2010.12.17

日本銀行へ“学べる街歩き”

内部見学ツアー

  • 日銀本店見学のしおり

 東京・銀座の中央通りを京橋方向に歩くと、「江戸は日本橋」と五街道の起点とされた日本橋に至る。その昔、日本橋川のたもとには、江戸庶民の台所をまかなう魚河岸があって、街道筋には若旦那たちの社交場や花街が生まれ、江戸の経済の中心地でもあった。

 さらに、日本橋から中央通りを神田方向に向かう北側は、金銀通貨の往来する一大商業地として大いに賑わった地域である。

 日本橋三越本店と昭和初期のデザインが残る三井本館の間の道を進めば、右に日本銀行本館、左に貨幣博物館。テレビの情報番組などでよく目にする日銀の地下金庫を含め、一度ぜひ訪れてみたい場所だった。

 先日、東京・中央区観光協会特派員が案内する街歩きツアーに参加して、内部を見学する機会があった。

  • 明治29年に建てられた日本銀行本館

 ここで、ちょっと歴史のおさらいをしておこう。

 明治維新後の新政府は急速に近代化を推進したが、財政基盤が固まっておらず、政府紙幣や国立銀行券などの不換紙幣を発行して急場をしのいでいた。だが、明治10年(1877年)の西南戦争で戦費調達のために不換紙幣を大量に発行、大インフレが発生した。大蔵卿に就任した松方正義は緊急財政措置の発動でこの混乱を収束するとともに、通貨価値の安定を図る中央銀行の設立を提言する。

 そして、明治15年(1882年)公布の日本銀行条例を受け、永代橋のたもと(現在の日本橋箱崎町)に日本銀行が誕生。ところが、施設は手狭で交通の便も悪かったため、ほどなく建物を移転することになった。それが現在の日本銀行本店本館で、明治29年(1896年)、辰野金吾の設計で竣工した。

重厚なネオ・バロック建築

  • 中庭には馬の水飲み場跡が残っている

 建物は、石積みレンガ造りによる地上3階、地下1階建て。柱やドームにみられるバロック様式に、窓を規則正しく並べるなどしたルネサンス様式を取り入れた「ネオ・バロック建築」と呼ばれるスタイルで、ベルギーの中央銀行をモデルにしたといわれる。関東大震災で館内の約半分を焼失したが、その3年後に修復、昭和初期にも増築されて、現在は国の重要文化財にも指定されている。

 本館正面入り口に広がる中庭には、当時の馬の水飲み場跡が残っている。

 江戸時代、銀貨の鋳造・取締りを司ったのが「銀座役所」で、慶長17年(1612年)、それまで駿府にあった銀座役所が江戸の新両替町(現在の銀座2丁目)に移設され、そこで銀貨鋳造を行うようになった。それが「銀座」という地名の由来である。一方、金を扱っていたのが金座で、金座鋳造所跡地に日本銀行は建てられた。

 2階の史料展示室で興味深かったのは、非常灯として使われていた提灯や、昭和44年まで始業終業を知らせるチャイム代わりに使用された拍子木など。

「金庫の扉を確かめて」

  • おみやげの屑紙幣

 地下では、設立時からつい数年前まで、実に100年以上も使われていた金庫をみることができる。金庫扉の厚さは90センチ、重さは25トンもある。

 この扉を製作したのはアメリカ・ヨーク社。同社の社長のこんなエピソードが伝えられている。太平洋戦争に息子が出征する際に、「お前はいずれ日本に上陸するだろう。そうしたら金庫の扉が円滑に動いているかを確かめてきてほしい。故障していたら面目ない」と言い、息子は戦後、扉が正確に動いていることを確認して報告したという。

 また、金庫室を囲む回廊には、建設当初お札を運ぶために使われたトロッコ用のレール跡が残っており、当時をしのばせる。

 お札の寿命は、千円札と5千円札が1~2年、1万円札が4~5年といわれるが、見学記念にもらったのは、寿命を終えて裁断されたお札の屑。金種はさまざまだそうで、ジグソーパズルのように貼り合わせても、元のお札に復元することはできないそうだ。

世界でも珍しい日本の貨幣史

  • (上)貨幣博物館見学のパンフレット(下)これが本物だったら……と誰もが思う「1億円の重さ体験コーナー」

 貨幣博物館に向かう。

 1982年、日本銀行の創業百周年を記念して日銀金融研究所内に設けられたもので、貨幣収集の第一人者といわれた田中啓文氏の「銭幣館(せんべいかん)コレクション」をはじめ、東洋貨幣を中心に約20万点が所蔵されている。

 古代、物品貨幣として使用された石製の矢じりや稲に始まり、708年、中国の唐銭(開元通宝)をモデルにしたわが国最初の貨幣、和同開珎(わどうかいちん)もある。

  • 貨幣博物館には記念品の自動販売機も

 その中で「へえ」と思ったことを一つだけ挙げておこう。

 最初は銀銭と銅銭があった和同開珎も、朝廷の権力が弱まり、銅の産出不足などで、改鋳のたびに材質が悪化し、通貨価値も低下する。民衆の間に銭離れ現象が起き、10世紀後半、政府が発行する銭貨の鋳造が停止される事態に。再び稲などの物品貨幣に逆戻りするなど、日本の貨幣史は世界の中でも珍しい歴史をもっていることを知った。

 平安の12世紀ごろからは、中国から渡来銭が盛んに流通したが、それだけでは量的に足りない。そこで、渡来銭を見よう見まねで作った私鋳貨幣が出回ったが、質が悪く、悪銭(鐚銭(びたせん))と呼ばれた。「びた一文出さない」の言葉の由来はこの史実に基づくものという。鐚銭は江戸初期まで造られていたようだ。

  • (左)日本橋に新しく誕生した「コレド室町」、(右)金箔がまぶしい「箔座日本橋」

 ここの見学みやげには、金運小判や金塊チョコレートなどが自動販売機で買える。

さて帰り道、「日本をにぎわす、日本橋」をコンセプトに誕生した複合商業ビル「コレド室町」に立ち寄った。

 そこで見つけたのが、「箔座日本橋」というお店。箔どころ金沢が本店で、純金箔をぜいたくに使った工芸品やアクセサリー、化粧品などが店頭に並ぶ。

 「こちらへどうぞ」と促され、茶室のにじり口のような小さな入り口から中に入ると、そこには黄金の天空が広がっていた。金座にちなんだ史跡めぐりを終えたあと、一見の価値あり、です。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

 ◆日本銀行金融研究所貨幣博物館

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)