「下を向いていてはいけない」
今年も東をどりの季節がやって来た。
大正時代に始まる舞台は今年で通算87回目。5月27日から30日までの4日間、銀座6丁目の新橋演舞場で催される。
東日本大震災のため、開催するかどうか議論を重ねたそうだが、「下を向いていてはいけない。衣食住の生活面で着々と復興の兆しが伝えられていく中、人々の心に潤いを与える日本文化の灯を絶やしてはならない。そして、やるならば明るく楽しくやろうということになりました」と、東京新橋組合頭取で、料亭「金田中」3代目主人の岡副真吾さんはいう。
今回は、東北の同業者を支援するためのチャリティの趣向が会場の各所に散りばめられているそうだ。
矜持を傷つけられ…
新橋芸者のはじまりは、安政4年(1857年)、銀座
幕末には、桂小五郎ら薩長土肥の血気盛んな志士たちの息抜きの場に。当時隆盛を極めた柳橋では、田舎者と相手にされなかった彼らを温かくもてなしたのが、進取の気風に富み、ハイカラモダンの発信地でもあった新橋だった。明治維新で志士たちは権力側になり、彼らがご
明治期は、目の肥えた財界茶人にも愛され、新橋の花街はどんどん洗練されていく。ところが、新橋芸者のプライドを傷つけるような事件が起こる。
明治22年(1889年)に全線開通した東海道線。開通を祝し、明治の元老で、外務卿、農商務大臣、内務大臣などを歴任した長州藩出身の井上馨は汽車の1両を借り切り、新橋芸者を乗せて、新橋駅から名古屋駅までの間、踊りを披露させたのだ。
当時の名古屋は、八代将軍吉宗の超緊縮財政の反動で芸能が大いに奨励され、商売も芸事もともに盛んだった。
「残念ながら、この時の新橋芸者衆の踊りの評判は名古屋では散々でした。名古屋の芸妓に、『まるで岐阜提灯(遠目から見るときれいだが、近くで見ると穴が開いたり汚れたりしていて大したことがないという意味)』とののしられ、大変悔しい思いをして帰京したそうです」と、岡副さん。
新橋演舞場の創設
そこで、新橋の重鎮が一念発起、全国から宗家家元と呼ばれる一流の師匠を迎えて、徹底的に稽古に励むよう環境を整えた。京都や大阪にあるような立派な歌舞練場を東京にも作ろうと、大正14年(1925年)、新橋演舞場が創設される。
当時の最先端のレンガ造りを採用、新橋芸者の鍛えられた技芸を広くお披露目するための晴れ舞台はこうして出来上がった。そのこけら落としが第1回東をどりだった。
営業停止になった戦時中の暗黒時代を経て、昭和30年代、まり千代、小くになど、スーパー芸妓を輩出、女子学生にもファン層は広がっていく。
いっとき300人を超えた芸者衆も、いまは60人余。ただ最近、20代初めの若い志願者が増えているとも聞く。
「政財界の奥座敷」
新橋演舞場近くの東銀座から汐留寄りの銀座8丁目あたり一帯は、新橋花柳界発祥の地。政財界の奥座敷との別名もあり、現在も「金田中」「吉兆」「松山」など、高級料亭が軒を連ねる。山崎豊子の長編小説「華麗なる一族」で、阪神銀行頭取・万俵大介が密談を交わしていたのは、料亭「金田中」だった。
伝統と格式ある料亭の門構えは、中をちらりとのぞくのもはばかられるほどどこか威圧的だ。そんな普段は「一見さんお断り」の料亭の世界を少しだけ垣間見ることができる貴重な機会が、年に一度の東をどりである。
粋で艶やかな芸者さんたちの踊り、私も時間を見つけて見に行くつもりだ。
(プランタン銀座取締役・永峰好美)
◆第87回東をどり