2010.11.05

日本の暮らしに新風、外国人居留地

出土品は舶来の生活用品

  • 明石町遺跡のフランス人住宅跡から出土した生活用品(展示をまとめたパンフレットより)

 東京・銀座からちょっと足を延ばした中央区明石町界隈には、明治の文明開化のころ、「築地外国人居留地」があった。

 明治元年(1868年)に開設され、同32年(1899年)に廃止されるまで、そこは世界に開かれた窓であり、外国公館や商社、ホテル、さらには教会、学校、病院などが作られて、西洋の新風吹き込む活気にあふれる街となった。

 中央区立郷土天文館ではいま、10年前の2000年(平成12年)に発掘調査を実施した明石町遺跡の出土品などが公開されている(11月21日まで)。

 中でも興味深かったのが、フランス人ア・ハーブル氏の住宅跡からの出土品。国産の湯飲みセットや土瓶、徳利(とっくり)のほか、洋食器の大皿、ティーカップ、ジャム瓶、ワインボトルやジンボトル、ソーダ瓶などがあって、氏は結構お酒が好きだったのだなあなどと、当時の豊かな暮らしぶりを想像してしまった。ハマグリやシジミの貝殻に混じって、切断痕のある牛の骨も30点以上出土している。さすがフランス人、まだわが国には普及していなかった牛肉を食べ、骨髄もスープなどにして食べたのだろうか。

日本の7か所に設置

  • 明石町で最初に灯ったガス灯

 米国をはじめ、蘭、露、英、仏の5か国と江戸幕府の間に修好通商条約が結ばれ、日本の7か所に外国人居留地を設置することが決まったのは、安政5年(1858年)のこと。

 NPO法人築地居留地研究会代表の清水正雄さん(88)によると、築地居留地は、函館、新潟、横浜、大坂、神戸、長崎といった他の居留地と違って、「特殊な経緯によってできた特殊な居留地」という。

 そもそも幕府は、江戸には外国人の街を作らせたくなかったので、外国人居留地は横浜に作るから十分と主張していた。だが、初代駐日領事のタウンゼント・ハリスは、「江戸に住む大名こそが外国製品を買う顧客であり、交易場を開けば莫大な関税を取ることができる。横浜は近いようでいて遠いのだ」と説得。結局、幕府は話をのんだ。

 しかし、明治維新の動乱をはさみ、設置延期申請が繰り返され、築地居留地の開設は、横浜や長崎に10年ほど遅れることになる。

 今も歴史の痕跡が残る、明石町界隈を歩いてみた。

優秀な宣教師が集まった築地

  • 白亜がまぶしいカトリック築地教会

 地下鉄の新富町の駅からほどなく、まず目に付くのが、明石町で最初に灯ったというモダンなガス灯。老人福祉施設のこんもりした植え込みの中にすっと建っている。

 ここから築地市場方面にちょっと歩くと、白亜の教会に出会う。東京で最古のカトリック教会といわれる、カトリック築地教会。

 明治4年(1871年)、パリ外国宣教会のマラン神父が、隅田川に近い鉄砲洲稲荷橋近くの商家を借りて開いた稲荷橋教会がその前身といわれる。明治7年(1874年)にこの地に移り、司祭館と聖堂を建立した。関東大震災で焼失し、昭和2年(1927年)に再建。石造りにみえるが、実は木造モルタルだそうで、現在は幼稚園が併設されている。背後には、聖路加タワーが臨める。

  • (左上)暁星学園発祥の地の碑、(右上)ステンドグラスが美しい聖路加病院旧館のチャペル、(左下)病院敷地内にあるトイスラーハウス、(右下)米公使館跡の石標

 教会の入口の前で注目したいのは、ページを開いた形の本を載せた記念碑である。明治21年(1888年)創立の暁星学園発祥の地の碑だった。

 築地居留地には、多くの優秀な宣教師が集まり、13教派の伝道本部が設置され、それらは、競うようにして教会や学校、病院などを数多く作ったのだった。

 通りを渡ると、そこは聖路加国際病院。居留地の住人になった、米国聖公会宣教医師トイスラー博士が、明治35年(1902年)に創立した。旧館のチャペルは保存されており、祭壇を囲むステンドグラスが美しい。

 三角屋根が特徴的なトイスラーハウスを囲むようにして緑の敷地が広がり、敷地内には、米公使館跡の石標をはじめ、立教学院や女子学院などミッションスクールの発祥の碑が建っている。また、すぐ近くに、安政5年(1858年)、福沢諭吉が開いた蘭学塾跡もあり、明治維新前後の歴史散歩を満喫できる。

水辺の国際都市

  • (上)こちらは、立教学院の碑、(左下)同じく、女子学院の碑、(右下)福沢諭吉の蘭学塾跡

 10月初め、同地で「外国人居留地研究会全国大会」が開かれたが、そこで登壇した法政大学教授(イタリア建築・都市史)で中央区立郷土天文館長の陣内秀信さんの話が面白かった。

 陣内教授は、地域の豊かな資産を掘り起こして再評価し、現代日本の知恵として生かしていこうという動きが最近活発だが、水辺の街にあった外国人居留地の経験にはまさにたくさんのヒントがある、とみる。

 世界の歴史を振り返ると、水辺に形成された国際都市は多い。近代でいえばニューヨーク、さかのぼれば、ヴェネツィアをはじめとする中世のイタリア海洋都市などもそうだ。

 「幕末から世界と交流を結び、開港場(築地は開市場)となって外国人居留地を形成した日本の諸都市もすべて海に面した港町であり、水辺の国際都市の仲間といえます。日本の港町は、ヨーロッパでいえば、北欧よりも地中海の港町とよく似ている。背後に丘や山が控え、港の景観が実にダイナミック。丘から港を見下ろす風景も共通しています。外国人居留地が海際や港周辺の低地に計画的につくられ、交易・商業を担うと同時に、背後の丘の上にも山の手地区を新たに形成し、高級住宅ゾーンが広がるという特徴も共通していますね」と指摘する。

元祖はイタリア・アマルフィ

  • 「外国人居留地の元祖」ともいわれる南イタリアのアマルフィ

 陣内教授が「外国人居留地の元祖」として挙げるのが、イタリア南部の街、映画で一躍有名になったアマルフィである。

 ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝が崩御した4世紀初頭、船でコンスタンティノープルを目指したローマ貴族が嵐にあって漂流、アマルフィにたどり着いて移動を断念、定住した。優れた航海・造船技術や商才を武器に発展、839年には共和国として独立し、ピサやヴェネツィア、ジェノヴァにも先駆けて海洋都市国家を築いた。切り立った山の傾斜面にはりつくようにして白い壁の街並みが広がり、交易があったビザンチンやイスラムから影響を受けた建築物がそびえる。遥かなる異国の新風を取り入れた時代が偲ばれる。

 10月、アマルフィを訪れる機会があった。次回はそのリポートをお届けしたい。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)