘現場である。「アメリカの新聞は、東京特派員電で、早くも銀座復興の話題を伝えていて」、注目度が高い。しかし、物資不足の日本がそれほど早く立ち直れるものかと懐疑的な論調なので、「工事を引き受けた大倉組もうかうかしてはいられまい」と、クギを刺している。ちなみに、大倉組は、現在の大成建設である。

われらが銀座を建て直せ…日本人のバイタリティ

  • (左)銀座3丁目の銀座松屋の裏手にある「はち巻岡田」 (右)屋号の「はち巻」が印象的です
  • 鉢巻きをきりりと結んだ初代の主人の写真が店内に飾られている

 1945年10月の新聞広告で目を引くのが、帝国劇場における、6代目尾上菊五郎一座による『銀座復興』上演であった。

 原作は、永井荷風門下で、慶應義塾の学生時代から銀ブラに親しんだ作家、水上瀧太郎。1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した銀座の街を復興するため、人々がいかに立ち上がったかを、料理屋「はち巻岡田」の主人をモデルに書いている。太平洋戦争末期、久保田万太郎が戦災で荒廃した東京に重ねて脚色。敗戦直後に舞台化され、人気を博した。復興に向けての当時の日本人のバイタリティに共感する人は多く、2011年の東日本大震災後、再び話題になることが多かった。

 「はち巻岡田」の店の入り口には、「復興の魁は料理にあり、滋養第一の料理ははち巻にある」というスローガンが貼られていた。銀座一帯が廃墟だった真ん中にトタン屋根の小屋のような飲み屋を建て、すいとん時代を尻目にかけて、刺身で飲ませた。主人については、「年がら年中豆絞りの手ぬぐいではち巻をしているのは、むしろ気障でもあった」「仏頂面で愛嬌のないかわりに嘘もない」などと描かれている一方、女将さんの柔らかみのある客扱いを「亭主のぶっきらぼうをかばっている」などと紹介している。

 この「はち巻岡田」は実在していて、いまも銀座で3代目が営業している。現在の場所は、銀座松屋の裏手にある「野の花」(本欄の2009年5月22日付けで紹介)の隣りである。

 カウンターでは、3代目の温厚なご主人が、にこにこしながら応対してくれた。「初代は、そんなに愛想がなかったのですか?」と尋ねてみた。残念ながら、生まれた時には他界していて、おじいちゃんの個人的な思い出はないそうだ。「でもね、いつも鉢巻きを離さず、それがトレードマークになってお客様に愛されていたと聞いています」。

 名物は、鶏肉のスープに白髪ネギとショウガを加えた「岡田茶わん」、熱々の甘い味噌でいただく「栗麩田楽」、ぷりぷりしたエビが入った「揚げしんじょ」の3品。この3つについては、初代のレシピをしっかり守っているそうだ。

  • 名物の「岡田茶わん」
  • 栗麩田楽
  • 揚げしんじょ

 2階の個室には、山口瞳の直筆原稿が飾られていた。「鉢巻岡田の鰹の中落ちを食べなければ夏が来ない。鉢巻岡田の土瓶蒸しを食べないと私の秋にならない。鉢巻岡田の鮟鱇(あんこう)鍋を食べなくちゃ、冬が来ない」と、同店の料理を絶賛している。

 水上の「銀座復興」では、銀座についてこんなことが書かれている。「銀座は、銀座病の人々にとって、我が家の外の我が家であり、東京の人間の共同の庭でもあった。それがいつまでも焼土の原のままでは生活の一面に空隙が出来たに等しく、殊に夕方の心の寂しさはたとえるものがなかった」「人々よ、われらが銀座を建て直せ、一日も早く建て直せ、この災害をいい機会として、道路を拡げ、電車を追い払い、電柱を地下に葬り、堅牢にして美しい家を揃え、並木を植え、以前にまさる帝都の公園としろ、心をあわせて復興しろ」……。銀座を思う人々の強い気持ちは、敗戦後の1945年秋の銀座においても、脈々と受け継がれていたに違いない。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2015.01.23

125年の歴史を振り返る記念展示…帝国ホテル

  • 1890年創業の帝国ホテル初代本館

 東京・日比谷にある帝国ホテルは、今年11月3日に、開業125周年を迎える。正面ロビーをはじめ館内7か所では、125年の歴史を写真パネルなどで振り返る記念展示が行われていて興味深い(展示は3月末までを予定)。

 1890年(明治23年)、同ホテルは、各国から王侯貴族や政府関係者らが投宿する「日本の迎賓館」としてスタートした。その翌年には、天皇誕生日を祝す「天長節夜会」が開催され、1903年まで続いた。

初代料理長の料理書…「芳醇なダブルコンソメスープ」など、貴重なレシピが明らかに

 初代料理長は、フランス料理の吉川兼吉。横浜グランドホテル、鹿鳴館を経て、37歳の時、開業と同時に帝国ホテルの料理長に就任した。小島政二郎の小説『風清ク月白シ』では、「帝国ホテルが鹿鳴館の隣に建った。帝国ホテルには吉川兼吉というシェフがいて別格」と書かれるほど高い評価を得た人であった。

 2009年、家族が所有していた吉川の料理書が同ホテルに寄贈され、オードブルからデザートまで、当時の貴重なレシピ286種類が明らかになった。

 その一つ、「芳醇(ほうじゅん)なダブルコンソメスープ」は、元旦に開催された田中健一郎・現総料理長の「新春晩餐(ばんさん)会2015 125年の歴史に想いを()せて」で披露された。

 「ブイヨンでブイヨンを煮出す」ともいわれるダブルコンソメは、深い味わいとコクが特徴だ。

 「料理の基本は、温故知新だと思います。古い知識を知ることで新しい料理も生まれる。伝統的な料理は、時代ごとに新しいアレンジが加わって、さらなる輝きを増していくことを、私は46年間の料理人人生で先輩たちから教わりました」と、田中総料理長は話す。

  • (上)初代料理長・吉川兼吉作成のレシピは筆で丁寧に書かれている (下)芳醇なダブルコンソメスープ
  • 現在の田中健一郎総料理長は13代目

 米国人建築家のフランク・ロイド・ライトによって帝国ホテル旧本館の「ライト館」が建てられたのは、1923年(大正12年)である。相前後して、日本初のショッピングアーケードが造られたり、挙式と披露宴を一貫してホテルで行う「ホテルウェディング」が始まったり、日本初のホテルサービスが、この頃相次いで同ホテルから誕生している。

  • 1923年に建てられた「ライト館」
  • ライト館と同時にできたショッピングアーケード
  • 1925年頃、ライト館で行われた結婚披露宴

1964年の東京五輪に関する資料

  • 1964年、東京五輪の選手村で「富士食堂」料理長を務めた頃の村上信夫・元総料理長(右から5人目)

 時代は下って、1964年の東京五輪に関する資料も展示されていた。選手村の食堂前で、外国人ジャーナリストに囲まれて楽しそうな、元総理長の村上信夫さんの笑顔が特に印象的である。

 当時選手村には、三つの食堂があって、村上さんは、アジア系の料理を出す「富士食堂」の料理長を任されたのだった。「アジア系」といっても、ひとくくりにはできない。以前村上さんにインタビューした時、モロッコやアルジェリアは「基本はフランス料理でいいが、クスクス(野菜や肉を煮た(から)いスープをかけた穀物料理)を加えてほしい」、インドは「コックが同行してカレーを作るので、米はインド人好みのインディカ米を用意するように」など、各国から様々な要望が出たという話を聞いた。

 作り方がわからないものもあって、その都度大使館に問い合わせ、日本にない材料については、各国大使館の外交官のご夫人たちが自ら集めて、熱心に調理指導までしてくれたという。選手村食堂の「故国の味」に励まされた選手は、少なくなかったことだろう。

 当時の写真とともに、村上さんの話をあれこれ思い出していたところ、同ホテルの小林哲也会長にお会いする機会があった。

  • (上)小林哲也会長ご自慢の「選手村劇場出演記念メダル」 (下)「チャレンジャーズ」の一員として、選手村のイベントに出演。右から2人目が小林会長

 「私もね、実は、東京五輪のメダルを持っているんですよ」。

 小林会長がちょっと自慢げに見せてくれたのは、「TOKYO 1964 XVIII OLYMPIAD」と刻まれた赤銅色のメダルだった。裏には、「オリンピック選手村劇場出演記念 1964オリンピック東京大会組織委員会」と記されていた。

 大学受験で浪人生活を送っていた時のこと。高校時代の仲間と続けていたバンド「チャレンジャーズ」の一員として、選手村でのイベントに出演した、その記念メダルなのだそうだ。ベンチャーズの曲が得意で、サイドギターを担当していたのだとか。

 2020年の東京オリンピックイヤーに向けて、政府は、訪日外国人旅行者数2000万人を目指している。東京のホテル事情もいま、変化の時だ。五輪をめぐってどんな物語が紡ぎ出されていくのか、楽しみでもある。

 (展示関連の古い史料写真は、帝国ホテル提供。)

 (読売新聞編集委員 永峰好美)

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2014.12.19

あなたの眠りに合う枕選び…ロフテー「枕工房」

  • 日本橋で、何やら未来的な空間を発見!

 銀座のお隣、日本橋をぶらりと歩いていたら、明かりに包まれた何やら未来的な空間を見つけた。

 寝具製造販売のロフテー本社ビルにある「枕工房」。独自の構造を持つ機能性枕を中心に、100種類以上の自社製品が展示販売されている。

最適な枕を見つけてくれる「ピローフィッター」

 ここがユニークなのは、「ピローフィッター」という枕選びのスペシャリストがいることである。一人ひとりの寝姿勢にあわせ、最適な枕を見つけてくれるという。

 朝目覚めた時に、頭がきちんと枕の上にのっているだろうか。大幅にずれていたり、いつの間にか両腕で抱えていたり。私は、そんなことが少なからずある。

 悩みを打ち明けていたら、「それは、枕が合っていない証拠ですよ」と、ピローフィッターさんに促され、店内にあるマシンに向かった。頸椎(けいつい)の曲がり具合を測定できる機械だそうだ。

 頸部に負担のない姿勢とは、リラックスして立っている時の状態。この時の顔の角度は約5度下に傾く。あごを若干引いた感じになる。寝ている間も、この状態を保っているのが理想的で、そのために、敷布団と頭部、頸部の間にできるすきまを埋めるのが枕の役目というわけだ。高すぎる枕は背中が浮いて頸部に負担がかかり、呼吸もしづらい。逆に低すぎても、首全体が疲れる。

 首のカーブの深さは人によって異なるので、それをこの特殊なマシンできちんと計測する。

 その後、心地の良いベッドスペースで実際に横になって、枕の高さを調節しながら、頸部と頭部が適正な高さで支えられているか、チェックする。ピローフィッターさんにみてもらうと、私は、これまでいささか高めの枕を使って首に余分な負担をかけていたことが判明。「高さが5ミリ違うだけでも、からだへの負担は変わってくるのですよ」と、なかなか自分の感覚だけではわからないことを指摘された。

  • 頸椎の曲がり具合を測定
  • コクーン(まゆ)形のベッドスペースで、自分に合う枕をチェックしてもらう

 枕の素材選びは、自分の好みで。羽根、ポリエステルわた、低反発ウレタンなどのやわらかめ素材から、そば殻、ヒノキチップ、ポリエチレンなどのかため素材まで、高さと素材の組み合わせを、納得できるまで試せるのはうれしい。

 私は、流行(はや)りの低反発ウレタンが感触もよく好みと思っていたが、いろいろ試してみると、かためのポリエチレンパイプが、首にしっくりくることを発見した。

 プロのアドバイスは、さすがである。

  • 「枕工房」では、枕の高さや素材の組み合わせが自由に試せる
  • 枕につめる素材もいろいろ

40歳は首の曲がり角…質の良い睡眠で健康維持

 そういえば、整形外科医を取材した時、「40歳は首の曲がり角」という話を聞いたことがある。頸椎の連結部分にはクッションの役割を果たす軟骨があるが、年齢とともに水分が失われ、摩耗して劣化する。さらに、現代人は、長時間のデスクワークや車の運転などで、首の老化が早まっているのだとか。

 眠りの質は健康に影響を及ぼす。厚生労働省の「睡眠指針」でも、「睡眠時間の不足や睡眠の質悪化は生活習慣病のリスクにつながる」ともいわれている。からだを休めるための睡眠なのに、自分に合わない枕を使い続けて健康を害している恐れがあるとしたら、元も子もない。改めて、枕選びの大切さに気付かされた。

 「枕工房」では、高さと素材を選べるセミ・オーダーメイド枕は1万2000円前後から。ほかに、完全オーダーメイドの注文もできるし、購入後のメンテナンスサービスも行っている。

冷えから守る、冬の快眠グッズ

  • (上)寒がりさんには必需品のチューブ状のニット(下)これは便利、えり毛布
  • (上)「美眠」を促す肌質にあった寝具選びを提案(11月、ロフテー本社の展示会で)(下)ガーゼのマフラーとフェースマスクで、乾燥肌対策

 寒がりの私は、展示の中で、冬の快眠グッズにも注目した。

 手首や足首、首周りを局所的に冷えから守るチューブ状のニット「ウォームタッチ・チューブ」。それぞれの冷えのタイプに合わせて選べるのがいい。伸縮性がありながら、かなりゆったりしている。それでも、睡眠中に脱げてしまうことはないそうだ。

 もう一つ、役立ちそうなのが、「えり毛布」。肩だけがどうしても温まらない時、布団の上からかける小型毛布だ。仰向け寝用、浅い横向き寝用、深い横向き寝用の3種類が用意されているのだから、驚いた。横向き寝用は、背中部分をくるむように形が工夫されていた。 

 さて、同社が来春打ち出すのが、「美眠」。肌質に合わせて選べる「眠具」を提案するのだそうだ。化粧品売り場のように、スキンチェッカーで、肌の水分量、油分量、弾力など、肌質の状態を確認。四つの肌質に分類したうえで、たとえば、朝起きた時に肌のかさつきが気になる乾燥肌の人には、保湿性のあるアロエ加工やスクワラン配合繊維を使ったものを、敏感肌の人には、低刺激の繊維や吸湿・放湿に優れたシルク製品などを紹介する。

 枕などの眠具は、人生の3分の1の時間を共に過ごす“相棒”ですもの、自分に合ったものをじっくり時間をかけて選びたい。

 ロフテー本社の「枕工房」は完全予約制(03―3663―5050)。なお、全国の主要百貨店などにも専門売り場「枕工房」がある。

 では、皆さま、枕下に宝船の絵でも敷いて、素敵(すてき)な初夢を!

 来年も引き続きよろしくお願いいたします。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.12.05

世界に真珠を発信~銀座と共に歩むミキモト

  • 林陽一撮影

 東京・銀座の冬の風物詩としてすっかり定着している銀座4丁目のミキモト本店前のジャンボクリスマスツリー(写真左)が、今年で見納めになると聞いて、とても寂しい。

 今年は、高さ約10メートルのモミの木に、約6500個のマルチカラーLED電球が輝く。根元にはパールネックレスをかたどった光るオブジェが置かれ、1976年以降の歴代クリスマスツリーの映像などが映し出されている(イルミネーションは12月25日まで)。

 今年で見納めになるのは、100年以上もの間、銀座の街を見つめてきた同本店が、来年1月から建て替え工事に入るからだ。本店6階のミキモトホールでは、12月30日まで、「銀座から世界へ、世界からGINZAへ <銀座と共に歩むミキモト>展」という回顧展が開かれている。明治の開業当時から現在に至るまでの貴重な歴史資料を見ることができて興味深い。

世界で初めて真珠の養殖に成功

 世界で初めて真珠の養殖に成功した御木本幸吉が、銀座(弥佐衛門町=現並木通り)に「御木本真珠店」を構えたのは、1899年(明治32年)のこと。1906年には、現在の本店がある表通りの銀座通りに移転、白い石造りの2階建て洋館のモダンな店舗は「真珠色の店」と呼ばれ、たいそう評判だったらしい。

 幸吉は、エピソードの多い人でもある。

 養殖真珠の発明者として世界でも知られるようになった幸吉は、27年(昭和2年)、欧米視察の際にニューヨーク郊外のエジソン邸を訪問する。エジソンは贈り物として渡されたミキモトパールを見て感嘆する。「わが研究所でできなかったもの、それは、一つはダイヤモンド、もう一つが真珠。あなたが、生物学的に不可能だとされてきた真珠を発明し完成されたことは、世界の驚異です!」と。当時の「ニューヨーク・タイムズ」にこの話題が掲載され、米国でもミキモトパールの人気が高まった。

  • 1906年に完成した「真珠色の店」は、白亜の洋館で大評判に

  • 明治時代の店舗の内観を再現したコーナー
  • 大正から昭和初期の展示コーナー

積極的に海外出店…毎日地球を3周

 海外出店に関しても積極的だった。大正から昭和の初めにかけて、ロンドン、上海、ニューヨーク、パリ、ボンベイなどに支店を展開。ナポリで購入した地球儀が大のお気に入りで、高齢になっても、地球儀を回しては、「私は毎日地球を3周している」と言っていたという。

 幸吉が、真珠養殖に成功した6年後、洋風文化の新風が吹く銀座の地に出店したのは、時代の変化を敏感に察知するためだった。事業をグローバルに発展させる経営戦略を念頭においてのことだったに違いない。

 「真珠色の店」で接客にあたったのは、全員男性。硬い仕上げのぱりっとしたワイシャツに背広を格好良く着こなしていた。店内には、夏は扇風機を、冬はストーブを完備。お客さまができるだけ長時間くつろげるようにと工夫されていた。2階にはゆったりとした貴賓室を設け、養殖真珠ができる過程がわかる標本などが飾られていた。当時、真珠製品を求めて来店する外国人が多く、同店の主任が海外の有名宝飾店を視察してサービスのあり方を研究、その経験を生かしたものという。

 店舗開店の翌1907年(明治40年)には、図案室を新設。ジュエリーデザインのほか、店頭装飾のディスプレーや広告の専属デザイナーを迎え入れている。こうした取り組みは、当時の東京でも極めて珍しいことだった。

  • 背広を着こなした男性従業員が接客にあたった
  • 1970年代、歩行者天国でにぎわう本店周辺

40年間で240作品…ショーウィンドー、道行く人にメッセージ

  • 現在のミキモト本店。1974年にショーウィンドーが設けられた
  • (上)2006年秋の「BIG NECKLACE」は好評だった(下)ユーモラスな「アリ」のディスプレー
  • (上)昭和初期の店頭風景。着物の帯留めを買う女性が多かった (下)1938年発行のカタログには、洋装向けのジュエリーが掲載されている

 銀座通りに面した本店の壁面に埋め込まれた現在のショーウィンドーは、幅2メートル50センチ、高さ50センチという小さな空間ながら、斬新な試みが発信されるので注目してきた。その精神は、明治の頃から受け継がれてきたものなのだと納得した。

 「ショーウィンドーは、単に商品をディスプレーするだけでなく、道行く人にメッセージを届ける、銀座の街との交歓の場と位置付けている」(ミキモト広報)そうだ。

 1974年に設けられて以来、40年間で240もの作品が発表された。特に話題になったのは、2006年秋の「BIG NECKLACE」と1992年夏の「アリ」。「アリ」は、リアルなアリのオブジェが列をなして真珠を運んでいる。どこかユーモラスで、忘れられない作品だった。「BIG NECKLACE」の現物展示のほか、過去の作品16点をデジタルデータで見ることができる。

 大正から昭和初期、銀座にモダンガールやモダンボーイが闊歩(かっぽ)した時代の展示は、躍動感が感じられて楽しい。

 資生堂のおしろい、和光の国産腕時計、銀座タニザワの絨毯かばん、安藤七宝店の七宝焼、カフェ・パウリスタのコーヒーカップ&ソーサー、伊東屋の鉛筆、山野楽器の歌集、田屋やギンザサヱグサのカタログなど、明治創業の銀座の老舗から、当時女性の間で流行した品々が出展されている。

 御木本真珠店のコーナーでは、洋装に合わせて使えるクリップブローチがカタログとともに展示。その繊細な細工には思わずため息が出てしまう。1937年から45年まで、同真珠店の北隣に開かれたネックレス専門店は、店長以下店員が全員女性。「職業婦人」の草分け的な店舗で、当時の写真からはいきいきと働く女性たちの姿が(しの)ばれる。

 新しい本店が完成するのは、2017年春の予定。銀座の新ランドマークとして、どんな試みが登場するのか、楽しみだ。ぜひ、年末のジャンボクリスマスツリーの復活も……と願いたい。

 (画像はミキモト提供)

 (読売新聞編集委員・永峰好美) 

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2014.11.21

共通の言語「ワイン」で日中文化交流

  • 「日中グレイス対決」に登場した、ジュディ・チャンさん(左)と三澤彩菜さん

 約3年ぶりに日中首脳会談が実現した今月、会談の日からさかのぼること約1週間前、東京・銀座近くの高層ビルの一角で、興味深い催しが開かれた。

 ワインを通した日中文化交流の集いである。

 当日集まったのは、関東圏のワイン愛好家を中心に約120人。世界的に有名なワイン専門誌「デキャンター」からは香港駐在の記者が取材にやって来て、大いに盛り上がった。また、中国大使館からは報道官が駆けつけ、「白酒をよく飲むけれども、最近はワインを飲む機会が増えた。ワインという共通言語で日中の民間交流を盛り上げる企画は素晴らしい」などと語った。

二つの国の「グレイス」の娘たち

 催しの目玉は、「日中グレイス対決」と題するトーク企画。中国からは、中国の家族経営ワイナリーとして評価の高い「グレイス・ヴィンヤード」のCEO、ジュディ・チャンさん。日本からは、「グレイスワイン」の愛称で親しまれ、世界最大規模のワインコンクール「デキャンター・ワールド・ワイン・アワード2014」で日本ワインとして初の金賞を受賞した、中央葡萄酒(山梨県甲州市)の醸造責任者、三澤彩菜さんが登場した。

 たまたまアジアで同じ「グレイス」の名前を持ち、年齢もほぼ同じ30代半ばの2人の女性。ワイナリー経営者と醸造家という違いはあるが、共通する点も多く、話がはずんだ。

 特に興味深かったのは、父親と娘の関係についてであった。

 ジュディ・チャンさんは、香港育ちで、証券会社のゴールドマン・サックスの出身。資産家の父が、1997年のアジア通貨危機を契機に中国国内の物件をいくつか整理することになり、父親自身がずっとやりたいと夢見ていたワイナリーを山西省に拓(ひら)いた、その5年後、父から経営を任されることになる。当時24歳。ワインビジネスについて一から勉強し、「品質の向上と販売先の限定」、「広告ではなくメディア露出でワイナリーをPR」といった手法で、評価を高めていった。

 「人気が出てきたのだから1000万本に増産せよと、父が言った時には、それでは品質が落ちてしまうので、反対しました。父は、夢を追いかけるタイプの人間なので、いろいろ葛藤はあるけれど、父が選んだワイナリー経営という仕事は、間違っていない。それを証明するために、私は頑張っているように思う」と、チャンさんは言う。

  • 最初の乾杯は、ロゼワインで
  • 中国「グレイス・ヴィンヤード」の「チェアマンズ・リザーヴ2009」は、父に敬意を表して造ったもの

偉大な父の背中をさすったり…

  • 中央葡萄酒を代表する「キュヴェ三澤」(左)とスパークリングの「グレイス・トラディショナル・メソッド」

 対する三澤彩菜さんは、1923年から続くワイナリーに長女として生まれた。4代目社長の父は元商社マン。彩菜さんは、大学卒業後、フランスなどでワイン醸造を学び、醸造家の道を選んだ。「父の存在は大きいです。あれ、これは私の考えと違うなと感じたら、いろいろ議論して、教えてもらっている。実はまだ、経営者としてワイナリーを継ぐかどうかは決心できていないんです」

 三澤さんは、そんな思いを率直に語りながら、こう言った。「偉大な父の背中は、さすったりなでたりするよりも、追いかけて、さらに追いかけて・・・。段々と小さく丸くなってきた背中に気付いたら、一緒に荷物を背負って、ああ、やはりこの道を選んだのは間違いではなかったと確信し、そしてまた、歩み始める。父とはそんな関係でいたいなと思っています」。その言葉に、チャンさんも、大きくうなずいていた。

  • 二胡奏者のビアンジ―さんが日中両国の懐かしい曲を演奏

 日本と中国。二つの国の「グレイス」の娘たちにとっての大きな父親の存在と、深い愛情と。共感する点は少なくなかったようだ。二胡奏者のビアンジ―さんの、哀愁帯びた音色に耳を傾けながら、「対決」というよりも、ワインを通してとても温かい気持ちになる催しであった。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.10.24

変わらない思い「無印良品~加賀谷優の仕事」

  • 今まで表舞台に出なかった無印良品のデザイナーの展覧会

 1980年代に社会人のスタートを切った私にとって、堤清二氏率いるセゾングループの発信は、いつも刺激的で気になる存在だった。

「じぶん、新発見」とか、「不思議、大好き」とか。糸井重里さんのコピーに代表される、単なる物質的豊かさとは異なる新しいライフスタイルの価値の提案は、当時画期的だったと思う。

 そのいささかとがった思想を最も体現している一つが、「無印良品」ではないだろうか。

誰がデザインしたかが意識されずに、究極的に普遍的なもの

 「無印良品・有楽町」(東京都千代田区丸の内3丁目)2階の「アトリエ・ムジ」で、「無印良品~加賀谷優の仕事」という興味深い展示が開かれている(11月16日まで)。加賀谷さんは、GKデザイン研究所を経て独立したプロダクト・デザイナー。無印良品の誕生当初から外部デザイナーとして商品開発にかかわっている。「誰がデザインしたかが意識されずに、究極的に普遍的なもの」を目指した商品だけに、これまでデザイナー自身が表舞台に出ることはほとんどなかった。それは、加賀谷さん独特の美意識でもあったのだろう。

  • 入り口を入ると、向かって左手から年代順に商品の変遷をたどれる
  • 家具にも使われていた紙管で、商品の誕生年表を表現

 会場には、1980年代から現在に至るまで、約30年間に加賀谷さんが手がけた生活雑貨が約150点、年代順に並べられている。壁面に掲げられているのは、紙管を使った大きな年表。紙管の長さが、ロングセラー商品がいかに多いかを教えてくれる。

 「これ、懐かしいなあ」、「今も愛用しているけれど、そんな昔に作られていたなんて、ちょっと驚き!」……。来場者からはそんなつぶやきが漏れていた。

 展覧会を取りまとめる良品計画シニア・キュレーターの鈴木潤子さんは、「大量生産・大量消費の時代に消費社会のアンチテーゼとして誕生したのが、無印良品」と説明する。

 そういえば、「無印良品」の生みの親、堤清二氏が、「無印ニッポン」(中公新書)の中で、「無印良品は、消費者主権の反体制商品」と語っていたことを思い出した。

 「反体制」とは、アメリカ的豊かさとファッション性の追求という、二つの大きな「体制」に対する異議であった。無印良品は何を訴求したいと思っていたのか。堤氏はこう述べていた。

 「それはただ一点、消費者主権なんです。ここまでは用意します、あとはあなたがご自分で好きなように使って下さい、という、そういう意味での消費者主権」

 挑戦的な言葉である。

 無印良品は現在、42円のボールペン替え芯から自由度の高い住宅まで、約7000種に及ぶ商品をそろえ、海外市場でも人気の「グローバル商品」に成長している。しかし、当初、堤氏の主張はなかなか社内では浸透せず、1983年に東京・青山に第1号の直営店を出す時は、「手前どものようなものが、環状線の内側に店を造っていいものか」と議論があったと、堤氏の著書にある。

 加賀谷さんが商品開発に参加したのは、ちょうどその頃だ。自分たちがデザインしたものが簡単に使い捨てにされることに疑問を持ち、デザイナーをやめて、子どもの頃から憧れていた動物園の飼育係になろうかと半ば本気で思い始めた時だったという。

  • 初期の作品、ベージュの磁器食器

 最も初期の作品の一つが、ベージュの磁器食器。透明(ゆう)だけで仕上げた簡素な器は、和洋中が混在する日本の食卓で、どんな料理にも対応できる優れもの。

 また、展示台として使われている「スチールユニットシェルフ」も初期のモデルで、その後何度かマイナーチェンジはあったものの、現在でも、この初期モデルとの組み合わせが可能なように設計されている。加賀谷さんは、日本家屋の寸法を基準にサイズを見直し、無駄なくすっきりした収納のあり方を考えたのだった。

解釈の仕方がいろいろ~作り手の思い

  • (上)組み立て棚の前に置かれているのが、「脚付きマットレス」 (下)左右どちらから開いても使える「自分だけのノート」

 鈴木さんの案内で、会場を回った。商品の一つひとつに、なぜその商品を作ったのかについての謎解きが、加賀谷さんのウィットに富んだ文章でつづられているのも、見逃せないポイントである。たとえば、「脚付きマットレス」。私のような凡人には、高さの低いベッドにしか見えないのだが、加賀谷さんはこう記す。「これは、敷布団が空中に浮いているように見える寝るための道具です。ベッドでも布団でもないけれど、ベッドとしても布団としても使えます。さらに寝ていない時はソファでありベンチでありテーブルです。伝統的な和室がそうであるように」。

 表紙に何も印刷されていないノートについては、「白いキャンバスに向かう時に感じる高揚感や自由がこのノートにはあります。使う人それぞれがどのように使うかを考え、楽しんでアレンジを加えて初めて完成する『自分だけのノート』」とあった。

 こういう風に使ってほしいと考えた時点で、それは押しつけ。作り手の意思が入らないように、解釈の仕方がいろいろできる商品を目指している姿勢が、よくわかる。

  • (上)私も愛用したアルミの名刺ケース (下左)造形的にも美しいアルミ製の照明器具 (下右)アクリルケースは、アクセサリーやスカーフの収納に重宝している
  • 商品について語り合う、加賀谷さん(右)と鈴木さん

 さて、私にとって、思い出深い商品はといえば、アルミの名刺ケースだろうか。軽くて丈夫で、たくさん収納できて、とってもスタイリッシュ。装飾はなく、シンプルだけれど、手のひらに載せた感覚が温かい。当時全盛だったのは、ブランドロゴ入りの名刺入れで、私も高価なグランメゾンものを持っていたが、このケースには一目ぼれだった。

 文具の隣に展示されていたのは、やはりアルミ製の照明器具。光を効率的に前方に集中させるように工夫されている。残念ながら買うまでには至らなかったが、今改めて見ると、造形的にも美しく、その軽やかさに見とれてしまう。

 もう一つ、愛用しているのが、アクリル収納ケースだ。仕切り棚があるタイプは、細々としたアクセサリー類をため込んでいる私にとって強い味方である。

 「鈴木さんの愛用品は?」と尋ねたら、「洗濯物干しとか、ビニール手袋とか。パステルカラーなど甘い感じの色が多い中で、日常生活になじむ色とデザインなんですよね。ありそうでいてないものがある。それも無印の魅力です」。

 では、加賀谷さんにとって、一番愛着のある商品は何なのだろうか。

 「もちろん、長年使っているものはたくさんあります。ただ、これまでは自分が手がけた商品をいつも身の回りに置くことは避けていたかもしれません。どうしても、こうすればよかったなど、後からついつい考えてしまうから。この2、3年、やっと雑念がなくなり、無印良品の商品と仲良く暮らしているような気がします」との答えが戻ってきた。

 加賀谷さんにとって、これからデザインしてみたい商品はたくさんあり過ぎて、1日の中でもどんどん変わってしまうそうだ。

 「今ぱっと浮かんだのは、地中海を航海するカッコいい船、かな」

 加賀谷優というデザイナーの今後の活動にも注目していきたい。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2014.10.10

つながる“銀座ソーシャル映画祭”

  • (上)美しい竹林は日本人の心のふるさと (下)放置竹林の問題解決のためには、適切な間伐が必須

 地球環境や保育、介護など、社会的な課題をテーマにしたドキュメンタリー映画の上映会が東京・銀座で定期的に開かれていることを知ったのは、ある環境系のメールマガジンの情報欄だった。どんな人が主催しているのだろう。ずっと気になっていた。

 中心になっているのは、銀座に東京本社を構える総合紙パルプメーカー、中越パルプ工業の営業企画部長、西村修さん(49)だった。

“まずは自分で行動”から多くの有志の協力を

 木材の買い付けや海外駐在など主に原材料畑を歩んできた。サーフィンなどアウトドアスポーツ好きで、「仕事はそこそこにこなして、プライベートを大切にするというタイプのサラリーマン」(西村さん)だったが、4年ほど前、CSR(企業の社会的責任)関連の活動をしている社外の人々と接点をもつ機会があり、少しずつ意識が変わっていったという。

社会に誇れる製品「竹紙」

 社内を改めて見直すと、社会に誇れる製品があった。日本の竹100%を原料とする「竹紙」である。

 間伐した竹は、かつては竹垣や竹かごなどに利用されていたが、ライフスタイルの変化で需要は激減、全国各地で放置竹林の問題が深刻化している。放置竹林は、隣接する里山の生態系を壊し、また、根の張りが浅いために土壌を支えきれず、土砂災害の原因にもなっている。

  • (上)製紙工程を経て、竹紙が完成 (下)竹紙は、様々な製品に採用されている

 竹林が多い同社の川内工場(鹿児島県)では、1998年より間伐された竹から紙を作る取り組みに挑戦、今では年間2万トンを超える竹が活用されている。竹紙は汎用性があって、はがきから産業用紙まで多様な製品に応用できるそうだ。そういえば、銀座三越で七夕の期間中、願い事を書く短冊に竹紙が使われていたのを思い出した。

 「竹紙の製品を知ると、皆が『いいですね』と共感してくれます。会社のブランディングの重要な武器になるはずなのに、今までまったくPRしてこなかったんですね。良いものを作っているのだから、いつか誰かが気づいてくれるといった姿勢でした。これではダメだと思い、自分でノートを作って、銀座の文具店、伊東屋さんに営業に行きました」と、西村さん。まずは自分で行動してみる、というわけだ。数々のコンクールで優秀賞も獲得、竹紙の認知度はぐっと上がった。

社会貢献意識向上コミュニティー

  • (上)「銀座ソーシャル映画祭」の会場は、手づくり感がいっぱい (下)上映後には、関係者によるトークショーも企画された
  • 中越パルプ工業の西村さん(右)と片岡さん

 その延長線上で始めたのが、「銀座ソーシャル映画祭」である。

 第1回は、昨年8月、ホテルモントレ銀座で、東日本大震災の復興支援がテーマのドキュメンタリー「LIGHT UP NIPPON~日本を照らした奇跡の花火」を上映した。社員の社会貢献意識を高めようと考えて企画したもので、社外の協力者を通じて参加者を募ったところ、10日間で80人以上が集まった。

 「来場者アンケートから、とても意識が高い人が多いとわかりました。上映後に、有機食材を使ったケータリング料理を囲んで、来場者同士が交流する場も好評でした。何か社会の役に立つことをやりたい、考えたい、語り合いたいといった同じ志を持つ人たちが集まれる場が、この銀座の地に求められていたのでしょうね。それは、私の目指すところでもありました」

 映画は、ドキュメンタリー映画の配給を得意とする「ユナイテッドピープル」の作品を中心に、西村さん、西村さんの最も頼れる協力者で映画好きな片岡裕雅さん(36)、社外の協力スタッフで選ぶ。ごみ処理場を舞台にしたごみアート、生きる力を育む森の幼稚園の実践例、息子による親介護の問題、食品ロス、幸福の尺度とは何かなど、多彩なテーマが並ぶ。

 10月6日、銀座三越で開かれた第10回をのぞいてみた。会社帰りと思われる30-40代を中心に、50人ほどが集まった。入場料は1000円。

  • 第10回で上映された映画のワンシーン(©台北カフェ・ストーリー)
  • (左)映画祭で人気だった森の幼稚園のドキュメンタリー(©こどもこそミライ) (右)「こどもこそミライ」に登場するのは、中越パルプが支援している山梨県の「森のようちえんピッコロ」

 上映された「台北カフェ・ストーリー」は、台北で美人姉妹がオープンしたカフェが舞台のフィクション。カフェで始まった物々交換が人気になり、来訪する人々の人生模様が交錯する。自分にとって、他の何ものとも換えられない一番大切なものって、何だろう。そんなことを考えさせてくれる作品だった。ちなみに、配給したユナイテッドピープルの関根健次社長にとって、「人生の中のベスト3に入る」作品だそうだ。

 映画祭の企画は、一部会社の予算を使って運営しているが、大々的に会社のPRはしていない。「社会的意義のある活動を支援している会社はいい会社に違いない。長い目で見て、会社のイメージアップにつながればいいのでは」と、西村さんは考えている。

 活動2年目。「私、何か手伝いますよ」。そんな社外の仲間が自然に1人、2人と増えて、つながっていくのが楽しいという。「銀座でいろんな知恵が集まれば、映画以外にも何でもできそうな気がしてきました」。西村さんと片岡さんの夢は広がっている。

◆「銀座ソーシャル映画祭」の情報は、中越パルプ工業のホームページのイベント欄に随時掲載される。
http://www.chuetsu-pulp.co.jp/event

(読売新聞編集委員・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)