2015.02.06

焼け野原からの復興…銀座と戦後70年(1)

 戦後70年。様々なメディアで、この70年の日本の軌跡を検証する企画が始まっている。では、東京・銀座は、敗戦直後の焼け野原からいかに立ち直り、発展を遂げていったのか。

 日本最大の繁華街、銀座という場所にこだわって考えてみたいと思った。「読売新聞」の記事をたどりながら、その歩みを振り返ってみることにしよう。 

焼失した街…猛スピードの復興工事

  • 1945年9月27日付け読売新聞朝刊から

 第1回は、「帝都の復興は銀座から」と、「銀座復活」の見出しが躍った1945年9月27日付けの紙面を紹介する。

 「1943年4月以降、カフェやバーの営業が禁止され」、銀座では、多くの店舗が閉店に追い込まれた。銀座のシンボルだった「街路灯も、金属類の供出に伴って明かりを奪われ」、銀座を暗い闇が覆っていた。1945年になると、「度重なる空襲で表通りから裏通りまで、銀座はほとんどすべてを失い、さびれていった。銀座の柳もその大半が焼失した」のだった。

 ところが、この光景は、終戦と同時に一転する。敗戦から1か月余の銀座の風景を、記事はこう記している。「街にどっとあふれ出た人たちは、まず銀座へ、銀座へと向かった。進駐したアメリカ兵らも流れ込み、その雑踏は昔の銀座と寸分の違いもないくらい」であったというから、驚く。人々が、自由な暮らしをいかに求めていたかが想像できる。

 銀座の商店関係者の間で、「銀座再興」の話が急速に持ち上がった。そして、銀座通連合会が提示したのが、記事のイラストにある商店街の設計図だった。「11月いっぱいに完成して、12月1日には華々しく全店開業」と、猛スピードの復興工事だった。

 空爆による銀座の被害は甚大で、「1丁目から8丁目までの商店街の東西合わせて970間のうち、半数以上の500間が焼失し、内外部とも損傷が少ないと思われる建物はわずかに190間」にとどまっていた。GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指導もあったのだろう。「5、6店舗を一棟にしたアメリカ型の最新の商店街形式を取り入れる」「建物の手前にショーウィンドウを設け、奥を住居にあてる」「外壁はモルタル塗りにして外観を統一する」など、銀座通連合会は結束し、共同で新しい街づくりに取り組むことになったのだった。

 計画によれば、表通り(銀座通り)の銀座4丁目の服部時計店からキリスト教関係の本を扱う教文館の間の焼け跡から工事に着手。カフェや露店はすべて裏通りに移転させる。柳はいったん切り倒して、来春改めて植樹する。1丁に3個の割合で、通りの東側だけに点灯していた街路灯は、西側にも同様に設置し、通り全体を明るいイメージにする。「当面は5か年計画だが、将来的には、名実共に本格的な商店街として『新生日本の銀座』をデビューさせる」と、同連合会の意気込みを伝えている。

復興の青写真

  • 1945年10月4日付け読売新聞朝刊から

 「銀座通りの大御所」とされる服部時計店の土方支配人のコメントは、銀座の復興の青写真を明確に示していた。

 「今の銀座は露天商人が幅をきかせて『公然闇市場の状態』である。古びた五月人形がどこからか持ち出され、進駐軍の将兵が競って買っている。こんなことでは(よくない)影響も考えられるので、1日も早い復興が求められる。将来の銀座は、大手の土地開発会社により最新のビルディングが建ち並ぶことになるだろう。ビルの1階が商店、2階以上が事務所で、一流の専門店が軒を連ねなければならない。観光客が銀座へ行けば、あらゆる支度ができる場所にしていきたい。表通りには家族連れが行く高級レストランを作る。まずは商品が出そろうまでは、進駐軍の土産物を主体とした店でやっていくのが、銀座復興の第一歩である」

 この記事の隣には、新宿に登場した日用品マーケットの話題が掲載されており、その対比が興味深い。新宿では、復員した兵隊ら素人が50人ほど集まって、セルロイドの洗面器からフライパンまで日用品を正札付きの価格で売り出し、闇市に対抗していた。

 1945年10月4日付けの紙面では、「銀座復興~まず発掘から」の見出しで大きな写真が掲載された。5月の大空襲以降、がれきのまま放置され、雑草が伸び放題だったところを発掘してみると、戦災前のタイル張りの床が現れてきたというのだ。写真は、銀座通り沿いの御木本真珠店(2014年12月5日の本欄で紹介)や十字屋楽器店の発掘現場である。「アメリカの新聞は、東京特派員電で、早くも銀座復興の話題を伝えていて」、注目度が高い。しかし、物資不足の日本がそれほど早く立ち直れるものかと懐疑的な論調なので、「工事を引き受けた大倉組もうかうかしてはいられまい」と、クギを刺している。ちなみに、大倉組は、現在の大成建設である。

われらが銀座を建て直せ…日本人のバイタリティ

  • (左)銀座3丁目の銀座松屋の裏手にある「はち巻岡田」 (右)屋号の「はち巻」が印象的です
  • 鉢巻きをきりりと結んだ初代の主人の写真が店内に飾られている

 1945年10月の新聞広告で目を引くのが、帝国劇場における、6代目尾上菊五郎一座による『銀座復興』上演であった。

 原作は、永井荷風門下で、慶應義塾の学生時代から銀ブラに親しんだ作家、水上瀧太郎。1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した銀座の街を復興するため、人々がいかに立ち上がったかを、料理屋「はち巻岡田」の主人をモデルに書いている。太平洋戦争末期、久保田万太郎が戦災で荒廃した東京に重ねて脚色。敗戦直後に舞台化され、人気を博した。復興に向けての当時の日本人のバイタリティに共感する人は多く、2011年の東日本大震災後、再び話題になることが多かった。

 「はち巻岡田」の店の入り口には、「復興の魁は料理にあり、滋養第一の料理ははち巻にある」というスローガンが貼られていた。銀座一帯が廃墟だった真ん中にトタン屋根の小屋のような飲み屋を建て、すいとん時代を尻目にかけて、刺身で飲ませた。主人については、「年がら年中豆絞りの手ぬぐいではち巻をしているのは、むしろ気障でもあった」「仏頂面で愛嬌のないかわりに嘘もない」などと描かれている一方、女将さんの柔らかみのある客扱いを「亭主のぶっきらぼうをかばっている」などと紹介している。

 この「はち巻岡田」は実在していて、いまも銀座で3代目が営業している。現在の場所は、銀座松屋の裏手にある「野の花」(本欄の2009年5月22日付けで紹介)の隣りである。

 カウンターでは、3代目の温厚なご主人が、にこにこしながら応対してくれた。「初代は、そんなに愛想がなかったのですか?」と尋ねてみた。残念ながら、生まれた時には他界していて、おじいちゃんの個人的な思い出はないそうだ。「でもね、いつも鉢巻きを離さず、それがトレードマークになってお客様に愛されていたと聞いています」。

 名物は、鶏肉のスープに白髪ネギとショウガを加えた「岡田茶わん」、熱々の甘い味噌でいただく「栗麩田楽」、ぷりぷりしたエビが入った「揚げしんじょ」の3品。この3つについては、初代のレシピをしっかり守っているそうだ。

  • 名物の「岡田茶わん」
  • 栗麩田楽
  • 揚げしんじょ

 2階の個室には、山口瞳の直筆原稿が飾られていた。「鉢巻岡田の鰹の中落ちを食べなければ夏が来ない。鉢巻岡田の土瓶蒸しを食べないと私の秋にならない。鉢巻岡田の鮟鱇(あんこう)鍋を食べなくちゃ、冬が来ない」と、同店の料理を絶賛している。

 水上の「銀座復興」では、銀座についてこんなことが書かれている。「銀座は、銀座病の人々にとって、我が家の外の我が家であり、東京の人間の共同の庭でもあった。それがいつまでも焼土の原のままでは生活の一面に空隙が出来たに等しく、殊に夕方の心の寂しさはたとえるものがなかった」「人々よ、われらが銀座を建て直せ、一日も早く建て直せ、この災害をいい機会として、道路を拡げ、電車を追い払い、電柱を地下に葬り、堅牢にして美しい家を揃え、並木を植え、以前にまさる帝都の公園としろ、心をあわせて復興しろ」……。銀座を思う人々の強い気持ちは、敗戦後の1945年秋の銀座においても、脈々と受け継がれていたに違いない。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

Trackback(0) | Comment(0)

トラックバック(0)

このページのトラックバックURL
http://www.nagamine-yoshimi.com/mt/mt-tb.cgi/798

コメント(0)

新規にコメントを投稿する
※当ブログに投稿いただいたコメントは、表示前に管理者の承認が必要になります。投稿後、承認されるまではコメントは表示されませんのでご了承下さい。
<コメント投稿用フォーム>
(スタイル用のHTMLタグを使えます)
ニックネーム
メールアドレス
URL
  上記の内容を保存しますか?
コメント内容
 

永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)