2012年3月アーカイブ

2012.03.23

歌で感謝伝える、被災者たちのミュージカル

  • 銀座で上演されたミュージカル「とびだす100通りのありがとう!」

 日本全国から、いや世界中から届けられたたくさんの支援に感謝の気持ちを伝えたい――東日本大震災から1年が過ぎた3月18日、そんな思いを抱いて、宮城県石巻地方の被災者114人が、東京・銀座2丁目の中央区立中央会館(銀座ブロッサム)に集結した。

 生きる勇気を歌い上げるミュージカル「とびだす100通りのありがとう!」の公演である。2回の公演には約1800人もが来場し、フィナーレでは拍手が鳴りやまなかった。秋篠宮ご夫妻と次女佳子さまも鑑賞された。

 主催したのは、石巻市、東松島市、女川町の被災者を中心にして組織された「ありがとうを言いに行こう♪プロジェクト」実行委員会。実行委員長を務める前谷ヤイ子さんは今、東松島市の仮設住宅で暮らす。ヤイ子さんの夫のひろしさんと、東京在住でミュージカル演出などを手掛ける寺本建雄さんが旧知のミュージシャン仲間だったことから企画がスタートした

 「今も寄せられる支援に何もお返しができないけれど、せめて直接『ありがとう』を言いに行きたい!」との趣旨で賛同者を募集。最初は、「被災者がミュージカル? こんな時に歌って踊って楽しくミュージカルなんて無理ではないの」との懸念もあったそうだが、ふたを開けてみれば100人以上が応募。石巻地方に住む3~83歳の男女が、生まれて初めてのミュージカルに取り組み、昨年11月から毎回3時間の稽古を27回も重ねてきたという。

 最高齢の83歳の女性は、オープニングで、「この年で舞台に立つとは思ってもいなかった。しかも、銀座、ですもの。地球の隅々まで感謝を伝えたい。私たちのこの気持ちをどうぞ受け止めてください」と挨拶した。

  • 津波で流された松の木がギターとして復活。マエヤンが「仙石線のうた」を歌った
  • 第一幕で歌われた「少し無理して歩き出すさ」

被災者本人が語るそれぞれの3.11体験

  • 「みやぎ名物アイウエオおんど」は、皆元気いっぱいで

 ミュージカルの脚本と楽曲は寺本さんが担当、参加者に被災体験を取材して、様々なエピソードを盛り込んだ。舞台で被災者本人が語るそれぞれの3.11体験を中心に、ドキュメンタリー風にまとめられており、臨場感があり、迫力いっぱいだった。

 その語りからいくつか紹介してみよう。

 「地震の翌朝、泥まみれの乾麺を見つけました。雪で洗い、調理ができないので、皆で割ってぼろぼろのままかじりました」

 「食事はカッパエビセン2本とザラメ1粒の時もありました」

 「1週間飲まず食わずの生活で、周りの皆はしくしく泣いていました。男の子が励ますつもりで、『死ぬ時は皆一緒だよ』と言ったら、さらにワーンと泣き始めました」

  • 「まげねえぞう」バンダナも作っちゃいました
  • ポップなデザインのバンダナは会場で500円

男子がジェントルマンに思えた夜

  • 3.11当日のファッションを再現?

 「教室の机を集めて、男子がベッドを作ってくれた。女子はここで寝ろ、俺たちは廊下だって。その時だけはジェントルマンに思えました」

 「避難所に1週間後に設置された電話は1人1回1分までなので、何回も行列に並び直して訃報を知らせました」

 「海外では、日本人の秩序ある助け合い精神が報道されていたようですが、実際は避難所でけんかが絶えませんでした。子どもたちに先に食事を配ろうと提案したら、あるおじさんが、『こんな時は子どもも大人もないんだ』って……」

  • ブロードウェイでも活躍する衣装デザイナー、たかひらみくさんが支援物資をリメイク

 「支援物資を受け取る時、それを下さった日本中、世界中の、顔も名前も知らない人たちがいることを思い、直接感謝が伝えられないもどかしさをずっと感じていました」

 「35日目に夫が(遺体で)見つかりました。子どもがいない私たちです。私だけこのまま生きていていいのか悩みました」

 「ヘドロの中からおやじ(の遺体)を見つけた。ペットボトルの水を10本使って洗ったけれど、きれいにならなかった。父ちゃん、ごめん」

  • 皆で考えたという回文が心を打つ

 さらに、「学者の方々がここなら安全だとされたゾーンまで水が来て、たくさんの人が亡くなったけれど、『想定外』『未曾有』といった言葉で片づけられた。防潮堤を作るからそこに人が来るんだ、作らなかった方がよかった、というばあちゃんの言葉は心に染みました」とも。

 この場面では、皆で考えたという回文「だ・い・さ・ん・じ・は・ん・ぶ・ん・は・じ・ん・さ・い・だ(大惨事半分は人災だ)」が披露された。

歌や踊りが心や身体を解放してくれた

  • 「サンマとるうた」では、大漁旗が舞った

 出演者114人はつらい体験を伝えつつ、支援への感謝の気持ちを込めた「ありがとう」をはじめ、「少し無理して歩き出すさ」「サンマとるうた」など全10曲を歌い切った。中には、「みやぎ名物アイウエオおんど」など、ちょっとコミカルな歌もあって、笑いを誘った。

 東松島の野蒜海岸で津波に流された松の木が、名工、ヤイリギターのマスタークラフトマン、小池健司さんの職人技によって蘇って透明感のある音色を奏でるギターとして登場。また、支援物資として送られた洋服をリメイクしたファッションショーなどもあって、ステージは大いに盛り上がった。

  • フィナーレでは、あの日と同じく雪が舞った 

 それにしても、どの出演者の声も会場の後ろまでよく通り、踊りの振りも見事にそろっていて、ミュージカルとしての完成度の高さに、はっきり言って驚いた。

 実行委員長を務めた前谷さんは、「歌や踊りがこんなに心や身体を解放してくれるものだとは知らなかった。練習することが私たちに笑いや元気や勇気を与えてくれました。会場の皆さんと一緒に、世界の人に向けて『日本を支援してくれてありがとう!』と言いたい」という。

 フィナーレでは、1年前のあの日と同じ、雪が舞っていた。突き抜けるような澄んだ満天の星空も同じだった。

 ♪この街でこの土地で/わき上がる心を歩くのさ/すべて壊れたガタガタの道/夢の一歩を歩くのさ

 だれもが復興を誓って、ミュージカルの幕は静かに閉じられた。

  • 「ありがとう新聞」も壁新聞として登場
  • ミュージカルの裏方には、多くのボランティアが協力
  • 最後は、出演者全員でお見送り

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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2012.03.09

一中節、音のない中にある美意識

 庶民の一番中心になる音楽に

  • 国立劇場小劇場の記念演奏会は、お弟子さんやファンらが詰めかけて盛り上がった

 日本の文化について、まだまだ知らないことがあるなあと、最近改めて恥じ入ることが少なくない。

 そのひとつが、一中(いっちゅう)(ぶし)である。

 先日、国立劇場小劇場で、「十二世(みやこ)一中(いっちゅう)襲名二十年、二世常磐津(ときわず)文字蔵(もじぞう)襲名三十年記念演奏会」を鑑賞する機会があった。

 常磐津、長唄、清元、新内節……。江戸期の粋な歌曲といったジャンルだろうが、その違いとなると、よくわからない。一中節となると、さらにわからなくなる。

 徳川4代将軍家綱のころ、京都の寺の次男坊として生まれた初代一中は、大の音楽好きで、仏教の修行で体得した幸せな生き方を、広く庶民に伝えたいと考え、一中節を確立する。様々なジャンルがある中で、「1番中心になる音楽を」との意味を込めて、一中節と名付けられたともいわれている。

 十二世都一中さんは、二世常磐津文字蔵であると同時に、一中節の十二代目の家元。常磐津の三味線方の家に生まれ、常磐津の世界にあって流派の違う人間国宝常磐津菊三郎に出会い、一中節を学ぶことを勧められたことから、現在に至る。1999年に一中節で、2008年には常磐津節で、重要無形文化財保持者に認定されている。

 記念演奏会では、常磐津「本朝(ほんちょう)廿四(にじゅうし)(こう)」、一中節「天の網島」、一中節「(まつの)羽衣(ほごろも)」の3曲が演じられた。

 どれも能や歌舞伎を通してよく知られている演目だが、一中節の舞台には、役者がいるわけではない。観客は、語られる浄瑠璃から物語の内容を理解する必要があり、この道に精通していない人にとっては至難の業だ。

 にもかかわらず、今回邦楽の知識に乏しい私でも楽しめたのは、前もって、都一中さんの銀座レクチャーを聞いたからだった。そして、このレクチャーを企画したのは、以前小欄(2009年6月12日付)にも登場いただいた、銀座いせよしの千谷美恵さんである。

銀座レクチャーで語られたこと

  • 銀座でレクチャーを行った十二世都一中さん

 レクチャーで、都一中さんは、印象深い話をしてくれた。

 いわく、「常磐津、清元、新内が英語やフランス語だとしたら、一中節はラテン語みたいなものです」。古典の中の古典といった存在で、各時代のある層が有する文化教養的な矜持(きょうじ)に守られつつ、細いながらも筋目正しい流れを作って今に至るということだろうか。

 いわく、「常磐津と一中節の違い、わかりますか? 使う三味線は何ミリ単位でカタチが異なります。そして、常磐津を好んだのは江戸っ子でも現役のばりばりの船頭や大工たち。三味線の糸にバチが触っている時間が短くて、ごついけれどもさっぱりと音を刻んでいく。それに比べて、あんなに速く弾くテクニックは、はしたない、ゆったり上質な音をよしとするのが一中節で、こちらは引退した大旦那たちに人気でした。彼らは直接的な表現は好まない。たとえば、『庭の松を見てごらん』といえば、一喜一憂するんじゃないよ、いつもみずみずしい心を持って臨むのだよ、といった意味が込められているのです」

  • 記念演奏会より

 この話は、都一中さんが、先代から教えを受けていた時のエピソードに通じるところがある。それは、王禅寺善明氏の「一中節十二世都一中の世界」(西田書店)に詳しい。

 「一中節の秘伝が書いてある」と言って渡された書簡を開いてみると、「あ い う え お か き く け こ……」。書いてあるのはそれだけだった。一中節は他の邦楽と違い、三味線の音に合わせて言葉の最後にある母音を長く延ばし、発音する。たとえば、「か」は「かあ~」と延ばす。穏やかに、ゆったりと、上品に。それが、一中節なのである。

 いわく、「日本の音楽を楽しむ秘訣は、音を聴かないこと。音と音の間、音がしていないところに深い表現があるからです。それは、雪舟の絵画にも通じるところがあります」。

 なんだか禅問答のようだが、これも王禅寺氏の本にヒントがあった。

 初代一中は、寺でつく鐘の音が、ゴォーンと鳴り響きながら消えていく刹那を音楽で表現したという。そこで表現した音こそが悟りの境地の音であり、だから自分の三味線も音が消えるところに責任を負わなければならない、との覚悟を都一中さんは語っている。

 記念演奏会で、もう一つ素晴らしかったのは、照明家の豊久将三さんとのコラボレーション。「都一中の音色は、雲の切れ間から強い太陽の光が差す感じと同じ。あくまでも清らかに、透明に、しかし、強く……」と語る豊久さんは、水色、緑色など透明感のある舞台装置を、微妙な光のニュアンスで映し出した。

  • 舞台は、照明家の豊久将三さんとのコラボレーション

 都一中さんは今年、還暦を迎える。

 「この世界、ようやく新卒社会人でスタートラインに立てたといった感じで、80歳ぐらいが全盛期。江戸の趣味人の美意識がいかに優れていたかを振り返りつつ、原点に戻って、また現代の風流人の好尚(こうしょう)にこたえられる三味線音楽を追求していきたいのです」

 昨年、都一中音楽文化研究所を設立し、今後は、世界で活躍する若手・中堅ビジネスマン向けの啓蒙企画や、親子参加型の料亭での音楽会、外国人駐在員や留学生向けの音楽会なども企画している。

 今度はぜひ、畳のある座敷空間で一中節を聴いてみたいと思った。

 (プランタン銀座常務・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)