2012年7月アーカイブ

2012.07.27

海洋国家カルタゴの盛衰…南イタリアの風(2)

  • 風車小屋が点在するモツィアの一帯

 シチリア島の西端にあるモツィアは、赤い屋根の風車小屋が点在するのどかな田園地帯。風車は塩田に海水をくみ上げるためのもので、円錐型の塩山は、オレンジ色の素焼きの瓦ですっぽりと覆われている。

 港から小舟に乗って10分、滑るようにして潟を渡れば、カルタゴ遺跡が残る緑豊かな小島、サンパンタレオ島に到着する。

 紀元前8世紀半ばのギリシャ人の入植活動が活発化する以前のこと、北アフリカにカルタゴという都市国家を建設した海洋民族、フェニキア人が、シチリアに多くの寄港地を設けている。

 セム語族に属するフェニキア人は、現在のレバノンに当たる東地中海の沿岸部に住み、特産のレバノン杉や香油をエジプトに輸出するなどして、商業と工芸を核に生計を立てていた。優れた造船技術を武器に、海上交易で拠点を広げ、地中海沿岸はもとよりイギリスにまで進出していたようだ。

  • 素焼きの瓦で覆われた塩山も、モツィアの特徴的な風景
  • 小舟でカルタゴ遺跡の広がる小島に渡る
  • 舟は、潟を滑るようにして進む

幼いわが子を神への生け贄に…

  • 仮面は、親たちの複雑な思いを映し出しているのだろうか

 さっそく、島内を歩いてみた。

 島は、19世紀、英国人実業家、ウィタカー家に買い取られ、発掘が進められた。「古代への情熱」で知られるシュリーマンにも声がかかったが、彼はホメロスの世界に夢中で、あまり興味を示さなかったらしい。

 塔にはさまれた頑強な北門の先に、紺碧の地中海が開ける。ここは、アフリカ本土へと延びる海底道路の入り口。その遺構は海底に眠る。カルタゴが位置する現在のチュニスまで、わずか140キロほど。いまもアフリカから逃れて来る難民は絶えない。

 要塞のような城壁に囲まれたネクロポリス(大規模な共同墓地)に足を踏み入れると、小さな祭壇跡の多さに気づく。カルタゴでは、父なる神バールに長子の()(にえ)を捧げる風習があった。

  • 染色に使ったと思われる出土品も少なくない
  • 繊細な衣装デザインの「モツィアの若者像」は、博物館の目玉。現在大英博物館に貸し出されている

  • 幼児の生け贄を捧げた祭壇跡が残るネクロポリス
  • 北門の先には地中海が開ける

 現在、ウィタカー家の居住地跡が博物館になっており、島内からの出土品が並ぶが、目を引くのは、生け贄になった幼児の墓碑や埋葬品の数々。小さな人形(ひとがた)に、親たちは祈りと誇りと、そしてたくさんの悲しみを刻んだのだろうか。素焼きの泣き笑い仮面は、そうした親たちの心模様が映し出されたものとも……。

 織物や染料、ガラス製品に関する出土品も多い。モツィアとは、セム語で紡織工房の意味なのだとか。

  • 島の発掘者として大きな貢献をしたジョセフ・ウィタカー氏
  • 埋葬品として使われた壺の数々

  • 出土品にはガラス製品なども
  • 生け贄になった幼児の墓碑

アルファベットの原型を伝えたフェニキア人

  • ポエニ戦争で沈没したフェニキア船の実物が展示されている
  • 海底から出土した保存用の器アンフォラ
  • マルサーラ博物館にあった女神タニットが描かれた墓碑

 シチリアの古代史は、カルタゴの戦史と重なり合う。

 紀元前480年、ヒメラの戦いで、ギリシャ連合軍に敗退したカルタゴは、70年後、汚辱を晴らすかのように決起し、次々とギリシャ植民市を陥落させる。だが、それもつかの間、シラクーサで頭角を現しつつあった支配者、ディオニュシオスによって滅ぼされる。前397年のことだ。

 カルタゴはモツィアから脱出し、シチリアでの拠点を速やかにリリベーオ(現マルサーラ)へと移す。そして前3世紀、勢力を増したローマとの第1次ポエニ戦争で敗退する。ちなみに、リリベーオとは「アフリカの対岸」を意味し、「アラーの港」を表すマルサーラは、アラブ支配後に付けられた地名である。

 マルサーラにも考古学博物館があり、ここには、ポエニ戦争で沈没した木造のフェニキア船の実物が展示されていた。ほかには、カルタゴの守り神、豊饒の女神タニットと、商業の神、ヘルメスの杖が描かれた墓碑などが目にとまった。

 度重なる戦いに翻弄されながらも、フェニキア人は、高度な技術の芸術や文化を次々と残した。フェニキア人の“偉業”としてもう一つ忘れられないのが、アルファベットの元になる文字をギリシャに伝えたことだろう。

 ローマのヴィラ・ジュリア・エトルスキ博物館では、興味深い金板を見つけた。カルタゴは、前6世紀、イタリア半島中部で隆盛を誇った謎の民族、エトルリア人とも交流があった。金板には、いまだ解明されていないエトルリアの文字が一部ではあるが、フェニキア文字に翻訳されていた。

英国人が作った酒精強化ワイン「マルサーラ」

 さて、マルサーラという、地名と同名のお酒についても触れておきたい。マルサーラは、英国人が作った酒精強化ワインの産地として知られる。以前から、なぜイタリアの地で英国人が作ったのか疑問に思っていたのだが、その謎がようやくわかった。

 18世紀末からのナポレオン戦争当時、ナポリを離れてパレルモに避難したブルボン王家を保護したのが、英国海軍。それに伴い、同じころ、島で発掘を進めたウィタカー家のように、シチリアで活躍する英国人実業家が増加し、アルコール度の強い酒を好む彼らは、マルサーラを開発したというわけだ。

 なるほど、歴史をひもといていくと、様々なつながりが見えてきて、興味は尽きない。

  • ヴィラ・ジュリア・エトルスキ博物館にあったエトルリア文字とフェニキア文字の金板
  • こちらが、フェニキア文字での記載

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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2012.07.20

シチリア、歴史の多重奏…南イタリアの風(1)

  • 3つの岬を意味する「トリナクリア」は、シチリアのシンボルマーク

 銀座が立地している東京・中央区が最近まとめた2012年版「観光振興ビジョン」で、国際観光の視点を取り上げている。それをきっかけに、銀座街づくり会議が「GINZAーTOKYO 国際観光都市としての銀座」という興味深いシンポジウムを開催した。

 講演者として壇上に立った法政大学教授(イタリア建築・都市史)の陣内秀信さんの話で、「銀座には、東西の歴史の重層がある」という言葉が印象的だった。

 「歴史の重層性」――。それは、陣内さんが専門とするイタリア、特に南イタリアに顕著でもある。

 6月末から7月初めにかけて、地中海に浮かぶシチリア島を中心に、南イタリアを旅した。学生時代にかじった西洋古典学の先生たちに交わっての旅である。

 少しは勉強したはずのラテン語をすっかり忘れている自分を情けなく感じつつも、古来多くの文明を育んだこの地に実際に立ち、恩師からいろいろと解説を受けながら、幾層もの歴史の重なりとそのつながりを知ると、感動は尽きなかった。

 18世紀、グランド・ツアーといって、英国など大陸ヨーロッパの国々から、芸術家や学者、貴族の子弟らが自己研鑽(けんさん)を目的に、アルプスを越えてイタリアにやって来た。北のフィレンツェやローマに加えて、南のナポリも目的地だった。美しいギリシャ神殿が残るペストゥムが再評価されると、グランド・ツアー一行の足はさらに南に伸びたという。

 夏休みシーズン、GINZA通信も番外編として毎週更新で、私にとってのグランド・ツアー、南イタリアの旅を7回に渡ってお届けしたい。

多様な文化に彩られたシチリア島

  • こちらもトリナクリア

 先史時代から様々な民族が押し寄せたシチリア島は、地中海最大の島。500万人近くが暮らす。

 最初の移住民といわれているのは、イベリア半島からのシカニ族。紀元前8世紀にはギリシャ人が大量に入植し、ギリシャ世界の一部になった。同じころ、カルタゴのフェニキア商人たちも沿岸部に交易の拠点を設け、活躍した。

 やがてローマ帝国に征服され、西ローマ帝国滅亡後は東ローマ(ビザンツ)の支配下に入り、中世にはアラブ世界に組み込まれ、イスラム文化の大いなる影響を受ける。11世紀、南下してきたノルマン人によってキリスト教世界に戻って王国となり、近世には大国スペインの支配が続く。ガリバルディと千人隊によるシチリア遠征により、統一イタリア王国に併合されたのは、19世紀半ばである。

 フェニキア人の古代カルタゴ遺跡が残るモツィア、神殿の谷が保存されているアグリジェント、ギリシャ世界最大級の古代劇場があるシラクーサ、1693年の大地震で瓦解した後バロック地帯として再生したノート……。島をほぼ一周し、それぞれの街が建築物などを通して語りかける歴史に静かに耳を傾ける。シチリアというと、マフィアの影が話題の中心になるが、なんと多様で豊かな文化に彩られていることか。

 旅の始まりは、州都パレルモから。パレルモ(Palermo)の地名の由来は、ギリシャ語のPanormos。「すべてが港」の意味という。古代には、パピレート川とマルテンポ川とい う2本の川が流れ、地中海に注ぎ、湾は奥まで入り組んでいたらしい。紀元前3世紀、ローマとカルタゴが覇権を争ったポエニ戦争では、戦略上重要な港を持つ パレルモは、争奪の舞台にもなった。

 1787年4月2日、ナポリから乗船してパレルモの港に降り立ったゲーテは、「イタリア紀行」(岩波文庫)で次のように記している。

「金の盆地」州都パレルモ

  • パレルモの旧市街にあるクアットロ・カンティ
  • 彫刻群が並ぶプレトーリア広場
  • ノルマン王宮の王室礼拝堂の円蓋

 「右手にはあかあかと陽を受けたモンテ・ペレグリーノの優雅な姿、左手には湾や半島や岬のあるはるかに伸びた海浜、さらにこよなく美しい印象を与えたのは、優美な木々の若々しい緑」

 当時のパレルモは、スペイン・ブルボン家の支配。コンカ・ドーロ(金の盆地)と呼ばれ、青い海と緑の田園に包まれた楽園のイメージを誇っていたという。

 スペイン支配の残像は、旧市街の中心にあるクアットロ・カンティに見られる。ヴィットリオ・エマヌエーレ大通りとマクエーダ通りが交差するこの四つ辻は、17世紀初めに造営されたバロック広場である。この街の4地区を象徴する四つ角の特徴は、それぞれの建物がもつ緩やかに湾曲した美しいファサードの装飾。一番下の段には季節の噴水、2段目がバロック都市計画を導入した歴代スペイン総督、3段目が街の守護神が配されている。

 四つ辻から歩いてすぐのところにあるプレトーリア広場には、30を超える彫刻群が並ぶ不思議な光景があった。もともとはフィレンツェにある貴族の別荘のために制作されたものがパレルモ市に売られ、16世紀に移築された。ルネッサンスの風を感じつつも、街中のひときわ目立つ彫刻群は、バロック精神を体現しているようにもみえる。

 パレルモ州立美術館で見た、ヨハネ黙示録を主題にしたと思われる大フレスコ画「死の勝利」や、大理石で彫られた「アラゴン家のエレオノーラの胸像」は、ともに15世紀半ば、スペインの属国支配の時代のものとされる。

 時代はさかのぼるが、パレルモで特筆されるのは、中世地中海王国の栄光を築いたノルマンの時代だろう。

 バイキングの血を引くノルマン人は、11世紀、北フランスのノルマンディーからやって来て、南イタリアを征服。12世紀、シチリア島を中心にノル マン・シチリア王国を建国した。この時代、パレルモは世界で最も美しい都市といわれ、華やかな宮廷文化を開花させたのだ。ノルマン人の王たちは、それまで 築かれたアラブ・イスラムの高度な文化に魅惑され、宮殿にも大聖堂にも、アラブ様式の建築技術をふんだんに取り入れたという。

 王国の寛容なる文化政策のもと、ギリシャ語、ラテン語、アラビア語が公用語として認められ、コスモポリタン都市として栄えた。

  • 礼拝堂各所にみられるアラブ・ノルマン様式
  • ルッジェーロ王の居室には、ペルシア風楽園の黄金のモザイク
  • 王宮内の中庭の空間

イスラム建築とノルマン様式の融合

  • 王宮の南隣りにあるサン・ジョバンニ・デッリ・エレミティ教会
  • オレンジや椰子が茂る教会の小回廊

 思えば、都市建設の技術をはじめ、水を引く高度な技術もナスやホウレンソウ、米やピスタチオなど、様々な農作物を紹介したのも、アラブ人であっ た。イスラム圏との出会いが、アラビア語で書かれた多くの文献のラテン語翻訳につながり、のちの文化・学術の発展にも大きく寄与する。

 アラブ世界との交流を最も強く感じさせてくれるのは、現在はシチリア州議会として使われているノルマンの王宮である。11世紀にアラブ人が築いた城壁の上に、12世紀、ノルマン人が拡張・増築して、独特のアラブ・ノルマン様式を造りだした。

 12世紀をしのばせる美しい王宮礼拝堂に入ると、壁面の高い位置にある窓の造りや、様々な色石を組み合わせた床のモザイクなど、イスラム建築からの影響が各所に見られる。

 王宮の2階には、ノルマン王国最初の王、ルッジェーロ王の居室があり、椰子などの南国植物や狩人、野生の動物たちなどをモチーフに、金地モザイク で飾られている。ラテン、ビザンツ、アラブの文化の融合は、当時の躍動感あふれるダイナミックな世界へと私たちを誘ってくれるようだ。

 王宮の隣にある、サン・ジョバンニ・デッリ・エレミティ教会も、12世紀アラブ・ノルマン様式を踏襲している。5つの赤い丸屋根が特徴だが、教会内部はむきだしの積み石に囲まれ、いたって簡素。中庭は一転、南国のムードが漂う小回廊に囲まれ、明るいイメージである。

  • 「死の凱旋」(シチリア州立美術館で)
  • 「アラゴン家のエレオノーラ胸像」
  • シチリアの空は、吸い込まれそうになるくらい青く澄み切っている
  • 旧市街にある市場には新鮮な野菜がいっぱい

 ここで、シチリアのB級グルメをご紹介しておこう。名物のアランチーナは、アラブ人がもたらした米を使ったおおきめの揚げおにぎり。店によってい ろいろな味があるようだが、シチリア人に一番人気があるというハムとチーズ入りにした。ボリュームがあって、ランチはこれ1個で十分だった。もちろん、濃 いエスプレッソと一緒に。

 開放的な風土、陽気な笑い声、コバルトブルーに輝く海、そして太陽の恵みを享受したおいしい料理とワイン……。それがすべて、シチリアの宝物である

  • シチリア名物のアランチーナ
  • エスプレッソは1ユーロでおつりが来る

 (読売新聞編集委員・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)