シチリアの旅の見どころと言えば、やはり、美しい自然に抱かれた古代ギリシャ時代の遺跡群ははずせないだろう。
ギリシャ本土の人口が増加し、慢性的な食糧不足に悩まされたギリシャ人たちは、計画的に移民団を組織し、西地中海に入植活動を始めた。紀元前8世紀半ばのことである。行く先は、デルフォイの神託(予言)次第。多くの人々が、新天地に野望を抱き、故国を後にする。
ティレニア海に遠征した人たちが最初に入植したのは、ナポリ湾内に浮かぶ緑豊かなイスキア島のピテクーサ。
続いて、前734年ごろ、シチリア島東岸のナクソス(現ジャルディーニ・ナクソス)に、エウボイア島(エヴィア島)のカルキスの人たちが定住を始めた。天地創造などギリシャ神話に描かれた物語の“編纂者”として能力を発揮したとして知られる人々である。商才にも長けており、島の産物である金属細工や陶器、紫貝で染めた織物などを地中海各地に広めていった。
ナクソスは、イタリアを代表するリゾート地の一つ、タオルミーナから南へ5キロほど。高台に上れば、間近にイタリア半島が望める。今は、家族連れで楽しめる海水浴場として人気がある場所だ。ちなみに、タオルミーナには比較的大きなギリシャ劇場が残るが、こちらはもともとシクリ族という土着民の集落で、ギリシャ化されるのは前4世紀になってからという。
イタリア本土最初のギリシャ植民都市、クーマ
ナクソスへの入植とほぼ同じころ、イタリア本土でも最初のギリシャ植民都市が誕生する。イスキア島に移民した人たちが、海を隔ててちょうど向かい側にある地にキュメ(クーマ)という都市を建設したのだ。キュメとは小アジアの都市の名前で、イスキア島入植者にはその出身者が多かったようだ。
ナポリからこのクーマの遺跡に行く途中には、ソルファターラという、硫気孔が連なる火山地帯ならではの風景が興味深い。むせ返るような硫黄の臭いがあたりいっぱいに立ちこめ、白茶けた石灰岩が黄土色に染まっている。地下のマグマの活動が今も活発に続いていることを教えてくれる。
クーマ遺跡では、台形状の長い長いシビラの洞窟を通り抜けると、アポロン神殿跡に出る。そこからは、イスキア島が間近に望める。ここまで足をのばす観光客はいないらしく、波の音しか聞こえない。
こうして、シチリア島東部沿岸をはじめ、南イタリアのティレニア海およびイオニア海に面した地域(現在のほぼカラーブリア州にあたる)でギリシャ人の入植活動が盛んに行われ、やがて、マグナ・グラエキア(大ギリシャの意味)と呼ばれるようになる。
大ギリシャの首都となったのは、クロトン(現クロトーネ)という都市。イタリア半島のつま先にあたるレッジョ・ディ・カラブリアの北東方向、イオ ニア海に面したところにある。前6世紀、ギリシャのサモス島からクロトンに渡り、医学学校を開設したのがピュタゴラス。いまや、当時の繁栄ぶりは、コロン ナ岬に残るヘラ神殿の一本柱からしか推測することができない。
ギリシャ時代の遺跡を語るにあたって、イタリア半島南部で、もう2か所忘れられない場所がある。
前5世紀に生きたギリシャ人の躍動する姿が今も鮮やかに
ナポリの南、チレント半島沿岸には、前6世紀、小アジアからやって来たフォカイア人が建設したエレア(現ヴェリア)がある。ピュタゴラス派と親交があった哲学者、パルメニデスが活躍した場所で、エレア派と呼ばれた形而上学の発祥の地となった。ここでは、ギリシャ時代の城壁やアゴラ(市民広場)などが発掘されている。
エレアから北へ走ると、パエストゥムに至る。ここに残るギリシャ神殿は圧巻だ。まず、保存状態が素晴らしい。横6本、縦13本の柱を巡らせたドーリス式神殿をはじめ、柱も神室もいけにえを捧げる祭壇も、見事に残っている。
博物館にあった、前5世紀のギリシャ時代の石棺のふたの図は、「飛び込む人」との表題の通り、躍動感がみなぎっていた。
ギリシャ世界で最も美しい街、シラクーサ
さて、シチリア島に戻ろう。
ナクソスやクーマへの入植が始まってしばらくして、ギリシャ・ペロポネソス地方で勢力をもっていたコリントス人が、島南東部にシラクーサを建設する。それをきっかけに、植民市の数は急激に増えていく。
シラクーサは、当時から美しい街であった。「あらゆるギリシャ世界の都市の中で最大にして最も美しい」とたたえたのは、キケロだった。シラクーサの豊かさにひかれてか、プラトンは3度もこの地を訪ねている。
神殿の遺構は、海に突き出た半島のようなオルティージャ島に残る。前6世紀初めにさかのぼるアポロン神殿の遺構で、イタリア半島で最古の石造り神殿の一つともいわれている。
考古学地区には、ギリシャ世界最大級の古代劇場があり、現在も毎年夏の2か月間、古典劇が連日上演されるという。シラクーサはアテネやアレキサンドリアと並ぶ演劇の中心地だったのだ。ちょうど訪問した日は、上演の準備中で、観客席などが覆われていて、趣のある写真が撮影できず、残念だった。
劇場の東に位置するのが、「天国の石切り場」。断層には、ギリシャ時代の地下水道の横穴がみえる。さらに進むと、「ディオニュシオスの耳」と呼ばれる、ロバの耳のような形をした石窟があった。前5世紀末にこの地で権力を手にしたディオニュシオスは、非常に猜疑心が強く、捕虜として捕えたアテナイ兵の内緒話をここに閉じこめて聞いたという。その伝説を知った画家のカラヴァッジョが名付け親なのだとか。
移住先に神殿や劇場を造り続けた意味とは
今回、シチリア島やイタリア半島南部を歩き回りながら、「古代ギリシャ人たちは、どうしてかくもたくさんの、しかも大規模な神殿や劇場を、移住した先の外国の地に造り続けたのだろうか」という疑問が、常に頭の片隅にあった。
結局、彼らにとって誇れるもの、ギリシャ人であることを強く意識し、自らのアイデンティティを確認できるもの、それが、神殿であり、劇場であったのだろう。ふと、中国東北部で日本人が満州国建設を試みた時、城や神社のような建物を意識的に建設したのを思い出した。
(読売新聞編集委員・永峰好美)