2012.08.24

都市デザインの変遷とそれぞれの想い…南イタリアの風(6)

 GINZA通信の夏休み特別企画「南イタリアの風」を始めるにあたり、第1回でシチリア島の「歴史の重層性」について触れた。

 フェニキア文化に始まり、4回目と5回目では、この島におけるギリシャ植民都市の繁栄を物語る遺跡の数々について、かなり詳しくつづってきた。

 繁栄を誇ったギリシャ都市の中でも中心的な役割を果たしたのは、第4回に記した島南東部のシラクーサ。紀元前8世紀に建設され、前5世紀には、アテネと覇権を競い合うほど影響力を拡大した。数学者アルキメデスや詩人テオクリトスはこの街で生まれた。だが、前3世紀、ローマ軍と戦って敗れ、占領下に置かれる。アルキメデスはこのとき、ローマ軍の一兵卒によって殺害されたともいわれている。

 シチリアには、ローマの建築遺構も多い。そして、中世には、州都パレルモを中心に、ビザンツ、イスラム、そしてノルマンの3つの文化がそれぞれに発展・融合、共存し、独特のエキゾチックな雰囲気が醸し出されていく。ルネサンスの時代にはあまり特筆すべきものがなさそうだが、バロックの時代になって再び存在感が増す。

 そうした歴史の重なりを、具体的に見てみよう。

ギリシャ劇場の「借景」

  • シラクーサの大聖堂の正面はバロック様式
  • ギリシャ神殿の列柱間を壁でふさいで、キリスト教聖堂に改造

 丘の上の聖域にあるシラクーサの大聖堂には、この島の歴史が刻まれていて興味深い。大聖堂のもとをたどれば、紀元前5世紀初めに建設されたドーリス式のアテナイ神殿であった。アテネのパルテノン神殿が造られたのは、その数十年後という。このギリシャ神殿が、7世紀、ビザンツ(東ローマ)帝国の支配下に入ると、聖堂に改造されたのだ。

  • タオルミーナからイオニア海を見下ろす
  • 街のどこからでもエトナ山の雄姿が望める
  • ギリシャ劇場。夏の映画祭でスクリーンが視界を遮っていた

 それは、外壁を見ると、一目瞭然。太く堂々とした何本かの列柱の間が壁面でふさがれている。神殿の柱は、壁に埋め込まれるようにして残っている。聖堂になって、建物の向きも東西が逆転。ギリシャ神殿は、神室に安置された神像に朝日が差し込むように東向きに建てられたが、キリスト教会堂は東にアプス(後陣)を配置するので西向きなのである。

 堂内に入ってみよう。大理石の床はスペインの属領時代が始まった15世紀、バロック様式のファサード(正面)は18世紀のものとされている。また、屋根にはイスラム時代の名残もみられる。

 険しいタウロ山の中腹にあるタオルミーナは、今では世界中の観光客でにぎわう景勝地。先住民シクリ族の集落であったところを、前4世紀初め、勢いのあったシラクーサによってギリシャ化された。

 前3世紀に創建されたというギリシャ劇場は、海に突き出た崖の上にある。イオニア海の紺碧の海、さらにその奥にあるエトナ山の雄姿を背景に芝居を見るように計算して造られたものであろう。ギリシャ人にとって演劇や音楽とは、神々に奉納するとの目的があった。

 和辻哲郎は「イタリア古寺巡礼」(岩波文庫)の中で、「その演劇が、蒼い空、青い海、白い山などを見晴らしながら鑑賞せられていたということを(中略)、ギリシア人はこのことを勘定に入れているのである。その証拠は、この劇場の位置の選定で、この場所こそタオルミーナの町のうちで最も眺望のよいところなのである」と記している。

 しかし、現在残る劇場のれんが積み工法を見ると、ローマ人によって改造されたことは明らかだ。ローマ人は剣闘や猛獣ショーや模擬海戦などの見せ物を催す空間に変えた。それゆえ、下界の眺望をさえぎるような高い舞台の壁(今は中央の壁はV字型に崩壊)を造ったりしたのである。

迷宮の街を抜け、シチリアで最も美しい大聖堂へ

 タオルミーナで注目される古代遺跡のもう一つが、ナウマキエ(海戦の意味)の遺構。帝政ローマ時代らしく、煉瓦造りの巨大な構造物が100メートル以上も続く。用途については水道施設など、諸説あるようだ。

  • ナウマキエ(海戦)と呼ばれる遺構
  • ナウマキエの下に広がる階段状の坂道
  • アートな空間もあちらこちらに
  • 街の中を歩く新郎・新婦に皆が祝福の言葉をかける

  • モンレアーレの大聖堂はアラベスク模様の外壁が特徴
  • (左上)堂内の金地モザイクから キリストとグリエルモ2世、(左下)床にはイスラムとビザンツの影響が、(右上)堂内の柱の美しいデザイン、(右下)最期の晩餐

 このナウマキエの下に広がる地区は、階段状の狭い坂道が複雑に巡っていて、迷宮のようで面白い。レストランやカフェ、ギャラリーや雑貨の店など、おしゃれな店が並ぶ。いろいろ立ち寄りながら、やがて旧市街の中心、「4月9日広場」に出るあたりで、結婚式を挙げたばかりのカップルを発見。これから、レストランで披露バーティーをするところだった。

 ビザンツ、イスラム、そしてノルマンの3つの文化が共存した中世、その時代の建物や内部を飾るモザイク画や彫刻に、その痕跡がみてとれる。第1回で紹介したパレルモのノルマン王宮がその典型だが、パレルモの西方郊外にある、モンレアーレの大聖堂にも金地で覆われた素晴らしいモザイク画がある。12世紀にグリエルモ2世によって建造された大聖堂は、「シチリアで最も美しいノルマン建築」とも呼ばれている。外壁には、石灰岩と黒い溶岩石を組み合わせたアラベスク模様が施されている。ちなみに、グリエルモ2世は、初代シチリア国王のルッジェーロ2世の孫にあたる。

  • (上)大聖堂からつながる中庭(下)噴水のデザインもイスラム風

 大聖堂の南側には、修道院に付属する美しい回廊があった。アラブ・ノルマン様式の尖塔アーチを支える細い円柱の柱頭には、ロマネスク彫刻が施されている。一角にある噴水は、椰子の(みき)をかたどり、噴き出す水を葉に見立てたデザイン。サイフォンの原理を応用したものだそうで、アラブ的な要素が見て取れる。

 ビザンツ時代の教会で印象的だったのは、シチリア島からイタリア半島のつま先、レッジョ・ディ・カラブリアに渡り、クロトーネに向かう途中、スティーロという小さな村に立ち寄った時だった。素朴な教会の壁面には、聖書のひとこまを描いたビザンツ時代の絵が残されている。この地帯は、岩窟居住集落として世界遺産に指定されたマテーラに似た田園風景が広がっていた。

  • スティーロの集落
  • (左)素朴なビザンツ教会が残っている、(右)ビザンツの壁画が教会内に残る

バロックの都市空間、ノート

 時代は下る。シチリアには、バロック様式の教会や建物も少なくない。第1回で、パレルモの旧市街中心にあるクワットロ・カンティのことを書いたが、シチリアのバロックを語る上ではずせないのは、ヴァル・ディ・ノートの辺り。

 その中で立ち寄ったノートという街は、シラクーサによってギリシャ化され、中世にも繁栄していたが、1693年の大震災でほぼ街全体が瓦解。古い街を放棄し、16キロほど離れた海寄りの台地にまったく新しく建設されたニュータウンである。丘の上にありながら、地形が緩やかで地震にも強いという長所があったらしい。オランダ人の指導の下、計画的にバロックの都市空間を実現する。

 ニュータウンでの教会の建設には、旧ノートで使われていた装飾された石材などが再利用され、人々の思い出を刻んでいった。日本の震災復興にも参考になるような事例だ。

 街の中心にある大聖堂は、緩やかな大階段の上に堂々とそびえている。両端に鐘楼が配されているのは、フランスからの影響だろうか。その東側に、サン・フランチェスコ教会とサン・サルヴァトーレ修道院があり、やはり階段状の広場がドラマティックな景観をつくっている。

  • (左)ノートの街は美しい建築物でいっぱい(右上)ノートのサン・フランチェスコ教会(手前)とサン・サルヴァトーレ修道院(右下)街の中心にある大聖堂
  • 貴族の館が並ぶニコラーチ通り
  • (上)バルコニーを支える彫刻群は見ているだけで楽しい(下)華麗な彫刻はシチリアのバロックを代表する

 興味深いのは、貴族の邸宅などのバルコニーを支える独創的な造形。大聖堂の西側にあるニコラーチ通りでは、スフィンクスやセイレーンなど、幻想的な彫刻に出会えた。

 自由で開放的な都市デザインのニュータウンもまた、シチリア島の魅力の一つである。

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)