2012年12月アーカイブ

2012.12.28

明治の生活、克明に…銀座の職人(最終回)

  • 約30年ぶりに復刻された「明治の銀座職人話」

 11月に読売新聞夕刊で連載した「銀座の職人」を11月23日付けから5回に渡り、小欄に再録した。そこでも記したが、東京・銀座は、明治5年(1872年)の大火をきっかけにモダンな町並みに生まれ変わるまで、木造平屋の古い長屋が連なる「職人の町」でもあった。(やり)屋町、弓町、紺屋町、鍋町など旧町名に名前をとどめているように、様々な職人が集住していたのである。

 大火をきっかけに煉瓦街が建設され、明治政府の文明開化政策に後押しされて、銀座はまったく新しい街に生まれ変わったという印象が一般的には強いのではないだろうか。確かに、当時の新聞や錦絵を見ると、円柱とバルコニー、ガス灯、街路樹、鉄道馬車、洋装の官員・貴婦人など、時代の先端を行く街の様子が描かれている。

 では、それまでの銀座はどうなってしまったのだろうか。明治時代の職人の話を知りたいと文献を探していたら、「明治の銀座職人話」(青蛙房)が約30年ぶりに新装版として復刊されていることを知った。それによると、当時の銀座人の多くは、依然として職人的な仕事をしていて、変化を受け止めながらも、さして江戸時代と変わらない生活をしていたようである。

 編著者は、東京・中央区の統括文化財調査指導員の野口孝一さん(79)。野口さんの著書「銀座物語」(中公新書)には、銀座の歴史を調べる際に今までも随分お世話になっている。

段ボール1箱分のメモ

  • 東京・中央区の統括文化財調査指導員、野口孝一さん

 「明治の銀座職人話」は、銀座4丁目で天保元年(1830年)創業の葛籠(つづら)屋、秋田屋5代目、浅野喜一郎さんのメモをもとに編集されている。浅野さんは、明治31年(1898年)に銀座で生まれ、泰明小学校を卒業してすぐに家業を継ぎ、以後店を閉じる昭和35年(1960年)まで、ずっと銀座の職人として過ごした。メモを書き留めたのは70歳前後の数年間。だいたい明治36年から大正初めを振り返り、幼い頃の思い出に始まり、銀座の商売や生活、街並みや風俗が克明に記録されていて興味深い。

 浅野さんは1978年に81歳で亡くなられる。野口さんは、ふとした縁から浅野さんのご遺族からメモを入手することになり、内容は断片的ではあるが、当時の証言として貴重なものも多々含んでいるので、書物にまとめることにした。

 折り込み広告の裏などを利用して書かれてたメモは、段ボール1箱分ほどもあった。「メモは、驚くべき記憶力に支えられていました。感傷におぼれず、素朴でそれでいて丁寧な文章でした。書物にまとめる際も、メモの体裁をそのまま生かしつつ、足りない部分を文献や関係者に当たって私が補筆することにしました」と、野口さん。

 東京・銀座について書かれた本はたくさんあるが、その多くは文献に頼り、または外からの観察で、銀座に生まれ銀座に育った人の証言というのは意外に少ないのだそうだ。

 「繁華な表通りから一歩入った横町や路地裏の住人の生活を観察していたのが、浅野さんでした。明治の銀座を通して見た東京庶民生活史として位置づけられると思います」と、野口さんは解説する。

 たとえば、銀座通りの街並みを紹介する章をたどってみよう。

ぶっきら棒な棒屋に金払いの渋い財閥…

  • 読売新聞社があった銀座1丁目西側角は現在都市銀行の支店などが店舗を構える。谷沢鞄店は健在
  • 越後屋呉服店は1階に店舗を残し、テナントビルに改築。緑に包まれた入り口がまぶしい

 銀座1丁目西側角にあった読売新聞社についての記述から始まる。煉瓦造りの2階建てだが、バルコニーはなかった。以前は上州佐野藩出身の西村勝三のハイカラな洋服屋だったが、西村はメリヤスや軍靴の製造など手を広げていて、洋服屋はうまくいかなくなり、新聞社に譲ったらしい。現在この場所には、都市銀行の支店が店舗を構えている。読売新聞社はやがて西紺屋町の現在百貨店プランタン銀座がある銀座3丁目に移った。

 読売新聞社の裏手には、天秤棒、太鼓のばち棒など棒と名の付く物はなんでも取りそろえた棒屋があったそうな。「さすが棒屋で、客に対してぶっきら棒であった」などと記されている。読売新聞社隣には、京橋勧工場。洋品、小間物、袋物、おもちゃなどを売っていた。「盆暮れの大売り出しのときには、通りに面した2階バルコニーで楽隊や喇叭(らっぱ)や太鼓を囃し立て、にぎやかに景気をつけていた」という。

 1丁目から4丁目へ、谷沢鞄店、越後屋呉服店、明治屋、大倉ビル、十字屋楽器店、三枝商店、教文館、御木本真珠店、服部時計店、松島眼鏡店、伊東屋文具店など、今も残る商店名が登場する。

 大倉ビルの所有者大倉組は、新潟出身の大倉喜八郎氏が率いる財閥。明治維新の動乱期に鉄砲や弾薬の売買で大もうけした。浅野さんの秋田屋のお得意でもあったらしい。「11円の請求書を持って行っても、払うのは9円50銭。負けるのが当たり前だろうと言わんばかりで、職人を軽く扱った」と、少々腹立たしげに記している。

野心に燃え商才発揮

  • 銀座4丁目の服部時計店は現在も銀座のランドマーク
  • 文房具の伊東屋は今は海外ブランドのブルガリとティファニーにはさまれています

 明治時代の銀座には、ユニークな店主も少なくない。2丁目にあった岸田吟香(ぎんこう)の楽善堂薬局もその一つ。息子は、「麗子像」で知られる岸田劉生である。蘭学塾緒方洪庵に学び、わが国最初の民間新聞「海外新聞」を発行したり、明治7年(1874年)の台湾出兵の時、東京日日新聞の記者として最初の従軍記者となって戦況を速報したり。新聞界の草分け的存在だ。眼を病んで、横浜のヘボン博士の治療を受けた縁で、ヘボン博士から目薬の製法を伝授され、それを製造して(せい)き(※金へんに奇)(すい)として売り出し、薬局は大変繁盛したという。

 もう一人、文房具の伊東屋の隣にあったのが、「天狗煙草」で有名な岩谷商会。店主の岩谷松平は銀座の奇人の一人に数えられていた。薩摩藩の出身、西南戦争で焼け出され、薩摩屋という店を出し、薩摩(かすり)を売った。明治17年(1884年)頃、たばこ製造を始め、紙巻きの「天狗煙草」を売り出す。銀座の店頭に丸に十の字の商標と、畳一畳ほどもある天狗の面を飾り、当時珍しかった新聞広告で景品付きの販売を宣伝。コーポレートカラーを赤一色で統一し、自ら赤いコートを身にまとって「大安売りの大隊長」と名乗って、赤い馬車に乗って宣伝カーよろしく銀座の街を宣伝して回ったようだ。「絣の筒袖に兵児帯(へこおび)姿で、毎晩店頭で演説していた」との浅野さんの記憶が記されている。

 「変化のある明治の銀座には、一攫千金を夢見て、野心に燃えた人が集まってきたのでしょう。個性のはっきりしている主人が多くて、興味は尽きません。江戸時代の銀座の歴史についてももう一度掘り起こし、銀座通史を完成させたい」と、野口さんは語っていた。

 今年も銀座を中心にした話題(ときに脱線しましたが)にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。来年は1月11日にスタートしますので、引き続きご愛読ください。では、よいお年を!

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.12.21

シェービング、90年の技…銀座の職人(5)

 「1本そり残したひげが気になって眠れなかった」。朝から駆け込んでくる客がいる。丁寧にそり直すと、「これで一日気持ちよく働ける」と満足そうに帰っていくそうだ。

  • 永峰編集委員の顔をそる米倉満さん(東京・銀座の「理容米倉」で)=上甲鉄撮影

 女性の私にはわからないが、床屋さんのシェービングはたいそう気持ちがいいのだろう。男性に独り占めさせておく手はないと、数寄屋橋近くのショッピングセンター2階の「銀座 米倉理髪店」4代目、米倉満さん(68)を訪ねた。

 山梨の農家育ちの祖父が13歳で上京、10年の年季奉公を経て開業したのが、現在の銀座5丁目にあった築地精養軒ホテルの中。大正初めに最新式の回転いすを導入、流行のオールバックが人気で繁盛した。関東大震災で店が焼けた後の仮店舗以外はずっと銀座で営業し、創業90年を超える。

 男性のひげそりと違って、女性は軟らかい産毛をそる。厚みのある本刃のレザーを鹿革で研いで使う。

 乾燥タオルを枕あてに、まず、湯に浸したブラシでせっけんを泡立て顔に塗る。なんだかこそばゆい。蒸しタオルで顔全体を包み、まぶたや頬をギュッギュッと押す。「もむように拭き取ると、皮膚が柔らかくなって、レザーの抵抗が和らぎます」と、米倉さん。

 再びせっけんの泡に包まれ、そりに入る。頬、あご、鼻の下、下唇の下。刃物が顔の上にあるのを忘れてしまうくらい軽やかだ。細部のそりが終わると、クリームを塗ってマッサージ、ローションで引き締め、パウダーで仕上げ。料金は6000円から。モーツァルトが流れる心地よい空間で約1時間。ついうとうとしてしまった。

 「皮膚に当てる前に刃を湯につけて、肌の温度に合わせます。余計な力を逃がして、丸く柔らかく刃を滑らせるのがコツ」。いくつか極意があるようだ。

 それにしても、タオルを使う量が半端でない。1人につき最低15枚。糸の太さや重量などを細かく指定してメーカーに特注する。

 「タオルはお客様とのコミュニケーションの道具。タオルを替えることで、次の施術に移りますのでよろしくと、メッセージを送っているんです」

 そって数時間たっても爽快さが残る。翌日の化粧ののりがよくなったことは言うまでもない。

 「一流のお客様を満足させる銀座の床屋」。祖父から父へと受け継がれる矜持(きょうじ)が原動力でありプレッシャーでもある。

 「惰性に流されず、毎日が開業日のつもりで励む」。祖父の声に耳を澄まし、今日も客を迎え入れる。

 銀座 米倉理髪店

 東京都中央区銀座5―1 銀座ファイブ2F

 03―3571―1538

 午前9時~午後6時

 日祝が定休日

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 2012年11月20日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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2012.12.14

仕立ての基本、祖父から…銀座の職人(4)

 明治5年(1872年)の太政官布告で、男性の洋服が正装として採用された。文明開化のショーウインドー的役割を担っていた銀座には、かつて500近い注文紳士服の仕立屋があったといわれる。

  • 渡辺新さんから生地の巻き方を教わる永峰編集委員(東京・銀座で)=富田大介撮影

 「減ってきたとはいえ、今でも50以上残っている。日本の中で断トツです」と、老舗テーラー「壹番館(いちばんかん)洋服店」の3代目、渡辺(しん)さん(46)は言う。歴代の顧客リストには、北大路魯山人や藤田嗣治ら芸術家のほか、政財界のVIPが並ぶ。

 祖父の実さんが創業したのは、昭和5年(1930年)。長野の生家は呉服店。商いが思わしくなく、東京・赤坂の親戚の洋服店に奉公した。そこで目にした、英国製生地で仕立てた鹿鳴館時代のフロックコートに一目ぼれ。独立したら銀座に店を開く決心をする。

 「目新しい一流品を求めて一流の人が来る銀座で成功すれば、日本一のテーラーになれる、と。銀座の地になぜこだわるかを祖父からよく聞かされました」

 仕立ての工程は昔と変わらない。生地やスタイルを選び、ベテランの職人が2人がかりで採寸、店内の工房で縫い上げる。あらゆる角度からからだ全体が映せる五面鏡を前に、仮縫い、中縫いが速やかに進む。

 渡辺さんは大学卒業後、イギリスとイタリアで洋服作りを学んだ。経営者であると同時に、仕立て職人でもある。

 「基本の仕事は何ですか?」と聞くと、「まず掃除です」。早朝6時から2時間、店舗を構える9階建ての自社ビルを一人で掃除する。その後出勤してきた従業員とともに、数寄屋橋までの1ブロックを掃き清める。「銀座の街にはお世話になりっ放しだから当然のこと」と言う。

 テーラーにお邪魔したのだから、生地に触れる仕事を体験したい。「では、巻いてみますか?」

 生地の縦糸と横糸がまっすぐ通っているかチェックしながら、巻き板に生地を巻き付ける作業。何枚も同じことを繰り返す。

 「これをやらないと、通気が悪くなって生地が風邪を引くんです」。基本中の基本の仕事を大切にすることも、祖父から教わった。

 「職人の概念は進化していると思う。熟練の技できちんとした手仕事を仕上げるのは当たり前。顧客の趣味や流行感覚などを把握し物作りに情報やサービスをいかに盛り込んで付加価値を高めるか。試されているのではありませんか?」

 茶の湯、三味線、陶芸。趣味人としての引き出しを増やすことにも熱心だ。

 壹番館洋服店

 東京都中央区銀座5―3―12 壹番館ビル1F

 03―3571―0021

 午前10時~午後7時(日曜・祝日は午前11時~午後6時)

 火曜定休

 http://www.ichibankan.com/

(読売新聞編集委員・永峰好美)

2012年11月19日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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2012.12.07

経験が彩る和のスイーツ…銀座の職人(3)

 江戸開府以来、将軍や大名らの生活を支えるため、銀座には諸国から様々な職人が集い、職人町を作った。鎗屋(やりや)町、弓町、紺屋町、鍋町など、旧町名には名残がみられる。

  • 中村良章さん(左)に細工菓子の作り方を学ぶ、永峰編集委員(東京・銀座で)=米山要撮影

 歌舞伎座に近い、木挽(こびき)町もその一つ。昔この一帯は海辺で、船から木材を運んでいた。江戸城修築の時、大鋸(おが)で木材をひく職人を住まわせていたことから名付けられた。

 手入れの行き届いた鉢植えの緑に誘われて路地に入ると、和菓子の「木挽町よしや」がある。

 店主の中村良章(よしあき)さん(63)は、銀座生まれの銀座育ち。金沢の農家出身の父親は14歳で家出し、上京して一旗揚げようと、銀座の老舗和菓子店で修業を重ね、当地に菓子工房を開いた。機械いじりが好きで大学で機械工学を学んだものの、父の希望で家業を手伝うことに。随分と繁盛したが、バブル崩壊後は商売が先細り。大工仕事をして食いつないだ時期もあった。

 「銀座で開いたおやじの夢を消すまい」と頑張って、12年前、工房跡に「よしや」をオープンした。客自らがデザインする焼き印を押して、オリジナルどら焼きを作るのが当たった。

 本来得意なのは上生菓子と聞き、教わることにした。練りきりで作るミニチュアサイズの果物かご飾りは、「日本の技」として、ニューヨーク・タイムズ紙でも大きく紹介されている。

 白あんにぎゅうひを混ぜて彩色した生地を指でちぎり、大ぶりの梅干し大に丸めて果物にする。粘土細工と同じで楽しい。私は上出来と思うのだが、いびつだ、しわが寄ったなど、中村さんの合格印がもらえず、何度もやり直し。特に難しいのはクリとモモ。先端の自然なとんがりが作れない。

 リンゴやナシには、先を削った割り箸でくぼみを作り、刻んだ昆布の軸をあしらう。ミカンの表皮のつぶつぶは楊枝(ようじ)でつつき、ナシのざらざら感は小粒の上南粉(じょうなんこ)をまぶして表す。

 モモには、表皮の色の変化を出すため、食紅を水に溶かして霧のように吹きつける。ストローの先にガーゼをかぶせて輪ゴムで留めた道具は手作り。強く吹くと、真っ赤に染まるし、弱すぎると表情が出ない。「吹きの技は40年」といわれるくらい、奥が深い。

 仕上げに、水あめを混ぜた寒天でつやを出す。「何度くらいが適温ですか?」と聞くが、「測ったことないからわからない。寒天が『さあ、どうぞ』と呼びかけてくる頃合いを待つ」

 幾度も鍋を焦がし、試行錯誤で見つけた経験値こそ、職人の宝なのだろう。

 木挽町よしや

 東京都中央区銀座3―12―9

 03―3541―9405

 月曜~金曜は午前9時~午後7時(売り切れ次第終了)

 土曜は不定休(来店の際は要確認)

 日曜・祝日は定休日

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 2012年11月15日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)