命をつないだ「幸稲荷神社」
東京・銀座1丁目の並木通りに、赤い鳥居がひときわ目立つ「幸稲荷神社」がある。江戸時代から続く歴史ある神社で、京都伏見稲荷大社から
3年ほど前、周辺の再開発の話が持ち上がり、住民の反対にもかかわらず、移転余儀なしの声が上がっていた。ところが、リーマンショックの影響で開発業者が撤退。鳥居の後ろにそそり立ついちょうの「御神木」ともども命をつないだ伝説のお稲荷さんなのである。
神社の裏手の路地に、歌人、鈴木真砂女の小料理店「卯波」があった。店は、取り壊しの難を免れることができなかったのだが、ちょうど1年ほど前、神社の隣りに建ったビルの地下で再オープン、真砂女の孫に当たる今田宗男さんが継いでいる。
真砂女は、著書「銀座に生きる」の中で、幸稲荷についてこう記している。
「角の幸稲荷は江戸時代からあり、昔太刀の市がたったとかで太刀売り稲荷と呼ばれていたそうだ。銀座にはたくさんのお稲荷さんがあるが、ここは札所一番で、銀座まつりのときは、ひっきりなしにお詣り人達がスタンプを押して貰っている。お客さんに場所を教えるにも、並木通りのお稲荷さんの路地、魚屋のとなり、というとすぐわかるようだ。(中略)私は至って無信心だが、このお稲荷さんには毎晩10円あげて拝んでいる。もう30年続いている……」
お稲荷さんの蘇り伝説は、店の再興をも可能にした格好だ。
姉の遺稿に誘われ
俳句に不案内な私が真砂女について詳しく知ったのは、彼女をモデルにした瀬戸内寂聴さんの小説「いよよ華やぐ」だった。
明治39年、千葉県鴨川市の老舗旅館に生まれた真砂女は、22歳の時、東京・日本橋の問屋の息子と恋愛結婚、女児をもうけた。だが、夫は博打に入れ込んだあげくに失踪。波乱の人生が始まる。
実家に戻って家業の旅館を手伝っていたところ、ほどなく女将を継いでいた姉が急死する。家業の存続を望む両親のたっての願いで、義兄と再婚、30歳を前に旅館の女将になった。しかし、夫とはどうしても心が重ならない。著作の中で、真砂女は、「夫は良い人だ。だがどうしても好きにはなれない」と告白している。
俳句をたしなんでいた姉は、たくさんの遺稿を残していて、その整理をしていくうちに、俳句の世界にひかれていった。のちに久保田万太郎に師事、俳句結社「春燈」に所属。句集「都鳥」で読売文学賞、「紫木蓮」で蛇笏賞などを受賞した。
一人になり、開いた「卯波」
旅館に泊まった7歳下の家庭のある海軍士官と恋に陥ったのは、30歳の時。日中戦争まっただ中のころである。やがて出征のため長崎に配転された彼を追って家出する。その後、再び家に戻るが、昭和32年(1957年)、50歳でついに離婚を決意した。
そして始めたのが、お稲荷さんそばの小料理店であった。店を借りる際は、親交があった作家の丹羽文雄が保証人になってくれたそうだ。俳句仲間や文壇の作家たちに支えられながら、店は小さいながらも銀座の名店の一つに数えられるまでに成長していった。
店名の「卯波」は、真砂女の代表句「あるときは舟より高き卯波かな」に由来する。
2003年、96歳で亡くなるが、90歳を過ぎてもずっと店に出ていたという。
今も店に集まるのは、真砂女の時代から通う常連客が少なくない。お品書きにも、昔からの名物を残している。甘辛たれの効いた新ジャガ揚げ煮、カキ醤油の旨みを生かした自家製揚げ豆腐、豚バラ肉の串焼き、具だくさんのポテトサラダ、シジミのニンニク醤油漬け……。
今田さんは、句集の表紙に使われた写真を見せながら、「このまんまの人でした」と、振り返る。上品な笑顔、凛とした容姿が本当に美しく、こんな風に年を重ねられたら素敵だなと思わせる。
カウンターに「波郷の席」
ほろ苦い春の味覚のタラの芽のてんぷらをつまみながら、「真砂女の入門歳時記」で、桜の季節の俳句をいくつか拾ってみた。
夕桜あの家この家に琴鳴りて (中村草田男)
ゆで玉子むけばかがやく花曇 (中村汀女)
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ (杉田久女)
釣り上げし魚が光り風光り (鈴木真砂女)
壷焼やいの一番の隅の客 (石田波郷)
「壷焼や」で始まる句について若干補足しておこう。当時、数寄屋橋にあった朝日新聞社で俳壇の選句をすませた波郷は、十分とかからない「卯波」に立ち寄るのが習わしで、サザエの壷焼きを好んで注文していたそうだ。入ってすぐカウンターの左の隅が定席で、いまもこの席は、俳人たちの間で「波郷の席」と呼ばれている。
ちなみに、店名の由来になった句「あるときは舟より高き卯波かな」について、ご本人は著書の中でこう解説している。
「人生も浪の頂上に
真砂女の、そして人間の強さを感じさせる一句を、いま一度かみしめたい。
(プランタン銀座取締役・永峰好美)