2012年11月アーカイブ

2012.11.30

シェーカーの音色に酔う…銀座の職人(2)

 白いバーコートをまとったダンディーな保志(ほし)雄一さん(55)がカウンターに入ると、一瞬にして場が華やぐ。シェーカーを構えた立ち姿は背筋がぴんと伸びて美しい。数寄屋橋近くの「BAR 保志」をはじめ東京・銀座で4店舗を展開するオーナーバーテンダーだ。

  • 保志雄一さん(右)にシェーカーの振り方を教わる永峰編集委員(「BAR 保志」で)=田村充撮影

 バー文化が銀座に根付いて100年といわれる。大正から昭和初めにかけてはカフェー全盛の時代。「一杯のカクテルに三十分の沈黙を続ける。いろいろな思想が流れて来る」と、劇作家の小山内薫は当時の雑誌に記している。

 「銀座には一流の方が集まるので、適切な会話ができる程度の教養は必要ですかね。それとなくお客様の様子を観察して、酒の濃さや温度など加減しています」と、保志さんは言う。

 会津若松の出身。専門学校時代にアルバイトで、宇都宮の名店「パイプのけむり」で働いた。多くのカクテルチャンピオンを輩出している伝説のバーだ。店主の大塚徹さんに鍛えられ、1989年日本一に。「社交の世界で日本一の銀座で勝負をかけよう」と、上京。銀座の名店を渡り歩き、2001年、国際大会で優勝、世界一のバーテンダーに上り詰めた。福島を元気にしようと、来月、銀座以外で初めて会津に新店を開く。

 カクテル作りの醍醐(だいご)味はシェーカーを振ること。「格好よく振るコツ、教えてください」とお願いした。

 世界一に輝いたオリジナルカクテル、ピンク色の「さくらさくら」を作る。ドライジンにピーチとサクラのリキュールなどを加え、氷を入れて親指でふたを押さえる。中指と薬指でシェーカーをはさみ、もう片方の中指で底を支える。胸の少し上で構え、斜め上、手前、斜め下、手前の順に。徐々にスピードを上げて最後は静かに止める。

 15分ほど練習したら、「なかなかいいじゃないの」とほめられた。だが、保志さんの職人技と違うのは、シェーカーから奏でられる音だと思った。小刻みに回転する氷、空気を取り込み泡立つ液体……。それらが混ざり合い、軽快なドラムソロのように響く。私の場合は動きに滑らかさがなくて、雑音にしか聞こえない。

 ステア(かくはん)は混ぜるだけなので簡単と思いきや、バースプーンを素早くかつ静かに回転させないと、氷が傷ついて水っぽくなる。「意外に難しいでしょ。僕は器用だからすぐできちゃったけれどね」と、保志さんはにやりとした。

 「好きこそものの」と思っていたけれど、酒は味わうだけにしておこう。

 BAR 保志

 東京都中央区銀座6―3―7 AOKI TOWER8F

 03―3573―8887

 月曜~金曜は午後6時~翌午前3時

 土曜・日曜は午後6時~翌午前1時

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 2012年11月14日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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2012.11.23

ミシン一心、足元に粋…銀座の職人(1)

 伝統と品格を保ちながらも、日々変化を受け入れ、進化を続ける東京・銀座。明治5年(1872年)の大火をきっかけにモダンな町並みに生まれ変わるまでは、木造平屋の古い長屋が連なる職人の町だった。銀座に生きる職人を訪ね、その技の一端を体験した。

  • 足袋職人の大橋浩二さん(右)から足袋の仕上げを学ぶ永峰編集委員(東京・銀座で)=安斎晃撮影

 銀座3丁目交差点から歌舞伎座方面に歩くと、ミシンに向かう職人の姿がガラス戸越しに見える店がある。

 「むさしや足袋店」。古びた木枠のショーウインドーに、白足袋に交じって江戸小紋の粋な色足袋が並ぶ。1874年(明治7年)創業で、店主の大橋康人(やすんど)さん(78)は4代目。上がり口脇で一心にミシンを踏むのは、弟の浩二(ひろじ)さん(75)。2人ともこの道50年以上のベテラン職人だ。

 足袋は、和服を美しく着こなすポイントの一つ。私の祖母は「ゆるい足袋ほど野暮(やぼ)なものはない」が口癖だった。靴のサイズよりやや小さめがよしとされるが、無理をすると、指の股や足首が締め付けられて激痛が走る。

 「むさしや」の足袋は、既製品といえども足にしっくりなじむと評判だ。足底のサイズは2ミリ刻み、足幅4種類、甲の高さは2種類そろっている。もちろん、型を作って注文することもできる。「銀座でおあつらえ」のブランド価値は高い。顧客には著名な歌舞伎役者や女優、作家、新橋の芸者衆らがいる。

 「私が若いころは、築地の料亭に通うついでに寄られる政治家も多かった。これ、昭和の宰相、吉田茂さんの型紙。小さくてきゃしゃな足だった」。康人さんは振り返る。

 大橋兄弟の父は新橋で足袋屋を営んでいて、店先が遊び場。おしろいのいい匂いのする芸者衆にかわいがられて育った。康人さんは大学の英語学科に進むが、「手仕事の方が面白い」と2年で辞め、銀座に店をもつ伯父に弟子入り。浩二さんも続いた。

 足袋作りの工程は複雑だ。表地、裏地、底地、こはぜ、かけ糸などをそれぞれ縫い合わせる。つま先は指の収まりを考えて、細かいギャザーを入れて立体的に縫い進める。

 注文足袋はすべて手作り。10か所ほど採寸し、足の特徴をつかんだら微妙に補正しつつ型紙を作る。生地に載せ、包丁と呼ばれる専用刃物でざくざくと裁断。印も付けず、縫い代分は目分量。流れるように曲線を切り出すさりげない手仕事に職人技が光る。

 注文足袋とつま先は康人さん、その他のミシン縫いと仕上げは浩二さんの担当。「粋な装いのわかる人が集う銀座で足袋屋を続けてこられたことは何よりも自慢です」と、2人は胸を張る。

 「仕上げ、やってみますか?」といわれた。つま先などの縫い目を木づちでたたいて柔らかくすると、履き心地が格段によくなる。簡単なようだが、均等にもれなくたたくのは難しい。「もっとリズミカルにできないかなあ」と注文がつき、額に汗がにじむ。

 むさしや足袋店

 東京都中央区銀座4―10―1

 03―3541―7446

 午前8時~午後5時

 日曜・祝日が定休日

 

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

 2012年11月13日付 読売新聞夕刊「見聞録」より

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2012.11.16

銀座で花開いたカフェー文化

  • 中央区立郷土天文館で開催中の「ふたつの銀座復興」(25日まで)
  • 味の銀座オンパレード(1932年)※1

 東京・銀座が日本を代表する繁華街へと発展する過程を社会風俗の面からたどった興味深い催し「ふたつの銀座復興~文明開化とモダン文化」が、中央区立郷土天文館で開かれている。

 近代における銀座は、明治5年(1872年)の大火による焼失と、大正12年(1923年)の関東大震災による罹災、昭和20年(1945年)の戦災による焼失といった3度の惨禍に見舞われた。

 いまの銀座の繁栄の原点ともいえる銀座煉瓦(れんが)街が建設されたのは、明治5年の大火の後。西欧風の街並みにふさわしい商店や飲食店、最先端の情報を発信する新聞社や通信社などが誘致された。

 関東大震災では壊滅的な打撃を受けつつも、銀座はいちはやく復興を遂げ、その過程で百貨店が進出、地下鉄などの交通機関が整備されるなど、地元商店街の繁栄を促した。

 今回の催しは、明治初めと大正末期から昭和初期の2つの復興に焦点を当てている。

 注目ポイントは様々あるが、ここでは、銀座におけるカフェー文化の展開について紹介したい。

文士や画家に愛され、作品にも

  • カフェー・ライオン(「銀座」大正14年6月号より)※1
  • カフェー・タイガー ※1

 明治の末、洋行帰りの学者や文学者、画家らが、パリやロンドンの香りを求めて銀座周辺にやって来た。東京に初めてフランス風カフェーらしいバーを兼ねたレストランが登場したのは、1910年(明治43年)。日本橋小網町の日本橋川沿いに開店した「西洋料理メゾン・鴻ノ巣(こうのす)」で、宵のひととき、街角のカフェーにたむろして議論にふけるフランスの象徴派詩人のライフスタイルにあこがれる文学青年たちでにぎわった。

 翌1911年、フランス帰りの画家、松山省三が「カフェー・プランタン」を日吉町(現銀座8丁目)に開店。続いて、「カフェー・ライオン」が尾張町新地(現銀座5丁目)に、「カフェー・タイガー」が尾張町1丁目(現銀座5丁目)に、相次いでオープンした。カフェー文化の幕開けである。

 カフェー・プランタンは、銀座に西欧風にぎわいを求めてやって来る文士や画家たちからたいそう愛された。コーヒーは、横浜のイタリア人の店から特別にブレンドしたものを仕入れ、ウイスキーやブランデーにとどまらず、高価なリキュール類をそろえた。

 その一端は、明治44年6月号の「三田文学」に発表された「Au Cafe Printemps(オー・カフェ・プランタン)」と題する作品からも伺える。

 「カッフヱー・プランタンのばら色の

 壁にかけたる名画の下

 芝居帰りの若き人々の一群が

 鉢物の異国の花の香に迷ふ

 異国の酒の酔心地。」

 作家の名前はないが、永井荷風の作といわれている。

「女給」映画化で小夜子の出勤日に看板

  • 「銀座の柳」で知られる「東京行進曲」 ※2

 一方、カフェー・ライオンは、女給を置いて有名になった。同じ年、ブラジル移民事業に携わった水野龍が南鍋町2丁目(現銀座7丁目)に、ブラジル・サンパウロ州政府の協力を得て「カフェー・パウリスタ」を開くが、こちらは、女給をおかず、男性の給仕が接客する店であった。

 大正デモクラシーの風潮と第一次世界大戦景気に後押しされて、大正から昭和初めにかけて多くのカフェーが登場する。関東大震災後の復興の過程では、関西から大衆化したカフェーの参入もあり、カフェー全盛時代を迎えることになる。

 廣津和郎が1931年(昭和6年)に中央公論社から出版した小説「女給」は、カフェー・タイガーの女給、山口須磨子をモデルにしている。幼な子を田舎に残して上京し、「女給! 何といふイヤな言葉でせふ」と思いながらも真摯に働く小夜子の半生として描かれる。映画化されて知られるようになり、実際に本人の出勤日には、「小夜子来店中」の看板が掛けられたという。

♪ジャズで踊って リキュルで更けて

  • 廣津和郎著「女給」(1931年、中央公論社)※2

 銀座を主題とした流行歌も、関東大震災後に急増する。「昔こいし 銀座のやなぎ」の西条八十の歌詞で知られる「東京行進曲」は、1929年(昭和4年)に封切られた同名の映画の主題歌。「ジャズで踊って リキュルで更けて」と、当時の粋な銀座の社交場を描いている。そもそもは、昭和3年6月から同4年10月まで、大衆娯楽雑誌「キング」に連載された菊池寛の小説である。

 婦人雑誌などで人気の作家、久米正雄は、文壇の社交家としても知られている。展示では、銀座のカフェーや飲食店、その他商店などから彼に送られてきたダイレクトメールが数多く展示されているのが興味深い。

 たとえば、銀座の料亭「花月」を盛り上げようと、有志が集まって組織した食事会「二十八日会」の案内状(1931年)。「日本一の花月のすき焼き」といったメニューが読み取れる。世話人には、久米のほか、画家の松山省三や和田三造、歌舞伎役者の初代市川猿翁らが名前を連ねた。

 木挽町4丁目にあったサロン「エロス」が「バー 街の灯」として再開する挨拶状には、「泣いても笑っても、(わか)ってみたところで、さてどうにもならない、どう仕様のないお気持ちをおもてあましの折には、ぜひ山田順子をお忘れなく」とある。山田順子は、徳田秋声の「仮装人物」のモデルで、竹久夢二とも浮き名を流した女性という。

円本ブームから雑誌も活況に

 それにしても、決して安くはないカフェーなどの社交場に、文士たちはなぜ毎日のように出没できたのか。

 和光大学表現学部の塩崎文雄教授は、「改造社が刊行を始めた現代日本文学全集をきっかけに1冊1円の円本ブームが広がり、昭和の初め、印税収入が一気にはね上がって懐が潤った作家が増えたため」と、指摘する。

 たとえば、永井荷風は「断腸亭日乗」に、「昭和三年六月二十四日 税務署より本年の所得金額金二万六千五百八十円との通知書来る」と記している。サラリーマンの月収が50-100円といわれていた時代、これは破格の収入だった。

 円本の波及効果は、1924年に大日本雄弁会講談社(現在の講談社)が創刊した雑誌「キング」などにも及んだ。菊池寛の「東京行進曲」が連載されていた1928年には、最高発行部数の150万部を記録している。

 多様な側面をもつ銀座において、カフェー文化もまた、一つの特徴的な「顔」であったに違いない。

 同展の関連企画「中央区民カレッジ オープンカレッジ・シンポジウム」は、11月18日(日)午後1時半から、東京都中央区明石町12番1号の中央区保健所等複合施設内・教育センター視聴覚ホールで。陣内秀信・法政大学教授の司会で、評論家の川本三郎さん、中央区統括文化財調査指導員の野口孝一さんらが、銀座復興について語る。入場無料。区民以外の参加も可。

 ◆郷土天文館「タイムドーム明石」第14回特別展

 「ふたつの銀座復興~文明開化とモダン文化」

 25日まで

 午前10時~午後7時

 無料

 月曜休館

 ◆中央区ホームページ

http://www.city.chuo.lg.jp/

(読売新聞編集委員・永峰好美)

※1 ギンザのサヱグサ社史編纂資料室提供

※2 中央区立郷土天文館提供

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2012.11.02

ホテル西洋 銀座の名作スイーツを振り返る

  • 4代目浦野義也シェフパティシエと対談する平岩理緒さん(左)

 小型で閑静な「スモールラグジュアリーホテル」としてファンが多かった銀座1丁目の「ホテル西洋 銀座」が、来年5月閉館する。小欄の2009年4月10日付でも、同ホテルのきめ細かなバトラーサービスを取り上げたことがあった。

 1987年のホテル創業以来、地下1階で展開されてきたケーキショップも、閉館に合わせて閉店することが決まっている。私は、手みやげといえば、同店の「銀座マカロン」か「大地のブランデーチョコレートケーキ」をよく使っていたので、なんだかとても寂しい。

 先日、現在は販売していない創業当初のスイーツも含め、歴代人気スイーツがずらりとそろうイベント「ホテル西洋 銀座のスイーツ 回顧と展望」が開催されると聞き、のぞいてみた。スイーツファンのためのコミュニティサイト「幸せのケーキ共和国」を主宰する平岩理緒さんが企画した。

 同店の歴史を振り返ると、初代シェフパティシエは「ペルティエ」出身のフランス人、ミシェル・ブローさん。数年後、創業時からミシェルさんの片腕だった稲村省三さん(東京・台東区で「パティシエ イナムラ ショウゾウ」を経営)が2代目シェフに。今年「パティスリー ラ・ローズ・ジャポネ」(東京・葛飾区)を開いた五十嵐宏シェフを経て、2002年に現在の4代目、浦野義也シェフにバトンタッチされた。「スイーツ界でも名門中の名門」(平岩さん)で、在籍経験のあるOBにも現在業界で活躍するパティシエが数多くいる。

創業から受け継がれるレシピ

 最初に、「ホテル西洋 銀座のクラシック」として紹介された伝統菓子は、創業当時からのレシピが受け継がれていて、今でも「食べたい!」とファンからのリクエストが絶えないという3種類。

  • レアチーズケーキ「エベレスト」
  • フランス式ショートケーキ「フレジェ」
  • 大人の味の「オペラ」

  • 「銀座マカロン」は手みやげに最適でした

 四角錐型の真っ白なレアチーズケーキ「エベレスト」。やや酸味のあるフロマージュブランを使ってさっぱりした味わいに仕上げている。中には野いちごのジャムなどが入っている。

  • 秋の味覚の「和栗のマカロン」

 オレンジ色が印象的な「フレジェ」は、イチゴの愛らしい断面が伺えるフランス式ショートケーキ。スポンジの間には、バタークリームとカスタードクリームを合わせたものがサンドされている。「バタークリームに発酵バターを使うのが特徴。好みが分かれるところかもしれないけれど、濃厚でいて風味もよく、食感としてしっかりしているイチゴとの相性がいいので使います」と、浦野シェフ。

 「オペラ」は、ビターなコーヒーシロップをたっぷりしみ込ませたスポンジと、ガナッシュ、コーヒー風味のバタークリームが層になった大人の味。ここでも、発酵バターがアクセントになっている。表面をコーティングするグラサージュショコラは、「金箔を使ってきらきら感がある方が好きなので、創業当初とはちょっと変えました」(浦野シェフ)。

 以上3種類に加えて、「銀座マカロン」も伝統の味の一つとして忘れられない一品だ。稲村シェフが「銀座を代表するお土産になるように」と考案したレシピが、代々受け継がれている。マカロンという菓子自体があまり知られていなかった1990年代に売り出され、その後のカラフルなマカロンブームの素地になった。

 サイズは若干大きめ。薄く艶やかなマカロン生地にはさまれているのは、ラム酒のきいたレーズンとバタークリーム。レーズンウィッチ的なマカロンで、しっとりした食感が特徴的。数多くのマカロンが売られているが、こういうタイプはほかに見たことがない。

モンブランの手絞りが難しく何度も練習

  • 熊本産和栗を使ったモンブラン
  • 伝統のモンブラン
  • 幻のベイクドチーズケーキ

 今回のイベントを企画した平岩さんは、同店のスイーツで特に思い出に残っているものを挙げるとしたら、この「銀座マカロン」だという。

 「濃厚なバタークリームの口溶けのよさ、繊細な生地の食感やラムレーズンの香りの豊潤さなどが魅力です。子どものころ、バタークリームのお菓子はあまりおいしいイメージがなく、こってりしていると思い込んでいましたが、このお菓子に出合ってバタークリームの印象が変わりました。本物の素材を使って丁寧に作られたお菓子のおいしさを教えてもらった一品です」

 「銀座マカロン」をベースに誕生したのが、銀座で採取したはちみつを使った「銀座はちみつマカロン」や季節の味わいを盛り込んだ「和栗のマカロン」などで、こうしたアレンジは、浦野シェフのアイデアである。

 続いて、これもファンが多かった2種類のモンブランが紹介された。秋のスイーツの王道でもある。

 私は、プランタン銀座の「サロン・ド・テ アンジェリーナ」を統括していたことがあって、1903年創業のパリ本店のレシピを守っているアンジェリーナのモンブランがベストだと思っている。さくさくしたメレンゲ、ミルキーな生クリーム、渋皮の入ったこくのあるフランス産のマロンペースト。絶妙な組み合わせで、幾度食べても飽きない。

 だが、浦野シェフが作った熊本産の和栗を使った若干黄色みが強いモンブランを食べて、和栗もまた独特の風味があっておいしいと実感した。

 もう一つ、同店の伝統のモンブランは、すっと上に伸びて、(りん)とした姿が美しいのが特徴だ。濃厚な生クリームとカスタードクリームを合わせて整形し、その上からバラの口金で1筋ずつ覆うようにマロンペーストを絞っていく。「この手絞りが難しくて、失敗を繰り返しつつかなり練習した」と、浦野シェフは振り返る。

 最後に登場したのは、オンラインショップで限定販売していた幻のチーズケーキ。ブリー・ド・モーという白カビチーズを使ったベイクドチーズケーキで、ココット型に入れて焼き、温かいうちにとろとろのところを食べる。塩味がきいているので、ワインと一緒にいただくと、絶品らしい。白カビ部分は取り除いて使うため、手間もコストもかかり、「幻の一品」になってしまったという。「前菜のような感じで食べられる」「バゲットに塗ったらおいしそう」など、様々な感想が聞かれた。

思いと伝統、残してほしい

  • 浦野シェフ思い出の「ブールブラン」

 ちなみに、浦野シェフにとって思い出深い品を挙げてもらうと、業界に入って最初に作ったのがレアチーズケーキで、それをアレンジした「ブールブラン」だそうだ。スポンジ生地の上にふわふわのレアチーズムースをドーム型に仕立て、中に甘酸っぱいレモンクリームをしのばせている。

 イベント当日、テーブルには、オレンジケーキやマシュマロなど、焼き菓子類がセッティングされていたが、外注せずに、すべてホテル内で焼いていると聞き、そのこだわりには驚いた。

 チョコレートでできた箱付きのクリスマスケーキ「銀座の森のプレゼントボックス」(2万5000円)は同店最後のクリスマスケーキになる。ブルーベリーやオレンジなど7種のクリームが層になり、飾り付けも愛らしく、希望がたくさん詰まった一品。限定20個で、すでに予約受付が始まっている。

 平岩さんは最後にこうまとめた。

 「流行の移り変わりが激しい昨今のスイーツ業界で、シェフが代々変わっても、創業以来の伝統的なお菓子の一部が受け継がれてきたことは大変意義あること。ホテルのお客様には、ずっとファンでいたり、親子2代で利用したりといった方たちが多いので、ロングセラーのお菓子が残るのですね。ホテルやショップがなくなってしまうことはとても残念ですが、お菓子を通じて伝えられてきた思いや伝統など、何らかの形で残していってほしいと願います」

  • 焼き菓子もすべてホテル内で焼いていた
  • 最後のクリスマスケーキになる「銀座の森のプレゼントボックス」
  • クリスマスケーキの断面は7種のクリームが層をなして、お見事!
  • ホテルならではの飴細工も見事!

 (読売新聞編集委員 永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)