2012.11.16

銀座で花開いたカフェー文化

  • 中央区立郷土天文館で開催中の「ふたつの銀座復興」(25日まで)
  • 味の銀座オンパレード(1932年)※1

 東京・銀座が日本を代表する繁華街へと発展する過程を社会風俗の面からたどった興味深い催し「ふたつの銀座復興~文明開化とモダン文化」が、中央区立郷土天文館で開かれている。

 近代における銀座は、明治5年(1872年)の大火による焼失と、大正12年(1923年)の関東大震災による罹災、昭和20年(1945年)の戦災による焼失といった3度の惨禍に見舞われた。

 いまの銀座の繁栄の原点ともいえる銀座煉瓦(れんが)街が建設されたのは、明治5年の大火の後。西欧風の街並みにふさわしい商店や飲食店、最先端の情報を発信する新聞社や通信社などが誘致された。

 関東大震災では壊滅的な打撃を受けつつも、銀座はいちはやく復興を遂げ、その過程で百貨店が進出、地下鉄などの交通機関が整備されるなど、地元商店街の繁栄を促した。

 今回の催しは、明治初めと大正末期から昭和初期の2つの復興に焦点を当てている。

 注目ポイントは様々あるが、ここでは、銀座におけるカフェー文化の展開について紹介したい。

文士や画家に愛され、作品にも

  • カフェー・ライオン(「銀座」大正14年6月号より)※1
  • カフェー・タイガー ※1

 明治の末、洋行帰りの学者や文学者、画家らが、パリやロンドンの香りを求めて銀座周辺にやって来た。東京に初めてフランス風カフェーらしいバーを兼ねたレストランが登場したのは、1910年(明治43年)。日本橋小網町の日本橋川沿いに開店した「西洋料理メゾン・鴻ノ巣(こうのす)」で、宵のひととき、街角のカフェーにたむろして議論にふけるフランスの象徴派詩人のライフスタイルにあこがれる文学青年たちでにぎわった。

 翌1911年、フランス帰りの画家、松山省三が「カフェー・プランタン」を日吉町(現銀座8丁目)に開店。続いて、「カフェー・ライオン」が尾張町新地(現銀座5丁目)に、「カフェー・タイガー」が尾張町1丁目(現銀座5丁目)に、相次いでオープンした。カフェー文化の幕開けである。

 カフェー・プランタンは、銀座に西欧風にぎわいを求めてやって来る文士や画家たちからたいそう愛された。コーヒーは、横浜のイタリア人の店から特別にブレンドしたものを仕入れ、ウイスキーやブランデーにとどまらず、高価なリキュール類をそろえた。

 その一端は、明治44年6月号の「三田文学」に発表された「Au Cafe Printemps(オー・カフェ・プランタン)」と題する作品からも伺える。

 「カッフヱー・プランタンのばら色の

 壁にかけたる名画の下

 芝居帰りの若き人々の一群が

 鉢物の異国の花の香に迷ふ

 異国の酒の酔心地。」

 作家の名前はないが、永井荷風の作といわれている。

「女給」映画化で小夜子の出勤日に看板

  • 「銀座の柳」で知られる「東京行進曲」 ※2

 一方、カフェー・ライオンは、女給を置いて有名になった。同じ年、ブラジル移民事業に携わった水野龍が南鍋町2丁目(現銀座7丁目)に、ブラジル・サンパウロ州政府の協力を得て「カフェー・パウリスタ」を開くが、こちらは、女給をおかず、男性の給仕が接客する店であった。

 大正デモクラシーの風潮と第一次世界大戦景気に後押しされて、大正から昭和初めにかけて多くのカフェーが登場する。関東大震災後の復興の過程では、関西から大衆化したカフェーの参入もあり、カフェー全盛時代を迎えることになる。

 廣津和郎が1931年(昭和6年)に中央公論社から出版した小説「女給」は、カフェー・タイガーの女給、山口須磨子をモデルにしている。幼な子を田舎に残して上京し、「女給! 何といふイヤな言葉でせふ」と思いながらも真摯に働く小夜子の半生として描かれる。映画化されて知られるようになり、実際に本人の出勤日には、「小夜子来店中」の看板が掛けられたという。

♪ジャズで踊って リキュルで更けて

  • 廣津和郎著「女給」(1931年、中央公論社)※2

 銀座を主題とした流行歌も、関東大震災後に急増する。「昔こいし 銀座のやなぎ」の西条八十の歌詞で知られる「東京行進曲」は、1929年(昭和4年)に封切られた同名の映画の主題歌。「ジャズで踊って リキュルで更けて」と、当時の粋な銀座の社交場を描いている。そもそもは、昭和3年6月から同4年10月まで、大衆娯楽雑誌「キング」に連載された菊池寛の小説である。

 婦人雑誌などで人気の作家、久米正雄は、文壇の社交家としても知られている。展示では、銀座のカフェーや飲食店、その他商店などから彼に送られてきたダイレクトメールが数多く展示されているのが興味深い。

 たとえば、銀座の料亭「花月」を盛り上げようと、有志が集まって組織した食事会「二十八日会」の案内状(1931年)。「日本一の花月のすき焼き」といったメニューが読み取れる。世話人には、久米のほか、画家の松山省三や和田三造、歌舞伎役者の初代市川猿翁らが名前を連ねた。

 木挽町4丁目にあったサロン「エロス」が「バー 街の灯」として再開する挨拶状には、「泣いても笑っても、(わか)ってみたところで、さてどうにもならない、どう仕様のないお気持ちをおもてあましの折には、ぜひ山田順子をお忘れなく」とある。山田順子は、徳田秋声の「仮装人物」のモデルで、竹久夢二とも浮き名を流した女性という。

円本ブームから雑誌も活況に

 それにしても、決して安くはないカフェーなどの社交場に、文士たちはなぜ毎日のように出没できたのか。

 和光大学表現学部の塩崎文雄教授は、「改造社が刊行を始めた現代日本文学全集をきっかけに1冊1円の円本ブームが広がり、昭和の初め、印税収入が一気にはね上がって懐が潤った作家が増えたため」と、指摘する。

 たとえば、永井荷風は「断腸亭日乗」に、「昭和三年六月二十四日 税務署より本年の所得金額金二万六千五百八十円との通知書来る」と記している。サラリーマンの月収が50-100円といわれていた時代、これは破格の収入だった。

 円本の波及効果は、1924年に大日本雄弁会講談社(現在の講談社)が創刊した雑誌「キング」などにも及んだ。菊池寛の「東京行進曲」が連載されていた1928年には、最高発行部数の150万部を記録している。

 多様な側面をもつ銀座において、カフェー文化もまた、一つの特徴的な「顔」であったに違いない。

 同展の関連企画「中央区民カレッジ オープンカレッジ・シンポジウム」は、11月18日(日)午後1時半から、東京都中央区明石町12番1号の中央区保健所等複合施設内・教育センター視聴覚ホールで。陣内秀信・法政大学教授の司会で、評論家の川本三郎さん、中央区統括文化財調査指導員の野口孝一さんらが、銀座復興について語る。入場無料。区民以外の参加も可。

 ◆郷土天文館「タイムドーム明石」第14回特別展

 「ふたつの銀座復興~文明開化とモダン文化」

 25日まで

 午前10時~午後7時

 無料

 月曜休館

 ◆中央区ホームページ

http://www.city.chuo.lg.jp/

(読売新聞編集委員・永峰好美)

※1 ギンザのサヱグサ社史編纂資料室提供

※2 中央区立郷土天文館提供

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)