通りの愛称さまざまに
東京・銀座の多くの生活道路には、だれもがわかりやすく親しめるようにと、愛称が付けられている。
銀座桜通り、銀座柳通り、みゆき通り、花椿通り、御門通り、銀座コリドー通り、数奇屋通り、並木通り、金春通り、あづま通り、銀座マロニエ通り、銀座三原通り、木挽町通り、銀座ガス灯通り、銀座レンガ通り……。銀座の番地が付く通りでいえば、その数は軽く20路線を超える。
愛称を認可する中央区役所によれば、「銀座の柳で親しまれているから『柳通り』と名付けたいという申請を受けたとき、すでに中央区には八重洲の柳通りが存在していた。そこで、地名を冠にして『銀座柳通り』で了承してもらうなど、愛称一つ付けるにもそれなりに苦労がある」という。
最近では、昨年3月、銀座8丁目の新橋会館ビル前の、花椿通りと交差する通りが、「見番通り」と命名され、新しく仲間入りした。今まで、便宜上、「西五番街通り」と呼んでいたところである。
新橋見番の座敷が一般に初公開
見番というのは、花柳界で、芸者衆と料亭との取り次ぎをしたり玉代の計算をしたりする取りまとめの事務所のようなところ。今でも、新橋芸者衆の「新橋見番」が、新橋会館ビルの中にある。
ちなみに、銀座なのに、新橋芸者と呼ぶのは、銀座中央通りにある天ぷらの「天国」のあたりに、実際に新橋という橋が架かっていた名残である。
花柳界の話となると、なかなか敷居が高い。で、一般の多くの人にも「見番通り」の名称にもっと親しんでもらおうとの趣旨で、10月30日、「見番通りお披露目の会」が開かれた。
場所は、芸者衆が毎日踊りや長唄、三味線などの厳しい稽古をしている新橋見番の座敷。一般に開放されたのは初めてとのことで、老舗の大旦那衆も、「長い銀座暮らしの中でも、初めての経験だ」と、口々に言っていた。
べっ甲のかんざしで有名な老舗、銀座かなめ屋も見番通りにある。
三代目の若旦那、柴田光治さんによると、昭和の初め、同店の先代の時代には、「見番通り」と呼んでいたそうで、当時、芸者衆を乗せた人力車が連なって、たいそう華やいでいたらしい。
ハイカラモダンの発信地・新橋
さて、お披露目の会では、料亭「金田中」3代目で、東京新橋組合頭取の岡副真吾さんが、「幕末から今につながる銀座の芸者」について語り、続いて、日本の芸能の幕開きに舞台お清めとして用いられてきた、長唄「
新橋芸者の歴史については、5月27日付の小欄「新橋芸者の晴れ舞台『東をどり』」で書いたので、関心のある方は参考にしていただきたい。
いまや東京の見番は、浅草、赤坂、向島、神楽坂、芳町、それに新橋の6か所になった。とはいえ、幕末の時から、「進取の気風に富み、ハイカラモダンの発信地であった新橋」の精神は、しっかり受け継がれている。
岡副さんは、「見番なんて、そんな古臭い名称を復活させるのかという意見もあったが、歴史は歴史として受け止めていきたい。そして、見番通りから、時代に即した、銀座の新しい和の文化の発信ができれば素晴らしいと思う」と語る。
学生による創作茶室も
同じ日、銀座の街では、十数か所で野点が楽しめる大規模な茶会「銀茶会」が開かれた。表千家、裏千家、武者小路千家、江戸千家の茶道四流派が一堂に会する珍しいイベントで、薄茶席なども用意された。ハートをモチーフにした和菓子をいただきながら、普段お茶席となじみがない人たちも、鮮やかな赤の野点傘の下、風情ある銀座の秋を満喫したようだった。
「銀茶会」の一環として、建築を学ぶ学生たちが、「いま、人を癒すための茶室」のテーマで学生創作茶席を設計・施工し、銀座三越にその中の優秀作品が展示された。モダンではあるが、和紙の温かみがどこか心を和ませてくれる不思議な空間だった。
銀座の街の和の発信は、さまざまな形で進化し、広がっている。「見番通り」からは、どんな粋で新しい発信がなされるのだろうか。
(プランタン銀座常務・永峰好美)