2010年11月アーカイブ

2010.11.12

美しい海岸を持つ海洋都市・アマルフィ

切り立つ崖に築かれた街

  • 世界で最も美しい海岸線の一つといわれるアマルフィ海岸
  • (左)夕焼けを背景に帆船が行き交う、(右)曲がりくねった路地に光と闇とが交錯する

 南イタリアのナポリから車で2時間あまり。ソレントからサレルノまでの約40キロの海岸線は「コスティエラ・アマルフィターナ」と呼ばれ、世界で最も美しい海岸線の一つといわれている。

 築地外国人居留地を取り上げた前回の小欄で、アマルフィについて触れた。今回は、機会あって10月に訪れた同地の旅リポートを写真中心でお届けする

 ジグザグに入り組んだ断崖絶壁をなぞるようにして、バスは急カーブを突っ走る。透き通る(あお)い海の広がりと、谷間の段々畑でそよ風に揺れるレモンやオリーブの枝の動き……。車窓に流れる風景は、旅人をまったく飽きさせない。

 背後に険しい崖が迫る小さな渓谷の斜面に、家々がぎっしり高密度で、奥へ奥へと重なるようにして築き上げられているのが、アマルフィの街の特徴だ。

 ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアという北イタリアの海洋都市よりもいち早く、地中海を舞台にオリエント、北アフリカのイスラム世界との交易に活躍、10世紀には海洋都市国家として繁栄を極めた。

  • ベテランのコーヒー職人が入れるエスプレッソは美味

 最盛期のアマルフィは、地中海世界の国々から多くの商人や船乗りらが集った。その華麗なる歴史の足跡、アラブ・イスラム世界とのつながりの深さは、今でも街のいたるところで散見できる。

砂漠の民の理想郷

 ベテランのコーヒー職人がおいしいエスプレッソを入れてくれる店をあとに、港に開いた「海の門」を入ると、にぎやかな中心広場に出る。

  • (左上)地下礼拝堂には、アマルフィの守護聖人が眠る、(左下)「天国の回廊」は砂漠の民にとってのオアシスを連想させる、(右)アマルフィの象徴、ドゥオモ

 その正面奥にそびえるドゥオモ(聖堂)は、アラブ独特のアート的要素を盛り込んだ美しいファサードで知られ、この街の景観を象徴する存在になっている。創建は10世紀だが、現在のものはオリジナルではなく、19世紀後半の再改築で実現したという。とはいえ、アラブ風の外観が実にわかりやすく理想化して造形されている。

 入口中央にあるブロンズの扉は、11世紀にコンスタティノープルで鋳造(ちゅうぞう)されたもの。地下礼拝堂階段の下あたりには、13世紀、アラブ式の公衆浴場もあったそうだ。また、地下礼拝堂には、やはり13世紀に、コンスタンティノープルから運ばれた、アマルフィの守護聖人・聖アンドレアが眠る。

 聖堂の左手奥の「天国の回廊」には、ただただ圧倒された。もともと13世紀、上流階層の人々の墓地として建設されたもので、2本の円柱が対になった尖塔型アーチが交差しながら続き、中庭の中央にはトロピカルな植物群が植えられている。砂漠の民の理想郷、ヤシの生い茂るオアシスのような静寂で不思議な空間が広がっている。

イスラム文化の色濃く

  • (左上)「天国の回廊」からのぞむ鐘楼、(左中)目抜き通りのマヨルカ焼きの店先、(左下)和紙のようなやさしい手触り、(右上)手すきの紙もアマルフィの特産、(右下)路地の片隅には祈りのほこらも
  • (左上)魚介類のパスタ、(左中)アリーチのマリネ、(左下)イカとジャガイモの煮込み、(右上)エビのレモングラスソース、(右中)市場ではさまざまなレモンチェッロが売られている、(右下)レモンチェッロは食後に

 アーチの間から鐘楼(しょうろう)をのぞむと、緑や黄色のマヨルカ焼きのタイルで飾られた鐘室やアーチの造形にも、イスラム文化の影響が感じられる。 ドゥオモは当時、異国からはるばるやって来た人々にとっても精神的な支柱であったのだろう。キリスト教会であると同時に、イスラムのモスク的な役割も務めていたといわれている。

 目抜き通りには小さな土産物屋が軒を連ね、イスラム都市のスーク(市場)のように活気にあふれている。マヨルカ焼きの店やら、手すきの紙を売る店など、そぞろ歩きするのも楽しい。

 今回の旅のコーディネーター、フォトジャーナリストの篠利幸さんの案内で、ドゥオモの下にある古いレストランに出かけた。ムール貝がたっぷりのった魚介類のパスタ、小型イワシ、アリーチ(イワシの一種)のマリネ、イカとジャガイモの煮込み、エビのレモングラスソース……。どれも地中海の味覚でいっぱい。特産のレモンチェッロで締めくくった。

リゾート向き「ポジターノ・スタイル」

  • (左上)絵画のようなポジターノの街、(左中上)ポジターノ・スタイルはリゾート地では健在、(左中下)フローレのコスタ・ダマルフィ、アマルフィ沿岸ではワ イン造りも盛ん、(左下)フローレの静かな入り江、(右上)ジェラートはやはりレモン味で、(右中)あちこちでトンネルが頭上を覆う、(右下)10月といえど、のんびり海水浴する人も

 翌日は海岸線を西に、ポジターノに向かう。海へと続く急斜面に色とりどりの家々が連なる、絵画のように美しいリゾート地だ。

 歴史はローマのティベリウス帝の時代にさかのぼる。海賊の襲撃によって住みにくくなった近隣の土地からの避難民によって建設された街という。9~11世紀にはアマルフィ共和国の一部になって経済発展し、16世紀には中東に絹や香辛料を輸出、街は豊かになった。1960年代、レースと刺繍をほどこしたリネンのファッションが注目され、リゾート向きの「ポジターノ・スタイル」は今でも健在だった。

 曲がりくねった白く細い路地が複雑に入り組み、あちこちに頭上を覆うトンネルがあって、光と闇とが交錯している。そんなところは、アマルフィとも共通しているようだ。

 アマルフィ沿岸では、土地と気候の特性を活かして、ワイン造りも盛んである。「コスタ・ダマルフィ」という名の原産地呼称表示を認められている土地の一つが、フローレという地域である。ポジターノからの帰りにちょっと立ち寄った。

 「フローレ(furore)とは、激情、猛烈など、気性や気候が激しい様子を指す言葉。フィヨルドの入り江に響く嵐の波音に由来するというが、その海岸は、美しく穏やかであった。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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2010.11.07

「眠れる巨人」を飲み干す会

グラフィック・デザイナーで、ワイン愛好家としても著名な麹谷宏さんの主催で、「眠れる巨人」を飲み干す会というドキドキわくわくするワイン会に参加しました。

場所は、恵比寿のシャトー・レストラン「ジョエル・ロブション」。ボルドー5大シャトーとクリスタルの素晴らしいヴィンテージを、すべてマグナムでいただく、とってもゴージャスな企画です。


いずれも、麹谷さんが自宅のセラーで長年ゆっくり熟成させたボトル。
私は新聞記者時代、企画でセラーをのぞかせていただいたことがあるのですが、それはそれは素敵な地下室で、「私もワインになってここで眠りたい!」と思ったほどでした。

 

ワインリストは以下の通りです。


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 ルイ・ロデレール クリスタル 1994
 シャトー・オーブリオン 1983
 シャトー・ラトゥール 1978
 シャトー・ムートンロートシルト 1976 
 シャトー・ラフィットロートシルト 1970
 シャトー・マルゴー 1967
      (すべてマグナム)

 

2010110202.JPGワインの状態はパーフェクトでした。恐るべし、麹谷セラー!です。
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「クリスタル」は、白トリュフのような芳醇な香りを十分楽しめました。

泡も繊細で口当たりがやさしく、熟成したシャンパーニュの素晴らしさを経験しました。

 

 

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スモーキーな葉巻の印象、スパイシーな力強さを感じる「オーブリオン」、

筋肉質で骨太で偉大なる存在感で迫る「ラトゥール」、

コーヒーのような香りのニュアンス、90年代の華やかさはないけれど控えめでやさしい味わいがかえって愛おしくなる「ムートン」、

シルキーでエレガントで、ブルゴーニュワインにも似たクリアな表情をもち、「これぞ熟成の極致」の声も上がった「ラフィット」。


私は、若いヴィンテージではどちらかといえばアミノ酸の印象が強くて苦手だった「ラトゥール」が、熟成を経ると、こんなにしなやかに素晴らしく仕上がることに大いに感激しました。まだしばらく置けるくらい若々しさも感じました。


16人の参加者の人気投票で、一番だったのは、「マルゴー」でした。
いきいきした酸、凝縮感のある豊かなボディ、繊細さ、甘やかで官能的な誘惑・・・。

「いまだ紫色の力強さを感じる。マグナムの力ですね」と、麹谷さんも「マルゴー」に一票でした。 

 

 

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では、料理もご紹介しましょう。

 

アミューズブーシュは、レモンゼリーにウイキョウの香りのムース、タプナードをのせて。爽やかな味です。

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上品なブーダンノワールはフォアグラと共に。

テクスチャーがとっても繊細なガトー仕立てです。ピスタッチオのメレンゲは焼き菓子風。相性のいいリンゴがアレンジされて、シードルとハチミツのソースとともに供されました、

このブーダンノワールのスタイルはパリのレストランでも流行でした。

 

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パンもいろいろ。昔よりもバリエーションが増えて、楽しい!

アンチョビ入りミニクロワッサンやバジルのフォカッチャ・・・。

 

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帆立貝のポワレは、シチリア産アンチョビのちょっぴり塩味でアクセント。ユリ根のカプチーノは甘さが際立ち、帆立貝との微妙な味のバランスが絶品でした。サルディニア産のフレゴアというパスタはリゾット仕立てに。


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タスマニアのサーモンは低温でゆっくり火入れ。タマネギ、ピーマン、トマト、生ハムなどを炒め煮したバスクの伝統料理ピペラードを添えて。

 

 

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大山地鶏は筒状にして、72度の低温で1時間20分蒸し上げたという料理。とろけるようで、鶏肉の繊維が全然感じられませんでした。エシャロット、無臭ニンニク、ベーコン、小さなチイタケ(かわいい!)などをアレンジした赤ワインソースで。

 

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デザートは、リンゴと干しブドウとクルミのクランブル。

 

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美味しいミニャルディーズ

 

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さて、ボルドー5大シャトーについては、様々な挿話を伝え聞きます。せっかくの機会、麹谷レクチャーを中心に、頭を整理する意味でまとめてみました。

長くなりますが、歴史的エピソードは面白いので、ご興味のある方はぜひお付き合いください。「ワインの女王」(山本博著)も参考にしました。

 

まず、シャトー・オーブリオン。


2010110217.JPG1855年、パリの万国大博覧会の目玉商品として、フランスで最高のワインを出品することになりました。そこで、ボルドー・メドックで赤ワインの格付けが行われたのですが、ラフィット、ラトゥール、マルゴーと肩を並べて、メドック以外から選ばれた唯一のワインが、オーブリオンです。

 

80年代では、82年、83年、85年、86年、88年、89年、90年が素晴らしいといわれています。


16世紀のころは、「ポンタック」の愛称で呼ばれていたそうで、今でもボルドーの古いネゴシアンの間では使われているといいます。

 

当時のメドック周辺は治安が悪く、最初にボルドーワインとして発達したのは、オーブリオンのあるグラーヴ地区でした。ボルドー市議会に勤めていたジャン・ド・ポンタックが妻の持参金として土地を受け取り、以来200年同家の所有になったところに由来しています。


1785年に駐仏全権大使として渡仏した後の米国第3代大統領のトーマス・ジェファーソンは大変なワイン好きで、フランス中のワイン産地を旅しています。ジャフェーソンは、ボルドー赤の中でもオーブリオンが一番米国人の舌に合うと絶賛、ホワイトハウスにも大量に送っています。したがって、ホワイトハウスの晩餐会で最初に供されたフランスの極上ワインは、オーブリオンということになるようです。


その後、1801年に売りに出された時、手に入れたのが、ナポレオンの外相で美食外交の元祖として有名なシャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴール。

映画「会議は踊る」では、メッテルニヒをはじめヨーロッパの各国元首を手玉に取った傑物として描かれている人です。お雇いシェフ、アントナン・カレームが作り出した数々の美食には、常にオーブリオンが花を添えたといいます。

このように評判の高いオーブリオンゆえ、1855年の格付けの際に選ばざるを得なかったということでしょうか。


しばらくぱっとしなかった時期もありましたが、1935年に米国カ銀行家、クラレンス・ディロン(息子のダグラスは、ケネディ大統領の財務長官)が買い取り、孫娘でムーシィ公爵夫人であるジョアンが継承。1960年、グランクリュの中で初めてステンレスの発酵タンクを設置するなどして品質が一気に向上しました。

ちなみに、1875年、フランス全土を襲ったブドウの疫病、フィロキセラ対策のために、米国の苗木に接木して凌いだのも、オーブリオンが最初だったとか。米国とはどこか因縁深いワインです。

 

 

 

 お次はシャトー・ラトゥール。

78年は良い年ですが、麹谷さんの娘さんの生まれた年でもあるそうです。

 


2010110218.JPGラトゥールは、ポイヤックの3つの1級シャトー(ラフィット、ムートン、ラトゥール)の中で一番南にあり、また、一番ジロンド川に近い場所にあります。

 

一般に不作とされる年でも、このシャトーが非常に良いワインを生み出すことは定評があり、「これだけ条件が整っていればだれでも良いものができる」と嫉妬心いっぱいにささやかれるほど。「ジロンドの恵み」を独り占めしているのです。


その昔、英国との百年戦争の舞台になったともいわれ、ラトゥールのエチケットには、往時の要塞を物語る塔がシンボルとしてデザインされています。現在でもシャトー・ラトゥールのブドウ畑の中に丸屋根の塔がぽつんと残されていますが、これはずっと後の17世紀に建てられたものだそうです。


17世紀後半、セギュール家が持ち主になり、以後300年近く所有、そのころからメドックのシャトーもグラーヴに追い付くほどめきめき腕を挙げてきて、主に英国の上流階級の間で大ブレイクしました。

 

セギュールといえば、バレンタインデーによく登場するハートのデザインのワイン、カロン・セギュールを思い出します。セギュール家のニコラは、どうやらラトゥールよりも、サン・テステフにあるカロン・セギュールの方にゾッコンだったらしいのです。

 

1960年代になって、このお金のかかる偉大なシャトーを維持できなくなって、英国のピアソン家に売ってしまいます。最近では、1993年にフランス国内で小売業で財を成したフランソワ・ピノーの所有に。グッチやイヴ・サンローランなどを傘下に置くピノーグループは、つい最近までフランスのプランタンも所有していた財閥です。

フランソワ氏はモダンアートの収集家としても知られていて、セーヌ川に浮かぶルノーの工場跡地に美術館を建設する計画を発表していましたが、実務の遅れから断念したとも伝えられています。

 

 

 

次に、シャトー・ムートンロートシルト。

 

2010110219.JPG歴史をひもとけば、18世紀後半、フランクフルトのユダヤ人街の一両替商だったマイヤー・A・ロスチャイルドの5人の息子の成功話から始まります。5人は、フランクフルト、ロンドン、パリ、ウィーン、ナポリで互いに助け合いながら政商として巨額の富を築いで、ロスチャイルド財閥の基盤を作りました。

ロスチャイルド財閥といえば、新橋と横浜間の最初の鉄道敷設や日露戦争、関東大震災後の復興などの融資元として日本との関係も深いですね。


この5人兄弟のうち、有名なのは、3男のロンドンのネイサンと5男のパリのジェームズ。


ネイサンの息子、ナサニエルは、1853年、ボルドーのトップクラスといわれたシャトー・ムートンを買いました。しかし、1855年のメドック格付けでは、第2級に。畑と建物の荒廃が理由でしたが、実際はロスチャイルドの国籍や新参者への反目があったのではないかといわれています。


そして、100年を越す努力の結果、ついに1973年、ムートンは一級に格付けされる時を迎えます。これは、ボルドーのワインの歴史の中でも例外中の例外。

「われ一位なり。かつて二位なりき。されどムートンは変わらず」と、同シャトーは記しています。ちなみに、この時の農業大臣はジャック・シラクでした。


ムートンの大成功の裏には、1923年、20歳でシャトーを任されて1988年に亡くなるまで様々な改革をしたバロン・フィリップ(かなりのプレイボーイだったらしい。でも、ワインはまさに天職だったようで)の存在があります。

特に、他のシャトーにも呼びかけて、いわゆるシャトー元詰めを始めた功績は大きいといわれています。それまでメドックでは、樽のままボルドーのワイン商人に販売され、彼らの手で熟成、瓶詰め、販売されていたのです。

 

ミロ、ピカソ、シャガールなど、著名な画家にモダンなデザインのエチケットを発注したことでも知られています。デザイナーだった夫人の影響もあり、ワインにまつわる美術品の蒐集を始め、シャトーの一角に美術館も建てています。

 

 

 

続いて、シャトー・ラフィットロートシルトです。

 

2010110220.JPG前項でお話したロスチャイルド家5人兄弟のうちフランスを受け持ったパリのジェームズが、1866年、自分の邸宅のあったラフィット通りと同じ名前だから買ったと伝えられています。


もともとラフィットは、先に登場したセギュール家所有の時代に名前を知られるようになり、ルイ15世の愛妾マダム・ポンパドゥールのお気に入りのシャトーでした。


当時、マダム・ポンパドゥールとコンティ王子がフランス最高の畑を手に入れようと競ったことがありました。狙いの的は、ブルゴーニュ。そして、王子の勝ちとなり、自分の名前を付けた「ロマネ・コンティ」を手に入れることに。

 

争いに敗れたマダム・ポンパドゥールは悔しくて仕方がありません。そこで、「これこそ本当のフランスワインの最高峰」としてラフィットを勧めたのが、ボルドーに島流しにあっていたリシュリュー男爵(「三銃士」に登場するリシュリュー宰相の親戚筋らしい)です。

 

男爵は、60歳のときに25歳の姫君と再婚するなど、かなりのドン・ファンでした。久しぶりにヴェルサイユに戻って、ルイ15世から若さの秘訣を尋ねられたところ、「強壮剤として医者からラフィットを勧められた」と答えたそうな。

かくして、マダム・ポンパドゥールはその豪奢な晩餐会の食卓にラフィットを欠かさないようになったといいます。

ちなみに、1970年、72年は、素晴らしい年でした。

 

 

 

最後は、シャトーマルゴーです。

 


2010110221.JPGフランス文化の華、ワインの女王・・・。マルゴーを形容する言葉はいろいろあります。

大戦後、米国の企業がシャトーを買いに乗り出した時、フランス政府は、「シャトー・マルゴーを売るのを認めることは、エッフェル塔やモナリザを手放せというのと同じこと」と、反論したといいます。


ラトゥールには古塔と瀟洒な邸宅があり、ムートンには輝かしい美術館があり、ラフィットにはフェリエール宮から運び込んだ由緒ある家具があります。

でも、佇まいの気品さ、優雅さからいえば、美しく整えられた並木道の奥から姿を現すシャトー・マルゴーの神々しさは群を抜いているのではないでしょうか。

ギリシャ風の円柱を並べたファサードをもつ建物は、典雅で端正。フランスのエスプリとシックさが結晶しているといえましょう。


シャトー・マルゴーの栄光の歴史には、常に女性たちの影があることも特徴です。

 

1960年代後半から評価が落ち出したシャトーを蘇らせたのは、1977年、ギリシャ出身でフランス全土に展開するスーパーチェーンで成功したアンドレ・メンツェロプーロス。当代きっての醸造学者、ボルドー大学のエミール・ペイノー教授に教えを乞いました。

アンドレ亡き後も、妻のローラ、そして娘のコリーヌが引き継ぎ、シャトーは不死鳥のように昔の輝きを取り戻しているのです。
 

 

 

今回の饗宴のテーブルセッティングもおしゃれでした。


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テーブルの中央に並べられたのは、麹谷さんがヴェネツィアで製作しているワインクーラー。

 

手作りなので、色も形も、同じものはありません。

 

グリーン、レッド、ブルー、薄墨色・・・。

 

クーラーの背後に写しこんでしまいましたが、アカデミー・デュ・ヴァン副校長の奥山久美子先生です。奥山先生は、このクーラー、3つも持っていらっしゃるそうです。

 

 

 

こうやって、並べてみると、なかなか壮観でした。

 

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2010.11.05

日本の暮らしに新風、外国人居留地

出土品は舶来の生活用品

  • 明石町遺跡のフランス人住宅跡から出土した生活用品(展示をまとめたパンフレットより)

 東京・銀座からちょっと足を延ばした中央区明石町界隈には、明治の文明開化のころ、「築地外国人居留地」があった。

 明治元年(1868年)に開設され、同32年(1899年)に廃止されるまで、そこは世界に開かれた窓であり、外国公館や商社、ホテル、さらには教会、学校、病院などが作られて、西洋の新風吹き込む活気にあふれる街となった。

 中央区立郷土天文館ではいま、10年前の2000年(平成12年)に発掘調査を実施した明石町遺跡の出土品などが公開されている(11月21日まで)。

 中でも興味深かったのが、フランス人ア・ハーブル氏の住宅跡からの出土品。国産の湯飲みセットや土瓶、徳利(とっくり)のほか、洋食器の大皿、ティーカップ、ジャム瓶、ワインボトルやジンボトル、ソーダ瓶などがあって、氏は結構お酒が好きだったのだなあなどと、当時の豊かな暮らしぶりを想像してしまった。ハマグリやシジミの貝殻に混じって、切断痕のある牛の骨も30点以上出土している。さすがフランス人、まだわが国には普及していなかった牛肉を食べ、骨髄もスープなどにして食べたのだろうか。

日本の7か所に設置

  • 明石町で最初に灯ったガス灯

 米国をはじめ、蘭、露、英、仏の5か国と江戸幕府の間に修好通商条約が結ばれ、日本の7か所に外国人居留地を設置することが決まったのは、安政5年(1858年)のこと。

 NPO法人築地居留地研究会代表の清水正雄さん(88)によると、築地居留地は、函館、新潟、横浜、大坂、神戸、長崎といった他の居留地と違って、「特殊な経緯によってできた特殊な居留地」という。

 そもそも幕府は、江戸には外国人の街を作らせたくなかったので、外国人居留地は横浜に作るから十分と主張していた。だが、初代駐日領事のタウンゼント・ハリスは、「江戸に住む大名こそが外国製品を買う顧客であり、交易場を開けば莫大な関税を取ることができる。横浜は近いようでいて遠いのだ」と説得。結局、幕府は話をのんだ。

 しかし、明治維新の動乱をはさみ、設置延期申請が繰り返され、築地居留地の開設は、横浜や長崎に10年ほど遅れることになる。

 今も歴史の痕跡が残る、明石町界隈を歩いてみた。

優秀な宣教師が集まった築地

  • 白亜がまぶしいカトリック築地教会

 地下鉄の新富町の駅からほどなく、まず目に付くのが、明石町で最初に灯ったというモダンなガス灯。老人福祉施設のこんもりした植え込みの中にすっと建っている。

 ここから築地市場方面にちょっと歩くと、白亜の教会に出会う。東京で最古のカトリック教会といわれる、カトリック築地教会。

 明治4年(1871年)、パリ外国宣教会のマラン神父が、隅田川に近い鉄砲洲稲荷橋近くの商家を借りて開いた稲荷橋教会がその前身といわれる。明治7年(1874年)にこの地に移り、司祭館と聖堂を建立した。関東大震災で焼失し、昭和2年(1927年)に再建。石造りにみえるが、実は木造モルタルだそうで、現在は幼稚園が併設されている。背後には、聖路加タワーが臨める。

  • (左上)暁星学園発祥の地の碑、(右上)ステンドグラスが美しい聖路加病院旧館のチャペル、(左下)病院敷地内にあるトイスラーハウス、(右下)米公使館跡の石標

 教会の入口の前で注目したいのは、ページを開いた形の本を載せた記念碑である。明治21年(1888年)創立の暁星学園発祥の地の碑だった。

 築地居留地には、多くの優秀な宣教師が集まり、13教派の伝道本部が設置され、それらは、競うようにして教会や学校、病院などを数多く作ったのだった。

 通りを渡ると、そこは聖路加国際病院。居留地の住人になった、米国聖公会宣教医師トイスラー博士が、明治35年(1902年)に創立した。旧館のチャペルは保存されており、祭壇を囲むステンドグラスが美しい。

 三角屋根が特徴的なトイスラーハウスを囲むようにして緑の敷地が広がり、敷地内には、米公使館跡の石標をはじめ、立教学院や女子学院などミッションスクールの発祥の碑が建っている。また、すぐ近くに、安政5年(1858年)、福沢諭吉が開いた蘭学塾跡もあり、明治維新前後の歴史散歩を満喫できる。

水辺の国際都市

  • (上)こちらは、立教学院の碑、(左下)同じく、女子学院の碑、(右下)福沢諭吉の蘭学塾跡

 10月初め、同地で「外国人居留地研究会全国大会」が開かれたが、そこで登壇した法政大学教授(イタリア建築・都市史)で中央区立郷土天文館長の陣内秀信さんの話が面白かった。

 陣内教授は、地域の豊かな資産を掘り起こして再評価し、現代日本の知恵として生かしていこうという動きが最近活発だが、水辺の街にあった外国人居留地の経験にはまさにたくさんのヒントがある、とみる。

 世界の歴史を振り返ると、水辺に形成された国際都市は多い。近代でいえばニューヨーク、さかのぼれば、ヴェネツィアをはじめとする中世のイタリア海洋都市などもそうだ。

 「幕末から世界と交流を結び、開港場(築地は開市場)となって外国人居留地を形成した日本の諸都市もすべて海に面した港町であり、水辺の国際都市の仲間といえます。日本の港町は、ヨーロッパでいえば、北欧よりも地中海の港町とよく似ている。背後に丘や山が控え、港の景観が実にダイナミック。丘から港を見下ろす風景も共通しています。外国人居留地が海際や港周辺の低地に計画的につくられ、交易・商業を担うと同時に、背後の丘の上にも山の手地区を新たに形成し、高級住宅ゾーンが広がるという特徴も共通していますね」と指摘する。

元祖はイタリア・アマルフィ

  • 「外国人居留地の元祖」ともいわれる南イタリアのアマルフィ

 陣内教授が「外国人居留地の元祖」として挙げるのが、イタリア南部の街、映画で一躍有名になったアマルフィである。

 ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝が崩御した4世紀初頭、船でコンスタンティノープルを目指したローマ貴族が嵐にあって漂流、アマルフィにたどり着いて移動を断念、定住した。優れた航海・造船技術や商才を武器に発展、839年には共和国として独立し、ピサやヴェネツィア、ジェノヴァにも先駆けて海洋都市国家を築いた。切り立った山の傾斜面にはりつくようにして白い壁の街並みが広がり、交易があったビザンチンやイスラムから影響を受けた建築物がそびえる。遥かなる異国の新風を取り入れた時代が偲ばれる。

 10月、アマルフィを訪れる機会があった。次回はそのリポートをお届けしたい。

 (プランタン銀座取締役・永峰好美)

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永峰好美のワインのある生活

<Profile> 永峰 好美 日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。プランタン銀座常務取締役を経て、読売新聞編集委員。『ソムリエ』誌で、「ワインビジネスを支える淑女たち」好評連載中。近著に『スペインワイン』(早川書房)