明治初期の銀座には、寄席の黄金時代があったということを、昭和初期に活躍した東京毎夕新聞社記者の小野田素夢の著書「銀座通」で知った。
煉瓦街ができ、西欧化が進む銀座には、旅の興行師やら
にぎわいの一つとして素夢は、銀座の寄席にも注目している。
銀座4丁目に開店した木村屋パン屋の2階では、パン食PRのために寄席が設けられていたが、「明治7年、
東西の所属団体を超えた「大銀座落語祭」
明治31年生まれのつづら屋職人だった浅野喜一郎氏は、落語好きの父に連れられ、金沢亭に行った幼いころの思い出を「明治の銀座職人話」(青蛙房)につづっている。月20日は通った落語の常連だったようで、圓右、小さん、圓歌、橘之助らひいきの落語家の名前を挙げ、「武家出身の柳家小さんの十八番は『うどん屋』。ちょっと歯切れの悪いところがあるが、それがまた『うどん屋』には打ってつけで、客を笑わせていた」など、具体的に記している。
時代は下り、銀座の街から寄席は消えたが、2004年から5年間、春風亭小朝ら「六人の会」の主催で「大銀座落語祭」が毎年開催された。東西の所属団体を超えて多くの落語家の
そして今年、銀座の街をテーマにした創作落語の連作公演があると聞いて、さっそく演じ手の柳家さん生さんを訪ねた。
55歳になるさん生さんにとって、今年は落語会入りして35年、真打ちに昇進して20年の節目の年。
「3年前から制作の人たちと何をやろうか考えてきました。そして、迷わず銀座をテーマに選びました。富山生まれの私にとって、銀座はあこがれだったし、いつか行きたいと夢見ていた場所でもあります」
柳家さん生の考える「銀座」とは――
「銀座」とは――若者に媚びを売る街が増えている中、大人の街としてでんと構えているところがいい。結構新しもの好きで、柔軟に様々なものを受け入れる許容力がある。でも、だだっこみたいなことをしたら、ぴしゃりと怒られる。そんなイメージという。
銀座に拠点をおく協力者の一人、東京画廊代表の山本
「さん生さんに勧められて、柳家つばめの『創作落語論』という本を読んではっとしました。古典落語は古典芸能ではあるが落語ではない、落語とはその時代の庶民の生活を描くものだというのです。ならば、現代に生きる人が今の銀座を落語にしたら面白いのではないかと、提案してみたのです」
老舗や名店を多く抱える銀座だが、その背後には様々な物語がある。画廊、洋食、和菓子、文房具をお題に、銀座をひもといていこうとの試みだ。
場所は博品館劇場。初日の9月26日は、太神楽師の鏡味仙三郎社中を迎えてトークショー「銀座未来会議」でスタート。27日は画廊篇(ゲストは林家三平)、28日は文房具篇(同国本武春)、29日は和菓子篇(同桂米團治)、30日は洋食篇(同立川志の輔)。脚本は、モーニング娘。などの舞台脚本も手がける劇作家の金津泰輔さんが担当する。
「洋食篇では、一杯のかけそばのような、親子のほのぼのとした思い出が語られて、ぐっときますよ」と、さん生さん。
落語は芝居を超えていると感じた
高校時代のホームステイでシェークスピア劇にはまり、役者を目指して上京。日大芸術学部に進んだが、先輩に連れられて落語研究会をのぞいたところから、目指す方向が変わった。
それからまもなく、10代目金原亭馬生師匠の「お初徳兵衛」を国立劇場で聞いて、「芝居を超えている!」と感じたという。「しゃべりだけで、隅田川の流れ、夕立の音、2人の息づかいなどがすべてイメージできたのですからね」。ほぼ連日の寄席通いが始まり、大学を中途で辞めて、5代目柳家小さん師匠の内弟子に。人情話や長屋ものを得意とする。
「高座に上がって、しゃべっている空気がどこか温かいね、安心するねといった印象を与える噺家でいたいです」と、さん生さんは語る。
落語家は50代からが勝負。まずは還暦まで、ここ銀座の博品館での舞台を続けたいと思っている。「銀座に行くとさん生に会える――いなか者の私にとって、それが続けられたら本望です」
「銀座今昔物語」は、9月26日から30日まで、銀座博品館劇場で。
(読売新聞 編集委員・永峰好美)