華やかな東京・銀座の夜を彩る店が軒を連ねる資生堂本社近くの銀座7丁目界隈。一見さんではなかなか入るのに勇気が入りそうな高級クラブが入居するビルの入り口に、「おいしい珈琲をどうぞ」と記された小さな看板を見つけた。
天然水、ハンドドリップ、手作りクッキー、600円……。そんなキーワードに誘われて、探検するつもりでビルの中に入った。エレベーター横のフロアガイドには、「くらぶ」「会員制」を冠にした店がずらり。4階に上がり、重厚な造りの扉を見て、「ああ、やはり場違いなところに来てしまったな」と、一瞬、躊躇した。とはいえ、せっかくここまで来たのだもの、内なる好奇心がむくむくとわき上がってきた。
思い切って扉を開けると、「いらっしゃいませえ!」と、柔らかい笑顔のご夫婦が迎えてくれた。
「カフェ&ダイニング玲」。コーヒー好きの中村範次さん(58)が3年前、住宅設計の仕事に区切りをつけて開いた店である。銀座の一等地の16坪ほど。家賃もかなり高いはずだが、実は姉の玲子さんがこの場所で20年以上もクラブを開いていて、昼間の時間帯だけ喫茶店にしているという。
福岡で目覚めたコーヒーへの思い
鹿児島出身で、福岡の大学に進学した。「福岡は喫茶店文化が盛んなんです。朝は雑誌や新聞を読みながら、コーヒーと軽食をとるのが習慣でした。自分でも入れていましたから、1日6~7杯、いや、もっと飲んでいたかなあ」
東京で就職し、大学の後輩の八千代さん(56)と結婚。たまたま自宅近くに住んでいた、素晴らしいコーヒー豆の焙煎士に出会い、範次さんの“コーヒーへの思い”はさらに募る。
あるとき、妻のショッピングに付き合って銀座に来たら、「ゆっくりコーヒーを飲める喫茶店が銀座には意外に少ないことに気づいたのです。友人たちに聞いてみると、同じような感想でして」。頭に浮かんだのが、姉の店だった。酒のボトル棚やカウンターの木の感触、アンティーク風なピアノ。「どれも、僕にとっては喫茶店向きに感じられたので、ここでやると決めました」
コーヒーが苦手な人でも飲めるように、すっきりした味わいに仕上げるのが、範次さん流。豆を粗めにひいて、若干ぬるめの湯で入れるのだそうだ。「玉露を入れるのと同じで、コーヒー豆をやけどさせないように気をつける」のだとか。通常78度くらいを目安にしているが、熱くて濃厚なタイプがいいという注文には、もちろん、しっかり応えるようにしている。
最初はコーヒーだけしかサービスしていなかったが、「カレーが食べたい」「お肉が食べたい」というお客からのリクエストが次々出てきて、料理が得意な八千代さんが、カレーやビーフストロガノフ、シチューなどを作り置きして渡した。
客の要望に応えるうち、営業時間も変更に
集客は口コミ頼み。「ビルの4階だし、そんなに人が来ないだろうと思っていた」(範次さん)ら、1日に少なくとも2、3人、あの小さな看板を頼りに新規のお客が来るではないか。そのうちに、近隣の会社員からは、「ミーティングで使いたいから、朝11時くらいにはオープンしてほしい」などの声も上がってきて、「予想以上に忙しくなってしまった」という。
当時外資系IT企業の営業支援の仕事で忙しかった八千代さんも、料理担当として本格的に巻き込まれることになった。
「な~んか、成り行きなんですよね。何かをやろうとこだわりがあってことを進めていくのではなくて、お客様がこんなことしたい、こんな店だったらいいのにって教えてくれて、じゃあ、そうしましょうかという感じなんです。何となく社会がぎすぎすしている時代、たとえ短い時間であっても、ほっと癒やされる空間であればいいのかな、と思うんです」と、八千代さん。
ランチタイムにお邪魔したので、まず、八千代さん手作りのカレーをいただいた。店で一番人気のメニューだそうだ。
ココナッツミルクとマンゴーチャツネのマイルドな味わいだが、しょうゆが隠し味になっているそうで、香辛料を感じさせない。この店ではあくまでもコーヒーが主役なのだ。
もっともっと極めて、楽しませたい
範次さんが丁寧に入れてくれたのは、ブラジルとクリスタルマウンテンの定番ブレンド。何杯でもお代わりをしたくなるような、癖のない味わいだ。水にはこだわっていて、大分県由布市の阿蘇野にある
「ほっとするね、落ち着くねと言ってもらうのが、一番うれしい。コーヒーをもっともっと極めて、皆を楽しませたいですね」と、範次さん。
週末土曜日は、クラブが休みなので、深夜まで営業する。ジャズライブあり、落語あり、トークイベントありで、行動派の八千代さんが、お客からの要望を聞きながら、組み立てる。
夫妻の話を聞いているうちに、私もほっこり温かい気持ちになってきた。
何とも居心地のいい、銀座の癒し空間。本当はだれにも教えたくなかったのだけれど、あまりに素敵な店主夫妻なので、つづってしまいました。
(読売新聞 編集委員・永峰好美)