2012年5月アーカイブ

2012.05.18

メニューブックに息づく仏料理120年の歴史

  • 「帝国ホテル フランス料理の源流紀行」のメニュー

 今をさかのぼること120年余、1890年(明治23年)の開業当時、帝国ホテルが提供してきたフランス料理のメニューが、初代料理長によって書き残されていた――。

 海外からの賓客を迎える正餐としてフランス料理を採用し、迎賓館としての重要な役割を果たしてきた同ホテルだが、当時の華やかな晩餐会の様子は、書物に載せられた挿画や写真などから想像するほかなかった。ところが、2009年、思いがけない宝物が寄贈された。初代料理長・吉川兼吉氏と子息の林造氏の共著によるメニューブックである。吉川家では、この本を袱紗(ふくさ)に包み、桐箱に入れて代々大切に保管してきたそうだ。

  • 吉川兼吉氏のメニューブック

 現在の13代料理長、田中健一郎氏は興奮した。そして、そのメニューブックをはじめ、歴代の料理長たちによって受け継がれてきたフランス料理の数々を再現させる一夜限りのイベントを考えた。名づけて、「帝国ホテル フランス料理の源流紀行~吉川兼吉初代料理長から田中健一郎へ (よみがえ)る正統派フランス料理の世界~」である。

  • 吉川料理長が作ったパイナップル型菓子と帝国ホテル開業翌月の晩餐メニュー

 吉川兼吉氏は、1853年(嘉永6年)生まれ。日本のフランス料理の草分け的存在の一つ、横浜グランドホテルで修業を積み、鹿鳴館を経て帝国ホテルの開業と同時に初代料理長に招聘(しょうへい)された。37歳だった。明治期において最高峰ともいえる料理を提供、各国の賓客から高い評価を得ていた。

  • 天長節夜会の図(明治のグルメ本「食道楽」に掲載)

 その後、「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵氏とともに宮内省大膳寮で活躍。さらに、伊藤博文に呼ばれて朝鮮李王朝の料理人になり、82歳で同地で亡くなった。林造氏も、帝国ホテルの料理人だった。

伝統のメニューを新しいアレンジで

  • 代々受け継がれるホテルの食器等

 美濃紙に毛筆で書かれたメニューブックは、A4判で数百ページに渡る大作で、料理の種類は286種に及ぶ。料理のフランス語名と日本語名、作り方、ポイント、食材の説明のほか、フランス料理の食卓作法や目方の単位にいたるまで、図解入りで丁寧に記されている。今回、展示されている実物を見たが、素人目にも、実に詳細な記述で、当時の料理レベルの高さがうかがえる。

 食材や調味料の分量は、1升、1合、1勺、1貫、1(もんめ)などと書かれていて、帝国ホテルでは、今もその伝統が受け継がれているという。

  • 13代料理長、田中健一郎氏

 「メニューブックは、フランス料理を学ぶ人たちへの手引書になるように懇切丁寧に書き記されていました。恐らく、吉川氏は、フランス語の辞書を片手に一言一言、翻訳されていかれたのでしょう。こうした偉大なる先人から始まる日本のフランス料理の源流と出会い、万感迫るものがありました。今回のイベントのメニューを考えることは、頭の中でワーグナーのシンフォニーが流れるみたいで、本当に楽しくて仕方がありませんでした。すべてがクラシックというわけではなく、私のは私なりのアレンジでお届けいたします」と、田中料理長は話す。

 では、どんな料理がサービスされたのか、次にご紹介しよう。

歴代料理長の渾身のひと皿

 最初の料理は「アスパラガスと雲丹(うに)のフラン キャヴィア添え」。田中さんがフランス・エヴィアンに研修に行った時、スイスに足を延ばし、天才シェフの誉れ高い「オテル・ドゥ・ヴィル」のフレディ・ジラルデ氏のスペシャリテと出会った。これは、そのころの思い出に浸りながら楽しんで作った一品。

 続いて、「帆立貝・毛蟹・本鮪のタルタル仕立て スモークサーモンで包んで」。田中さんのオリジナル料理で、3種類の甲殻類を用いた冷たい一皿。アボカドとレモン、マヨネーズの味わいに、オレンジの香りがやさしくアクセントに。

 「帝国ホテル一の功績者」(田中さん)の8代料理長、石渡文治郎氏の一皿は、「プティットマルミット アンリ4世風」だ。鶏肉のクネル、牛ばら肉、野菜が少々入ったコクのあるコンソメスープ。パリのホテル・リッツで修業時代、名料理人オーギュスト・エスコフィエから薫陶を受けた石渡氏の得意料理だ。

  • アスパラと雲丹のフラン。ナイフで切ると、ウニが顔を出す
  • 帆立貝・毛蟹・本鮪のタルタル仕立て
  • プティットマルミット

 初代料理長、吉川兼吉氏の一品は、数あるレシピから「オマール海老のムースを包んだ舌平目のターバン カルディナル風」を選んだ。型に舌平目の身を敷き詰め、平目と車海老のムースを入れて蒸し上げる。マッシュルームと海老、それからトリュフをペシャメルソースであえたものが添えられていて、魚や海老のエキスがたっぷり入ったソースとともにいただく。「カルディナル風」とは、本来カトリック枢機卿の意味。法衣が赤いことから、ゆでると赤くなる甲殻類や赤い果実などを使った料理に付けられる。

 ドンペリニヨンのグラニテと桜の香りのシャーベットで口の中をさっぱりさせた後、いよいよメインディッシュの登場。

  • 吉川料理長の舌平目の蒸しもの
  • 「日本のフランス料理史を残す会 魯里人」がまとめた本にも掲載
  • ドンペリニヨンのグラニテ

 11代の村上信夫料理長の「和牛フィレ肉とフォワグラの取り合わせ トリュフソース ロッシーニ風」である。1979年から2003年まで258 回開催した「村上信夫とフランス料理の夕べ」という催しの中で7回も提供された、村上ムッシュの大好きな料理だ。マデラベースのソースとモルネーソース(ベシャメルソースにブイヨンとチーズ、バターを加えたもの)が、ボリューム感のある肉料理を引き立てる。“マカロニ・ロッシーニ”には、フォアグラとパルメザンチーズの詰め物が……。

  • 村上ムッシュの和牛フィレ肉とフォワグラの取り合わせ ナイフを入れてみました
  • マカロニ・ロッシーニもボリュームたっぷり
  • イチゴのグラン・マニエ風味

 そして、現代の名工、望月完次郎氏がつくるデザートは「イチゴのグラン・マニエ風味ロマノフ風」。バニラのパフェにタピオカ、イチゴのゼリーが加わり、ナイフで切ると流れるようにゼリーがあふれ出す。

 ちなみに、ワインは、白はシャブリ・グラン・クリュ レ・クロ(2008年)、赤は、猛暑だった2003年のボルドー5級「シャトーカントメルル」だった。

  • シャブリ・グラン・クリュ レ・クロ
  • 渡辺ソムリエの笑顔のサービスも心地よい
  • シャトー・カントメルル

  • 料理を担当したホテルのシェフたちが勢ぞろい

 田中料理長は言う。「村上ムッシュがこのメニューブックを見たなら、さぞ喜んだに違いありません。ムッシュがこの場に来れなかったことが何とも残念で、胸が詰まります」

 120年余の歴史の中で作り上げた帝国ホテルのフランス料理は今も正統派クラシックなフランス料理の基本を守りつつ、時代のニーズを取り入れて進化している。

 生前の村上ムッシュにインタビューした時、「料理人として一番大切なことは、まず料理が好きなこと」と言っていたのが印象的だった。歴代料理長の料理を味わいながら、皆がうきうき楽しみながら料理を作っているシーンが目に浮かぶようでもあった。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)