2015年2月アーカイブ

2015.02.20

米国式中華料理の謎…銀座と戦後70年(2)

  • 1945年9月14日の読売新聞朝刊から
    1945年9月14日の読売新聞朝刊から

 GHQ(連合国軍総司令部)の意向もあって、東京の繁華街でいち早く復興した銀座。焼け跡に残ったビルに明かりがともり、進駐軍のジープが銀座通りを走り抜けた。この頃の銀座は、進駐軍兵士の「ショッピング&エンターテインメント」の場所であった。

 1945年9月14日の読売新聞朝刊は、米兵たちの買い物風景を伝えている。

 「崩れた舗道ながら銀座は銀座。昨日今日の銀座はネオンの光芒(こうぼう)を放っていた頃にも増した人の波である。下げ(かばん)やモンペに混じってカーキー、白、薄鼠(うすねずみ)各種の軍服をまとう進駐軍将兵が忙しく行く。店といっても百貨店のほかは十指に足らぬほど。顧客たる銀座の進駐軍の人たちはお土産探しに血眼になる」。

 百貨店での人気商品は、人形が第一位。「在庫品を出しても出しても朝のうちに売り切れ」となり、ほかに、ぼんぼり、錦絵、煙草(たばこ)セット、半襟、日本画、掛け軸、花瓶などもよく売れた。「アメリカ兵は気前がよくて堅い。一度買うと約束した品は、絶対に戻ってきて買う」と、店員がコメントしている。同時に、「米兵の買い物に鈴なりとなっていつまでもまつわりついている者が多いのは、日本人として寂しい風景。あまりにも襟度(きんど)がなさ過ぎます」と苦言も呈している。

 「銀座4丁目のビヤホールの開業は午後3時なのに、午後1時には米兵の長い行列」ができ(1945年9月14日朝刊)、「米軍酒保店が、銀座の服部時計店の1、2階に開店。アメリカ製の各種日用品雑貨、菓子、缶詰、食料品、外務省が斡旋(あっせん)して集めた日本の着物や美術工芸品類が並んだ」(1945年11月5日朝刊)。

 また、銀座西3丁目の碌々館(ろくろくかん)内には、進駐軍将校向けの高級社交場「キモノ・ボール・ルーム」が開設(1945年11月9日朝刊)。「毎夕5時半から10時半まで、約100名の接待嬢が美しい和服姿で酒、ビールの接待からダンスのお相手もする」システムだった。皮肉なことに、その記事の上には、「戦争犠牲者、上野浮浪者収容所で、夜の宿を求めて餓死戦場にさまよう」というニュースが掲載されている。

 1946年、銀座4丁目の和光とともに米軍に接収されて、銀座松屋は、PX(米軍兵士のための売店)になった。同年8月19日の朝刊には、その松屋で、久しぶりのチョコレートの山を前にして、満面の笑みを浮かべる子どもたちの明るい写真が載っている。売り場の壁には、「進駐軍への感謝を忘れないで」と貼ってあった。

 そうした中で、1946年10月2日朝刊で、「米国式中華料理 銀座アスター復興開店 倍旧(ばいきゅう)の御引立を」という広告が目にとまった。広告にただ1品書かれている「アメリカンチャプスイ」なるメニューも気になった。

  • 1946年8月19日の読売新聞朝刊から
    1946年8月19日の読売新聞朝刊から
  • 1946年10月2日の読売新聞朝刊に掲載された銀座アスターの広告
    1946年10月2日の読売新聞朝刊に掲載された銀座アスターの広告

 「米国式中華料理」とは、進駐軍向けに作られた料理なのだろうか? 「チャプスイ」って、どんなもの? 

 銀座アスター食品に聞いてみた。

「米国式中華料理」とは

  • 人気のあんかけ焼きそばには、チャプスイの歴史がしのばれる
    人気のあんかけ焼きそばには、チャプスイの歴史がしのばれる

 チャプスイは、米国でアレンジされた中華料理の一つ。豚肉や鶏肉、あるいはハムなどの肉類とタマネギ、シイタケ、モヤシ、白菜などの野菜類を(いた)め、スープを加えて煮た後に片栗粉でとろみをつける。八宝菜に似ている。そのままシチューのように食べることもあるが、麺やご飯にかけたりするのが一般的なようだ。

 起源には諸説あって、初期の中国系米国移民の出身地、山東省泰山で作られていた料理が原型とする説、19世紀に大陸横断鉄道工事に携わった中国人労働者のコックが発明したとする説などがある。

 広く伝えられているのは、清朝末期の政治家、李鴻章(りこうしょう)が、1886年に特命全権大使としてニューヨークを訪れ、同行した専属コックが発明したとの説である。滞在中、米大統領主催の豪華なフランス料理の晩餐(ばんさん)の返礼宴として、李は、山海の珍味を贅沢(ぜいたく)に使った中国料理でもてなした。コース料理が終わって、米国人客がまだ食べられそうだったので、追加の料理を命じた。準備した材料はすべて使ってしまったので、コックは仕方なく、残っていた魚介類などを炒め合わせて出したところ、大好評だったという。

  • 1階で給仕するのは、白いベストに水兵帽(?)をかぶった男性たち
    1階で給仕するのは、白いベストに水兵帽(?)をかぶった男性たち

 評判は、ニューヨークから西海岸にも広まり、チャプスイ専門のレストランが流行。チャプスイは米国一の中国名菜になった。

 料理名を大統領から尋ねられて、李は、「雑砕(チャプ・スイ)」と答えたが、実は「ザー・ホイ」が正しい、とも。安徽省(あんきしょう)なまりの強い李が発音を間違えたまま定着したという説もあるが、定かではない。

 さて、銀座アスターの「米国式中華料理」の謎に戻る。

 創業者の矢谷彦七は、20歳の頃、事務長として、横浜―ハワイ・サンフランシスコ航路の貨物船に乗って米国を見聞していた。その経験を生かし、バター会社を興し、さらに、1926年(昭和元年)、38歳の時に、銀座1丁目に、高級中国料理店「銀座アスター」をオープンさせた。インテリアもサービスも、斬新なアメリカン・スタイルを掲げ、チャプスイを看板メニューにしたのだった。サンフランシスコで食べたチャプスイこそが、銀座にふさわしいハイカラな料理と考えたわけだ。 

 表看板は「アスター」「ASTER」とカタカナとアルファベットで、袖看板は「亜寿多」と漢字で表記されている。1階はアメリカンムードの内装、2階は座敷にして宴会用コース料理を出した。開店告知のチラシは、矢谷自身がデザイン。中国服を着た給仕人がお茶を運ぶイラストの下に、「チャップスイー(料理)、ヌードルス(そば料理)、チャウメン(焼麺料理)」と記されている。「米国其儘(そのまま)を日本で 初めての試み 米国式中華料理 十一月一日開店」、「料理人は特に米国より中華人揚阿財一行を招きました」、「階下給仕人は可憐の少女が接待! チップ厳禁」、「シャンゼリゼ―の夢 ピカディリーの酔 ブロードウェーの月」など、異国情緒を誘ううたい文句が並ぶ。

 開店当時のメニューを見ると、フカヒレ、(つばめ)の巣から、シューマイまで、実に多種多彩。チャプスイだけでも、鶏肉クルミ入り、伊勢エビ入りなど17種類もあるのには驚く。1929年発行の『東京名物食べ歩き』(時事新報家庭部編)には、「豚のチャプスイ等中々易くてうまい」とあり、銀座っ子にも好評だったようだ。

  • 創業当時のメニューは多種多彩
    創業当時のメニューは多種多彩
  • 1926年、銀座アスター創業時のチラシ
    1926年、銀座アスター創業時のチラシ

 つまり、「米国式中華料理」は、昭和初めに導入されたもので、進駐軍向けに作られたものではなかった。

戦後、復興開店…本物のコーヒーの味を求めにぎわう

 1945年3月の東京大空襲で、銀座アスター周辺はすべて焼け野原になった。

 2002年に創業75周年記念プロジェクトでまとめられた『銀座アスター物語』によると、創業者の矢谷彦七は、跡地に「銀座アスターの土地」と書いた看板を立てていたものの、敗戦から1か月たった頃、娘の喜久子が現地を訪れると、雑草が伸び放題。粗末ながらもバラックを建て、商売を再開している店が多い状況を見て、彦七に再建した方がいいと迫った。家族会議を重ねて、彦七が銀行から再建資金30万円を引き出したのは、預金封鎖が行われるなんと1日前。1946年2月16日のことだった。

 半年後の9月、跡地に平屋38坪の店舗が完成。まもなく、読売新聞に先の「復興開店 米国式中華料理」の広告を出している。

  • (左)創業当時の銀座1丁目、「銀座アスター」の店舗 (右)現在の「銀座アスター本店」
    (左)創業当時の銀座1丁目、「銀座アスター」の店舗 (右)現在の「銀座アスター本店」

 だが、物資統制で、主食や肉類の販売ができなかったため、実際に並べていたのは、かき氷やアイスクリーム、コーヒーなどだった。ガスは1日1-2時間しか使えず、砂糖も代用のサッカリンやズルチン。品質を落とすのを嫌った彦七は、コーヒーカップをデミタスにして5円で提供。さすが銀座で、本物のコーヒーの味を求める人がたくさんいて、店は結構にぎわったという。

 「料理は出せなくても、広告を出して、復興開店したことを広く知らしめようとしたのでしょう。創業者の心意気が伝わってくる」と、同社では話している。

 1949年6月1日、飲食店の営業が解禁になり、銀座アスターは、復興景気の宴会でますます繁盛した。1952年には日本橋に2軒目を開店、また、日本橋白木屋のれん街で、名物の焼売(シューマイ)を売るようになり、アスターブランドが確立されていく。チャプスイそのものは、今では同店のメニューからは消えている。

 (銀座アスターの資料写真は、銀座アスター食品提供)

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2015.02.06

焼け野原からの復興…銀座と戦後70年(1)

 戦後70年。様々なメディアで、この70年の日本の軌跡を検証する企画が始まっている。では、東京・銀座は、敗戦直後の焼け野原からいかに立ち直り、発展を遂げていったのか。

 日本最大の繁華街、銀座という場所にこだわって考えてみたいと思った。「読売新聞」の記事をたどりながら、その歩みを振り返ってみることにしよう。 

焼失した街…猛スピードの復興工事

  • 1945年9月27日付け読売新聞朝刊から

 第1回は、「帝都の復興は銀座から」と、「銀座復活」の見出しが躍った1945年9月27日付けの紙面を紹介する。

 「1943年4月以降、カフェやバーの営業が禁止され」、銀座では、多くの店舗が閉店に追い込まれた。銀座のシンボルだった「街路灯も、金属類の供出に伴って明かりを奪われ」、銀座を暗い闇が覆っていた。1945年になると、「度重なる空襲で表通りから裏通りまで、銀座はほとんどすべてを失い、さびれていった。銀座の柳もその大半が焼失した」のだった。

 ところが、この光景は、終戦と同時に一転する。敗戦から1か月余の銀座の風景を、記事はこう記している。「街にどっとあふれ出た人たちは、まず銀座へ、銀座へと向かった。進駐したアメリカ兵らも流れ込み、その雑踏は昔の銀座と寸分の違いもないくらい」であったというから、驚く。人々が、自由な暮らしをいかに求めていたかが想像できる。

 銀座の商店関係者の間で、「銀座再興」の話が急速に持ち上がった。そして、銀座通連合会が提示したのが、記事のイラストにある商店街の設計図だった。「11月いっぱいに完成して、12月1日には華々しく全店開業」と、猛スピードの復興工事だった。

 空爆による銀座の被害は甚大で、「1丁目から8丁目までの商店街の東西合わせて970間のうち、半数以上の500間が焼失し、内外部とも損傷が少ないと思われる建物はわずかに190間」にとどまっていた。GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指導もあったのだろう。「5、6店舗を一棟にしたアメリカ型の最新の商店街形式を取り入れる」「建物の手前にショーウィンドウを設け、奥を住居にあてる」「外壁はモルタル塗りにして外観を統一する」など、銀座通連合会は結束し、共同で新しい街づくりに取り組むことになったのだった。

 計画によれば、表通り(銀座通り)の銀座4丁目の服部時計店からキリスト教関係の本を扱う教文館の間の焼け跡から工事に着手。カフェや露店はすべて裏通りに移転させる。柳はいったん切り倒して、来春改めて植樹する。1丁に3個の割合で、通りの東側だけに点灯していた街路灯は、西側にも同様に設置し、通り全体を明るいイメージにする。「当面は5か年計画だが、将来的には、名実共に本格的な商店街として『新生日本の銀座』をデビューさせる」と、同連合会の意気込みを伝えている。

復興の青写真

  • 1945年10月4日付け読売新聞朝刊から

 「銀座通りの大御所」とされる服部時計店の土方支配人のコメントは、銀座の復興の青写真を明確に示していた。

 「今の銀座は露天商人が幅をきかせて『公然闇市場の状態』である。古びた五月人形がどこからか持ち出され、進駐軍の将兵が競って買っている。こんなことでは(よくない)影響も考えられるので、1日も早い復興が求められる。将来の銀座は、大手の土地開発会社により最新のビルディングが建ち並ぶことになるだろう。ビルの1階が商店、2階以上が事務所で、一流の専門店が軒を連ねなければならない。観光客が銀座へ行けば、あらゆる支度ができる場所にしていきたい。表通りには家族連れが行く高級レストランを作る。まずは商品が出そろうまでは、進駐軍の土産物を主体とした店でやっていくのが、銀座復興の第一歩である」

 この記事の隣には、新宿に登場した日用品マーケットの話題が掲載されており、その対比が興味深い。新宿では、復員した兵隊ら素人が50人ほど集まって、セルロイドの洗面器からフライパンまで日用品を正札付きの価格で売り出し、闇市に対抗していた。

 1945年10月4日付けの紙面では、「銀座復興~まず発掘から」の見出しで大きな写真が掲載された。5月の大空襲以降、がれきのまま放置され、雑草が伸び放題だったところを発掘してみると、戦災前のタイル張りの床が現れてきたというのだ。写真は、銀座通り沿いの御木本真珠店(2014年12月5日の本欄で紹介)や十字屋楽器店の発掘現場である。「アメリカの新聞は、東京特派員電で、早くも銀座復興の話題を伝えていて」、注目度が高い。しかし、物資不足の日本がそれほど早く立ち直れるものかと懐疑的な論調なので、「工事を引き受けた大倉組もうかうかしてはいられまい」と、クギを刺している。ちなみに、大倉組は、現在の大成建設である。

われらが銀座を建て直せ…日本人のバイタリティ

  • (左)銀座3丁目の銀座松屋の裏手にある「はち巻岡田」 (右)屋号の「はち巻」が印象的です
  • 鉢巻きをきりりと結んだ初代の主人の写真が店内に飾られている

 1945年10月の新聞広告で目を引くのが、帝国劇場における、6代目尾上菊五郎一座による『銀座復興』上演であった。

 原作は、永井荷風門下で、慶應義塾の学生時代から銀ブラに親しんだ作家、水上瀧太郎。1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した銀座の街を復興するため、人々がいかに立ち上がったかを、料理屋「はち巻岡田」の主人をモデルに書いている。太平洋戦争末期、久保田万太郎が戦災で荒廃した東京に重ねて脚色。敗戦直後に舞台化され、人気を博した。復興に向けての当時の日本人のバイタリティに共感する人は多く、2011年の東日本大震災後、再び話題になることが多かった。

 「はち巻岡田」の店の入り口には、「復興の魁は料理にあり、滋養第一の料理ははち巻にある」というスローガンが貼られていた。銀座一帯が廃墟だった真ん中にトタン屋根の小屋のような飲み屋を建て、すいとん時代を尻目にかけて、刺身で飲ませた。主人については、「年がら年中豆絞りの手ぬぐいではち巻をしているのは、むしろ気障でもあった」「仏頂面で愛嬌のないかわりに嘘もない」などと描かれている一方、女将さんの柔らかみのある客扱いを「亭主のぶっきらぼうをかばっている」などと紹介している。

 この「はち巻岡田」は実在していて、いまも銀座で3代目が営業している。現在の場所は、銀座松屋の裏手にある「野の花」(本欄の2009年5月22日付けで紹介)の隣りである。

 カウンターでは、3代目の温厚なご主人が、にこにこしながら応対してくれた。「初代は、そんなに愛想がなかったのですか?」と尋ねてみた。残念ながら、生まれた時には他界していて、おじいちゃんの個人的な思い出はないそうだ。「でもね、いつも鉢巻きを離さず、それがトレードマークになってお客様に愛されていたと聞いています」。

 名物は、鶏肉のスープに白髪ネギとショウガを加えた「岡田茶わん」、熱々の甘い味噌でいただく「栗麩田楽」、ぷりぷりしたエビが入った「揚げしんじょ」の3品。この3つについては、初代のレシピをしっかり守っているそうだ。

  • 名物の「岡田茶わん」
  • 栗麩田楽
  • 揚げしんじょ

 2階の個室には、山口瞳の直筆原稿が飾られていた。「鉢巻岡田の鰹の中落ちを食べなければ夏が来ない。鉢巻岡田の土瓶蒸しを食べないと私の秋にならない。鉢巻岡田の鮟鱇(あんこう)鍋を食べなくちゃ、冬が来ない」と、同店の料理を絶賛している。

 水上の「銀座復興」では、銀座についてこんなことが書かれている。「銀座は、銀座病の人々にとって、我が家の外の我が家であり、東京の人間の共同の庭でもあった。それがいつまでも焼土の原のままでは生活の一面に空隙が出来たに等しく、殊に夕方の心の寂しさはたとえるものがなかった」「人々よ、われらが銀座を建て直せ、一日も早く建て直せ、この災害をいい機会として、道路を拡げ、電車を追い払い、電柱を地下に葬り、堅牢にして美しい家を揃え、並木を植え、以前にまさる帝都の公園としろ、心をあわせて復興しろ」……。銀座を思う人々の強い気持ちは、敗戦後の1945年秋の銀座においても、脈々と受け継がれていたに違いない。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)